| きょうはこれまで考えてたの、切りがいいところまでお喋りしちゃうよ
No41830の図は、メルポンの本を読んでるなかにあったと思うんだけどどこにあったのか探し出せなかった。ネットでは「錯覚」って言うことで見かける図だと思うんだけど。
どうやって描いたか、っていうと、 まず赤線丸を描いて、それをコピーして二つの赤線丸を作って、次にその二つを囲む大きさの違う黒線丸を描いたのね。だからA,Bの赤線丸は同じ大きさね。 でもこういうふうにして見ると、わたしにはBの赤線丸の方がAの赤線丸より大きく見える(知覚される)のね。
黒線丸を「地」、赤線丸を「図」、って見るのね。 黒線丸という空間の中に赤線丸という空間がある、とも言えるかも。
こういうんから No41830の(f)で見て見ると、 〈A,B,それぞれ黒線丸の空間の中で、赤線丸の大きさがその相互関係によって規定(決定)されている〉 ってなるのかな。 って見ると、 No41830の 〈カントも、対象を知覚する際に、地と図の関係を持ち込んで対象を知覚している(知覚における対象は単に諸感覚の総和じゃなくて)と考えてる〉って見ることもできるかな。 でもこのばあい、〈規定(規則によって定める)〉っていうよりか、見かけ。ようするにわたしには〈・・・・のように見える〉わけね。
「それ」が〈・・・・のように見える〉っていうのがカントでは〈現象−経験的直観〉の段階に当たるのかな? 思考から見たら、(香川さんが言う)「知覚判断」って言うことになるのかな。
で、このようにわたしに知覚された〈・・・・のように見える〉赤線丸を確認するのが思考。思考によって、A,Bの赤線丸は同じ大きさでる、って判断されてはじめて〈・・・・のように見えた〉ものが「錯覚」だった、って言うことになるのね。ようするに〈それ〉は「錯覚である」って言えるのは、「AとBの赤丸が同じ大きさである」っていう客観的思考知があってからよね。
まだ思考(反省)される前の〈・・・・のように見えたもの〉(現象-経験的直観におけるもの)は、思考から見たら〈それ〉はまだ“差し当たりの判断”として、それをカントは「仮象」ってしてるのかも。そして〔仮象は真でも偽でもないもの〕(資料E.p105)として。
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