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■42013 / inTopicNo.13)  Re[88]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/10(Thu) 19:12:21)
    No42012のつづき

    (資料0)からはできるだけ引用するところを少なくするために苦労したけど、
    まず、カントのと、それとメルポンのとが絡まるところと思われたところを書き出すと、

    (資料0)―――――――――――――――――――――
    (a)前批判期カントの『負量の概念を哲学に導入する試み』(1763年)(以下『負量の概念』)を論じている。「実在的対立」や「負量」といったカント的概念を通して、メルロ=ポンティは否定性に関する自らの思索を語ろうとしていたのである。(p203)
    (b)メルロ=ポンティにおける潜在性、差異、差異化に先立つ「存在のゼロ」としての〈存在〉という諸概念にカントを介した新たな光が当てられることになるだろう。(p203)
    (c)「無意識に関して、それを意識の裏面である」ということから「カントが負量という概念について述べたことを考えるべき」(p2,274-275)・・・・(p205)

    (d)カントの『負量の概念』は、「負量」という数学的概念を導入することで哲学の可能性を拡張することを目的とする論考である。(p205)
    (e)負量とは数学におけるマイナスのことであるが、同概念が「正(+)」との相関関係においてのみ「負(−)」とされる以上、この関係を理解することが必要である。(p205)
    (f)ここでの「実在的(real)」とは、realitasというラテン語の伝統的な意味、すなわち或る事物(res)が何であるかにかかわるという意味で用いられている。それゆえ、実在的対立とは或る事物の属性間の対立として理解される。矛盾と比較するならば、或る事物が運動しつつ運動してないという事態は表象矛盾な矛盾である。けれども、カントによれば、「運動力」(AAU,171)という潜在的な観点から見ればそこに矛盾はない。カントは、或る事物が静止しているという事態を、或る方向へ向かう力と、それと同じ大きさで反対方向へ向かう力が拮抗している状態として理解する。この場合、或る物質は、対立する二つの運動を含みつつも、静止した事物という表象可能な「何か」である。正負の量が拮抗した状態もまた無と呼ばれうるものの、表象可能であるという意味で矛盾とは異なっている。カントはこうした無を「ゼロ(Zero=0)」(AAU,172)と呼ぶ。(p206)
    (g)実在的対立は、典型的には、数的な仕方で表象される。カントの例に従えば、或る人物がA氏に100ターレル貸し、B氏に100ターレル借りておる場合、その貸付を+100,借入を−100と考えることができるので、両者の総和は「ゼロ」である。このような関係を踏まえるならば、負量は他の量との実在的対立においてのみ認められる量である。或る量が他の量と無関係に単独で存在するものとして捉えられた場合、それは実定的なのであって、それが負量となるのは対立する量を正と規定し、この正の量との関係に入ることによってのみである(15)。(p206)

    (15)「本当のところ、どんな量もそれだけでは負とは言えず、+aと−aとは互いの負量であると言うべきなのである」
    ――――――――――――――――――――――――

引用返信/返信 削除キー/
■42012 / inTopicNo.14)  Re[87]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/10(Thu) 19:09:08)
    No42011のつづき

    メルポンの『行動の構造』から、
    (M-C)―――――――――――――――――――――
    が、そのようにして哲学は、素朴的意識が自明だと信じているものにふたたび帰ることになる。なぜなら超越論的観念論は、主観と客観を不可分な相関者とすることによって、世界がみずからがじかに、しかも主観とは異なるものとしてあらわれてくるような〈知覚的経験〉の妥当性を保証してくれるからである。かりに〈認識〉が惰性的な〔=意味をもたない物質的な〕絵の主観的表象ではなくて、その絵の〈意味〉の把握だとすれば、客観的世界と主観的見かけとの相異はもはや二種類の存在の相違ではなく、ふたつの〈意味〉の違いとなり、そのかぎり拒みようのないものとなる。そして、われわれの考えうるものはすべて「物の意味」であり、そしてこの意味を私に開示する作用がまさに知覚と呼ばれるものであるから、私は知覚において〈物そのもの〉に到達しているわけである。
    〈点0の知覚は0点にある〉という考えは、ベルクソンにではなくカントにこそさかのぼるべきものであろう。
    その考えは、あらゆる対象肯定の根拠をはらんでいるはずの〈包括的生活としての意識〉という概念から、直接に帰結するものだからである。
    ―――――――――――――――――――――(下p126)

    メルポンの『見えるものと見えないもの』から、
    (M-V)―――――――――――――――――――――
    問いかけとしての哲学(つまりこのものとそこにある世界のまわりに、くぼみをいつらえたり、このものや世界がそれ自体おのれが何であるかを語らざるをえなくなるような質問をしつらえたりすることである哲学。―つまり、言語の不変項や辞書的本質の探究ではなく、沈黙の、構造の不変項の探究である哲学)の本領は、無でないような存在のゼロ点から出発して世界がどのように分節されるかを示すところ、言いかえれば、対〈自〉のうちにでも即〈自〉のうちにでもなく、存在者の縁に、世界の多くの入り口が交叉しているところに身を据えるというところにしかありえない、といことを示すこと。
    ―――――――――――――――――――――(P383)

引用返信/返信 削除キー/
■42011 / inTopicNo.15)  Re[86]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/10(Thu) 19:06:09)
    No42010のつづき、

    まず抜粋してくね。

    (本Ko)の〈知覚の予科〉のところから、
    (本Ko)―――――――――――――――――――――
    Aところで、経験的意識から純粋意識に至る段階的な変化が可能である。経験的意識のもっている実在的なものがまったく消滅して、空間と時間のなかにおける多様なものの(ア・プリオリな)たんなる形式的な意識が残るからである。それゆえ、感覚の始まりである純粋直観=0から、感覚の任意の量に至るまでの、感覚の量的産出の総合もまた可能である。
    Bさて、感覚自体はけっして客観的表象ではなく、また感覚の中には空間や時間の直観は見出されないのだから、感覚が外延量をもたいないのは確かである。しかし、それでも感覚はある量(それも、経験的意識が一定の時間の中で無=0から感覚の所与の程度まで増大できる、感覚の知覚によって)、すなわち内包量をもつ。このような〔感覚のもつ〕内包量に対応して、感覚を含んでいる限りでの知覚の一切の対象に、内包量、すなわち感覚に対する影響の度が付与されねばならない。   
    ―――――――――――――――――――――(p272)

    ここのところの御子柴さんの解説
    (本Ko-O)――――――――――――――――――――――――
    Aさて、私たちが何かを知覚するとき、そこに含まれている感覚には強さや弱さが認められます。・・・・感覚には、ゼロからなんらかの量までのあいだの段階的な変化があります。現象に即してカテゴリーを使って言うなら、現象の「実在性」と「否定性」とのあいだにはさまざまな中間的段階が可能なのです。(p273)
    Bこのように感覚には、それが感覚される際になにほどかの量をもつことが〈あらかじめ見込まれ〉、すなわち予科されます。しかし、この量が、空間的広がりをもつものではないことは言うまでもありません。しかも、感覚が直観の形式ではなく内容であることを踏まえるなら、この量が時間的広がりをもつものでもないことが分かります。時間とともにこの量は変化(減衰・増加)していくのですから、その都度の量だけを取り出すなら、そこに時間的広がりはありません。したがって、知覚の含んでいる感覚がもつ量は、「直観の公理」で取り出されたような外延量ではないことになります。このような量を、カントはここで「内包量」と呼ぶとともに「度」と呼び換えています。・・・・このような「度」が、主観の感官への影響の強さとして、ア・プリオリにあらかじめみ込まれるのです。(p274)
    ――――――――――――――――――――――――

    今日は抜粋部分、分けて、いっきに書いとく。

引用返信/返信 削除キー/
■42010 / inTopicNo.16)  Re[85]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/10(Thu) 19:02:08)
    No41615のところを読みながら(本Ko)のを見ながらして、
    カントのをメルポンの「地の上の図」と関連づけて、
    No41830のような図で
    〈カントも、対象を知覚する際に、地と図の関係を持ち込んで対象を知覚している(知覚における対象は単に諸感覚の総和じゃなくて)と考えてる〉についていろいろ考えて見たんだけど、
    No41839まででひと段落かな。

    こういうなかで、
    No41696のつづきする。
    テーマは、「メルポンの〈点0の知覚は0点にある〉について」になるかな。

    資料は、
    No41672の、(本Ko)
    No41741の、(M-C)、(M-V)
    No41696の、(資料O)

    まずこのなかならわたしが抜粋したのを書いてくことにするね。

引用返信/返信 削除キー/
■41839 / inTopicNo.17)  Re[84]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 19:10:23)
    No41838のつづき、

    No41830の図でわたしに「それ」が〈・・・・のように見えた〉ものを思考によって確認する、して見る。

    「客観的に見る」を〈外に置いて見る〉ってして見たときのを図にして見たよ。
    赤線丸をA,Bの黒線丸の外に置いて見たよ(コピーして外に出して見たよ)。こうすると両方とも同じ大きさに見える。
    (もっともこの図を描くときにわたしがそうしたわけだから普通にそうなるわけなんだけど)

    でもね、こうして見てもやっぱわたしにはA、Bの黒線丸の中にある大きさは違うく見える。

    No41672の(資料E)のなかに、
    〔直接的な知覚の対象である〈昇りまた沈む太陽〉は、カテゴリーという概念の普遍性と統一性において自然科学的に解釈し直されるとき始めて仮象と見做されることになる。しかし、たとえ自然科学的な自然から仮象ときていされようと、日常的な経験の場においては、太陽は〈昇りまた沈む太陽〉として我々に直接知覚される。このように、直接知覚される対象が自然科学的な再解釈(規定)にもかかわらずその原初性を失うことなく我々の知覚に現れるとするならば、この対象は原理的にまったく自然科学的に〈規定されない対象〉であるといえよう。〕(p113)
    ってあった。

    いまわたしが見てるのは「科学的」のじゃないけど、
    思考によって「二つの赤線丸は同じ大きさ」って確認されても、それでも(日常的な経験の場における)わたしの知覚は「二つの赤線丸は違う大きさ」に見える(上ので言えば〈昇りまた沈む太陽〉に見える)。すなわち〔にもかかわらずその原初性を失うことなく我々の知覚に現れるとするならば、この対象は原理的にまったく〕思考によって〔〈規定されない対象〉であるといえよう〕
    っていうことになるのかな。

    この〈規定されない対象〉って言うの、
    No41672の(本Ko)のなかで、
    「経験的直観の未規定な対象が現象」(p88)
    「概念によって規定されていない対象が現象」(p88)
    っていうようなのと同じようなことなのかも。
    わたしこれまとめて〈「経験的直観」にも「思考-概念」にもまだ規定されていない現れ〉ってして見てる。
    これが
    No41771の(a)のような現象になるのかな。

    わたしのばあい、経験的現実の対象の「知覚」っていうの、(a)と(b)の両方に関わってるものとして見てる。わたしの〈・・・・のように見える〉は(b)の方って見てるから。
    ここんところ、わたしの課題となってる。カントのいう「知覚」っていうの、どういうの?っていうことね。


    わたしの物語り、今日はここまでかな。
    次からは
    No41696について予定してる。

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■41838 / inTopicNo.18)  Re[83]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 18:50:34)
    No41836のつづき、

    どうしてわたしに〈・・・・のように見える〉のかな?って。

    白地の上に描かれたいくつかの図、そのなかで、赤線丸にわたしの意識が志向したとき(赤線丸が対象となったとき)、地となっている黒線丸が〈見えないもの〉になっちゃたんじゃないかしら?でもまったく見えてないわけじゃないわけだから、黒線丸のなかにある赤線丸である(地の上の図である)、っていうことが知覚されなくなっちゃったみたいな?

    生の知覚の振舞いはこのようになってるのかも。

    No41741の(M-V)の最初のところ(前にも書いたけど)、
    見えるものと自然 [ 哲学的問いかけ]
    反省と問いかけ
    [ 知覚的信念とそのあいまいさ ]
    に、
    ――――――――――――――――――
    われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。

    [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。
    ――――――――――――――――――
    ってある。

    あ、またメルポンのになってる。

引用返信/返信 削除キー/
■41836 / inTopicNo.19)  Re[82]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 18:22:19)
    きょうはこれまで考えてたの、切りがいいところまでお喋りしちゃうよ

    No41830の図は、メルポンの本を読んでるなかにあったと思うんだけどどこにあったのか探し出せなかった。ネットでは「錯覚」って言うことで見かける図だと思うんだけど。

    どうやって描いたか、っていうと、
    まず赤線丸を描いて、それをコピーして二つの赤線丸を作って、次にその二つを囲む大きさの違う黒線丸を描いたのね。だからA,Bの赤線丸は同じ大きさね。
    でもこういうふうにして見ると、わたしにはBの赤線丸の方がAの赤線丸より大きく見える(知覚される)のね。

    黒線丸を「地」、赤線丸を「図」、って見るのね。
    黒線丸という空間の中に赤線丸という空間がある、とも言えるかも。

    こういうんから
    No41830の(f)で見て見ると、
    〈A,B,それぞれ黒線丸の空間の中で、赤線丸の大きさがその相互関係によって規定(決定)されている〉
    ってなるのかな。
    って見ると、
    No41830
    〈カントも、対象を知覚する際に、地と図の関係を持ち込んで対象を知覚している(知覚における対象は単に諸感覚の総和じゃなくて)と考えてる〉って見ることもできるかな。
    でもこのばあい、〈規定(規則によって定める)〉っていうよりか、見かけ。ようするにわたしには〈・・・・のように見える〉わけね。

    「それ」が〈・・・・のように見える〉っていうのがカントでは〈現象−経験的直観〉の段階に当たるのかな?
    思考から見たら、(香川さんが言う)「知覚判断」って言うことになるのかな。

    で、このようにわたしに知覚された〈・・・・のように見える〉赤線丸を確認するのが思考。思考によって、A,Bの赤線丸は同じ大きさでる、って判断されてはじめて〈・・・・のように見えた〉ものが「錯覚」だった、って言うことになるのね。ようするに〈それ〉は「錯覚である」って言えるのは、「AとBの赤丸が同じ大きさである」っていう客観的思考知があってからよね。

    まだ思考(反省)される前の〈・・・・のように見えたもの〉(現象-経験的直観におけるもの)は、思考から見たら〈それ〉はまだ“差し当たりの判断”として、それをカントは「仮象」ってしてるのかも。そして〔仮象は真でも偽でもないもの〕(資料E.p105)として。

引用返信/返信 削除キー/
■41830 / inTopicNo.20)  Re[81]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 14:46:09)
    No41823の(E-1)の、
    〔カントも同様に、知覚の対象を単なる要素的な感覚の総和に還元しようとはしない〕
    っていうところでちょっと思ったんだけど、

    カントも、対象を知覚する際に、地と図の関係を持ち込んで対象を知覚している(知覚における対象は単に諸感覚の総和じゃなくて)。って香川さんは見てるんじゃないかしら?

    カントのそうなの?っていうことで、カントのちょっと見返して見たのね。

    No41672の、
    (資料Kh)に、
    ――――――――――――――――――
    人の心には外向きと内向きの二つの感覚があって、我々は外向きの感覚によって対象を外側の空間の中に把握する。対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定されるのである。
     それに対して、内向きの感覚は、心が自分自身の存在と内面の状態を直観するものである。この感覚は確かに魂それ自体を一個の対象として直観できないが、この感覚は一種の形式であって、これによって人は内面の状態を直観することができる。その結果、心の内側で決定されることはすべて時間との関係で把握される。
    ――――――――――――――――――――――
    ってあって、のところは、(本Ko)のでは、 〈外的感官と内的感官〉(p91)のところにあった、
    ――――――――――――――――
    (私たちのこころの一性質である)外的感官を介して私たちは諸対象を私たちの外なるものとして表象し、諸対象を空間の中に表象する。空間の中で諸対象の形態、大きさ、相互関係が規定されている。内的感官を介してこころは自分自身のあるいは自分の内的状態を直観する。内的感官は、確かに一つの客観として魂そのものの直観を与えはしないが、それでもその下でのみ魂の内的状態を直観することが可能になる一定の形式である。こうして、内的規定に属するものはすべて時間の関係の中で表象される。空間がなにか私たちの内なるものとして直観されないのと同様に、時間は外的には直観されえない。いったい空間と時間とはなんだろうか。 (A22f./B37)
    ――――――――――――――――――――――――
    にあたるのかな。

    このなかの、

    (f)「対象の形や大きさ、対象の相互の関係は空間の中で決定される」「空間の中で諸対象の形態、大きさ、相互関係が規定されている」

    っていうところとメルポンの「地の上の図」を絡めて、簡単にペイントしたのあるから添付しま〜す。

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■41829 / inTopicNo.21)  Re[80]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 14:42:21)
    メルポンのだいぶはいってきてるけど

    カントのを見なくっちゃね。

    カントは、
    No41825の@よりもAの可能性(それ成らしめるもの)についてまず考えていった、っていうことでいいかな。

    【「カント」小牧治著清水書院1967】のなかに、
    〔そこでわれわれは、いままで独断専行していた「理性」そのものを、謙虚に反省し批判し検討してみることが必要なのではなかろうか。『純粋理性批判』は、じつは、そういうことのための、法廷であったのである。こういう法廷の審判によって、理性能力の権限がはっきりするならば、そこではじめて、理性は、あの形而上関心を正しく基礎づけることができるのではなかろうか。そこではじめて、学としての新しい形而上学が成立してくるのではなかろうか。疑うことのできない神や永生や道徳は、自然科学によって脅威を受けることはないのではなかろうか。しかしそのためには、まずさしあたって、自然科学そのものの構造を、分析・検討してみる必要があろう。〕
    ってあったし。

    No40973で見たようなカントの問いに(KoN)(KoO)から始めていった。

    っていうことで

引用返信/返信 削除キー/
■41825 / inTopicNo.22)  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 09:38:22)
    No41823のつづき
    香川さんはメルポンのを読んでる、ってした見たので、ちょっとメルポンのと絡めて見たよ。

    No41615のところ見て見ると、

    〔原初的経験〕とか〔原初的な経験の場〕ってあって、他の所に〔日常的な経験〕(p110)とも書いてある。わたしこれらをまとめて〈私たち人間の生活世界での経験〉っていうふうにして見てる。
    メルポンの「世界における(への)存在」の「世界」っていうのは私たちが暮らす生活世界のことだとわたし見てる。
    で、
    私たち人間の〈経験的なもの〉における「認識」については、
    @生活世界での経験的認識(原初的な経験の場における認識)
    A科学的認識
    って、わたしのばあい分けて見てる。
    だから〔ニュートン物理学的な経験〕はAに入るのね。

    〔原初的〕っていう言葉もメルポンの本の中に出てくる。たとえば(何度も書いてるけど)、
    No41741の(M-P)のなかに、
    『われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。』(p305)
    のように。
    あと、
    (9)にハイデガーのが書かれてある。

    〔認識−対象−関係〕ってあるけど、これ〈対象−認識〉の関係、っていうふうにして見てる。
    あと「経験」っていうのを〈現実的経験〉とも見て、
    でね、
    〔経験的なものは「それによって対象がその現存在に関して与えられたものとして表象される感覚」に対応し、「経験の実質を構成する」。この経験の質料的契機はこの場合経験の非独立的な契機として経験全体の構造のうちで把握され、触発との関係でのみ語られるに過ぎず、原初的な経験の場においてその独自な展開が試みられるということはない〕
    ここんとこ、わたしこう見たよ。
    〈現実的経験における〈対象(私の外にあるもの)と私の認識の関係〉のなかで、私の外にあるもの(対象)は、非独立的に〈感官-感覚〉され、これが質料的契機となり、経験的に直観(感覚にもとづく直接的な知)される。
    カントの場合、この〈感覚-直観〉は触発との関係でのみ語られ、メルポンのように原初的な経験の場においてその独自な展開が試みられるということはない。〉
    って。
    (5)にもそんな感じのが書いてある。
    〔知覚判断〕ってあるんだけど、
    No41741の(M-C)に、
    『認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。』(下p128)
    ってあった。
    (資料E)には、〔対象の知覚に際して自発性が既に関わっている〕
    ってある。
    この〔自発性〕とか『積極的』っていうの、カントの場合「考えること」に使われてる感じしてる。
    だから、
    〈対象の知覚に際して考えることがすでに関わっている〉
    って見るのね。
    こうして見ると、
    No41075
    につながる。

引用返信/返信 削除キー/
■41823 / inTopicNo.23)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/06(Sun) 09:24:06)
    少し原稿がたまってきたので、

    No41771、つづけて (資料E)を見てくことにするよ。

    香川さんは現象学のを読んでると思う。

    (E-1)〔ところで、ゲシュタルト心理学において明らかになったように。我々が対象を知覚する場合、その対象は単なる要素的な感覚の総和に還元され得ない。我々は対象の知覚に際して既に一定の関係(たとえば、地と図の関係)を持ち込んで対象を知覚する。カントも同様に、知覚の対象を単なる要素的な感覚の総和に還元しようとはしない。〕(p106)
    ってある。

    〔ゲシュタルト心理学〕とか〔地と図〕っていうあたり、とくにメルポンのかな?

    メルポンは「ゲシュタルト」を採りあげてて、わたしもそれについて
    No38820
    No38877
    あたりでいっぱい考えて見た。

    〔地〕って日訳されてるのはメルポンのにあって、フッサールのでは「地平」ってなってる。メルポンは『地の上の図』、『知の上に図を描いたらそれをまた地に戻してみる』みたいに言ってる。
    No41741の(M-P)に
    『地の上の図ということは、まさに知覚的現象の定義にほかならにない』(p29)
    って言ってる。

引用返信/返信 削除キー/
■41772 / inTopicNo.24)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/05(Sat) 12:30:22)
    No41771
    まちがえました。41110じゃなくて
    No41111で〜す。
引用返信/返信 削除キー/

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