| conscieceは良心と訳される。ウィキペディアによれば中村正直が明治初期にconscienceを良心と訳したのが最初とされる。そこでよく話題になるのがconscienceには良いという意味はないということである。
最近ウィキペディアで日本語で良心と訳される言葉を色んな言語で調べてみた。そこでわかったことは当たり前と言えば当たり前だが、ある名著を各々の言語に翻訳するとかサイエンスに載った論文の翻訳ということではなく、各国それぞれが良心について記述しており、それはそれぞれにそれぞれの良心が存在するということを意味する(これを究極にまで拡張すれば一人ひとりにそれぞれの良心があるということになるが、今は便宜上各ウィキペディアの良心の記述を最小単位としておく)。
勿論良心についての記述であるから、それなりの共通点はある。しかしそこには微妙な違いでは済まされない相違もあるように思う。英語版ウィキペディアのcoinscienceは一通り読んでみたので次に日本語版ウィキペディアの良心を紹介する。まず驚くのがその記述の簡潔さである。簡潔というより手抜きといって良い。通り一遍に読む人には手頃なのだろうが。
最初に良心の定義がある。 「良心(りょうしん)とは、自身に内在する価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのこと」 次に英語のconscienceには良いという意味はないことが記され、性善説、性悪説にも触れる(触れただけ)。普段は意識しないがそれに反した時に良心の呵責として意識されることがやや詳しく述べられている。 精神分析関係に約3行、物語の題材として3行余り記述し、そのあと最高裁の判断、日本国憲法第76条第3項に規定された良心について「有形無形の外部の圧迫、誘惑に屈しないで自己内心の良識と道徳感に従う意味である」と述べている。最後にconscienceの和訳について3例列記、これが日本語版ウィキペディアの良心の記述の全てである。
あの英国版conscienceの記述に比べると日本版のそれはあまりにも教科書的、辞書的で薄っぺらい。ウィキペディアならではの無駄かもしれないがためになるかもしれない記述がなく、読んで多様性を感じるところが何一つなかった。
今ボクにわかっていることは、良心はconscienceの訳語に当てられたがその2語の意味には違いがあること、良心という言葉の出典は孟子であること、そしてこれはボクの推測になるが、多くの日本人は前述二つの事を知る前に、或いは今でも知らずに自分なりの良心を育んできたということである。ただ誤解してもらっては困るが、conscienceや孟子との関係を知らないからといってその人の良心は間違っているということではない。様々な良心があるということだ。
最後の推測については少し補足する。conscienceは高3以上のレベル(weblioより)であり、英和辞書には良心と訳されているが、「conscienceに良いという意味はない」という但し書きは管見の限り、見当たらない。また日本語の良心の「良」は小学4年生配当漢字、「心」は小学2年生配当漢字であり、また道徳の時間で良心がいつ出てくるのか(出てこないのか)知らないが、その出典が孟子であることはどの段階でも学習しないのではないか?習うとすれば歴史の時間で春秋戦国時代の中国に起こった百家争鳴あたりで、孟子の性善説、荀子の性悪説を扱った折りに良心の出典に触れるか?
実りのない日本版ウィキペディアの良心の記述からはひとまず離れ、次回は中国版ウィキペディアの良心にいついて見ていこうと思う。
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