| No40734は、あくまでもわたしが見たて見たカントのだからね。わたしの図は違うからね。
資料bのなかで「構想力」っていうのが書いてあるところ。
―――――――――――――――――――――― ・@悟性の純粋概念であるカテゴリーが,個々の経験的概念から区別されるように, 「図式」は「形像」 (Bild)から区別されねばならない.
・A例えば,三角形の概念は,あらゆる三角形に適合する普遍妥当性を有しており,個別的な三角形の図形として一つの「形像」に限定化しえない.つまり我々は三角形の概念によって三角形を様々に思い描くことができるが,その思い描かれた三角形は,特定の形に限定された三角形の形像であり,どんな三角形も妥当しうる一般的な三角形の形像ではない.我々はそういう一般的な形像を思い描くことはできない.しかしそれにも拘らず,我々が様々な個別的な三角形の形像や図形を見て,それらを三角形として概念的に理解できるのは何故か.あるいは別言すれば,我々がどんな三角形の概念に対してであれ,その三角形の形像を思い描くことができるのは何故か.
・Bそれを可能にするのが,カントによると「図式」 (Schema)なのである.図式は,形像(Bild)を一般に可能にするものであるが故に,それ自身形像ではない.図式は形像化の根拠であって,形像を可能ならしめる一般的な表象である.それ故に,図式は「概念にその形像を附与するという構想力の一般的な仕方(Verfahren)の表象」 (A140, B179-180)と呼ばれている.
・C図式も形像も,根本的には形象化能力である産出的構想力の所産であるが, 「感性的概念の図式は,ア・プリオリな純粋構想力のモノグラム(Monogramm,略図)」 (A142, B181)であり,形像はこの図式を介してのみ概念に結びつくのである.これに反して, 「純粋悟性概念の図式は,決して形像化しえないものであり,カテゴリーによって表現されるところの,概念一般に従う統一の規則に則った純粋総合であって,構想力の超越諭的な所産である」 (A142,B181).
・Dカテゴリーの超越諭的演樺は,カテゴリーの使用を経験に制限する「形像的総合」 (synthesisspeciosa)として解決されている.この形像的総合は, 「構想力の超越論的総合」とも言われ,「直観をカテゴリーに則って総合する構想力の総合」(B152)とされている.
・E図式論においても,構想力は超越諭的な図式機能(Schematismus)として,感性と悟性,直観と概念を媒介総合する.その際,総合は図式化されたカテゴリーに則って行われる.
・F「概念に直観を与える横根力の操作は表現(exhibitio)である.経験的直観から概念を作成する構想力の操作は理解(comprehensio)である」.
・G経験的直観から概念の作成は直観の悟性化に,また概念に直観を与えることは概念の感性化に対応する.しかも両者において働くのは同一の構想力なのである.
・H図式機能(Schematismus)は,直観と概念の媒介作用として,概念に対応する形像を描き出す図式化(Shematisierung)の一般的な働きであるから,産出的構想力に基づいている.
・Iカントは,それを「概念にその形像を附与する構想力の一般的な仕方」 (A140, B179-180)としていた.産出的構想力は,自発的に形象化(形像化)する能力として「根源的な表現」 (exhibitiooriginariva)の能力である.かかる表現(exhibitio, Darstellung)とは, 「概念に直観を与える構想力の操作」である. 「概念に直観を附与する操作は,客観の表現(Darstellung, ex-hibitio)と呼ばれ,これなしにはどんな認識も存しえない」. ―――――――― (資料b)では「Bild」っていうのを日訳では「形像」、黒ちゃんのでは、「形象」ってなってる。 Cに「図式も形像も,根本的には形象化能力である産出的構想力の所産である」ってあるから、「Bild」っていうのは「形像」でも「形象」でもどちらでもいいのかもだけど、カントの言う「Bild」って言ってるもの、どんなの?っていまなってる。
わたしのカントの見方はまだまだつづきそう。
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