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■40764 / inTopicNo.1)  Re[96]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/26(Sun) 11:15:53)
    現象学のから、メルポンの言う「世界における(への)存在」っていうのをわたしなりに図式化したのあるからちょっと添付しとく。
    (前に添付しようとして出来なかったんだけど、できるかな?)
    これを〈わたし図〉って言うことにするね。これまだ変わるかもだけど。

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■40763 / inTopicNo.2)  Re[95]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/26(Sun) 10:08:47)
    No40760
    >直観されたものの(与えられたものの)まだ認識対象として概念で規定されてない状態がカント的「現象」(Erscheinung)で、<
    っていうのはわたしもそんなふうに見てる。これ、
    No40752の@〜Cで見たような「経験的直観」と「現象Erscheinung」の関係についてになると思うんだけど、
    >ある規定に沿って結合された現象の認識対象が「感性体」(Phanomen)<
    っていうところは、ちょっとわたしのと違うかな。
    No40762のようにわたし見たから。
    経験におけるなかで、「経験的直観」が“対象としてる”のがErscheinung(現象)とかPhanomen(感性体)、ってカントは考えてるんじゃないかな?って。

    ネットに、「カントの現象学概念について」っていうのあって、その中で、

    「カントは『純粋理性批判』において、現象概念を多義的に使用する。この論稿においては、そのうち三つの代表的な現象概念の使用例が示され、それぞれにおける現象概念の意味の違いが明らかにされる。」
    ってあって、
    そのカントの三つの現象概念っていうのは、
    a.経験的意味での現象
    b.先験的意味での現象
    c.所与としての現象
    っていうのがあるみたい。
    「多義的」っていうのは〈意味がはっきりしてない〉っていうふうにも見れるよね。
    たしかに、カントの、めんどくさい。

    ひとまずNo40762のようなこととして見とくことにしたよ。

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■40762 / inTopicNo.3)  Re[94]: おはようです
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/26(Sun) 09:22:48)
    No40753
    No40754
    pipiさま、ありがとございま〜す!
    日本のカント研究学者さんたち、どういうふうに日訳でも分けてるの分かった。
    簡単にペイントしたので添付します。
    わたし思ったのはね
    カントは、Erscheinung(現象)とPhanpmen(感性体・感覚的な存在)はだいたい同じような意味で使ってるってして見た。
    カントの場合、〔外的「対象」→感性→感覚〕の流れの中で表象されてるものをErscheinung(現象)、Phanpmen(感性体・感覚的な存在)ってしてるんじゃないかな。
    ってすると、カントのを、〔外的「対象」→感性→感覚→現象・感性体〕っていう流れってして見てもいいかも、って。


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■40760 / inTopicNo.4)  おはようです
□投稿者/ pipit -(2025/01/26(Sun) 07:55:43)
    2025/01/26(Sun) 08:06:51 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、おはよ(^○^)
    今朝思いついただけなので、はずしてたらごめんなんやけど、

    LEGOブロックあるやん?
    意識に現れるものが、LEGOとLEGO以外やったとしたら、

    一ブロックとして分離していてそのブロックが多様な状態と、
    結合させて例えばイチゴを作った状態があるとして、、、

    意識に上がるものが数個のブロックやったり(この手持ちブロックでなにつくろうかなーと眺めてる)
    出来上がったイチゴとして意識に上がったり、
    意識が向かうものとしてその時その時変わるやん?

    カントの考えてることは、そういう構造と同じ感じで、
    直観されたものの(与えられたものの)まだ認識対象として概念で規定されてない状態がカント的「現象」(Erscheinung)で、
    ある規定に沿って結合された現象の認識対象が「感性体」(Phanomen)
    という考え方はどうかなぁ?とわたしは思いました。

    イチゴを見せて「LEGO」って言うことも可能だし(規定された規定を外しちゃってるけど(ーー;))、
    イチゴを見せて「イチゴ」って言うことも可能だと考えました。

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■40754 / inTopicNo.5)  御子柴先生の解説ありました。
□投稿者/ pipit -(2025/01/25(Sat) 21:04:14)
    御子柴先生の解説を引用します。

    (御子柴先生)
    『(略)、私たちに与えられる対象、すなわち「現象」は感官を介してのみ与えられるからです。こうした現象としての対象が「感性体(Sinneswesen)」と呼ばれます。そのラテン語表現が、「フェノメノン(Phaenomenon)」です。したがって、「感性体」や「フェノメノン」という表現は、「超越論的感性論」から分析論までの議論で仕上げられた理論的な対象認識の議論に基づいて、現象としての対象に与えられた別名に他なりません。』

    とのことです。
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p316.317)
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■40753 / inTopicNo.6)  Re[91]: つれづれなるままに
□投稿者/ pipit -(2025/01/25(Sat) 20:32:27)
    悪魔ちゃん、おっじゃま〜

    No40747
    > ところで、カントは「Phanomen」っていう語を使ってるところあるのかな?もあったら、それどう日訳されてるのかしら?<

    kindle本で「Phanomen」検索したらヒットしたので使われているみたい。
    検索時のスクリーンショット画像を添付するね。

    それでこの語がどう日訳されてるかなんだけど、多分なんだけど、

    御子柴先生・・・『感性体(フェノメナ)』(角川選書p316)
    中山元先生・・・『感覚的な存在(フェノメノン)』(光文社古典新訳文庫3巻p239)
    田村一郎先生・・・『感性体(フェノーメノン)』以文社、上、p340)

    みたい。

    ここらへんのカント文の中山先生の訳文、よかったら引用するので読みたいときはいってね
    (^▽^)
    超越論的分析論に
    『第三章 すべての対象一般を感覚的な存在(フェノメノン)と叡智的な存在(ヌーメノン)に区別する根拠について』(中山元先生訳)
    という章があるみたいです。

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■40752 / inTopicNo.7)  Re[92]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/25(Sat) 19:07:20)
    わたしにとって「語」の意味、問題なのね。特に哲学者が使ってる語の意味。

    No40617の[4]に日訳されてる「現象」
    No40575の御子柴さんが言ってる「現象」
    っていうのを、
    No40747で見たようなカントの(独)Ersheinung(カント翻訳者による日訳で「現象」)のようなのとして見たなかで見てくよ。(Ko)は御子柴さんの言ね。

    ・@Kh(p1-4)経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。
    ・A(Ko-4)経験的直観の未規定な対象を現象という。(A19f./B34)
    ・B(Ko-a)概念によって規定されていない対象が「現象」
    ・C(Ko-b)経験的直観によって与えられる対象が「現象(Erscheinung)」

    ・@Aはカント言の日訳みたいで、Bもその解釈として、わかる感じ。
    「経験的直観」の対象は「Ersheinung(現象)」っていうみたいだから。
    わたしのカント分け図の
    No40734
    〈現象〉←〈経験的直観〉っていう見方はは、いいかも?ってわたし思ってる。

    御子柴さんはさらにErscheinungと「概念」(たぶん「経験的概念」)と関係づけて見てて、Bのように言ってるんだとわたし思うのね。
    これ、わたしの「カント分け図」の〈経験的直観〉→〈経験的概念〉ってして見てもいいかも、って。

    でもね、こういうふうに見たなかで、Cがわかんないのね〜。
    〈経験的直観〉によって、“何か”に与えるのよね。その“何か”にとっての対象が「現象(Erscheinung)」っていうことになるんだと思うけど。


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■40748 / inTopicNo.8)  Re[91]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/25(Sat) 14:40:31)
    わたしが場所すぐ見れるように、
    No40599だったけかな?
    ここわたし用に使わせてもらってます。

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■40747 / inTopicNo.9)  Re[90]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/25(Sat) 14:34:58)
    「現象」っていう日訳されてる外国語、ちょっと調べて見た。
    添付しま〜す。文字化けするのもあるから。
    カントので、「現象」って日訳されてるのは(独)Ersheinungのことみたい。
    現象学で日訳されている「現象」っていうのは(英)phenomenonで、これドイツ語で検索したら(独)Phanomen(アキュートアクセントは省略)って出て来た。
    ちなみに現象学の「現象」っていうのは、ハイデガーによると、
    No27096
    のような意味みたい。
    ところで、カントは「Phanomen」っていう語を使ってるところあるのかな?もあったら、それどう日訳されてるのかしら?

    (独)Ersheinungの日訳で「外見」っていうような意味で使ってるんじゃないかしら?って、そう見るとわたしが見てる〔単なに見えている〈像〉〕ってして見ても間違ってはいない感じするけど。

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■40735 / inTopicNo.10)  Re[89]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/24(Fri) 19:39:31)
    No40734は、あくまでもわたしが見たて見たカントのだからね。わたしの図は違うからね。

    資料bのなかで「構想力」っていうのが書いてあるところ。

    ――――――――――――――――――――――
    ・@悟性の純粋概念であるカテゴリーが,個々の経験的概念から区別されるように, 「図式」は「形像」 (Bild)から区別されねばならない.

    ・A例えば,三角形の概念は,あらゆる三角形に適合する普遍妥当性を有しており,個別的な三角形の図形として一つの「形像」に限定化しえない.つまり我々は三角形の概念によって三角形を様々に思い描くことができるが,その思い描かれた三角形は,特定の形に限定された三角形の形像であり,どんな三角形も妥当しうる一般的な三角形の形像ではない.我々はそういう一般的な形像を思い描くことはできない.しかしそれにも拘らず,我々が様々な個別的な三角形の形像や図形を見て,それらを三角形として概念的に理解できるのは何故か.あるいは別言すれば,我々がどんな三角形の概念に対してであれ,その三角形の形像を思い描くことができるのは何故か.

    ・Bそれを可能にするのが,カントによると「図式」 (Schema)なのである.図式は,形像(Bild)を一般に可能にするものであるが故に,それ自身形像ではない.図式は形像化の根拠であって,形像を可能ならしめる一般的な表象である.それ故に,図式は「概念にその形像を附与するという構想力の一般的な仕方(Verfahren)の表象」 (A140, B179-180)と呼ばれている.

    ・C図式も形像も,根本的には形象化能力である産出的構想力の所産であるが, 「感性的概念の図式は,ア・プリオリな純粋構想力のモノグラム(Monogramm,略図)」 (A142, B181)であり,形像はこの図式を介してのみ概念に結びつくのである.これに反して, 「純粋悟性概念の図式は,決して形像化しえないものであり,カテゴリーによって表現されるところの,概念一般に従う統一の規則に則った純粋総合であって,構想力の超越諭的な所産である」 (A142,B181).

    ・Dカテゴリーの超越諭的演樺は,カテゴリーの使用を経験に制限する「形像的総合」 (synthesisspeciosa)として解決されている.この形像的総合は, 「構想力の超越論的総合」とも言われ,「直観をカテゴリーに則って総合する構想力の総合」(B152)とされている.

    ・E図式論においても,構想力は超越諭的な図式機能(Schematismus)として,感性と悟性,直観と概念を媒介総合する.その際,総合は図式化されたカテゴリーに則って行われる.

    ・F「概念に直観を与える横根力の操作は表現(exhibitio)である.経験的直観から概念を作成する構想力の操作は理解(comprehensio)である」.

    ・G経験的直観から概念の作成は直観の悟性化に,また概念に直観を与えることは概念の感性化に対応する.しかも両者において働くのは同一の構想力なのである.

    ・H図式機能(Schematismus)は,直観と概念の媒介作用として,概念に対応する形像を描き出す図式化(Shematisierung)の一般的な働きであるから,産出的構想力に基づいている.

    ・Iカントは,それを「概念にその形像を附与する構想力の一般的な仕方」 (A140, B179-180)としていた.産出的構想力は,自発的に形象化(形像化)する能力として「根源的な表現」 (exhibitiooriginariva)の能力である.かかる表現(exhibitio, Darstellung)とは, 「概念に直観を与える構想力の操作」である. 「概念に直観を附与する操作は,客観の表現(Darstellung, ex-hibitio)と呼ばれ,これなしにはどんな認識も存しえない」.
    ――――――――
    (資料b)では「Bild」っていうのを日訳では「形像」、黒ちゃんのでは、「形象」ってなってる。  
    Cに「図式も形像も,根本的には形象化能力である産出的構想力の所産である」ってあるから、「Bild」っていうのは「形像」でも「形象」でもどちらでもいいのかもだけど、カントの言う「Bild」って言ってるもの、どんなの?っていまなってる。

    わたしのカントの見方はまだまだつづきそう。

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■40734 / inTopicNo.11)  Re[88]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/24(Fri) 19:34:25)
    いまのわたしの「カント分け図」を添付して見ま〜す。

    〈意識〉の外円が経験によるもの(感性-感覚に関係する流れ的なの)で、内円が経験によるものではない、経験的なものをいっさい含んでいない純粋な悟性(思考)のとして描いて見たのね。

    この外円と外円を結びつけるものとして、「構想力」と「図式」を位置づけて見たんだけど、
    この図にして見たとき、もういちど(資料b)を見直さなくちゃならなくなっちゃたっていうことになってるのね。

    (資料b)の、読み返すところを、次に書き出しておく。

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■40732 / inTopicNo.12)  Re[87]: Re:思考
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/24(Fri) 19:11:15)
    No40720、pipiさま、ありがとございま〜す。

    カントの「構想力」については、
    No40052 の(資料b)のなかに出てきてて、
    わたしの「カント分け図」を
    No40354のようにしてみたんだけど、
    No40617
    No40713
    のところから、いま「カント分け図」を手直しして見てるとこ。

    次に書いて見ま〜す。



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