TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■39432 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。55
  
□投稿者/ パ二チェ -(2024/11/12(Tue) 20:43:19)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■39434 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/11/12(Tue) 21:24:05)
    パニチェさんこんばんは!
    新トピの設置ありがとうございます。
    いつも大変お世話になっています m(_ _)m

    これからもどうぞよろしくお願いします(*^◯^*)
引用返信/返信 削除キー/
■39686 / inTopicNo.3)  pipiちゃんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/11/23(Sat) 16:15:10)
    コン、コン、 
    ご休憩中のところ失礼しま〜す。

    わたしいま概念主義っていうの見て、どうやらカントのと関係あるみたいなのね。

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173208/1/ronso_38_045.pdf

    のなかで、三谷さんが〔カントが示す表象の一般的分類を参照するなら、〕って言って、カントの記述だと思うんだけど、
    ――――――――――――――――――
    「意識を伴う表象(perceptio)が単に主体の状態の変様としてのみ主体と関わる場合には感覚であり、客観的知覚は認識である。認識は直観か概念のいずれかである。前者は直接に対象に関係し個別的である。後者は間接に、複数の事物に共通しうる表徴を介して対象に関係する」(A320/B376f.)。
    ――――――――――――――――――
    って書いてあるところがあるんだけど、カント、こういうこと言ってるの?
    訳者によって表現が違うかもなんだけど、ここんとこ、pipiちゃんに聞こうと思って。












引用返信/返信 削除キー/
■39696 / inTopicNo.4)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/11/24(Sun) 08:41:43)
    悪魔ちゃん、こんちは!

    > ――――――――――――――――――
    > 「意識を伴う表象(perceptio)が単に主体の状態の変様としてのみ主体と関わる場合には感覚であり、客観的知覚は認識である。認識は直観か概念のいずれかである。前者は直接に対象に関係し個別的である。後者は間接に、複数の事物に共通しうる表徴を介して対象に関係する」(A320/B376f.)。
    > ――――――――――――――――――

    カントのドイツ語原文を引用するね。
    Eine Perception, die sich lediglich auf das Subjekt, als die Modifikation seines Zustandes bezieht, ist Empfindung (sensatio), eine objektive Perzeption ist Erkenntnis (cognitio). Diese ist entweder Anschauung oder Begriff (intuitus vel conceptus). Jene bezieht sich unmittelbar auf den Gegenstand und ist einzeln; dieser mittelbar, vermittelst eines Merkmals, was mehreren Dingen gemein sein kann.

    この箇所についてを過去に投稿してて、鈴木恒夫先生の日訳と、pipitの理解をワードでイラスト化してるのでよかったらみてみてね。
    No36750

    pipitの感想としては、、、
    カントの場合は、概念でも感覚的受容でも、なんでも「現れ」(表象)と見てるのかな?と思ってます。
    その表象を意識化してる状態を(perceptio)と言ってるのかな?と。

    悪魔ちゃんが、「あ、OK」って書いてたけど、「あ」として見てるものが対象としての直観になるのかなぁって(自信なし)

    『純粋理性批判』が概念主義かそれとも非概念主義か、についてもいろいろ解釈が別れているみたいです。そのことについての鵜澤和彦先生の記述(11ページだけ)が載っている本が手元にあるので興味あるときは引用するので遠慮なく言ってね!
    非概念主義の立場として、ペーター・ロースさん、チャールズ・D・パーソンズさんのお名前があげられてました。鵜澤先生ご自身は非概念主義を支持するとありました。

    質問大歓迎ですo(^▽^)o
    もちろんわからないこと莫大と思うけど考えてみます!

引用返信/返信 削除キー/
■39703 / inTopicNo.5)  pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/11/24(Sun) 16:29:51)
    pipitさま、ありがとございま〜す。

    No36750のところ、見たことありました。
    >カントの場合は、概念でも感覚的受容でも、なんでも「現れ」(表象)と見てるのかな?と思ってます。<
    カントの「純理」はpipitさまほど詳しくは見てないんだけど、わたしもなんとなくそんな感じで見てます。
    意識に現れているもの全般、みたいな感じで。

    ドイツ語はゼンゼンわかんないんだけど、
    「Eine Perception」をネットで調べたら、「認識」って出て来た。
    「Perception」(←これ日本語らしいんだけど)は「Wahrnehmung」って出て来た。
    「Wahrnehmung」は、
    https://kotobank.jp/word/wahrnehmung-1258151
    にあった。
    ドイツ語の意味と翻訳される日本語、そしてその日本語の意味、そしてその日本語のわたしの意味、ごちゃごちゃしてくる。

    カントのこの部分の記述に関してわたし考えて見たんだけど、それは後でわたしんとこで書いて見ることにします。

    >『純粋理性批判』が概念主義かそれとも非概念主義か、についてもいろいろ解釈が別れているみたいです。<
    なるほど〜。

    >そのことについての鵜澤和彦先生の記述(11ページだけ)が載っている本が手元にあるので興味あるときは引用するので遠慮なく言ってね!<
    そこんとこ、ちょっと知りたいな〜。
    遠慮なく、引用よろしくお願いしちゃいます。

引用返信/返信 削除キー/
■39775 / inTopicNo.6)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/11/29(Fri) 00:35:59)
    悪魔ちゃんこんばんは!
    No39696
    >『純粋理性批判』が概念主義かそれとも非概念主義か、についてもいろいろ解釈が別れているみたいです。<
    についての箇所を短く引用するね。もっと知りたい観点があったら言ってください!


    『新・カント読本』牧野英二編、法政大学出版局、P139〜
    『11 カテゴリーの演繹論と図式論』鵜沢和彦先生の論述より抜粋引用。

    『(略)知覚経験の論理的構造に関しては、概念主義と非概念主義という二つの立場が対立している。

    (略)、概念主義は、カントの演繹論のみを重視する。この解釈の論拠は、以下の三点にまとめられる。

    @概念なき直観は盲目である。
    A判断の論理的機能は、同時に直観の総合的統一の働きにほかならない。
    Bカテゴリーは、直観における把捉の条件である。

    (略)、われわれが経験的知識を獲得し、それを正当化するためには、どのような知覚経験にとっても必要な一連の諸概念、すなわち、カテゴリーが存在する。これが概念主義のテーゼであり、カテゴリーの論理的機能を強調する点にその特徴がある。しかしながら、これによって、直観と概念、感性と悟性は、カントの立場からすると、もはや厳密に区別されなくなり、ライプニッツの「汎論理主義(Panlogismus)」に再び後退することになる。
     
     これに対し、ペーター・ロース(1936−)とチャールズ・D・パーソンズ(1933−)は、カントの数学の哲学を支持する立場から、直観の働きを評価する非概念主義の立場をとる。この立場の論拠は以下の二点にまとめられる。

    @外的直観は、対象(現象)に直接的に関係する。
    A算術や幾何学の命題は、量のカテゴリーの図式(時間系列)によって成立する。

    第一の論点について、ロースは次のように述べている。直観は対象の直接的・個別的表象であり、概念がその間接的・普遍的表象である限り、直観を概念に還元することは、定義上不可能である。なぜなら、命題の単称指示句「この」は、つねに対象への直接的関係(直観)を前提しており、その関係は、概念によっては決して置き換えられないからである。それゆえ、直観と概念は、原理的に区別されなければならない。
    第二の論点は、たとえば、7+5=12という算術の命題(B15)の考察から明らかになる。われわれは、ただ7と5の結合を考えるだけでは、決して12という解答を得られない。数を一つ一つ付加(総合)していくことによって、はじめて12という一定の数量に到達できる。この「数える」(A103)という作業は、悟性が量のカテゴリーの図式(数、時間系列)を用いて数量を総合する図式機能にほかならない。幾何学の場合も、構想力が「思考の内で線を引く」(B154)という仕方で、継起的に一定の外延量を総合(構成)している。数学は、この総合によってはじめて現象に適用可能になる。
    非概念主義の特徴は、この総合の概念が、量のカテゴリーに関する構想力の時間図式と悟性の図式機能に依拠している点にある。
    したがって、概念主義が、図式論の無用説に立つのに対し、非概念主義は、図式論の有用説に与するのである。
    (略)』
    引用終了
    -----------------------------------------

    上記引用文に
    >直観は対象の直接的・個別的表象であり、概念がその間接的・普遍的表象である限り、直観を概念に還元することは、定義上不可能である。<
    という箇所があり、関連する純粋理性批判での文章を過去に引用していたので再引用するね。

    No11121

    (カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。

    B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    (略)
    このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
     ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    思考とは、概念によって認識する行為である。
    (略)』
    引用終了

    -----------------------------------------

    鵜澤和彦先生の論文が読めるページがあったのでアドレス貼っておくね
    https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00009891/14_phi_10_uzawa.pdf

    リクエスト歓迎どすえ〜
    今までいっぱいありがとう!!
引用返信/返信 削除キー/
■39789 / inTopicNo.7)  pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/11/29(Fri) 20:18:45)
    No39775、pipitさま、ありがとございま〜す!

    最近、いいこと思いつちゃっから、後でわたしんところでそれ書いて、
    抜粋引用してくれたところ、わたしの見方、書いて見ることにするね。

    わたし、ここ数年はメルポンのを教科書としてる。メルポンのを捉えるためにフッサールのやハイデガーの、で、フッサールのはデカルト、カントってなってるのね。だから、ここはけっこう参考にさせてる。

    また聞きたいことがあったらよろしくね。


引用返信/返信 削除キー/
■39825 / inTopicNo.8)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/01(Sun) 14:58:22)
    2024/12/01(Sun) 15:04:06 編集(投稿者)

    鏡像反転けろっ!
    このような本が出ていたのですね〜



    鏡像反転の謎にいどむ!/加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』試し読み
    『2024年5月16日に加地大介著『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』が配本になります。
    *本書は2003年に哲学書房から出版された『なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門』に加筆修正を加えて改題をしたものです。
    カント生誕300年の年の新版発刊を記念し、カントの空間論についてより踏み込んだ内容の論考を追加するとともに、脚注の付記や図版を新しいものにするなど大幅な改訂をほどこしています。』

    https://note.com/lucky_moraea870/n/nb7646b770484

    ※写真のアマガエルちゃん、お鼻にタネかなんかくっつけてるので、反転具合がよりわかりやすいかも!
    お利口さんねー(?)

832×624 => 600×450

ohakaeru6.JPG
/196KB
引用返信/返信 削除キー/
■39943 / inTopicNo.9)  超越論的分析論]−3
□投稿者/ うましか -(2024/12/07(Sat) 23:19:20)
    2024/12/07(Sat) 23:21:29 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    おじゃましますー(;・∀・)沼

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕

    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き

    ◇ 綜合的な〔synthetische〕表象とその対象が一致し〔zusammentreffen〕、互いに必然的に関係し合う、言わば、互いに出会い得るのは、〔次の〕二つの場合しかあり得ない。すなわち、対象のみがその表象を可能にする場合か、表象のみがその対象を可能にする場合かのどちらかである。
    前者の場合、この関係〔Beziehung〕は経験的であるに過ぎず、その表象は決してア・プリオリに可能ではない。そしてこのことは、感覚〔Empfindung〕に属するものであれば何であれ、現象にも当てはまる。
    しかし後者の場合には、表象そのものは( 何故なら、意志を介したその表象の原因性はここでは全く問題ではないから)、己の対象をその現存在から〔dem Dasein nach 〕℃Yみ出すことはない。
    それ故、この表象は、これを通じてのみ或るものを一つの対象として認識する〔als einen Gegenstand zu erkennen〕≠アとが可能である場合は、〔表象は〕その対象に関してア・プリオリに規定する働きをする。
    しかし、対象の認識がそのもとでのみ可能となる二つの条件がある。
    第一〔の条件〕は直観〔Anschauung〕≠ナあり、これによって対象は、現象としてのみであるが、与えられる。
    第二〔の条件〕は概念〔Begriff〕≠ナあり、これによって、その直観に対応する対象が思考される。
    しかし前述から明らかなように、第一の条件、すなわち諸対象がそのものでのみ直観され得る条件は、実際にその〔空間と時間という〕形式からみて客観の根底に心の内でア・プリオリに潜んでいるということである。
    それ故、感性のこの形式的条件とは全ての現象が必然的に合致する〔stimmen〕。
    というのも、全ての現象は〔感性の〕この形式的条件を通じてのみ現象するからであり、換言すれば、経験的に直観され、与えられ得るからである。

    ―― No.39245 の続き ---

    ◇ところで、問題は、ア・プリオリな諸概念もまた、或るものがそのもとでのみ、たとえ直観されるのではないにせよ、にもかかわらず対象一般として思考される諸条件として先行するのではなかろうかということである。

    ◇何故なら、ア・プリオリな諸概念が先行するときには、諸対象の全ての経験的な認識はそうした諸概念に必然的に従うからである。その理由は、そうした諸概念を前提とすることがなければ何一つとして経験の客観〔Objekt der Erfahrung〕≠ニして可能とはならないからである。

    ◇ところが、全ての経験は、或るものがそれを通じて与えられる感官の直観〔Anschauung der Sinne〕の他、直観において与えられ、或いは現象する〔erscheint〕対象についての概念〔Begriff〕≠も含んでいる。

    ◇従って、諸対象一般についての諸概念は、ア・プリオリな条件として全ての経験認識〔Erfahrungserkenntnis〕の根底にひそんでいることになり、よってア・プリオリな諸概念としてのカテゴリーの客観的な妥当性は、そうしたカテゴリーを通じてのみ経験が(思考の形式からみて〔der Form des Denkens nach〕)可能になるということに基づいている。

    ◇何故なら、そのときにはカテゴリーを介してのみ総じて経験の何らかの対象は思考され得るからである。


    † 原佑訳上巻、p.244〜p.245参照。 原典はMeiner, p.172〜p.173
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.105〜p.106、石川文康 訳 上巻, p.152〜p.153
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,39943

引用返信/返信 削除キー/
■39953 / inTopicNo.10)  Re[2]: 超越論的分析論]−3
□投稿者/ pipit -(2024/12/08(Sun) 17:48:04)
    うましかさん、こんにちは♪

    No39943
    > 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き<

    こ、これはカント沼の深部とも云われる(?)演繹沼:(;゙゚'ω゚'):への移り行き!

    > ◇ところで、問題は、ア・プリオリな諸概念もまた、或るものがそのもとでのみ、たとえ直観されるのではないにせよ、にもかかわらず対象一般として思考される諸条件として先行するのではなかろうかということである。<

    ん?もともとの話題は、
    〔空間と時間という〕形式、についてで、、、
    感性の形式が経験的直観に先行するように、、、
    アプリオリな概念もまた経験的概念に先行するということがあり得る?って言ってるのかな?

    > ◇何故なら、ア・プリオリな諸概念が先行するときには、諸対象の全ての経験的な認識はそうした諸概念に必然的に従うからである。その理由は、そうした諸概念を前提とすることがなければ何一つとして経験の客観〔Objekt der Erfahrung〕≠ニして可能とはならないからである。<

    難しいなぁ...
    [時間空間があるとき、経験的直観がある]ならば、〈経験的直観は時間空間に従う〉
    のと同様に、
    [アプリオリな諸概念があるとき、経験的認識がある]ならば、〈経験的認識はアプリオリな諸概念に従う〉
    〈〉を言うためには、[]を確立させなければいけないですが、、、カント的には論理学の判断表から、人間の経験的思考先立つアプリオリな概念を導出していることになっているので、何かについてを思考するならばこのアプリオリな概念に従った思考になる、ということかなぁ。

    > ◇ところが、全ての経験は、或るものがそれを通じて与えられる感官の直観〔Anschauung der Sinne〕の他、直観において与えられ、或いは現象する〔erscheint〕対象についての概念〔Begriff〕≠も含んでいる。<

    経験、という認識には、思考が含まれている。

    > ◇従って、諸対象一般についての諸概念は、ア・プリオリな条件として全ての経験認識〔Erfahrungserkenntnis〕の根底にひそんでいることになり、よってア・プリオリな諸概念としてのカテゴリーの客観的な妥当性は、そうしたカテゴリーを通じてのみ経験が(思考の形式からみて〔der Form des Denkens nach〕)可能になるということに基づいている。
    >
    > ◇何故なら、そのときにはカテゴリーを介してのみ総じて経験の何らかの対象は思考され得るからである。<

    カテゴリーがあるとき経験がある、ならば、カテゴリーは経験の客観妥当性を表現しているものとなる、ということかな??

    んん、力技?!

    これから、カテゴリーが経験にとっての必然的条件だ、ということを超越論的演繹論で論じていくのかな?

    うましかさん、カント変◯沼おつかれさまです!
    何故かあったかいンですよねー??(謎)

    どうぞ体調にお気をつけてくださいませ♪

引用返信/返信 削除キー/
■39955 / inTopicNo.11)  B版演繹論第26節
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/08(Sun) 19:44:41)
    今ね、うましかさんから教えてもらった
    No39935を読んでるところなんだけど、
    〔『純粋理性批判』のB版演繹論第26節は、テキストの理解について、一つの難問を提起している。〕
    ってあって、
    〔カントはその箇所で、カテゴリーによる総合が直観の把捉、すなわち、知覚の条件であると述べており、〕
    (〔知覚の条件〕っていうの、ほら、わたし自称メルポン派だから、ここんと、すっごく気になってるのね。)
    ってあって、
    〔B版演繹論の第26節は、ハナにとっても、また、アトラスにとっても、最大の躓きの石とされており、〕
    ってあるのね。
    (〔ハナ〕っていう人は「非概念主義」、〔アトラス〕っていう人は」「概念主義」みたいです。)
    で、
    〔カントが概念主義者であるかどうか〕、ということを問題してるのが、“カント解釈”のなかでの「概念主義者」と「非概念主義者」の間の論争みたいなのね。
    あ、
    わたしがpipiさまに聞きたいのは〜、『純粋理性批判』のB版演繹論第26節でカントはどんなこと言ってるのかな〜、って。
    たぶん、「内容のない思想は空虚であり、概念を欠いた直観は盲目である」(A51/B75)みたいなことが書いてあるところだと思うんだけど?

    pipiさま、休暇中、ごめんね。
    気が向いたときにでいいので、おねがいしま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■39959 / inTopicNo.12)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/12/09(Mon) 00:04:37)
    2024/12/09(Mon) 06:22:02 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)

    No39955
    > 今ね、うましかさんから教えてもらった
    > No39935を読んでるところなんだけど、
    > 〔『純粋理性批判』のB版演繹論第26節は、テキストの理解について、一つの難問を提起している。〕
    > ってあって、
    > 〔カントはその箇所で、カテゴリーによる総合が直観の把捉、すなわち、知覚の条件であると述べており、〕
    > (〔知覚の条件〕っていうの、ほら、わたし自称メルポン派だから、ここんと、すっごく気になってるのね。)
    > ってあって、<

    「知覚」と言う言葉をどのような意味で使うのか、という問題もあるよね。

    悪魔ちゃんが書いてくれた文章の中に『直観の把捉』があるでしょう?
    pipitの理解では、様々な直観が刻々と与えられる中で、それをざっとまとめて、想像力が
    『対象』をつくりあげる感じかなと思ってるんだよ。
    悪魔ちゃんが得た時空的な直観から想像力でpipitというヒト、を作る、それも『直観の把捉』だとpipitは思ってるんだけど、それが【すなわち】知覚、ってことは、pipitが考えるに、この箇所では、カテゴリーによる総合が、《対象を規定する一つの情報としての知覚》としての知覚 の条件ってことになってるのかなと思っちゃうなぁ...
    うーん、何かわからず、『熱っ!!』とか感じることってあると思うんだけど、カント的には、『熱っ!!』単体では知覚として見ないということなのかなぁ、『熱っ!!』は知覚以前の感じる何かで、
    『熱っ!!』がカテゴリーによる総合に従うことで、何かの内容を持った情報の一部分として把捉されるということなのかなぁ、その時の『熱』は知覚にカントは分類するのかなぁ。
    (・・?)???

    > わたしがpipiさまに聞きたいのは〜、『純粋理性批判』のB版演繹論第26節でカントはどんなこと言ってるのかな〜、って。<

    この箇所の題名の中山元先生の日訳は、

    『第二六項 純粋知性概念を可能的な経験に普遍的に利用できることの超越論的な根拠づけ』

    になってるよ。
    この箇所文庫本で11ページくらいあって、
    段落ごとに中山先生独自の小タイトルをつけてるんだけど、この第二六項は、

    168 自然科学の可能性
    169 把握による総合
    170 経験の条件としてのカテゴリー
    170n 直観の形式と形式の直観
    171 量のカテゴリーによる把握の実例
    171n 自発性としての想像力と自己統合の意識
    172 原因のカテゴリーによる把握の実例
    173 自然の謎
    174 カテゴリーにしたがう自然

    、とあるよ。
    興味ある箇所があったら引用や読解などにチャレンジするよ!いつでも気軽に言ってね
    p(^_^)qガンバルゾー


    検索して出てきた論文。第26節のことも書いてあるみたいなのでアドレスを貼りますね。↓

    直観はいかなる意味で概念に依存するのか
    『純粋理性批判』演繹論における直観の理論について
    片山 光弥さん

    https://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron40/05-Katayama.pdf

    >pipiさま、休暇中、ごめんね。<

    今回のスレッドが終わってから休暇だよ!
    短期休暇にするつもりで、多分すぐにパニチェさんに再開などをお願いしにくると思うよ
    (^_^)アリガトウ

引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -