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■40235 / inTopicNo.61)  超越論的分析論]−5
  
□投稿者/ うましか -(2024/12/28(Sat) 16:31:27)
    2024/12/28(Sat) 18:24:59 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    気がつけばクリスマスも過ぎ去り、

    今年もあと数日で終わりますね(;・∀・)

    光陰(時間)矢の如し、、、さて空間は(。´・ω・)?

    (´-ω-`)沼〜

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕

    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き

    ◆ それ故、全てのア・プリオリな概念の超越論的演繹は、その全探究が向けられなければならない一つの原理を持っている。
    それはすなわち、ア・プリオリな諸概念は経験の可能性のア・プリオリな条件として認識されなければならない(それが、経験において見出される直観の可能性の条件としてであろうと、或いは、思考の可能性の条件としてであろうと)という原理である。
    経験の可能性の客観的な根拠を与える諸概念は、まさにこの故に必然的である。しかし、そうした諸概念がそこで見出される経験を展開してみせることは、そうした諸概念の演繹ではない(そうではなくて例証である)。というのも、そうした諸概念は、その際には何としても単に偶然的なものとなるおそれがあるからである。
    認識の全ての対象は可能的な経験において現われる。この可能的な経験との以上のような根源的な連関無しに、ア・プリオリな諸概念と何らかの客観との連関は全く理解され得ないに違いない。

    ―― No.40101 の続き ---

    〔以下は第一版〔A版〕のみ記載〕
    ◇ しかし、全ての経験の可能性の諸条件を含み、だがそれ自身は心〔Gemuets〕のいかなる他の能力からも導出されない三つの根源的な源泉(魂〔Seele〕の性能乃至は能力)がある。

    ◇ すなわち、感官〔Sinn〔sense〕〕=A構想力〔Einbildungskraft〔imagination〕〕=A統覚〔Apperzeption〔apperception〕〕≠ェそれである。

    ◇ これらに基づいているのは、1) 感官によるア・プリオリな多様なものの通観〔Synopsis(共観、概観)〕=A2) 構想力による多様なものの綜合=Aそして最後に、3) 根源的な統覚によるこの綜合の統一〔Einheit〔unity〕〕≠ナある。

    ◇全てのこれら能力≠ヘ、経験的な使用〔empirischen Gebrauch〕の他、なお超越論的な使用をも持っているが、この超越的使用は専ら形式に関わり、だからア・プリオリに可能である。この超越論的使用について、私たちは、感官に関しては$謔ノ第一部門〔超越論的感性論〕において論じたが、今や他の二つのもの〔構想力、統覚の超越論的使用〕をそれらの本性に関して洞察することに努めていきたいと思う。


    † 原佑訳上巻、p.246参照。 原典はMeiner, p.173〜p.174
    † その他、以下を参照。石川文康 訳 上巻, p.154
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    ]−4 No.40101、]−5 No.40235
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,39943,40101,40235

引用返信/返信 削除キー/
■40232 / inTopicNo.62)  朝の日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/28(Sat) 07:26:58)
    No40231
    > 今思い浮かべているカントの文章(B137)を再掲します。
    >
    > No21485
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p123より引用[ ]は中山元先生の注釈。
    >
    > (カントの文章)
    > 『超越論的な感性論が明らかにしたところでは、〈感性〉による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった[これが第一の原則である]。
    > そして〈知性〉に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがうということである[これが第二の原則である](注)。
    >  直観に含まれるすべての多様なものの像は、それがわたしたちに与えられるという意味では、この第一の原則にしたがうのであり、それが一つの意識において結合されることができるという意味では、この第二の原則にしたがわねばならない。この結合なしでは何ものも考えることも、認識することもできない。というのも、[この結合なしでは]与えられた像は、〈わたしは考える〉という自己統合の意識の働きにまったく与(あず)かることがないし、その働きによって一つの自己意識のうちで総括されることがないからである。』
    > 引用終了

    > あと、最近聞いた教師なし機械学習の「クラスター」という言葉が頭に残ります。(全く詳しくないけど。)
    >
    > 多次元項目で値をつけ、クラスターを発生させると、後は名付けるだけ、みたいな。
    >
    > このクラスターって、(経験的概念の)図式にならないかなって。
    >
    > 対象を経験させて、クラスター発生させて、名付ける場合は、「直観の概念化」かなって。
    >
    > 名前からクラスター経由であてはまる対象を見つけるのは「概念の直観化」かなって。
    >
    > でもって、学習は経験的だけど、項目にアプリオリに量の次元、質の次元、関係の次元、みたいなの、、、あ、項目設定も自律的にできるようなものもあるのだったかな?
    >
    > それだと、根源的獲得、みたいなもんになるのかなぁ
    >
    > まぁまったくでたらめな妄想と思うけど、日記なので書いてみました。


    おはようございます

    量の次元の把握で思いついたことは、自分を基準にして測ると客体の量的な大きさなどが自分の中で位置付けしてクラスターを形成しやすくなるかなと今朝妄想しました。
    大きい、小さい、長い、短い、、、

    仏教の慈経の中の一節の分類を思い浮かべました。

    No40152
    > 生命であるならば何であれ、
    > 動揺するものも、動じないものも、残りなく、
    >
    > 長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
    >
    > 見たことがあるものも、見たことがないものも、遠くに住むものも、近くに住むものも、
    > 生まれたものも、生まれることを求めているものも、
    >
    > すべての生命が《幸せなわたし》でありますように
    > (=生きとし生けるものが幸せでありますように)<

    =======

    仕事残ってるので半日だけ仕事いってきますー( ;∀;)

    でもみんなもっと出勤してるけど m(_ _)m人手不足ですー(・・;)
引用返信/返信 削除キー/
■40231 / inTopicNo.63)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/28(Sat) 01:02:12)
    近頃、時間形式って「順番がつく形式」って考えられないかな?と考えています。

    主観に情報が現れる順番がつく形式と、
    主観情報を悟性で編集して、客体の変化の順番がつく形式。


    今思い浮かべているカントの文章(B137)を再掲します。

    No21485

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p123より引用[ ]は中山元先生の注釈。

    (カントの文章)
    『超越論的な感性論が明らかにしたところでは、〈感性〉による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった[これが第一の原則である]。
    そして〈知性〉に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがうということである[これが第二の原則である](注)。
     直観に含まれるすべての多様なものの像は、それがわたしたちに与えられるという意味では、この第一の原則にしたがうのであり、それが一つの意識において結合されることができるという意味では、この第二の原則にしたがわねばならない。この結合なしでは何ものも考えることも、認識することもできない。というのも、[この結合なしでは]与えられた像は、〈わたしは考える〉という自己統合の意識の働きにまったく与(あず)かることがないし、その働きによって一つの自己意識のうちで総括されることがないからである。』
    引用終了

    -----------------------------------------

    あと、最近聞いた教師なし機械学習の「クラスター」という言葉が頭に残ります。(全く詳しくないけど。)

    多次元項目で値をつけ、クラスターを発生させると、後は名付けるだけ、みたいな。

    このクラスターって、(経験的概念の)図式にならないかなって。

    対象を経験させて、クラスター発生させて、名付ける場合は、「直観の概念化」かなって。

    名前からクラスター経由であてはまる対象を見つけるのは「概念の直観化」かなって。

    でもって、学習は経験的だけど、項目にアプリオリに量の次元、質の次元、関係の次元、みたいなの、、、あ、項目設定も自律的にできるようなものもあるのだったかな?

    それだと、根源的獲得、みたいなもんになるのかなぁ

    まぁまったくでたらめな妄想と思うけど、日記なので書いてみました。

    おやすみなさい〜
引用返信/返信 削除キー/
■40177 / inTopicNo.64)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/12/22(Sun) 10:47:48)
    2024/12/22(Sun) 10:51:17 編集(投稿者)

    田秋さん、おはようございます(^○^)

    No40176に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます、pipitさん
    >
    > 最近の温暖化による冬の遅れや秋がない(?)という気候からするとあながち「悟性のミス」とも言えないのではないでしょうか。
    >
    > 既成観念に捕らわれない「感性に正直」感の現れとも言えます。
    >
    > この写真を何の情報もなしに見ると「秋」です、ボク的には。

    そうですね、既成観念がもう通用しないのかもしれませんね。

    無常ですねーΣ(・□・
引用返信/返信 削除キー/
■40176 / inTopicNo.65)  Re[11]: 日記
□投稿者/ 田秋 -(2024/12/22(Sun) 10:26:14)
    おはようございます、pipitさん

    最近の温暖化による冬の遅れや秋がない(?)という気候からするとあながち「悟性のミス」とも言えないのではないでしょうか。

    既成観念に捕らわれない「感性に正直」感の現れとも言えます。

    この写真を何の情報もなしに見ると「秋」です、ボク的には。
引用返信/返信 削除キー/
■40175 / inTopicNo.66)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/22(Sun) 10:14:49)
    No40173の写真、仮に9-11月を「秋」と定義づけると、
    12月にとった写真だから、秋の写真じゃないのに、pipitは秋の写真と判断して、akiってファイル名つけちゃったんだよねー。

    カント的に言えば、pipitの悟性のミス?!

    fuyu
引用返信/返信 削除キー/
■40173 / inTopicNo.67)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/22(Sun) 09:29:56)
    2024/12/22(Sun) 09:44:31 編集(投稿者)

    ふと。
    「表象」を「情報」と仮に読んだらどうかなぁと思いました。

    感性で受動的に得た「情報」と、
    悟性で能動的に(情報と情報の位置付けをした結果としての)「情報」。

    「情報」が現れた時に、「情報を受けたわたしというひとがいる」という位置付け方式を根本に、あらゆる位置付けを行い、新たな「情報」の体系を作成するのが悟性や理性。

    客観的認識に至る『判断』(情報と情報の結びつけたかた)を全て知性能力の仕事に属させてるのが、カントなのかなぁと思いました。
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■40111 / inTopicNo.68)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/12/16(Mon) 19:58:25)
    2024/12/17(Tue) 07:15:41 編集(投稿者)
    2024/12/16(Mon) 22:05:12 編集(投稿者)

    やー、こんばんは〜(⌒∇⌒)

    No40109
    >添付してくれた写真、
    たぶんだけど、
    「これ、カエル」って思った(判断した、認識した)んじゃないかしら(わたしもそうだけど)。<

    スマホで写真とってるんだけど、最近スマホのアルバムで写真を判断してマークが出てくるんだよ。(出ない写真もあるよ)
    昨日投稿した写真も、今回投稿する写真も、爬虫類マークがでてくるの
    (◎_◎;)

    どう判断してるのかなって。
    スマホも、写真の映像から「これ、爬虫類」って判断してるみたい。

    ボク、両生類、とも、
    ボク、カエルくん、もカエル本人は思ってないかなー(^◇^;)

    知識とかにしばられすぎんでもいいのかなーって気持ちに今すこしだけなったよー
    知識は知識をつくる側にある、という側面があるんだなー、と、改めて思いました。


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■40109 / inTopicNo.69)  Re[7]: カント的直観についての記述
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/16(Mon) 18:59:59)
    pipiさま、お邪魔しま〜す。

    No40105、引用してもらったとこ、わたしがいま考えてることに参考になりました。ありがとございま〜す。これについては思考中なんだけど、後で言表できるようになったらわたしのとこで書いて見るね。

    >延長と形態が純粋直観に属し、というのよくわからないな延長と形態が純粋直観に属し、というのよくわからないな<
    そうなのよね〜、わたしもそう。今これも調べてるとこ。

    添付してくれた写真、
    たぶんだけど、
    「これ、カエル」って思った(判断した、認識した)んじゃないかしら(わたしもそうだけど)。

    そいうと問題にしてるじゃないかしら? 哲学者って。













引用返信/返信 削除キー/
■40107 / inTopicNo.70)  おはようございます日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/16(Mon) 07:20:16)
    2024/12/16(Mon) 07:34:03 編集(投稿者)
    2024/12/16(Mon) 07:31:59 編集(投稿者)

    自分が動くことで、空間というものをはじめて知れるかなぁ????
    それか、動かなくても、修行したなら、心の内にある外を感じる形式として、無限の空間を認識することが可能かな???

    仏教の禅定の一つとして、『無色界の禅定』というのがあるみたいで、空無辺処(くうむへんしょ)禅定というのが、カント哲学の形式としての空間の認識とならないかなぁ???と、思いつきました。

    wiki『禅定』より抜粋引用
    『無色界の禅定
    無色界の禅定(略)は4段階がある[9]。これが、四無色定(四空定とも)で、さらに想受滅に至ることで九次第定となる[12]。まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、この段階に至った修行者は触覚、視覚、物質的な構成要素において微細なものからも完全に離れる修行をするといわれている[13]。無色界の定は以下の順に深まる[9]。
    5. 空無辺処(くうむへんしょ[14])- 漢訳で無限の空の領域の意味。
    6. 識無辺処(しきむへんしょ)-漢訳で無限の識の領域の意味。とらえられるべき対象はないことを修行するといわれている[13]。
    7. 無所有処(むしょうしょ)- 漢訳で有る所が無い領域の意味。微細な対象がいまだあるといわれている[13]。
    8. 非想非非想処(ひそうひひそうしょ)- 漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が有頂天である[13]。』
引用返信/返信 削除キー/
■40106 / inTopicNo.71)  あらこんな時間日記
□投稿者/ pipit -(2024/12/16(Mon) 01:08:40)
    2024/12/16(Mon) 07:01:49 編集(投稿者)

    まぁ、現代知識で考えたら、

    対象を一つの縁として神経で受けた刺激から触発され出現した表象、
    その表象は、刺激を受けた本人の外のものとして位置を持たされる、というのは

    不自然ではない印象は受けるけど

    おやすみなさいー(-_-)zzz
引用返信/返信 削除キー/
■40105 / inTopicNo.72)  カント的直観についての記述
□投稿者/ pipit -(2024/12/16(Mon) 00:52:33)
    2024/12/16(Mon) 07:03:40 編集(投稿者)

    皆様こんばんは!カントの直観についての記述の一部を純理の感性論から抜粋引用しました。
    (感性論の後の超越論的論理学ではまた別の記述が出てくると思うのですが…
    ひとまず感性論からの記述だけでも抜粋引用します。)


    『純粋理性批判』宇都宮芳明先生監修、以文社
    p75より抜粋引用
    (カントの文章・鈴木恒夫先生訳)

    『認識がどんな仕方で、またどんな手段によって、対象に関係するにせよ、認識がそれを通じて対象に直接関係し、またあらゆる思考がそれを手段にしようと企てるのは、直観である。(略)われわれが対象によって触発されるという仕方で表象を受け取る能力(受容性)を、感性という。したがって、感性を介してわれわれに対象が与えられ、感性だけがわれわれに直観を提供する。

    (略)

    われわれが対象によって触発されるとき、対象が表象能力にたいして及ぼす結果が、感覚である。感覚を通して対象に関係するような直観は、経験的[直観]と言われる。経験的直観のまだ規定されていない対象は、現象と言われる。

     現象において、感覚に対応するものを、私は現象の質料と呼ぶ。だが、現象の多様なものがある種の諸関係において秩序づけられうるようにするものを、私は現象の形式と呼ぶ。そのなかでだけ感覚が秩序づけられ、ある種の形式へともたらされることができる当のものは、それ自身ふたたび感覚であることはできないのだから、あらゆる現象の質料はわれわれにア・ポステリオリにのみ与えられるにしても、現象の形式はしかしながら、総じてあらゆる感覚にたいして、心のうちにア・プリオリに用意されていなければならない。(略)

    感覚に属するものが何もみとめられないような表象をすべて、私は純粋(超越論的意味で)と呼ぶ。(略)感性のこの純粋形式は、それ自身また純粋直観と呼ばれるであろう。それで、私が物体の表象から、悟性がそれについて思考するもの、すなわち実体、力、分割可能性等を切り離し、同様にそのなかで感覚に属するもの、すなわち不可入性、堅さ、色等を切り離すとしても、この経験的直観にはまだあるものが残っているのであって、それはつまり、延長と形態である。両者は純粋直観に属し、この純粋直観はア・プリオリに、感官ないし感覚の現実の対象がなくとも、感性のたんなる形式として心のうちに生じるのである。

    (略)
    われわれは外官(われわれの心の固有性の一つとしての)によって、諸対象をわれわれの外にあるものとして表象し、したがって諸対象をことごとく空間のうちにあるものとして表象する。空間の中で、諸対象の形態、大きさ、そして相互の関係が規定される、ないしは規定されうる。(略)

    空間は外的経験から抽出された経験的概念ではない。というのは、ある種の諸感覚が私の外にある或る物と(すなわち、私が存在しているのとは異なった空間の場所にある或る物と)関係づけられるためには、同様にまた、私がこれらの感覚をお互いの外に併存しているものとして、したがってたんに異なっているだけでなく異なった場所にあるものとして表象できるためにも、空間の表象がすでに根底に存していなければならないからである。』
    (B37,38)

    =====================

    (pipit雑感)

    pipitは、部屋の中をぼーっと見てるけど、いろんな色が、私の外にあるものとして表象されてて、その色は、私の外にある対象物の色として私に意識されている。
    表象される色はそれぞれ私から見た位置を持っている。
    位置をもつためには、可能な範囲があるなぁ
    シマウマだったらもっと範囲が広いのかな。
    自分が右を向くと、右端にあったピンク色が真ん中に移動して、私がもっと後ろを振り返ると、ピンク色を私の表象空間の左端に現わすことができる。
    ピンク色の位置がかわる。
    感覚を位置づけることが可能で、座標も変更可能。
    感覚が現れることができるこの土台をカントは純粋直観と言っているのかなぁ

    >同様にそのなかで感覚に属するもの、すなわち不可入性、堅さ、色等を切り離すとしても、この経験的直観にはまだあるものが残っているのであって、それはつまり、延長と形態である。両者は純粋直観に属し、この純粋直観はア・プリオリに、感官ないし感覚の現実の対象がなくとも、感性のたんなる形式として心のうちに生じるのである。<

    この、延長と形態が純粋直観に属し、というのよくわからないな。
    色が無くなっても、皮膚感覚がなくなっても、三角形のイデア、みたいなかんじで、心の内で、外にある物として延長と形態が残るとカントは考えたのかなぁ。そんなの思考や妄想に属さないのかなぁ??
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