| No40360 > 今夜カント先輩の衝撃の一言を目にしました! (;゚Д゚)(゚Д゚; ) > > >私がひとたび純粋悟性概念を手に入れるなら、たしかに私は、おそらく不可能な諸対象をも、おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられえない諸対象をも考え出すことができる。〔原佑訳 上, p.251〕 > > (;´・ω・)恐るべしカント沼<
カント先輩は確か形而上学の教授だったような??違うかったかな?
> 第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】 > > ◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属すこともなく、可能的な経験の諸要素から成り立ってもいないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。 > 何故なら、その概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。 > 可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。 > > ―― No.40347 の続き --- > > ◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念〔reine Begriffe a priori〕があるならば、それはなるほど何一つ経験的なもの〔Empirisches〕を含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。<
概念の実在性が可能的な経験に基づくということ??? それで、純粋悟性概念の正当な使用範囲は経験的な領域に限界づけられているという論旨なのかなぁ。
> ◇ だから、いかにして純粋悟性概念〔reine Verstandesbegriffe〕は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だからたとえ現象の全ての経験的なものを捨象しよう〔abstrahieret〕とも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。 > > ◇ 経験のこうした形式的に客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。<
ぉ!うましかさんがびっくりしてたところだー (^O^)!
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