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■40146 / inTopicNo.1)  Re[96]: つれづれなるままに 16
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/20(Fri) 19:09:58)
    ま、それがいいのかもね
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■40145 / inTopicNo.2)  Re[95]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/20(Fri) 19:07:15)
    あ、Ok見たい。
    添付が「エッチティティピー」になってるのなかな?
    ってすると〜、わたしの、添付できないっていうこと?
引用返信/返信 削除キー/
■40144 / inTopicNo.3)  Re[94]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/20(Fri) 19:05:24)
    添付したのがいけなかったのかな?
    じゃ添付ナシのを。

    No40142の(q)については、ひとまず、になったところで、

    メルポンの「世界における(への)存在」をわたしなりに図式にして見たの。
    前に添付できなかったの、新しく作ってみたので、もういちど添付して見る。


引用返信/返信 削除キー/
■40143 / inTopicNo.4)  Re[93]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/20(Fri) 19:01:04)
    エッチティティピーは使えません。って出てきちゃった。

引用返信/返信 削除キー/
■40142 / inTopicNo.5)  Re[92]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/20(Fri) 18:27:16)
    わたしがカントの『純粋理性批判』を見ることになった始まりは、
    No39061
    カント解釈のなかで、カントのは概念主義なのか非概念主義なのか?(q)っていう問題があるらしくて、
    資料
    No40052
    を読んでるところなんだけど。

    (資料f)から、
    ・C―――――――――――――――――
    カントは『純粋理性批判』(以下、『批判』)において、直観と概念という、認識を構成するふたつの要素を挙げ、両者の役割ははっきりと区別されるべきだと述べている(A50-2/B74-6)。他方で、「純粋悟性概念の演繹について」(以下、「演繹論」)では第 1 版・第 2 版のどちらにおいても、直観における多様なものに統一を与えるという役割が概念に与えられ、カントは直観の概念への何らかの意味での依存について語っているように見える(A106 ならびに B164 など)。カントが直観と概念の独立性を強調する一方で、他方では直観の概念への依存について論じているというこの事態は、矛盾しているとは言わないまでも少なくとも説明を要するものであり、この説明を与えることは『批判』解釈におけるひとつの課題である。
    ―――――――――――――――――――
    (本a)から、
    ・D――――――――――――――――――
    カント解釈を舞台に、直観的表象と概念的表象をめぐる論戦の火ぶたが切られたのである。しかしながら、議論が進展していくと、マクダウェルとハナは、基本的な立場を維持しながらも、従来の論拠を修正したり、あるいは、自分の理解の難点を認めたりもしている。両者は、議論を通じて、歩み寄り始めたのである。興味深いことは、この歩み寄りが、どこに向かうかである。
    ―――――――――――――――――――
    そして、
    ・E――――――――――――――――――
    現代の論争は、どのような地点に向かっているのか。従来の研究は、認識の構成要素の「孤立化」(A22/B36,A62/B87)という方法に依拠し直観と概念の区別から出発している。この区別そのものは、もとより正当であるが、現代の論争ではこの両者の区別が、直観あるいは概念の二者択一の議論に変容している。しかし「内容のない思想は空虚であり、概念を欠いた直観は盲目である」(A51/B75)というカントの標語から明らかのように、議論のポイントは、両者の区別を踏まえた関係づけにある。
    ―――――――――――――――――――

    こういうのから、
    「概念主義か非概念主義か」ではなく「概念主義と非概念主義」へ、
    そして
    直観と概念は区別されるけれど、その”関係”を見ようとしている。
    っていう方向になってるんだと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■40110 / inTopicNo.6)  Re[91]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/16(Mon) 19:19:59)
    ふと、

    「法」ってなあに?
引用返信/返信 削除キー/
■40096 / inTopicNo.7)  Re[90]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 17:46:04)
    No40092のつづき
    ようするに〜、
    「純粋直観」の「直観」っていうのは、「経験的直観」の「直観」じゃない、ってうことなんじゃないかな〜?

    わたし、〈感性〉っていうのを〈感覚-知覚〉ってしてるんだけど、「純粋直観」の「直観」っていうの、わたしが思ってるような〈知覚〉じゃないっていうことは言えそうね。

    No40084で、
    「直観」=「感性」
    No39480の(3)で、
    「直観」=〈知覚〉
    ってして見たんだけど、こうして見ただけじゃカントの場合ダメなのかも。

    わたし、うすうす思ってることなんだけど、
    カントの場合、
    「経験的直観」っていうのは、〈感性-知覚〉のことを言ってて、「純粋直観」っていうのは、〈感性-知覚〉とは独立した〈思考(純粋悟性)の中だけ〉から生み出されている「素材」みたいなものをいってるのかも?
    簡単に見ると、「経験的直観」の「直観」は〈感性-知覚〉のなかでのこと、「純粋直観」の「直観」は〈思考〉のなかでの「直観」のこと、っていうふうになってるんじゃないかしら?って。

    ん、日訳の問題?
    じゃなくて、カントが「経験的intuitus」、「純粋intuitus」っていってるんだったら、日訳の問題じゃないかもね。

    カントの言う、「素材」っていうの、たとえばどんなの? って解読中〜。



引用返信/返信 削除キー/
■40092 / inTopicNo.8)  Re[89]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 15:19:40)
    まだ、直観と概念の関係にたどりつけない〜(* *;) カントのめんどうなのよね〜。

    ここまでのをちょっと整理すると、
    カントの場合、
    @人間の「認識」を構成(総合)するものとして、まず「「直観」と「概念」に分けて(区別して)、
    A「直観」を構成(総合)するものとして、「経験的直観」と「純粋直観」に分けて(区別して)、
    B「経験的直観」を「知覚」としてる。
    ここまではだいたいあってるかな。

    わたしの問題は、まだ、「経験的直観」と「純粋直観」の関係、または「知覚」と「純粋直観」の関係、になってる。

    「経験的直観」=〈感性-知覚〉でいいと思うんだけど、
    じゃ、カントの言う「純粋直観」っていうの、どういうの?

    カントの言う「純粋」っていうのネットで調べたら、
    純粋理性(ジュンスイリセイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
    https://kotobank.jp/word/%E7%B4%94%E7%B2%8B%E7%90%86%E6%80%A7-529984
    に、
    ―――――――――――――――――――
    デジタル大辞泉
    《〈ドイツ〉reine Vernunft》カント哲学で、最広義には、経験から独立した先天的認識能力および先天的意志能力。広義には、経験を可能ならしめる先天的認識能力。狭義には、概念・判断・推論の能力。最狭義には、推論の能力。→実践理性

    精選版 日本国語大辞典
    〘 名詞 〙 ( [ドイツ語] reine Vernunft の訳語 ) カント哲学で、経験に先立ち感覚表象と無関係に事物を先天的(ア・プリオリ)に認識する能力をいう。悟性と区別された最高の認識能力で、悟性の加工をうけたものを統一化し体系化していく働きをする。⇔実践理性経験から独立した(感覚表象と無関係に)、先天的(ア・プリオリ)な認識能力。しかもこの認識能力が、経験を可能にしている
    ―――――――――――――――――――
    ってあった。

    カントの言う「純粋」っていのを、
    事物を「認識」するとき、「経験的直観〈感性-知覚〉」とは独立した(先立つ)、先天的(ア・プリオリ)もの。しかも「経験的直観〈感性-知覚〉」を可能にするもの。
    ってして見とく。

    (本a)の中に、
    ・B―――――――――――――――――
    純粋総合の第一契機は、純粋直観のア・プリオリな多様であり、それは経験的要素を一切含まない、純粋な種類の内容(素材)を意味する。(p10)
    ―――――――――――――――――――
    ってあった。

    こういうのと
    No40086 のAのもまとめて見ると、

    カントの言う「純粋直観」っていう「直観」は、
    事物を「認識」するとき、「経験的直観〈感性-知覚〉」とは独立した(先立つ)、先天的(ア・プリオリ)もの。しかも「経験的直観〈感性-知覚〉」を可能にする「素材」のこと。

    ってひとまず見とくことにする。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■40086 / inTopicNo.9)  Re[88]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 14:26:46)
    No40084 のつづき、
    No40053を見ながら、

    No40052 の(本a)に、
    〔経験的直観(知覚)〕ってあった。
    カントの場合、「経験的直観」っていうのが「知覚」のことを指してる、ってして見ることにした。

    じゃ、「純粋直観」っていうのはなに?ってなって、

    (資料e)で、
    ・A―――――――――――――――――
    対象を直感しつつ規定する純粋な働きとしての「純粋直観」は、感性的経験的直観を構成するエレメントでさえある。というのは、感性的経験的直観は、「感覚」を通して対象と関係するが、この対象、すなわち「現象」は、これを直観することによりこれを出現させつつ規定する純粋な働き(純粋直観の働き)がなければ生じない、からである。
    ―――――――――――――――――――
    っていうことみたい。

    ここにある〔感性的経験的直観〕っていうのは(本a)にあった「経験的直観」でいいと思う。

    やっぱ、カントの場合、「直観」といっても、「経験的直観」と「純粋直観」に分けて見てるみたい。

引用返信/返信 削除キー/
■40084 / inTopicNo.10)  Re[87]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 12:21:41)
    No40083で、わたしの「理性」の意味ができたところで、

    No40081の@のをもうちょっと。

    「認識」なんだけど、
    わたしのばあい、「意識」と「認識」は区別してて、「認識」っていうのを〈物事を正しく理解し、判断すること〉ってして、意識のなかの一つの能力ってして見てる。

    カント、「認識」を大きく、「感性」と「悟性」に分けて見てるみたい。
    あと、
    No40053で添付した図で見たように、
    「認識」を構成(総合)するものとして「直観」と「概念」っていうことから、
    「直観」を「感性」ってして見てもいのかな。
    「概念」を「悟性」によるもの、ってして見てもいいのかな。

    わたしのばあい、「悟性」を「理解」ってして見て、「理解」は「思考」の働き、ってして見てる。「概念」っていうのを、
    No39480の(1)のようにわたし見たなかでは、〈思考-概念〉の方のこと、っていうことになるかな。

    わたしのと絡めて、おおざっぱに、まずこうして見とく。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■40083 / inTopicNo.11)  Re[86]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 11:10:48)
    No40081のなかに、「理性」っていう語ある。
    「語」の意味なんだけど(日本語で考えてるよ)、

    No39235で、
    (u-A)「理解」=〈分けが分かる〉こと。
    ってしたんだけど、

    「わかる」をネットで調べたら、
    https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-59/
    っていうのあった。「わかる」っていうの、漢字で、「分かる」「判る」「解る」って書くみたい。
    ―――――――――――――――――――
    「判る」は「物事がそれと判別・判断される」
    「解る」は「物事の意味、内容、価値などが理解できる。」
    「分かる」という漢字表記では、「判る」「解る」のどちらの意味も網羅することができます。
    ―――――――――――――――――――
    っていうことから、
    (u-A)を、
    (u-A’)「理解」=〈分けが解る〉こと
    こうした方がいいかも、って。
    でね、
    「理」=〈分ける〉こと
    ってして見たらどうかしら、って。
    そうすると、
    (r-A)「理性」=〈分ける性(さが)〉あるいは〈分ける能力〉
    みたいになるのね。

    (a-A)一般的に、人には、世界を〈分ける能力〉(理性)が、生まれつき備わっている。

    ん〜ん、だいぶわたしに分かりやすく簡単に出来た感じ。

    No40053で見たようなこと、
    カントは、「類は表象一般(repraesentatio)である」って言ってる。「類」っていうのを「分類」、簡単に〈分け〉って見るのね。
    まず〈分け〉として「表象一般」ってして、そのなかでいろいろ〈分け〉て、それらを秩序づけている、っていうふうにも見れる。
    人間がもってる「理性(分ける能力)」によって、カントの場合、No40053のように「理〈分け〉」した、っていうふうにも見れる。

    こういうふうにして見ると、カントの『純粋理性批判』は、《純粋な〈分ける能力〉の批判》っていうふうにして見ることになる。
    わたしのばあい、「批判」っていうのを、〈鵜呑みにせずよく吟味すること〉ってしてる。
    ってすると、「純粋」っていう語が問題なのね。「純粋理性」とも言ってる、カントのいう「純粋」っていうの、どういう意味で使ってるの?っていうこと。
    これについてはまた後で。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■40081 / inTopicNo.12)  Re[85]: つれづれなるままに 16
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/12/15(Sun) 09:07:41)
    No40053 添付できてよかった〜
    「認識」のカッコ内間違ってて「cognitio」だった、ごめん。

    しばらくカントの『純理』、「直観と概念」を見てくことになるんだけど、

    添付した図を見ながら、
    No40052の資料のなかからいくつか書いて見てく。

    (資料b)から、
    ・@―――――――――――――
    『純粋理性批判』は, 「私〔カント〕がこの純粋理性批判において意味することは,書物や体系の批判ではなくて,理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関して,理性能力一般を批判することである」 (AXII)という意味において, 「純粋理性の批判」(Kritik der reinen Vernunft)である.だが,純粋理性がそれ自身認識能力としてあるべき限り,理性能力一般を批判することは,同時にそれによって可能となるべき「認識の起源,範囲及び客観的妥当性を規定する学」 (A57, B81)という性格を帯びることになり,その意味でF純粋理性批判』は「認識批判」 (Kritik der Erkenntnisse)とも言いうるであろう(A57,B81).
    ――――――――――――――
    っていうこととして、
    簡単に、カントの『純理』は、〈人間の「認識」能力〉について考えてる、ってして見る。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/

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