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■38151 / inTopicNo.73)  Re[28]: つれづれなるままに 15
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/08/04(Sun) 11:07:38)
    今回のわたしの物語り、
    No37109を読んでたなかで、わたしに思われたの、もう少し。

    No37109の資料(5)のなかに、
    (E-3) ------------------
    原-自我は「時間的に延長されたものではなく」(Ibid.,S.280)、それゆえ流れ去ることもない。「“立ち止まりかつ留まり続ける”」(Ibid.)自我である。・・・・この「立ち留まり」性は、いかなる時間様態でもない。それは無時間性・先時間性を暗示する言葉である。
    ------------------------
    ってあったのね。
    でね、
    *〔原-自我〕を〈自〉ってして見て、
    *〔自我〕を、〔原-自我〕という自我として見て、すなわちこの〔自我〕も〈自〉のことってして見て、
    見ると、
    (E-3-A) ----------------
    〈自〉は「時間的に延長されたものではなく」、それゆえ流れ去ることもない。「“立ち止まりかつ留まり続ける”」〈自〉である。・・・・この「立ち留まり」性は、いかなる時間様態でもない。それは無時間性・先時間性を暗示する言葉である。
    ------------------------
    これからわたし思ったんだけど、簡単に、
    〈自〉は無時間性、ってして見てもいいかな、って。

    No37598で見たようなこと、
    〔未来予持は裏返しにされた過去把持〕とか、わたしがちらっと思った〈pro-を作ってるのはpre-〉みたいに、〈自〉においては、過去も現在も未来も無い、っていうか、こういうのが絡み合ってる場、みたいな?

    「“立ち止まりかつ留まり続ける”」っていうの、資料(6)の中にも書いてあったので、一部書き出して見ると、
    (Y-6) ----------------------
    ・・・・生き生きした現在の具体的な体験の持続から、形式的特性を抽象して、フッサールの時間化を一方的に形式的と規定すると、時間化と内容の不可分離性の意味を見失うことになる。時間化は、たえず具体的であり、持続しており、まさにその意味で「立ち留まり」、「流れて」いる。しかし、この「立ち留まり、流れる」というのは、決して単なる形式的規定なのではない。この立ち留まるということは、連合的覚起に条件づけられた時間内容を通じてのみ、立ち留まりうるのであり、この内容が同時に今とおい形式を生みだすのっであって、その逆ではない。…‥
    ----------------------
    ってあった。
    ここについて、そこはかとなく、書くと、
    〔生き生きした現在の具体的な体験の持続〕っていうところ。
    たぶん、現象学では「世界」っていうのは「生活世界」のことで、メルポンの言う「世界における(への)存在」っていうのを〈生活世界における(への)存在としての私〉って見ると、〔生き生きした・・・具体的な〕ってなるし、〔現在の・・・持続〕っていうのは「内的時間意識」のことのように思える。
    あと、
    a.昔の写真を見てる時。あの時あの場所の体験を想い出してる今。今、この場所で、私の意識はあの時(過去)になってる。
    b.今、これ、が、過去、あの、とが連合(類似と対比)的に覚起される。
    こんなこと。この二つは異なる状況で見てるんだけど、なんとなく浮かんだのだけの。

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■38142 / inTopicNo.74)  Re[27]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/08/03(Sat) 14:21:27)
    物語りつづけるよ、暑くて頭まわんないけど

    No38073 のつづき

    No37496の(a-q),(b-q)、この問いは、
    No30710のラカンの鏡像段階から、
    (a) 乳幼初めの頃は、〈(私の)自〉は、〈(私の)体〉があることに気づいてない。
    (b) 乳幼初めの頃は、「私の」と「他者の」の区別がなく、自他未分化、自他癒合の状態。
    ってして見た場合の話しね。
    ではなくて、生まれたときからすでに「私」は〈自+体〉を知っていて、自他の区別が出来てる、ってして見てる場合は関係ない話しになるかもね。

    ちなみに、No38073のように見たことから、ラカンの鏡像段階のと結びつけて見て、
    No37491のいまのわたしの簡単なまとめみたいになるかもだけど、
    --------------------
    乳幼の頃(生後6ヵ月〜18ヵ月頃)に、〈(私の)自+体〉が覚知されて初めて、自身が映った鏡を見たとき(〈私の〉自)が〈(私の)体〉を見たとき)、「ああ、そうか!」(3)が発生されるのね。でもまだ〈(私の)自+体〉が構成されてない〔一歳以下の乳児は鏡を見せられてもそれに対して他者のようにふるまう〕(1)。
    でも、自身が映ってると思われる〔この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。・・・・・一方、自我とは、その上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。〕(6)
    --------------------
    こんな感じになるかな。

    一般的に、生後2歳ぐらいには、〈自+体〉の構成、〈自他の区別〉が“自然と(ひとりでに)”成されてる、ってしてしたとき、ふつうに大人になってる人たちにとっては、自明のこととしてかたづいてることだから、わざわざこういうこと、考える必要はないことなのかもだけどね。


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■38112 / inTopicNo.75)  Re[26]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/08/01(Thu) 18:39:11)
    科学的進歩によって核兵器が開発されたのよね。

    めでたしめでたし。
引用返信/返信 削除キー/
■38111 / inTopicNo.76)  Re[25]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/08/01(Thu) 18:19:29)
    そこはかとなく

    「マイナンバー制度」、ネットで調べたら、
    http://bandou-law.cocolog-nifty.com/avocatban_/2015/10/post-4feb.html
    っていうのあった。

    通帳と保険証を紐づけすることによってマイナンバーカード作ることによって、ポイントもらいたかった人にとっては、関係ない話しね。

    科学的進歩によってこういうことができ来ることが可能になるのうよね〜、っていう確信犯の仕業とその手口は、さすがね。


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■38095 / inTopicNo.77)  Re[24]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/31(Wed) 19:39:40)
    そこはかとなく、

    「シュレーディンガーの猫」、
    わたしがネットで調べたのは、
    https://nazology.net/archives/107875
    ま、これはいいわ。

    でね、猫の代わりにわたしが入ってる、っていうのを考えて見たのね。
    で、観察者は、わたしじゃなくてどこの誰なのかわたしが知らない「他者」なのね。ん?シュレーディンガーでもアインシュタインでも誰でもいいわ。

    わたし、箱の中に閉じこめられて、わたしが生きるも死ぬも、その装置によって決められちゃうのね。

    さっすが〜、優秀な頭脳を持ってる人は違うわね。わたしの生と死を科学的に見ることができる、って確信を持ってるんだから。

    科学が全くダメなわたしのような人から見たら、そういうヒト科を「確信犯」とでも呼ぼうかしら?





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■38073 / inTopicNo.78)  Re[23]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/30(Tue) 18:13:29)
    なんかいろいろ考えてみたけど、
    No37496の(a-q)について、わたしに思われたのをまとめて見ると、

    (KT-A) ------------
    No37562のように、
    (K-a)キネステーゼ(運動する感覚)は〈自〉に現れ、これによって〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びついてる。
    こういうなかで、
    No38072 のように、
    (T-a)〈感知性〉(受動的総合)の内的時間意識の働きによって、〈(私の)自〉は、たとえば、5分前の作用と3分前の作用を意識の流れのうちで持続した”同じ一つの〈(私の)自と体〉”として覚知されるようになっていく。

    このようにして〈(私の)自+体〉が構成されていく。
    --------------------

    こういうのが (a-q)への、現象学のからわたしに思われた物語りね。

    そして、(KT-A)が
    No37456の、@へ、つながって、
    そして、
    〔「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕

    なんじゃないかな。 現象学の場合。

    「私」の発生について、乳幼の頃に遡って(たぶん「現象学的還元」)そのうちで見て、現象学の(たぶん「発生的現象学」)から、わたしなりに見えてきたものね。
    このようなことが乳幼の頃(生後6ヵ月〜18ヵ月頃)に起こってる、ていこうこと、かもね。

引用返信/返信 削除キー/
■38072 / inTopicNo.79)  Re[22]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/30(Tue) 18:07:14)
    今は、
    No37496の(a-q)について、「内的時間意識」がどう絡まってるのかを見ようとしてたんだけど。
    これについて書かれてあるとわたしに思われたのが、
    No38049の最後の方の(d-A)のところだったのね。
    あ、逆かな?(d-A)のところから(a-q)に「内的時間意識」かかわるのね、ってわたし思ったんだと思う。
    で、簡単に、

    (T-a)〈感知性〉(受動的総合)の内的時間意識の働きによって、〈(私の)自〉は、たとえば、5分前の作用と3分前の作用を、意識の流れのうちで持続した”同じ一つの〈(私の)自と体〉”として覚知されるようになっていく。

    っていうふうに見ることになったよ。

引用返信/返信 削除キー/
■38056 / inTopicNo.80)  Re[21]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/28(Sun) 17:50:22)
    ある子どもが死んだ。

    その死んだ子どもが発見されるまで、死んでいたのか生きていたのかは”分からない”。
引用返信/返信 削除キー/
■38049 / inTopicNo.81)  Re[20]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/27(Sat) 20:31:45)
    No38017のつづき
    (E-2A)の用語のわたしの見方でいろいろ考えて見たんだけど、
    *「自我」を〈考えることする自〉あるいは〈自のうちにある考えること〉ってして見てるんだけど、〈考えること〉以外の〈自〉っていうのもある、っていうことね。
    *現象学では、
    No36070で見たように、「ノエシス」と「ノエマ」を区別してるみたいだから、
    〈自〉、〈自〉のなかにある〈考える作用(ノエシス)〉、〈考えられたもの(ノエマ)〉、これらを区別して見て。
    *「内的時間意識」っていうのは、
    No37595のようにして見て。

    こういうのを踏まえながら、(E-2A)から、次のような物語を作って見た。
    (E-2AA)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (a-A)
    〈自〉によって遂行される〈自〉のうちにある〈考える作用〉(あるいはそれによって〈考えられたもの〉)は、〈現(原印象)〉においてそのつど新たに「生じて」は「消え去って」ゆく。
    (たとえば、なにか考えてるとき、ふと思われたことがあって、でもそれを忘れちゃうことってある、だから忘れないうちに書いとこ、っていうことあるよね。)
    正確には、〈自〉のうちにある〈考える作用〉が遂行されなくなった後、〈考えられたもの〉は、「把持」という仕方で沈殿してゆく。
    仮に〈自〉もまた、〈自〉のうちにある〈考える作用〉(あるいはそれによって〈考えられたもの〉)のように、新たに生起・消滅するのであれば、〈以前〉の〈考えることする自〉と〈今〉の〈考えることする自〉の間に時間的隔たりがあり、両者は原理的に個別の〈考えることする自〉ということになる。

    その場合、“複数の別々の《私》〈(私の)自と体〉”が存在することになり、後から「反省/自己知覚」を遂行したときに、私〈(私の)自と体〉はみずからを同じ一つのこの私〈(私の)自と体〉〉として同じものとして定めることはできない。

    (b-A)
    ところが実際には、この私〈(私の)自と体〉は、首尾一貫して“同じ一つの私〈(私の)自と体〉”であるという信憑が、いつでもすでに成立している。
    たとえば、「数分前の私」と「現瞬間の私」は、〈同じ一つのこの私〉である、を信用してよりどころとしてることが、いつもすでに成り立ってる。
    (ここ問題となるかもね。「一年前にあそこにいた私」と「今ここにいる私」は〈別の私〉って見る場合もあるかも?)
    では、そのような〈同じ一つのこの私〉である、という同一性・一貫性は“何に由来するのか”、
    ――この問いが、まさに〈考えることする自〉の時間的な統一を生み出してくる起源――受動的総合〈感知性〉の働き――への眼差しを導くわけだが、ここで例の「内的意識」――内的時間意識〈把持-現-予持〉――の機能が際立ってくる。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    こうみたとき、後はだいたい同じなんだけど、
    *(c)の〔当の〈考える〉の主観〕と、(d)〔「同じ一つの」主観〕を、〈自〉として見たよ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (c-A)
    〈五分前〉に〈(私の)自と体〉が遂行した作用と、〈今この瞬間〉に〈(私の)自と体〉が遂行している作用が、後から反省を遂行したときに同じ一つの《この〈(私の)自と体〉》の作用であると信憑されうるためには、〈五分前〉に遂行された作用が、まさにその時点で、他ならぬ〈(私の)自と体〉の作用であるということが前もって暗々裏に気づかれている必要がある。
    ……各々の〈自〉のうちにある〈考える作用〉は、当の〈自〉のうちにある〈自の考える作用〉の遂行が中断されれば消滅してしまうにも係わらず、どの〈考える〉も〈(私の)自と体〉の〈考える〉であると言えるのは、それらが生成しては消滅する個々の〈考える〉を「貫いて」、唯一の「同じ」〈考える自〉〉が、当の〈考える〉の主観である〈自〉として連続的に意識に知られているからに他ならない。

    (d-A)
    こうして、〈自〉は、〈五分前〉の作用と〈三分前〉の作用を共に〈(私の)自と体〉の作用として把握する「同じ一つの」主観である〈自〉として、意識の流れのうちで持続したものとして構成される。それゆえ、〈自〉は、たとえ作用のうちで顕在的に機能していない場合であっても、いわば「隠れた〈考えることする自〉」として、「眠った意識/朦朧とした意識」)に随伴していると考えられねばならない。この「覚醒して」いようが「眠って」いようが、いつでもどこでも同じこの〈(私の)自と体〉の〈考えることする自〉である、という〈自〉の同一性を暗々裏に構成しているのが、他ならぬ内的意識なのである。そして、まさにそれは〈自〉を時間的な拡がりを持ったものとして・・・・・・構成するがゆえに、内的時間意識〈把持-現-予持〉とも呼ばれるのだ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    No37637の、こう見ることによってわたしにはわかりやすくなった感じ。
    なんか長くなっちゃみたいだからきょうはここまで。
    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■38017 / inTopicNo.82)  Re[19]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/25(Thu) 19:30:16)
    No37953のつづき、

    No37637を、
    No37813の見方で、見て見ると、(〈 〉内がわたしの見方ね)

    (E-2A)・・・・・・・・・・・・
    (a)純粋自我〈自〉によって遂行される各々のコギト作用〈考える作用〉は、原印象においてそのつど新たに「生じて」は「消え去って」ゆく。正確には、作用が遂行されなくなった後は、「把持」という仕方で沈殿してゆく。仮に純粋自我〈自〉もまた、そのつどのコギト〈考える〉のように新たに生起・消滅するのであれば、〈以前〉の自我〈考えることする自〉と〈今〉の自我〈考えることする自〉の間に時間的隔たりがあり、両者は原理的に別個の自我〈考えることする自〉ということになる。その場合、“複数の別々の《私》〈(私の)自と体〉”が存在することになり、後から「反省/自己知覚」を遂行したときに、私〈(私の)自と体〉はみずからを同じ一つのこの私〈(私の)自と体〉〉として同定することはできない。

    (b)ところが実際には、この私〈(私の)自と体〉は、首尾一貫して“同じ一つの私〈(私の)自と体〉”であるという信憑が、いつでもすでに成立している。…‥。では、そのような自我〈考えることする自〉の同一性・一貫性は“何に由来するのか”、――この問いが、まさに自我〈考えることする自〉の時間的な統一を生み出してくる起源への眼差しを導くわけだが、ここで例の「内的意識」の機能が際立ってくる。

    (c)〈五分前〉に私〈(私の)自と体〉が遂行した作用と、〈今この瞬間〉に私〈(私の)自と体〉が遂行している作用が、後から反省を遂行したときに同じ一つの《この私〈(私の)自と体〉》の作用であると信憑されうるためには、〈五分前〉に遂行された作用が、まさにその時点で、他ならぬ私〈(私の)自と体〉の作用であるということが前もって暗々裏に気づかれている必要がある。……各々のコギト作用〈考える作用〉は、当の作用遂行が中断されれば消滅してしまうにも係わらず、どのコギト〈考える〉も私〈(私の)自と体〉のコギト〈考える〉であると言えるのは、それらが生成しては消滅する個々のコギト〈考える〉を「貫いて」、唯一の「同じ」自我〈考える自〉〉が、当のコギト〈考える〉の主観として連続的に意識に知られているからに他ならない。

    (d)こうして、純粋自我〈自〉は、〈五分前〉の作用と〈三分前〉の作用を共に私〈(私の)自と体〉の作用として把握する「同じ一つの」主観として、意識の流れのうちで持続したものとして構成される。それゆえ、純粋自我〈自〉は、たとえ作用のうちで顕在的に機能していない場合であっても、いわば「隠れた自我〈考えることする自〉」として、「眠った意識/朦朧とした意識」)に随伴していると考えられねばならない。この「覚醒して」いようが「眠って」いようが、いつでもどこでも同じこの私〈(私の)自と体〉の自我〈考えることする自〉である、という純粋自我〈自〉の同一性を暗々裏に構成しているのが、他ならぬ内的意識なのである。そして、まさにそれは純粋自我〈自〉を時間的な拡がりを持ったものとして・・・構成するがゆえに、内的時間意識とも呼ばれるのだ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    こうして見たんだけど、もうちょっとわたしにわかりやすくしなくっちゃ。

引用返信/返信 削除キー/
■37953 / inTopicNo.83)  Re[18]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/21(Sun) 18:57:00)
    No37939のつづき

    No37939で見たような、
    私の「外にあるもの」と私の「内にあるもの」の関係性じゃなくて、「私」そのもののうちに入ってく、
    No37496の問い、(a-q)と(b-q)。
    わたしこういうのを現象学で言う「発生的現象学」って見てる。

    (b-q)については、
    No37456の@〜Eようにして、「私の」と「他者の」が同時に生成してくる、って見てる。

    そしていま進めてるのは、(b-q)の@にかかわることとして、
    (a-q)
    乳幼の頃(生後6ヵ月から18ヵ月頃)は、〈(私の)自〉は、〈(私の)体〉があることに気づいていない。この様態から、どのようにして、〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びついて、〈(私の)自〉のうちに、〈(私の)自+体〉が覚知されるようになるの?
    っていう問い。

    乳幼の頃は、たぶん、まだ〈より高度に発達した考え(考知性)〉はまだ未熟で、〈感知性〉が主に働いている、ってして見てるんだけど、〈感知性〉(受動的総合)の領域について語ってる、
    No37938の(TK)にあるような「内的時間意識」と「キネステーゼ」に注目して、

    No37562のようなキネステーゼと〈自〉の関係性から。

    これからの物語りは、
    「内的時間意識」の関わりから。
    これについてヒントになると思われたのが、
    No37637ね。

    わたしの物語り、今日のお喋りはここまでかな。

    つづく...

引用返信/返信 削除キー/
■37939 / inTopicNo.84)  Re[17]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/21(Sun) 14:16:18)
    「受動的総合」〈感知性〉での時間――内的時間意識〈把持−現−予持〉ってし見たとき、
    〈感知性〉は〈感-知覚の領域〉だから、
    No36191「現在化/準現在化/共現在化」と、
    「統覚ap-perception」との関係を考えて見た、
    No37439
    と絡めて見て、
    〔知覚対象は単なる現前ではなくつねに付帯現前なのである〕っていうのをわたし倣ってるなかで、
    *〈現〉を(p)として見て――「現在化(perception)」(端的に知覚されてるもの)
    *〈把持〉と〈予持〉を(ap)として見て――「準現在化」(付帯されてるもの・思い込み・記憶や想像)
    *そして、(p+ap)が「統覚(pa-perception)」「共現在化」「付帯現前化」。
    ってして見ると、
    「現前するもの」は、私の内の〈感知性〉の領域で、〈現(p)〉に〈把持・予持(ap)〉がつねに付帯された(p+ap)となってる。
    って見ることもできるかも。
    そして、わたしのばあい、こういうのが〈自〉のうちに現れてくる、って見てる。

    あ、私の外にあるものと私の内に現れるものの関係についての話しになってる。
    フッサールの思考が、私の内に現れるものの「受動的総合」〈感知性〉へ志向していったところで、そういうなかで、わたしの今の問い(a-q)を進めてくことにする。

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