| 今回のわたしの物語り、 No37109を読んでたなかで、わたしに思われたの、もう少し。
No37109の資料(5)のなかに、 (E-3) ------------------ 原-自我は「時間的に延長されたものではなく」(Ibid.,S.280)、それゆえ流れ去ることもない。「“立ち止まりかつ留まり続ける”」(Ibid.)自我である。・・・・この「立ち留まり」性は、いかなる時間様態でもない。それは無時間性・先時間性を暗示する言葉である。 ------------------------ ってあったのね。 でね、 *〔原-自我〕を〈自〉ってして見て、 *〔自我〕を、〔原-自我〕という自我として見て、すなわちこの〔自我〕も〈自〉のことってして見て、 見ると、 (E-3-A) ---------------- 〈自〉は「時間的に延長されたものではなく」、それゆえ流れ去ることもない。「“立ち止まりかつ留まり続ける”」〈自〉である。・・・・この「立ち留まり」性は、いかなる時間様態でもない。それは無時間性・先時間性を暗示する言葉である。 ------------------------ これからわたし思ったんだけど、簡単に、 〈自〉は無時間性、ってして見てもいいかな、って。
No37598で見たようなこと、 〔未来予持は裏返しにされた過去把持〕とか、わたしがちらっと思った〈pro-を作ってるのはpre-〉みたいに、〈自〉においては、過去も現在も未来も無い、っていうか、こういうのが絡み合ってる場、みたいな?
「“立ち止まりかつ留まり続ける”」っていうの、資料(6)の中にも書いてあったので、一部書き出して見ると、 (Y-6) ---------------------- ・・・・生き生きした現在の具体的な体験の持続から、形式的特性を抽象して、フッサールの時間化を一方的に形式的と規定すると、時間化と内容の不可分離性の意味を見失うことになる。時間化は、たえず具体的であり、持続しており、まさにその意味で「立ち留まり」、「流れて」いる。しかし、この「立ち留まり、流れる」というのは、決して単なる形式的規定なのではない。この立ち留まるということは、連合的覚起に条件づけられた時間内容を通じてのみ、立ち留まりうるのであり、この内容が同時に今とおい形式を生みだすのっであって、その逆ではない。…‥ ---------------------- ってあった。 ここについて、そこはかとなく、書くと、 〔生き生きした現在の具体的な体験の持続〕っていうところ。 たぶん、現象学では「世界」っていうのは「生活世界」のことで、メルポンの言う「世界における(への)存在」っていうのを〈生活世界における(への)存在としての私〉って見ると、〔生き生きした・・・具体的な〕ってなるし、〔現在の・・・持続〕っていうのは「内的時間意識」のことのように思える。 あと、 a.昔の写真を見てる時。あの時あの場所の体験を想い出してる今。今、この場所で、私の意識はあの時(過去)になってる。 b.今、これ、が、過去、あの、とが連合(類似と対比)的に覚起される。 こんなこと。この二つは異なる状況で見てるんだけど、なんとなく浮かんだのだけの。
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