| お休みは少しお喋りしようと思ってる。
【メルポンの講義本】にある、次のところいろいろ考えてた。
「発達の概念」(p5〜)のなかの、 (2)知覚−運動性(感覚―運動)の調和(p12〜) のところから抜粋したの、 ************* (a)古典的な設定――まず、感覚と運動の関係は、きわめて明確であるように見えます。 ――感覚。ある質(赤い、冷たい、など)の所有、熟視、認識への引き継ぎ。 ――運動。周囲の変容をめざす活動、神経インパルスに命令された出来事。 このように考えるなら、知覚(意識の基礎的事実)と(物の秩序に属する)運動性のあいだには、いかなる内的なつながりもありません。古典的心理学は、両者の関係をこのように規定することで、その関係を解けない問題にしてしまいました。
(b)新たな問題設定――ゲシュタルト心理学者たちは、知覚と運動性のあいだにきわめて緊密な関係を見いだすのです(D・カッツ(28)の『触覚の世界(29)』を参照)。 たとえば、触覚経験を分析して見ましょう。「すべすべした」あるいは「ざらざらした」の感覚は、表面を探査する運動から獲得されます。触覚情報を獲得しようとする身体運動がなければ、触覚経験はありません。 視覚についても同じです。・・・・・・・「感覚すること」と「外部世界に対してある態勢を取ること」は、本質的につながっています。あらゆる運動は知覚を背景にして展開し、あらゆる感覚は運動による探査や身体の態勢を含んでいるのです。視覚は見るという志向によって方向づけられていなければ、とるにたらないものに切り縮められてしまうでしょう。・・・・・ある主体の運動はすべて知覚を背景にして起こります。・・・・・運動全体が触覚知覚的もしくは運動感覚的な知覚に合わせて調整されていることになります。 (p13)したがって、ゲシュタルト〔形態〕心理学によって、われわれは感覚と運動の問題を考え直さざるをえなくなります。行動の知覚と運動面、つまり同じ現実の二つの側面を論じる必要があるのです。 こうした努力をすることは難しいことです。古典的区分は、熟考する意識という概念のような、深く根づいた哲学的根拠にもとづいていました。ゲシュタルト派〔の心理学者〕たちは、行動から切り離された熟考する意識の概念を断念するよう、われわれに要求します。彼らはこの意識を活動的な意識に入れ替えるのです。後者の意識からすれば、身体は世界の探査器なのです。 ************* ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 注(28)ダヴィット・カッツ(David Katz, 1884-1953)――ドイツ生まれのスウェーデンの実験心理学者。ゲシュタルト心理学と現象学の観点から幻影肢の分析を行ったことで知られている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここんところについてのわたしのは後で。
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