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■38957 / inTopicNo.13)  Re[84]: つれづれなるままに 15
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/28(Sat) 18:02:04)
    【メルポン講義本】、
    No38938、「発達の概念」の次のメルポンの講義は、
    第一部〔子どもの意識の構造(その自然との関係に関する研究)〕
    ・〔第一章〕子どもにおける知覚の研究
    で、
    前に書いた
    No38675
    No38673の(p17)のところ
    No38829
    になるのね。
    本に書かれてる順番とは違っちゃたけどね。

    No38675
    *************
    (p16)この研究でわれわれが取りあげるのは、主として子どもの生きられた経験であり、子どもがこの経験を解釈する際に使う知識ではありません。われわれは子どもの直接的な経験、まだ言語活動と思考によって体系化されていない経験に問いかけることになるでしょう。
    *************
    ちょっとわたしに見えてきたのを書いて見ると、
    メルポンが“見えるようにしようとしてる”のは、
    No38829で見たように、
    乳幼の頃に遡って、“そのうちで”見ようとしている。
    「言葉のざわめきの下」すなわち生後0〜2歳ぐらいのときの子どもとして見て、
    No38827で見たように、
    この頃の子どもは、世界とのかかわりは、意識において、〈感覚−知覚〉が主で、〈思考(知能)〉はまだ十分に発達してない、ってして見て、
    そういうなかで、
    『子どもがこの経験を解釈する際に使う知識』ではなく、『まだ言語活動と思考によって体系化されていない経験』を、『子どもの生きられた経験』、『子どもの直接的な経験』に問いかけてる。
    『大人の返事』(←わたし最近これ気に入っちゃってる)じゃなくてね。

引用返信/返信 削除キー/
■38938 / inTopicNo.14)  Re[83]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/23(Mon) 14:10:23)
    No38937までで、
    No38925のところについてのわたしに思われたのはだいたい書けてかな。

    「発達の概念」(p5〜)のところでは、
    T系統発達
    U個体発生的な発達
    についていろいろ書かれてて、
    No38925は、Uのなかから抜粋したものなんだけど、このなかからもう一箇所抜粋して見る。

    ***********
    p14(a)客観的方法――あらゆる運動が特定の知覚様式を含んでいるということを認めるとすれば、その場合、子どもが周囲についてもつ知覚を、子どもの行動のなかに解読できることになります。したがって、子どもの行動のなかに、その世界表象を読み取ることは正当なのです。〔それは〕第一に正しい手法です。なぜならまず、われわれは別様にはできないからです。さらに、この手法は動物心理学でも正しいと見なされているからです。・・・・・・

    p15(b)主観的方法――ギョームは、1931年の『心理学雑誌』の論文で、自己観察(内観)と外的観察に本質的な違いがあること示しました。われわれは、自分自身を観察するときでさえ、行動テストに頼ります。印象はあてにならず、むしろ結論は自分自身の行動データにしたがって引き出されます。〔主観的方法と客観的方法の〕二者択一に取り憑かれたままでいることは無益であり、あらゆる方法は本質的にすべて同じです。というのも、行動の構造を再発見しようと努力しているからです。しかも、子どもの行動は、物理―化学的な刺激の影響だけでなく、環境との交感(コミュニオン)のおかげで発達していきます。
    ***************

    ネットで「交感」を調べたら、
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    【交感】
    精選版 日本国語大辞典
    @ 互いに感じ合うこと。
    (イ) 人と人とが感じ合うこと。気持が通じ合うこと。
    (ロ) 物事が互いに反応し合うこと。
    A 交尾すること。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。

    これは簡単に、

    「客観的方法」にしても「主観的方法」にしても、両方とも〈行動から〉で、「行動の構造を再発見しようと努力している」。
    「子どもの行動は、物理―化学的な刺激の影響だけでなく、環境との交感のおかげで発達していきます。」
    そして「身体―行動」は、〈感覚-知覚〉と密接な関係をもち、こういうなかで子どもの意識も発達していく。

    でいいかな。

    「発達の概念」については、「子どもの心理-社会学」の〔第一章〕(p95〜)にもう一度登場してくるのね。
    これについてはまたいつか見てくことにするよ。

引用返信/返信 削除キー/
■38937 / inTopicNo.15)  Re[82]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/23(Mon) 10:43:05)
    お休み中に切りのいいところまでお喋りしとこっと

    No38925の(a)の古典的な設定のとろの、わたしに思われたの、
    No38935までで、ひとまずにしとく。

    (b)の方は比較的わたしにすんなり入って来た感じ。

    〈感覚-知覚〉と〈身体-運動〉のあいだにはきわめて緊密な関係があって(1)、古典的意識の区分で、「熟考する意識」〈コギト・科学という意識〉とは別の意識(2)――外部世界と直接的なかかわりをもつ「活動的な意識」(3)―〈感覚-知覚〉―「運動感覚的な知覚」(4)を問題にして、このような意識から見れば「身体は世界の探査器」(5)。

    わたしの見方、だいぶ簡単にまとめられた感じ。

    (2)は、
    No38930
    のように見てるなかで。

    (4)の「運動感覚的な知覚」っていうの、
    No37550を想い出す。

    (5)について、
    前にも書いたかも、だけど、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】にあった、
    a.『精神は身体を利用するのではなく、身体をたえず物理的空間の外へ移行させながら、身体を通して生成するのである。』
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】にあった、
    b.『身体の理論はすでに知覚の理論である。』
    c.『身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。』
    d.『〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。』
    e.『身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。』
    f.『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。』
    を想い出してる。
    で、このなかに(5)の見方を追加しとくことにしたよ。

引用返信/返信 削除キー/
■38935 / inTopicNo.16)  Re[81]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/22(Sun) 18:59:36)
    No38933のつづき

    『古典的心理学は、両者の関係をこのように規定することで、その関係を解けない問題にしてしまいました。』

    この『両者』っていうのは、〔〈感覚-知覚(赤い、冷たい、など)〉〕と〔物体として見る〈身体-運動〉〕っていうことでいいかな?

    でね、ちょっと思ったんだけど、

    前にどこかで、
    「物質である脳が、どのようにして非物質である意識体験を生み出しているのか」?
    みたいな問いを話題にしてたのを想い出したのね。
    わたし、
    https://honz.jp/articles/-/41483
    を見て見たよ。
    いずれにしても、科学的見方ではどうしようない、っていうことになるのかな。

    「脳」っていうの「身体」の一部よね。
    でね、「〈感覚-知覚(赤い、冷たい、など)〉の意識」と「脳-身体」の関係を、「脳-身体」を(機械的・物理的)「物体」(神経インパルスに命令された出来事)として見ることによって、『その関係を解けない問題にしてしまいました。』
    みたいなふうにも思って見たりして。


引用返信/返信 削除キー/
■38933 / inTopicNo.17)  Re[80]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/22(Sun) 14:43:41)
    No38932をつづけるね。

    『知覚(意識の基礎的事実)』のところは、〔意識の基礎的事実として〈感覚-知覚〉〕ってして見た。
    No38827に書いたように、メルポンが言ってる、
    『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならない』
    みたいなのと似てる。

    『(物の秩序に属する)運動性』なんだけど、『運動性』を〈身体-運動〉って見るとしても、これってどういう意味?っていろいろ考えて見たんだけど、(“物”の秩序に属する)っていうところから、
    ひょっとしたら古典的心理学では、「身体」を「物体」として見てたんじゃないかしら?って、ふと

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorups、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体Korper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、Korperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(アキュートアクセントは省略してる)
    ってあるのを想い出した。
    このように昔は「身体」を、「Leib」、「生きる(leben)」というより「物体Korper」とも見ることもあったのかも、って。
    (あ、昔も今も、っていうのあるかも?)
    こうのからAのように〈身体-運動〉に「神経インパルス」が出てきてるのかかも?って。
    ちょっとここで「身体」をどう見るかの区別として、
    「生ける身体」という意味での見る身体を「生体」、
    (機械的とか物理的な)「物」みたいな意味で見る身体を「物体」、
    って言うことにして区別しておくことにしたよ。
    こう見たとき、
    @は、意識のうちで、
    Aは、物体のうちで、
    って見ることもできるかな?

    でね、こう見たとき、
    『このように考えるなら、知覚(意識の基礎的事実)と(物の秩序に属する)運動性のあいだには、いかなる内的なつながりもありません。』
    は、
    〔(思考という)意識のうちで考えてる〈感覚-知覚〉〕と〔物体のうちで考えてる〈身体-運動〉〕とのあいだには、いかなる内的なつながりもありません〕
    って見ることになったのね。

    わたしのなかにな〜んとなく浮かんでいるのを、なんかむりやり言葉で表現してる感じしてるけど、もう少しつづけて見るよ。

引用返信/返信 削除キー/
■38932 / inTopicNo.18)  Re[79]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/22(Sun) 14:35:12)
    No38930は、メルポンのからわたしに思われたことね。
    メルポンの本を読んでると、メルポンが言う「認識」っていうの、〈コギト〉―「理解」「推論」「判断」みたいなことを指してるようにわたしには思えてるから。

    で、
    No38925の(a)のところ、考えてたんだけど、はっきりいってよく分かんないのよね。
    でも、ひとまずの、これまでいろいろ考えてきたのあるから、それ書いて見ることにするよ。

    『認識』を〈コギト〉ってして見て、
    『熟視』っていうの、「科学」みたいなのにして見た。よーく観察するのが科学っていうイメージがわたしにはあるから。
    でね、
    『熟視、認識』をまとめて〈思考〉のことってして見た。(b)にあるような『熟考する意識』みたいなの。

    『感覚』、『知覚』ってあるけど、
    No36131に、
    〔知覚においてその体験された内容が感覚と呼ばれる〕
    ってある。
    No38877で見たようなのと絡めて見ると、
    メルポンは、「感覚」と「知覚」は相互に区別できず相互に作用しあってる、って見てるようにわたし思えるから、
    「感覚」と「知覚」をセットにして〈感覚-知覚〉ってして見て、
    そして、
    『運動』を〈身体の〉ってして見て、

    (a)古典的な設定  を見て見た。

    ――感覚。ある質(赤い、冷たい、など)の所有、熟視、認識への引き継ぎ。
    を、
    @〈感覚-知覚〉は、ある質(赤い、冷たい、など)を所有し、それは〈思考〉への引き継ぎ。

    ――運動。周囲の変容をめざす活動、神経インパルスに命令された出来事。
    を、
    A〈身体-運動〉は、周囲の変容をめざす活動、神経インパルスに命令された出来事。

    ってして見た。

    簡単に見ちゃうと、
    古典的心理学では、
    @は、〈感覚-知覚〉を〈思考〉との関係で、
    Aは、〈身体-運動〉を「神経インパルス」との関係で、
    考えてる。

    つづく。

引用返信/返信 削除キー/
■38930 / inTopicNo.19)  Re[78]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/21(Sat) 17:31:57)
    No38929のつづき

    「認識」と「意識」の区別、前にも書いたけど、振り返って見て、

    「認識」をコトバンクので見ると、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    精選版 日本国語大辞典
    【認識】
    @ 認め知ること。物事をはっきり知り、その意義を正しく理解・弁別すること。
    A ( [英語] cognition の訳語 ) 心理学で、知覚・記憶・想像・構想・判断・推理を含んだ広義の知的作用。
    B ( [ドイツ語] Erkenntnis の訳語 ) 哲学で、一般にわれわれが物事について持っていて、それが真であることを要求できるような概念、またはそれを得る過程。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「認識」っていうのを、@、Bのような、「正しく理解する」とか「それが真であるような」意識のこと、ってして、
    簡単に、
    (a)「認識」っていうのを〈正しく理解し判断すること〉。
    ってして見てる。
    「意識」にはこのようなことする一つの領域がある、っていうこと。
    これを〈コギト〉ってして見てる。ほら、デカルトのcogitoね。

    「意識」にはこのような〈コギト〉のほかに、Aにあるような、〈知覚〉・〈記憶〉・〈想像〉っていうのがあって、ほかに〈感覚〉っていうのも「意識」なかにわたし入れてる。

    だから、〈認識〈コギト〉=意識〉じゃなくて、〈意識⊃認識〉っていうことになるかな。

    わたしの「意識」の分節を簡単に表して見ると、

    (b)意識〈感覚-知覚-記憶-想像-思考〉

    ってなるかな。
    〈思考〉っていうのが「認識(コギト)」に当たるわけね。

    もっとも、〈感覚→知覚→記憶→思考〉の過程すべてを「認識」ってして見てるばあいもあると思うけど、わたしのはそうじゃない、っていうこと。
    っていうのは、「認識」を(a)ってして見たとき、〈感覚〉や〈知覚〉は、「理解」や「判断」じゃない、ってわたし見てるから。

引用返信/返信 削除キー/
■38929 / inTopicNo.20)  Re[77]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/21(Sat) 17:25:31)
    No38925
    これどう見たらいいのかな、って。

    (a)に、『認識』ってあるけど、これ〈コギト〉ってして見たのね。(b)にある『熟考する意識』みたいな。
    前にもちょっと書いたけど、わたしのばあい、「意識」と「認識」はちょっと区別してる。
    ここんとこちょっと長くなりそうだから、次に書くね。

引用返信/返信 削除キー/
■38925 / inTopicNo.21)  Re[76]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/21(Sat) 11:44:03)
    お休みは少しお喋りしようと思ってる。

    【メルポンの講義本】にある、次のところいろいろ考えてた。

    「発達の概念」(p5〜)のなかの、
    (2)知覚−運動性(感覚―運動)の調和(p12〜)
    のところから抜粋したの、
    *************
    (a)古典的な設定――まず、感覚と運動の関係は、きわめて明確であるように見えます。
    ――感覚。ある質(赤い、冷たい、など)の所有、熟視、認識への引き継ぎ。
    ――運動。周囲の変容をめざす活動、神経インパルスに命令された出来事。
    このように考えるなら、知覚(意識の基礎的事実)と(物の秩序に属する)運動性のあいだには、いかなる内的なつながりもありません。古典的心理学は、両者の関係をこのように規定することで、その関係を解けない問題にしてしまいました。

    (b)新たな問題設定――ゲシュタルト心理学者たちは、知覚と運動性のあいだにきわめて緊密な関係を見いだすのです(D・カッツ(28)の『触覚の世界(29)』を参照)。
    たとえば、触覚経験を分析して見ましょう。「すべすべした」あるいは「ざらざらした」の感覚は、表面を探査する運動から獲得されます。触覚情報を獲得しようとする身体運動がなければ、触覚経験はありません。
    視覚についても同じです。・・・・・・・「感覚すること」と「外部世界に対してある態勢を取ること」は、本質的につながっています。あらゆる運動は知覚を背景にして展開し、あらゆる感覚は運動による探査や身体の態勢を含んでいるのです。視覚は見るという志向によって方向づけられていなければ、とるにたらないものに切り縮められてしまうでしょう。・・・・・ある主体の運動はすべて知覚を背景にして起こります。・・・・・運動全体が触覚知覚的もしくは運動感覚的な知覚に合わせて調整されていることになります。
    (p13)したがって、ゲシュタルト〔形態〕心理学によって、われわれは感覚と運動の問題を考え直さざるをえなくなります。行動の知覚と運動面、つまり同じ現実の二つの側面を論じる必要があるのです。
    こうした努力をすることは難しいことです。古典的区分は、熟考する意識という概念のような、深く根づいた哲学的根拠にもとづいていました。ゲシュタルト派〔の心理学者〕たちは、行動から切り離された熟考する意識の概念を断念するよう、われわれに要求します。彼らはこの意識を活動的な意識に入れ替えるのです。後者の意識からすれば、身体は世界の探査器なのです。
    *************
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    注(28)ダヴィット・カッツ(David Katz, 1884-1953)――ドイツ生まれのスウェーデンの実験心理学者。ゲシュタルト心理学と現象学の観点から幻影肢の分析を行ったことで知られている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ここんところについてのわたしのは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■38924 / inTopicNo.22)  Re[75]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/21(Sat) 10:53:10)
    また連休だよ〜^^

    今回のわたしの物語り、なかなかテーマが絞り切れてなくて、順序だてての物語りになってないけど、お喋りしながらなんか見えてくるものが出て来るんじゃないかな?っていう感じで、とりあえず進めてくことにする。

    【メルポン講義本】、これまで読んできたところまでに特にいっぱい出て来る「ピアジェの」と「ゲシュタルト」について書いといた。

    「ゲシュタルト」については、メルポンの言う「ゲシュタルト」と、「ゲシュタルト心理学」や「ゲシュタルト派」の言う「ゲシュタルト」っていうのがどうやら微妙に異なってと思われたので、メルポンの「ゲシュタルト」の意味を、わたしなりに探って見て、
    No38877のようにひとまずして置くことにした。







引用返信/返信 削除キー/
■38877 / inTopicNo.23)  Re[74]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/16(Mon) 17:26:47)
    きょうは
    メルポンの言う「ゲシュタルト」、もういちど考えた。

    No11697 のから、
    No38714で、
    @〈部分の総和としてはとらえられない、相互に区別できず作用しあって、あるまとまり・構造をもち、移調可能であるような全体〉
    ってして、
    No38820で、簡単に、
    A〈全体性〉
    ってして見て、
    こういうんで【メルポンの講義本】のこれまで読んだところ、読み返してみたんだけど、

    (a)『知能のゲシュタルトは、知覚の形態化とはまったく異なるのです』(p117)
    ってあるのね。
    『形態化』を「ゲシュタルト化」ってして見て、そして「ゲシュタルト」を〈全体性〉ってして見ると、
    「知能の〈全体性〉は、知覚の〈全体性〉化とはまったく異なるのです」
    ってなるんだけど、な〜んか違うな〜、って。

    そしたら、
    (b)『〔ゲシュタルト派の〕誤解は、ゲシュタルトを、組織化の現象、一種の構造でしかないのに事物にしようと望んだことにあるます』(p118)
    ってあったのね。
    メルポンの言う「ゲシュタルト」っていうの、
    「組織化の現象」、「一種の構造」のことかも?って。

    「ゲシュタルト」、日本語で「形態」ってなってるみたいだけど、あらためてこの語ネットで調べて見たら、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    【形態】
    精選版 日本国語大辞典
    @ ある組織立った物事の、外から見たかたち。組み立てられている個々の物事のありさま。
    A 心理学で、部分からは導くことのできない有機的に複合したまとまりをいう。ゲシュタルト。→形態心理学
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあるのね。

    で、思ったんだけど、
    ある事物は、「見た目」とその〈中身〉がある、って二つに分けて見て、そして、「見た目」、〈中身〉のそれぞれに、組み立て、組織化、構造がある、っていうふうにして見たのね。
    で、
    メルポンの言う「ゲシュタルト」を、@、Aのような〈組織化〉あるいは〈構造〉のこと、ってして見ることにした。
    簡単に、〈組織化〉〈構造〉のことでいいかな、って。

    こうして見たとき、(a)は、
    「知能の構造は、知覚の組織化とはまったく異なるのです」
    ってなって、なんかすっきりした感じになる。

    「意識」を(メルポンの言う)「ゲシュタルト」として見ることにしたんだけど、よく考えたら、〈意識〉って「物」と違って「見た目」ないけど、その組織化とか構造って言うことできるよね。

    あと、メルポンは『身体も一つのゲシュタルト』って言ってる。「身体」のばあい、「見た目」(外見)と〈中身〉(たとえば意識)の両方の組織化・構造が考えられることになるのかな。

引用返信/返信 削除キー/
■38829 / inTopicNo.24)  Re[73]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/14(Sat) 19:36:32)
    今日はもうちょっと、

    No38827の(*A)のところなんだけど、

    【メルポン講義本】に次のようなことが書いてある。
    ****************
    (p19)ピアジェは、物質/精神/思考や内的言語/外的言語といった二分法をつねに念頭に置いて、かなり限定されたカテゴリーで考えています。彼は、この区分が子どもには欠落しているという前提に立ちます。したがって、彼は子どもの返答を、こうした区分との関係からのみ分析するのです。正確に言えば、彼は子どもの考え方を理解しようとするのではなく、彼のシステムに翻訳しようとするのです。しかし、児童心理学においては、こうした大人の考え方、さらにはその語彙の使用も差し控えなければなりません。子どもの思考を歪めずに、それを記述するためには、大人の区別に対して新たな言語が必要です(1940-1941年の『心理学雑誌』のギョームの論文を参照(34))

    (p115)ピアジェは、もしかりに自らの観点を定義できるとすれば、子どもは「独我論的」だということになるだろうと考えます。それに対してギョームは、それは大人の返事だと答えるのです。対象の永続性への信憑についても同じことが言えます。ピアジェにとって、子どもは対象の永続性を信じておらず、次に上位の次元に移動してそれを信じることになります。

    (p116)ギョームは、いったん対象が消えると子どもはもはやそれについて考えることはなく、子どもについての対象永続性や消滅に関する命題をたてることも危険だと答えます。ここにギョームの独創的で豊かな考え方が認められます。彼は、本当に独我論的なわけでも他人を完全に意識しているわけでもない子どもの立場を記述するために、大人の用語(ランガージュ)を改善するよう望んでいるのです。
    ****************
    っていうところから、わたし思ったのね。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】のなかで、メルポンは、
    ****************
    (p305)話すことを学ぶ幼児の場合にせよ、あることがらを初めて語り考える著述家の場合にせよ、要するにある沈黙を言葉に変えるすべてのひとびとの表現や意思伝達のなかに存する偶然なものにわれわれはもはや気づかなくなっている。しかし日常生活において使用される既成の原語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている。
    われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。言語は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。
    ****************
    って言ってて、何度も書いたけど、
    『この起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう』
    っていうことから、
    メルポンは、乳幼の頃に遡って(たぶん現象学的還元)、しかも、大人の考えで見た、じゃなくて、乳幼の“そのうちで”見ようとしてるんだとわたし見てる。

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