| **** 以下、『中村元選集第15巻 原始仏教の思想1』より引用 ****
第二編 人間存在の反省 第4章 無常 七 空観
人間が無常である」というばかりではなくて、「いかなる事物も無常である」ということがいわれ得るが、それは「いかなる事物も恒久不変の実体をもっていない」ということである。 世の中は、うつろなものである。世の中はうたかた(水の上に浮かぶ泡)のような、また春の陽にたちのぼるかかげろうのように、つかみどころのないものである。
『世の中はうたかたのごとしを見よ。世の中はかげろうのごとしを見よ。世の中をこのように観じる人は、死王もかれを見ることがない。 さあ、この世の中を見よ。王者のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。(Dhamma-pada 170-171)』
この世はもろもろの因縁によって支えられてつくりだされた「仮の宿」である、と思うと執着することもなくなる。絶対の王者である死にも悩まされることもない。 〈一切の物事はうつろである〉というこの道理を、すでに原始仏教において「空」と呼んでいる。空(sunna Skt.sunya)は、もとはsu(=sva,svi 膨張する)という語源からつくられたsunaという語にもとづいてつくられた派生語で、「ふくれあがった」、「内部がうつろである」という意味で、抽象的には「空虚」、「欠如」を意味する。〔インド数学ではゼロを表示するが、ゼロの概念はインド人が世界史上最初に発見したものである。〕 〈空観〉は大乗仏教の説くところであり、原始仏教や小乗仏教には関係がないように、一般的に考えられている。しかし原始仏典のうちの、しかもかなり古い詩句には、空の思想がいろいろなかたちで説かれている。この最初期の仏教における空観は、無常説から導き出されたようである。無常であるということは虚空であるということであると考えられた。
************* 引用終わり *************
上記(ダンマパダ170-171)や先の投稿で引用したスッタニパータ116-119以外にも「原始仏典で「空」について説かれてる箇所を同書より引用しておきます。
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『あるものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれと異なったものとなる。なんとなれば、その〔愚者の〕その〔考えは〕虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。 安らぎは虚妄ならざるものである。もろもろの聖者はそれを真理であると知る。かれらはじつに真理をさとるがゆえに、快を貪ることなく平安に帰しているのである(Sutta-nipata757-758)』
『片隅に坐したサーリプッタ尊者に尊師は、このようにいわれた「サーリプッタよ。そなたの心身〔のもろもろの器官〕は浄く明るく見える。皮膚の色は、まったく浄らかで、清く明るい。そなたは今日いかなる境地に安住していたか。」 「尊師さま。わたしは、いままで空の境地に多く住していました」 「サーリプッタよ。みごとだ、みごとだ。そなたは今日大いに偉大な人の境地に住していたわけだ。この〈偉大な人の境地に住する〉とは、すなわち空(sunnata)〔に住すること〕なのである」(Majjhima-Nikaya293-294)』
『修行僧らよ。未来世に修行僧どもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応してい(sunnatapatisannutta)るものであるが、それが説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであるとは考えないであろう。(Samyutta-Nikaya,XX,7.volU,p.267)』
『われわれはこの空(tuccha)なる身を内外ともに観察した。(Theragatha395)』
『色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用はかげろうのごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである。識別作用は幻のごとくである。と日のみ子(釈尊)は説きたもうた。(一) 瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく(ritttaka)、空虚(tucchaka)である 。(二) (Samyutta-Nikaya,XXU,95.vol.V,pp.140-143)』
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同書には原始仏典からの引用は他にもあるが個人的に印象に残ったものを引用した。
最後に引用した『色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用はかげろうのごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである。識別作用は幻のごとくである。と日のみ子(釈尊)は説きたもうた。(一) 瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく(ritttaka)、空虚(tucchaka)である 。(二) (Samyutta-Nikaya,XXU,95.vol.V,pp.140-143)』からすれば、佐々木閑氏の主張である「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります」は誤りであり、般若心経の「無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界 乃至無意識界」と対応するだろう。
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