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■41361 / inTopicNo.1)  〈私〉と現存在
  
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/20(Thu) 09:08:23)
    同じものなのか、別ものなのか

    探究は続く。。。
引用返信/返信 削除キー/
■41360 / inTopicNo.2)  なぜ〈私〉はあるのか?
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/20(Thu) 09:06:11)
    たとえば回答の候補として。。。。

    ・生まれおちたから

    ・言語を有するから

    ・自己鏡映像認知能力を有するから


    等々、これらの回答は誰にでも当てはまる「私」についてのものであって、〈私〉がなぜあるのかという問いの答えを返せないのが〈私〉の本質的なものであるのかもしれない。


    それは意識超難問「何故〈私〉は他の誰でもない〈私〉なのか?」とい問いが答えを求める目的ではなく、〈私〉を探究するためのスタート地点に立つたっめの公案(禅宗の修法)的なものであることと似ている。
引用返信/返信 削除キー/
■41358 / inTopicNo.3)  Re[61]: なぜ世界はあるのか?
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/20(Thu) 08:56:41)
    No41355に返信(パニチェさんの記事)

    > 「なぜ世界は有るのか?」に対する私が支持するところの仏教的な答えは無記。
    > つまり答えないし、論じるに値しないとうこと。

    > 十四無記
    > 形而上学的な問いについては無用な論争を避け、仏教の本来の目的である苦からの解放に徹すべきというスタンス。
    > //user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm


    > 「なぜ世界は有るのか?」に対する私が支持するところの哲学的な答えは「〈私〉が有るから」ということになる。
    > 科学哲学的には人間原理がその回答となるだろう。

    > 人間原理
    > //www.nagaitoshiya.com/ja/2001/multiverse-anthropic-principle/



    ※追記

    「なぜ〈私〉は有るのか?」

    不明
引用返信/返信 削除キー/
■41355 / inTopicNo.4)  Re[60]: なぜ世界はあるのか?
□投稿者/ パニチェ -(2025/03/19(Wed) 20:33:36)
    2025/03/19(Wed) 20:37:43 編集(投稿者)

    「なぜ世界は有るのか?」に対する私が支持するところの仏教的な答えは無記。
    つまり答えないし、論じるに値しないとうこと。

    十四無記
    形而上学的な問いについては無用な論争を避け、仏教の本来の目的である苦からの解放に徹すべきというスタンス。
    //user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/muki.htm


    「なぜ世界は有るのか?」に対する私が支持するところの哲学的な答えは「〈私〉が有るから」ということになる。
    科学哲学的には人間原理がその回答となるだろう。

    人間原理
    //www.nagaitoshiya.com/ja/2001/multiverse-anthropic-principle/


引用返信/返信 削除キー/
■41294 / inTopicNo.5)  なぜ世界はあるのか?
□投稿者/ パニチェ -(2025/03/18(Tue) 08:09:37)
    2025/03/18(Tue) 09:14:11 編集(管理者)

    はじめまして、Sさん。

    No41292に返信(Sさんの記事)
    > ■No41286に返信(Sさんの記事)
    >>なぜ世界は「有る」のでしょうか?

    > 『大乗仏教概論』(鈴木大拙著、佐々木閑訳、岩波書店、2004)という本の中に、「なぜ無明があるのかという疑問は、なぜ真如があるのかという疑問と同じく、誰にも答えることはできない」(P107)と書いてあります。大乗仏教は、「なぜ世界(真如)は「有る」のか?」に答えられずにいる、ということでしょうか?


    私なりになるべく的を射た返信をしたいので確認させてもらいます。

    上記の問いは「なぜ世界はあるのか?」の問いについて仏教ではどう教えているのか?もし教えているとすればどのような回答か、という問いでしょうか。

    それとも仏教を離れ単純に「なぜ世界はあるのか?」の問いに哲学や科学は答えているのか?もし答えているとすればどのような回答か、という問いでしょうか。

    返信は夜になります。
引用返信/返信 削除キー/
■41129 / inTopicNo.6)  純粋理性について
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/09(Sun) 10:12:21)
    *** 以下、御子柴善之著『カント 純粋理性批判』P.61より引用 ***

    さて、このような必然的で最も厳密な意味で普遍的な判断、したがって、ア・プリオリな純粋判断が人間の認識にあることは、容易に示すことができる。学問に実例を求めようとするなら、数学のすべての命題を見るだけでよい。もっとも常識的な悟性使用に実例を求めようとするなら、「すべての変化はなんらかの原因を持たなければならない」という命題を用いればよい。(B4f)

    数学のすべての命題は、ア・プリオリな純粋命題です。あるいは常識の世界を探れば、「すべての変化はなんらかの原因を持たなければならない」(強調は著者による)もまた普遍性と必然性をもつ点で、ア・プリオリな命題です。傍線を付した箇所に注目して下さい。もっとも、この後者の命題を「ア・プリオリな純粋命題」の例としてあげることは、デヴィッド・ヒューム(David Hume,1711-1776)の所説に異論を呈することを意味します。というのは、ヒュームは原因性の概念をこころの習慣(主観的必然性)に還元し、原因性の概念がア・プリオリなものであることを否定したからです。

    ************* 引用終わり *************

    ニーチェの原因と結果に対する考察も上記のデヴィッド・ヒュームに近いし、私もどちらかと言えばア・ポステリオリなものとして考えている。
    同様に数学的な命題もア・ポステリオリなものとして捉えており、ここまで読んだ時点では未だにカントが指摘するア・プリオリな純粋理性があるとは思えない。

    たとえば言語に関する普遍文法を理解する能力は脳にウェルニッケ野(感覚性言語野)という部位が先天的に備わっているからではあるが、これが発現するのは幼少時、日常的に言語に触れるからであって、生まれた直後から閉鎖的な空間に閉じ込められた子どもは、その後人と接することで語彙は増えたものの幼児が本能的に習得する文法は身に付けることができなかったという事例が1970年にロサンゼルスで発見された13歳の少女に見られたらしい。


    『「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、──私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのである。・・・私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
    全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。
    私たちが「内的経験」を意識するにいたるのは、ようやく、個人が理解することのできる言葉をそれがみだしたのち──言いかえれば、或る状態が個人にとっていっそう熟知の諸状態へと翻訳されたのちにおいてである──。「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない。たとえば、「私は気分が悪い」という場合──そうした判断は観察者の偉大な老成した中立性前提する、──ところが幼稚な人間は、これこれのことが私の気分をわるくさせると、つねに言っている──そうした人間は、気分のわるいことの根拠をみとめるときにはじめて、おのれが気分がわるいことが明瞭となる・・・このことを名づけて私は文献学の欠如と言う。その間に解釈をまじえずに原典を原典として読とりうるということは、「内的経験」の最もおくれてあらわれる形式である──おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない・・・(ニーチェ『力への意志 第479番』より)』

引用返信/返信 削除キー/
■41103 / inTopicNo.7)  御子柴善之著『カント 純粋理性批判』
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/05(Wed) 19:47:05)
    御子柴善之著『カント 純粋理性批判』を読み進むにあたって、以前から抱いてたカントへの疑問。

    そもそも純粋理性なんてものが人間に備わっているのか?ということ。

    一切の経験に依存しない理性なんてものがあるのだろうか?

    狼に育てられた少女は狼のような人間となることは事例があるし、地下室に監禁された子どもも同じく獣のような人間となる。

    アプリオリに備わっているのは本能のみではないか?

    これらの疑問がこれまでカントを食わず嫌いで遠ざけていた理由。

    まぁ、せかっくだからこの先入観もいったんはペンディングして読み進もうとは思う。

引用返信/返信 削除キー/
■41085 / inTopicNo.8)  御子柴善之著『カント 純粋理性批判』
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/02(Sun) 17:36:33)
    御子柴善之さんって1961年生まれなんだなぁ〜。でもって日本カント協会会長だって。
    肩書によって、その人の解釈や主張を鵜呑みにすることはないけど。。。

    この解説書には誠意を感じる。
    それは『純粋理性批判』の和訳を引用した上で解説しているところ。

    初版が令和2年だから5年前
    最初に引用を示すというのは恥ずかしながらPanietzsche Roomのニーチェに関する過去の投稿をまとめたもと同じやり方。

    それがなにか、ってか?
    買ってよかったってこと。

    へ(* ̄ー ̄)> てへへへ。

引用返信/返信 削除キー/
■41005 / inTopicNo.9)  ボクシング連休
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/21(Fri) 20:04:24)
    2025/02/21(Fri) 20:10:50 編集(投稿者)

    2月23日

    世界ライトヘビー級4団体統一タイトルマッチ
    アルツール・ベテルビエフ(21戦全勝20KO)
      vs
    ドミトリ(ディミトリー)・ビボル(24戦23勝12KO1敗)


    ルイス・ネリ(36戦35勝27KO1敗)
      vs
    亀田京之介(20戦15勝9KO3敗2分)



    2月24日

    WBCバンタム級王者
    中谷 潤人(29戦全勝22KO)
      vs
    ダビド クエジャル(28戦全勝18KO)

    WBAバンタム級正規王者
    堤 聖也(14戦12勝8KO無敗2引分)
      vs
    比嘉 大吾(25戦21勝19KO3敗1引分)

    WBO Asia Pacificバンタム級王者
    那須川 天心(5戦全勝2KO)
      vs
    ジェーソン モロニー(30戦27勝19KO3敗)

引用返信/返信 削除キー/
■40993 / inTopicNo.10)  パーリ語入門
□投稿者/ knowingitself -(2025/02/19(Wed) 14:19:12)
    佐々木閑さんだが、YouTubeでパーリ語講座が観れるようだ。

    勉強してみようかと思う(笑)

    外国語を齧ることに興味関心があるので、その一環としてです。

    仏教に目覚めてその道に邁進ということではありません。
引用返信/返信 削除キー/
■40979 / inTopicNo.11)  原始仏教の「空」について
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/16(Sun) 11:03:25)
    **** 以下、『中村元選集第15巻 原始仏教の思想1』より引用 ****

    第二編 人間存在の反省  第4章 無常  七 空観

    人間が無常である」というばかりではなくて、「いかなる事物も無常である」ということがいわれ得るが、それは「いかなる事物も恒久不変の実体をもっていない」ということである。
    世の中は、うつろなものである。世の中はうたかた(水の上に浮かぶ泡)のような、また春の陽にたちのぼるかかげろうのように、つかみどころのないものである。

    『世の中はうたかたのごとしを見よ。世の中はかげろうのごとしを見よ。世の中をこのように観じる人は、死王もかれを見ることがない。
     さあ、この世の中を見よ。王者のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。(Dhamma-pada 170-171)』

    この世はもろもろの因縁によって支えられてつくりだされた「仮の宿」である、と思うと執着することもなくなる。絶対の王者である死にも悩まされることもない。
    〈一切の物事はうつろである〉というこの道理を、すでに原始仏教において「空」と呼んでいる。空(sunna Skt.sunya)は、もとはsu(=sva,svi 膨張する)という語源からつくられたsunaという語にもとづいてつくられた派生語で、「ふくれあがった」、「内部がうつろである」という意味で、抽象的には「空虚」、「欠如」を意味する。〔インド数学ではゼロを表示するが、ゼロの概念はインド人が世界史上最初に発見したものである。〕
    〈空観〉は大乗仏教の説くところであり、原始仏教や小乗仏教には関係がないように、一般的に考えられている。しかし原始仏典のうちの、しかもかなり古い詩句には、空の思想がいろいろなかたちで説かれている。この最初期の仏教における空観は、無常説から導き出されたようである。無常であるということは虚空であるということであると考えられた。

    ************* 引用終わり *************

    上記(ダンマパダ170-171)や先の投稿で引用したスッタニパータ116-119以外にも「原始仏典で「空」について説かれてる箇所を同書より引用しておきます。

    ******************************************

    『あるものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれと異なったものとなる。なんとなれば、その〔愚者の〕その〔考えは〕虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
    安らぎは虚妄ならざるものである。もろもろの聖者はそれを真理であると知る。かれらはじつに真理をさとるがゆえに、快を貪ることなく平安に帰しているのである(Sutta-nipata757-758)』

    『片隅に坐したサーリプッタ尊者に尊師は、このようにいわれた「サーリプッタよ。そなたの心身〔のもろもろの器官〕は浄く明るく見える。皮膚の色は、まったく浄らかで、清く明るい。そなたは今日いかなる境地に安住していたか。」
    「尊師さま。わたしは、いままで空の境地に多く住していました」
    「サーリプッタよ。みごとだ、みごとだ。そなたは今日大いに偉大な人の境地に住していたわけだ。この〈偉大な人の境地に住する〉とは、すなわち空(sunnata)〔に住すること〕なのである」(Majjhima-Nikaya293-294)』

    『修行僧らよ。未来世に修行僧どもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応してい(sunnatapatisannutta)るものであるが、それが説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであるとは考えないであろう。(Samyutta-Nikaya,XX,7.volU,p.267)』

    『われわれはこの空(tuccha)なる身を内外ともに観察した。(Theragatha395)』

    『色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用はかげろうのごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである。識別作用は幻のごとくである。と日のみ子(釈尊)は説きたもうた。(一)
    瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく(ritttaka)、空虚(tucchaka)である 。(二) (Samyutta-Nikaya,XXU,95.vol.V,pp.140-143)』

    ******************************************

    同書には原始仏典からの引用は他にもあるが個人的に印象に残ったものを引用した。

    最後に引用した『色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用はかげろうのごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである。識別作用は幻のごとくである。と日のみ子(釈尊)は説きたもうた。(一)
    瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく(ritttaka)、空虚(tucchaka)である 。(二) (Samyutta-Nikaya,XXU,95.vol.V,pp.140-143)』からすれば、佐々木閑氏の主張である「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります」は誤りであり、般若心経の「無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界 乃至無意識界」と対応するだろう。

引用返信/返信 削除キー/
■40978 / inTopicNo.12)  原始仏教と大乗仏教について
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/16(Sun) 11:00:55)
    2025/02/16(Sun) 16:43:27 編集(投稿者)

    お邪魔になるといけないので、こちらで独り言的に私の学んだ仏教学からカキコしてみます。

    No40940に返信(akaimiさんの記事)

    > 100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 をもとに、今日は、仏陀の「空」と『般若心経』の「空」の違いを知り、投稿とします。
    > ・・・・・
    > 「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    > これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    > そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。
    > ・・・・・
    > 同書p49より引用

    私が持ってる書籍では上記のスッタニパータ1119と訳文が違うので前後の文脈も含め引用しておきます。
    以下は岩波文庫刊、中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』より引用
    **************************************
    第5彼岸に至る道の章 16、学生モーガラージャの質問
    1116、1117は引用省略
    1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
    1119 (ブッタが答えた)、つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。
    ※註より
    1119 死の王は見ることがない──『ダンマパダ』第170詩でも同様にいう。「死の王」の言語はmaccrajaで、悪魔のことである。「死ぬ」mrという語源から、「死」 mrtyu,maccuとか、「魔」mara(「殺す者」の意)とかという語がつくられた。「〈死の王〉は見ることがない」とは、〈死の王〉にうちまかされることがない、の意。
    ************* 引用終わり *************

    > ・・・・・
    > 釈迦という人はたいへん精緻な論理思考の持ち主であり、この世の本当の姿を理解するために、独自の方法で全世界を分類してみせました。実際に釈迦本人がやったかどうかは疑問も残りますが、ともかく「釈迦の仏教」では、この全世界が厳密に整理分類されているのです。
    > ・・・・・
    > 同書p49〜p50より引用

    > ・・・・・
    > 真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    > これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。
    > ・・・・・
    > 同書p54〜pp57より引用

    釈尊が精緻な論理思考の持ち主であるにもかかわらず、真の実在が「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目であるとするなら、「諸法無我」や「輪廻転生」と矛盾することになります。
    これを解消しようとしたのが大乗仏教の唯識であり「唯、識のみがある」という点では「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目が実在であるとする説と近似となります。
    唯識では「輪廻転生の主体」を阿頼耶識(八識説、九識では阿摩羅識)を想定します。

    > ・・・・・
    > それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。
    >  要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    > ・・・・・
    > 同書p57より引用

    > 同書p135に。
    > ・・・・・
    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    > ・・・・・
    > とあります。

    上記は華厳や密教で捉える世界観ですね。龍樹的には相依性縁起だし、華厳では「相即相入」、密教では「入我我入」です。
    次の投稿で『中村元選集第15巻 原始仏教の思想1』より原始仏教の空観について書かれてる箇所を引用しておきます。

引用返信/返信 削除キー/

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