| No37637につづけて、
今回の物語りの始まり、 No37396の、 〔フッサールは・・・・・「私」をどのように理解していたのか・・・・〕 で、「私」についてなんだけど、 No37109のなかに登場する「私」にまつわる用語と、そのわたしの見方、もう一度整理しとく。
(a)「私」 Ich →〈自(分)と体〉 (b)「我」 ego →〈考える我〉 (c)「自我」 Ich →〈考えることする自〉 (d)「純粋自我」 reines Ich →〈純粋に考えることする自〉 (=超越論的自我) (e)「原-自我」 Ur-Ich →〈原-考えることする自〉 (f)「先-自我」 →〈先-考えることする自〉 (「先-対象的」「先-反省的」「先-言語的」) (g)「自己」 →〈自(分)と体〉 ――「己」を身体〈体〉として見た (h)「自分」 →〈分化した自〉 ――〈自〉は分化して〈自分〉となる、ってわたし見てる (i)「自分自身」 →〈自分や自の体〉
っていまはなってる。 No37367で考えて見たのを元にして簡単にまとめて見たのね。 「自我」→〈思考する自〉、ってしたんだけど、やっぱ「自我」→〈考えることする自〉って見ることにしたよ。
No37109の資料(3)の中に、〔私・自我(Ich)〕ってあったからひとまず(a)(c)のようにしといた。
(e)[Ur-Ich] 「原-自我」なんだけど、 No37109の資料(5)の中の、 No37236の、もういちど書くと、
(E-1)・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ として、 あのとき、 >もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。 もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。< って思ったんだけど、そのつづき的になるかな。
〔フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」〕 を、わたし、 〈便宜的に呼んだ「原-自我」(Ur-Ich)のような自我は、「本来、自我と呼ばれるべきではなく」〉 ってして見たのね。 でね、 わたし「Ur-Ich」って言うのを日本語で〈自〉ってしちゃおっかな〜、って。 「Ur-Ich」は日本語で〈自〉って訳すのね。「原-自我」って日訳するんじゃなくてね。
わたしのばあい「自我」を〈考えることする自〉ってして見ちゃってるなかで、「Ur-Ich」の「Ich」を「自我」って日訳してる(たぶん)ことから、わたしには訳分かんなくなっちゃてたみたい。 ちょっと思ったんだけど、 「純粋自我」って言うのもあるんだけど、これと「原-自我」の「我」っていうのを取っちゃって、「純粋自」「原-自」ってしたどうかしらって。そうすると「我」〈考える我〉がなくなって、〈純粋で原なる自〉っていうふうになる。 あ、これ日本語で考えてるよ。
こういうのから、 (U-a)「reines Ich(純粋自我)」や「Ur-Ich(原-自我)」を、〈意識の原初自然な固有の媒介の場(領域)〉―〈自〉として見ることにしたよ。
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