| ◇ 小野原雅夫『カント良心論の体系的位置づけ : 神へと至るもう一つの道』,2001年
・ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/
(↑福島大学リポジトリにて検索可)
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上記論文p.2内、注(4)が付された文前後、及び注(4)〔同p.8〕に以下のような記載あり。
>もう1つは良心と悪との関連である。中村正雄によれば,良心には「悪いとする良心」と「善いとする良心」があり,「これまでの通説としては,『悪いとする良心』が本来の良心で,『善いとする良心』はそれの欠如態であるという見方が有力」であった(4)。そうみなされてきたのにはそれなりの理由がある。一般に良心現象というものは悪との関連で発動する場合の方が圧倒的に多い。日本語の良心という言葉は「良い心」と書くが,しかし良心がかかわるのは,善い行為,善というよりは,悪,ないし不正な行為である。良心の声が聞こえてきたり,良心の呵責に苛まれるのは,自分がしようとしている行為や自分がしてしまった行為が不正な行為,悪い行為である場合なのである。<
>(4)中村正雄『良心の自由 一倫理学的考察一』,晃洋書房,1994年,124頁。『岩波哲学・思想事典』や『平凡社哲学事典』にも同様の記述がある。そのさい前者では「やましい良心(bad conscience)」,「やましくない良心(good conscience)」,後者では「良心のやましさ(dasboeseGewissen)」,「良心にやましくないこと(dasguteGewissen)」という訳語が使われている。なお中村自身は,「善いとする良心」を本来的良心として捉え直そうとしている。<
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ついでに( ..)φメモメモ
◇ 竹内綱史『ニーチェ哲学における良心という問題』,2003年
・www.jstage.jst.go.jp/article/sprj/20/0/20_65/_article/-char/ja
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