| ・身体的な何かが−動いていること−、例えば、左腕が持ちあがり顔面付近で止まり、左手指が鼻を撫でるといった一連の流れ、換言すると、身体的な何かを−動かしていること−、ここに、私自身の時間感覚の秘密が隠されているのではないか(他人のことは知らない)
・身体が移動しながら意識は一か所に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識している
・上の「空間的」とは、言わば、拡がりをもった内なる精神(意志)、精神の拡がりの全体である
・t1における精神a、t2における精神b、t3における精神c…ではなく
・包括的、空間的なる精神のうちに身体の動きによるt1→t2→t3…という時間感覚(流れ)が生じているようにおもう
・私はさまざまな物の移ろいにさまざまな物のそれぞれの時間をみているのではないか
・それぞれの時間をみている、とは、自分の時間感覚から捉えているということ
・自分の時間感覚とは別に、客観的な時間、つまり時計によって刻まれる時間(時、分、秒)やカレンダーによって示される年・月・日がある
・それらが今や私の時間感覚の規準となっている
・それらが始めからもし全く無いとしたら、私の時間感覚はどうだっただろうか
*******
>時間とは原初的に客観的時間なのであって、ただ個々の変化を知覚していることは時間を把握していることではない。ある有機体が一定の現象の先後を区別できるからといって、直ちにそこに時間意識が芽生えているわけではない。動物が「鈴を鳴らしてから餌をやる」という習慣づけを経て、特定の先後関係に従って行動できたとしても、母親が「いない、いない」と言いながら両手で顔を隠し、そのあとに両手を開けて「ばあ」と顔を出したところ、幼児が声を上げて喜んだとしても、動物や幼児は− 変化を知覚しているが − 時間を認識しているわけではない。< 〔中島義道,p.33〕
・中島の考え方からすれば、私の「時間感覚」とは、たんなる変化の知覚に過ぎない
・だが、私は中島と異なり、「客観的時間」がそもそも原初的なものとは感じられないのだ
・私にとっての「時間感覚」とは、第一義的に、変化、移ろいを感じる間の意識、精神の有り様である
・それは、一定の方向をもつ直線的な、→ t1→ t2 →t3 → ではなく、
・包括的、空間的なる精神のうちに、(身体の動きによるような)t1→t2→t3という時間感覚(流れ)が生じているイメージ (うまく表現できていない)
|