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■37795 / inTopicNo.61)  Re[18]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
  
□投稿者/ うましか -(2024/07/09(Tue) 07:25:44)
    No.37793

    >時間とは原初的に客観的時間なのであって、ただ個々の変化を知覚していることは時間を把握していることではない。ある有機体が一定の現象の先後を区別できるからといって、直ちにそこに時間意識が芽生えているわけではない。動物が「鈴を鳴らしてから餌をやる」という習慣づけを経て、特定の先後関係に従って行動できたとしても、母親が「いない、いない」と言いながら両手で顔を隠し、そのあとに両手を開けて「ばあ」と顔を出したところ、幼児が声を上げて喜んだとしても、動物や幼児は− 変化を知覚しているが − 時間を認識しているわけではない。<
    〔中島義道,p.33〕


    ・中島の考え方からすれば、私の「時間感覚」とは、たんなる変化の知覚に過ぎない

    ・だが、私は中島と異なり、「客観的時間」がそもそも原初的なものとは感じられないのだ

    ・私にとっての「時間感覚」とは、第一義的に、変化、移ろいを感じる間の意識、精神の有り様である

    ・それは、一定の方向をもつ直線的な、→ t1→ t2 →t3 → ではなく、

    ・包括的、空間的なる精神のうちに、(身体の動きによるような)t1→t2→t3という時間感覚(流れ)が生じているイメージ (うまく表現できていない)

    *******

    ・中島によれば、変化は(まだ)時間意識ではない

    ・一定の方向をもつ直線的な(客観的な)「時間」が与えられてから、私の"自己同一性"という問題が生ずる

    ・上でいう「私」は、既に直線上に存在することを前提としている

    ・それに対して、時間感覚としての私は、例えば私の身体的な移ろい(変化)を感じる間の意識、精神の有り様である

引用返信/返信 削除キー/
■37793 / inTopicNo.62)  Re[17]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/07/08(Mon) 23:03:24)
    ・身体的な何かが−動いていること−、例えば、左腕が持ちあがり顔面付近で止まり、左手指が鼻を撫でるといった一連の流れ、換言すると、身体的な何かを−動かしていること−、ここに、私自身の時間感覚の秘密が隠されているのではないか(他人のことは知らない)

    ・身体が移動しながら意識は一か所に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識している

    ・上の「空間的」とは、言わば、拡がりをもった内なる精神(意志)、精神の拡がりの全体である

    ・t1における精神a、t2における精神b、t3における精神c…ではなく

    ・包括的、空間的なる精神のうちに身体の動きによるt1→t2→t3…という時間感覚(流れ)が生じているようにおもう

    ・私はさまざまな物の移ろいにさまざまな物のそれぞれの時間をみているのではないか

    ・それぞれの時間をみている、とは、自分の時間感覚から捉えているということ

    ・自分の時間感覚とは別に、客観的な時間、つまり時計によって刻まれる時間(時、分、秒)やカレンダーによって示される年・月・日がある

    ・それらが今や私の時間感覚の規準となっている

    ・それらが始めからもし全く無いとしたら、私の時間感覚はどうだっただろうか

    *******

    >時間とは原初的に客観的時間なのであって、ただ個々の変化を知覚していることは時間を把握していることではない。ある有機体が一定の現象の先後を区別できるからといって、直ちにそこに時間意識が芽生えているわけではない。動物が「鈴を鳴らしてから餌をやる」という習慣づけを経て、特定の先後関係に従って行動できたとしても、母親が「いない、いない」と言いながら両手で顔を隠し、そのあとに両手を開けて「ばあ」と顔を出したところ、幼児が声を上げて喜んだとしても、動物や幼児は− 変化を知覚しているが − 時間を認識しているわけではない。<
    〔中島義道,p.33〕


    ・中島の考え方からすれば、私の「時間感覚」とは、たんなる変化の知覚に過ぎない

    ・だが、私は中島と異なり、「客観的時間」がそもそも原初的なものとは感じられないのだ

    ・私にとっての「時間感覚」とは、第一義的に、変化、移ろいを感じる間の意識、精神の有り様である

    ・それは、一定の方向をもつ直線的な、→ t1→ t2 →t3 → ではなく、

    ・包括的、空間的なる精神のうちに、(身体の動きによるような)t1→t2→t3という時間感覚(流れ)が生じているイメージ (うまく表現できていない)


引用返信/返信 削除キー/
■37757 / inTopicNo.63)  Re[16]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/07/07(Sun) 16:44:36)
    No.37622,37645

    ・いまさらながら素朴に自分にとっての時間(のような)感覚はどのようなものかを考えてみると、どうも、ジッと物思いしているときはあまり感じられない。考えている一瞬一瞬(一点一点)が<いま>の集積というのは、ちょっと創作めいていて自分には不自然である。


    ・そこで席をたち、歩きながら階段をおりて別室へ向かうと、身体が移動しながらも、意識は一点に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識していた。

     ※「意識が一点に固定されている感覚」と書いたが、一点というよりは、一か所に留まりながら、そのまま移動していると言えるかもしれない


    ・というわけで、現時点での自身の時間・空間感覚をまとめてみると、<いま>という或る種空間化された意識のうちに時間的な流れが含まれており、身体を動かすときに、いわばパッケージ化されたそれを時々で感じるというもの。

     ※ ということは、身体を動かさないときは、時間感覚が流れていない空間化された意識のみが「よどんでいる」ということか。

    ・以上は他の変化(時計の経過、外の景色の変化等)をまったく参照しておらず、私にとって原初的な時間・空間感覚ではないかと記しておきたい。

    *******

    ・身体的な何かが動いていること、例えば、左腕が持ちあがり顔面付近で止まり、左手指が鼻を撫でるといった一連の流れ、換言すると、身体的な何かを動かしていること、ここに、私自身の時間感覚の秘密が隠されている

    ・他人のことは知らない

    >・身体が移動しながらも、意識は一点に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識していた。

    ・上の「空間的」とは、言わば、拡がりをもった内なる精神(意志)、精神の拡がりの全体である

    ・t1における精神a、t2における精神b、t3における精神c…ではなく

    ・包括的、空間的なる精神のうちに身体の動きによるt1→t2→t3…という時間感覚(流れ)が生じているようにおもう

    *******

    No.37646

    ・私はさまざまな物の移ろいにさまざまな物のそれぞれの時間をみているのではないか

    ・それぞれの時間をみている、とは、自分の時間感覚から捉えているということ

    *******

    ・自分の時間感覚とは別に、客観的な時間、つまり時計によって刻まれる時間(時、分、秒)やカレンダーによって示される年・月・日がある

    ・それらが今や私の時間感覚の規準となっている

    ・それらが始めからもし全く無いとしたら、私の時間感覚はどうだっただろうか


引用返信/返信 削除キー/
■37720 / inTopicNo.64)  アウグスティヌス「告白録」(´-`).。oO
□投稿者/ うましか -(2024/07/06(Sat) 11:33:26)
引用返信/返信 削除キー/
■37719 / inTopicNo.65)  高峯一愚の「カント講義」(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/07/06(Sat) 11:24:34)
引用返信/返信 削除キー/
■37646 / inTopicNo.66)  Re[16]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/30(Sun) 22:41:14)
    ・私はさまざまな物の移ろいにさまざまな物のそれぞれの時間をみているのではないか

    ・それぞれの時間をみている、とは、自分の時間感覚から捉えているということ

    (´-`).。oO 相変わらず駄目な出来だ


引用返信/返信 削除キー/
■37645 / inTopicNo.67)  Re[15]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/30(Sun) 22:35:48)
    No37622に返信(うましかさんの記事)
    > 2024/06/29(Sat) 14:33:58 編集(投稿者)
    >
    >><いま>しかないこと、過去や未来を「ある」とするのは、カントの言葉を借りると「仮象」であること、しかしまさにカントが示したように、きわめて自然な仮象であることのをひとまず描き切った感じがした。
    >  私の問いは<、<いま>しかないのに、すなわち過去も未来もないのに、あたかもあるかのような感じがかるのはなぜか、という問いに変質していった。その不思議さの中核に「言葉」があることは確かである。われわれが言葉を学ぶと、過去も未来もあるかのような仮象、すなわちそれぞれの<いま>を超えて時間・空間的に広がっているという「客観的世界」があるかのような仮象に自然に導かれてしまうのだ。
    >  本書のテーマは、われわれの世界に対する実感の奥底に根を張るこうした強靭な仮象と、「私」の死とを結びつけることである。< 〔中島,p.14〕
    >
    > *******
    >
    > >私の問いは<、<いま>しかないのに、すなわち過去も未来もないのに、あたかもあるかのような感じがあるのはなぜか、という問いに変質していった。その不思議さの中核に「言葉」があることは確かである。われわれが言葉を学ぶと、
    >
    > ・中島の問いの内容はさておき、彼がいうようにその問いの中核に「言葉」があり、それを学ぶことによって、私のうちに(客観的な)時間が「あたかもあるかのよう」に感じるようになった自分を振り返ることはむずかしいことではない。
    >
    > ・と同時に、いまさらながら素朴に自分にとっての時間(のような)感覚はどのようなものかを考えてみると、どうも、ジッと物思いしているときはあまり感じられない。考えている一瞬一瞬が<いま>の集積というのは、ちょっと創作めいていて自分には不自然である。
    >
    > ・そこで席をたち、歩きながら階段をおりて別室へ向かうと、身体が移動しながらも、意識は一点に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識していた。
    >
    > ・というわけで、現時点での自身の時間・空間感覚をまとめてみると、<いま>という或る種空間化された意識のうちに時間的な流れが含まれており、身体を動かすときに、いわばパッケージ化されたそれを時々で感じるというもの。
    >
    >  ※【追記】ということは、身体を動かさないときは、時間感覚が流れていない空間化された意識のみが「よどんでいる」ということか。
    >
    > ・以上は他の変化(時計の経過、外の景色の変化等)をまったく参照しておらず、私にとって原初的な時間・空間感覚ではないかと記しておきたい。
    >
    *******

    ・身体的な何かが動いていること、例えば、左腕が持ちあがり顔面付近で止まり、左手指が鼻を撫でるといった一連の流れ、換言すると、身体的な何かを動かしていること、ここに、私自身の時間感覚の秘密が隠されている

    ・他人のことは知らない

    >・身体が移動しながらも、意識は一点に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識していた。

    ・上の「空間的」とは、言わば、拡がりをもった内なる精神(意志)、精神の拡がりの全体である

    ・t1における精神a、t2における精神b、t3における精神c…ではなく

    ・包括的、空間的なる精神のうちに身体の動きによるt1→t2→t3…という時間感覚(流れ)が生じているようにおもう


    (´-`).。oO 沼から後退、全く駄目な出来だ



引用返信/返信 削除キー/
■37628 / inTopicNo.68)  片柳栄一「アウグスティヌスの時間論」
□投稿者/ うましか -(2024/06/29(Sat) 19:05:29)
    >私の問いは<、<いま>しかないのに、すなわち過去も未来もないのに、あたかもあるかのような感じがかるのはなぜか、という問いに変質していった。その不思議さの中核に「言葉」があることは確かである。われわれが言葉を学ぶと、過去も未来もあるかのような仮象、すなわちそれぞれの<いま>を超えて時間・空間的に広がっているという「客観的世界」があるかのような仮象に自然に導かれてしまうのだ。〔中島義道『時間と死』,p.14〕

    *******

    ◇片柳栄一『アウグスティヌスの時間論 − アリストテレスとの対比において −』,1983年

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/268372




引用返信/返信 削除キー/
■37622 / inTopicNo.69)  Re[14]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/29(Sat) 14:28:09)
    2024/06/29(Sat) 14:33:58 編集(投稿者)

    > <いま>しかないこと、過去や未来を「ある」とするのは、カントの言葉を借りると「仮象」であること、しかしまさにカントが示したように、きわめて自然な仮象であることのをひとまず描き切った感じがした。
     私の問いは<、<いま>しかないのに、すなわち過去も未来もないのに、あたかもあるかのような感じがかるのはなぜか、という問いに変質していった。その不思議さの中核に「言葉」があることは確かである。われわれが言葉を学ぶと、過去も未来もあるかのような仮象、すなわちそれぞれの<いま>を超えて時間・空間的に広がっているという「客観的世界」があるかのような仮象に自然に導かれてしまうのだ。
     本書のテーマは、われわれの世界に対する実感の奥底に根を張るこうした強靭な仮象と、「私」の死とを結びつけることである。< 〔中島,p.14〕

    *******

    >私の問いは<、<いま>しかないのに、すなわち過去も未来もないのに、あたかもあるかのような感じがあるのはなぜか、という問いに変質していった。その不思議さの中核に「言葉」があることは確かである。われわれが言葉を学ぶと、

    ・中島の問いの内容はさておき、彼がいうようにその問いの中核に「言葉」があり、それを学ぶことによって、私のうちに(客観的な)時間が「あたかもあるかのよう」に感じるようになった自分を振り返ることはむずかしいことではない。

    ・と同時に、いまさらながら素朴に自分にとっての時間(のような)感覚はどのようなものかを考えてみると、どうも、ジッと物思いしているときはあまり感じられない。考えている一瞬一瞬が<いま>の集積というのは、ちょっと創作めいていて自分には不自然である。

    ・そこで席をたち、歩きながら階段をおりて別室へ向かうと、身体が移動しながらも、意識は一点に固定されている感覚があり、動いている間は、或る種の時間感覚(流れ)を感じつつ、同時にそれを包括的、空間的に意識していた。

    ・というわけで、現時点での自身の時間・空間感覚をまとめてみると、<いま>という或る種空間化された意識のうちに時間的な流れが含まれており、身体を動かすときに、いわばパッケージ化されたそれを時々で感じるというもの。

     ※【追記】ということは、身体を動かさないときは、時間感覚が流れていない空間化された意識のみが「よどんでいる」ということか。

    ・以上は他の変化(時計の経過、外の景色の変化等)をまったく参照しておらず、私にとって原初的な時間・空間感覚ではないかと記しておきたい。




引用返信/返信 削除キー/
■37619 / inTopicNo.70)  Re[14]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/29(Sat) 07:59:41)
    2024/06/29(Sat) 08:17:52 編集(投稿者)

    No37605に返信(うましかさんの記事)
    > ◇中島義道『時間と死 − 不在と無のあいだで』,2024年
    >
    > ・https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480512451/
    >
    > >「自分が死ぬとしたら人生には意味がない」? 客観的世界が仮象であるならば、違った転換が可能になる。著者が積年の問題に、遂に解答をあたえる。<
    >
    > *******
    >
    > ・中島は「自分がいずれ死ぬとしたら人生には何の意味もない」という「呪縛」に捉われて(囚われて?)きたらしい
    >
    > ・私は幸か不幸か、自分の人生の意味の有無について意識した経験に乏しい、というか無い
    >
    > ・身体的不調でもうだめかも、、、という状況でも「死にたくない!」という感情が先立っていた
    >
    > ・中島の「哲学的思考の到達点」とは、「「私」は単に人間として死んで終わりであるような存在ではないという地点」だと本カバー裏の紹介文にまとめてある
    >
    > ・身体的危機に面したときの私の「死にたくない!」というきわめて単純な感情は、中島の「死んで終わり」という言葉とつながっているようにおもう
    >
    > ・もっとも、私の場合は「死んで終わり」だとおもっているから「死にたくない!」のだろうが
    >
    > (´-`).。oO 沼の畔にて
    >

    *******

    ・中島の「哲学的思考の到達点」とは、「「私」は単に人間として死んで終わりであるような存在ではないという地点」だと本カバー裏の紹介文にまとめてある

    ・身体的危機に面したときの私の「死にたくない!」というきわめて単純な感情は、中島の「死んで終わり」という言葉とつながっているようにおもう

    ・もっとも、私の場合は「死んで終わり」だとおもっているから「死にたくない!」のだろうが

    ・もし中島のように「死んで終わりであるような存在ではない」とおもいたい場合があるとすれば、私としては、その「存在」は、私と近しい人々である

    ・おそらくそうした「感情」は、中島のいう「私」(自分自身)よりも、ごく自然に、そうした対象(私と近しい人々)に向けて湧き上がるものであろう

    ・もっとも、この場合もやはり、「死んで終わり」だとおもっているから「死んでほしくない!(失いたくない!)」のだろう

    *******

    ・私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する

    ・私の世界の限界は、私の言語の限界(沈黙)を意味する


    (´-`).。oO Ω\ζ°)チーン


引用返信/返信 削除キー/
■37618 / inTopicNo.71)  クシュナーの「現代のヨプ記」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/29(Sat) 07:33:17)
    ◇ H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか − 現代のヨプ記』,2008年

    https://www.iwanami.co.jp/book/b256413.html

    *******

    >本書の原題は,“When Bad Things Happen to Good People”(『善良な人に悪いことが起こるとき』)ときという本の全訳


引用返信/返信 削除キー/
■37617 / inTopicNo.72)  Re[14]: 中島義道「時間と死」(´-ω-`)
□投稿者/ うましか -(2024/06/29(Sat) 07:22:20)
    2024/06/29(Sat) 09:12:51 編集(投稿者)

    No37605に返信(うましかさんの記事)
    > ◇中島義道『時間と死 − 不在と無のあいだで』,2024年
    >
    > ・https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480512451/
    >
    > >「自分が死ぬとしたら人生には意味がない」? 客観的世界が仮象であるならば、違った転換が可能になる。著者が積年の問題に、遂に解答をあたえる。<
    >
    > *******
    >
    > ・中島は「自分がいずれ死ぬとしたら人生には何の意味もない」という「呪縛」に捉われて(囚われて?)きたらしい
    >
    > ・私は幸か不幸か、自分の人生の意味の有無について意識した経験に乏しい、というか無い
    >
    > ・身体的不調でもうだめかも、、、という状況でも「死にたくない!」という感情が先立っていた
    >
    > ・中島の「哲学的思考の到達点」とは、「「私」は単に人間として死んで終わりであるような存在ではないという地点」だと本カバー裏の紹介文にまとめてある
    >
    > ・身体的危機に面したときの私の「死にたくない!」というきわめて単純な感情は、中島の「死んで終わり」という言葉とつながっているようにおもう
    >
    > ・もっとも、私の場合は「死んで終わり」だとおもっているから「死にたくない!」のだろうが
    >
    > (´-`).。oO 沼の畔にて
    >

    *******

    ・私が「人生の意味への問い」を知ったきっかけは、フランクルによる強制収容所での体験談であった

    ・もし私が、私以外の人間の勝手な都合により自分の生をもてあそばれたあげく、死に向かいつつあるならば、

    ・そのとき私は、死にたくない!と叫びつつ、消えゆく意識のなかで私の生とはなんだったのだろうか?と嘆くにちがいない

    ・「私の生とはなんだったのだろうか?」という嘆き、これが<人生の意味>への問いの端緒だとおもう

    ・私の場合、私の生の継続が脅かされる危機的状況であることが、こうした問いの発せられる条件なのだとおもう

    ・換言すれば、もしこうした状況に陥っていなければ、或いは、こうした状況と無関係には、私は自身の<人生の意味>を問うことは無いだろうということ

    ・したがって今のところ、私は、<人生の意味>よりも、そうした状況をいかに回避するか、或いはどう付き合っていくか、ということに関心がある


引用返信/返信 削除キー/

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