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ネーゲルのコウモリであること(;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2024/09/08(Sun) 22:34:06)
| ◇トマス・ネーゲル/永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』,1989年
・https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26794.html
新装版があるらしい
・https://www.keisoshobo.co.jp/book/b637133.html
原典はこちら
・https://www.sas.upenn.edu/~cavitch/pdf-library/Nagel_Bat.pdf
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タイトルの論文が収められているのが、p.258〜p.282
>しかし、根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物である≠アととはそのようにあることであるような何かが − しかもその生物にとって≠サのようにあることであるような何かが − 存在している場合であり、またその場合だけなのである。 われわれはこれを、経験の主観的性格と呼んでよいだろう。それは、心的なものに関して最近考察されたような周知の還元的分析のどれによっても捉えられない。というのも、それらの分析はどれも、そのような主観的性格が存在しないことと論理的に両立可能だからである。この性格は、心の機能的な状態や志向的な状態の観点からなされる説明体系によっては分析不可能である。そうした状態ならば、人間のように振舞いはするが何ごとも体験することのないロボットやオートマトンもまた、持っていると言えるからである。この主観的性格はまた、同じ理由によって、人間の典型的な振舞い方との関連における諸体験の因果的な役割によっても、分析不可能である。< 〔ネーゲル,p.260〕
>私はここで、体験がその所有者にのみ知られうるといういわゆる私秘性の問題に言及しているのではない。いま問題となっている視点とは、一人の人間にしか近づきえないようなものではないのだ。むしろ、それは一つの型≠ネのである。自分自身の視点以外をとることもしばしば可能なのであって、それゆえ、特定の視点を具現しているような事実を理解することは、自分自身の場合以外にも可能なのである。ある意味では、現象学的事実とはまったく客観的なものである。一人の人間は他の人間のもつ体験の性質が何であるかを知ったり言ったりすることができるからである。しかし別の意味では、それはやはり主観的なものである。ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは、その対象に十分似ているために彼の視点をとってみることができる − いわば第三人称においてと同時に第一人称においてその帰属を理解することができる − ような主体だけだからである。他の体験主体の自分との違いが大きければ大きいほど、彼の視点をとってみようとする試みの成功は望み薄となる。われわれ自身の場合には、適切な視点がすでに用意されている。だが、もし他の視点からわれわれ自身の体験に接近しようとすれば、その体験を正しく理解することはきわめて困難となろう。それはちょうど、その生物種≠フ視点をとることなしに、ある生物種の体験を理解しようとする際に、われわれが陥る困難と同じものであろう。< 〔同, p.268〜p.269〕
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