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■39172 / inTopicNo.37)  うましかの密かな楽しみ(;´・ω・)
  
□投稿者/ うましか -(2024/10/29(Tue) 19:42:49)
    ・12月14日(日本時間12月15日)、WBA S.バンタム級1位のムロジョン・アフマダリエフが同級13位と暫定王者決定戦

    ・12月15日、IBFバンタム級王者の西田凌佑が同級14位と初防衛戦

    ・12月24日、S.バンタム級4団体統一王者の井上尚弥がWBO&IBF1位サム・グッドマンと防衛戦


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■38936 / inTopicNo.38)  美術手帖 AIと創造性(・´з`・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/22(Sun) 21:29:41)
    2024/09/23(Mon) 14:59:03 編集(投稿者)
    2024/09/22(Sun) 21:39:54 編集(投稿者)

    ◇「美術手帖2024年10月号 特集 AIと創造性」

    https://bijutsu.press/books/5506/

    *******

    ・「美術手帖」を久しぶりに購入した(いつもは立ち読み(;´・ω・))

    ・巻頭のマンガ(「SF?マンガ AIとアーティスト@美大編」)をながめて苦笑、ある作品についてAIが使用されたか、どう生成されたかを美大で議論している

    ・で、主人公の最後のコトバ「どれだけAIが進化しても人の手による表現の価値はなくならない」「むしろ高まるんだな」(たぶん……) 〔p.15〕

    ・というのも、生成AIは過去にあった線や構図を真似するには便利だが、新しいものを生み出すには私たちにもっと勉強と訓練が必要だから、とのこと〔p.14参照〕

    *******

    ・いったいAIに絵画を(人が)描かせるのは、その絵画に人の表現並み(或いはそれ以上)の価値をもたせるためにしていることなのだろうか?

    https://www.waseda.jp/top/news/89507

    ・それはともかく、そもそもいったい人はなぜ絵を描くのか? 
     いったいチミはなぜ絵を描くのか?と美大生あたりに問いたいものだ

    ・AI、少なくとも現時点で実現されているAIだって描きたくて描いてるわけじゃないだろうに。。。






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■38934 / inTopicNo.39)  現代思想:D.デネット(´・ω・`)
□投稿者/ うましか -(2024/09/22(Sun) 18:58:46)
    ◇「現代思想2024年10月臨時増刊号 総特集=ダニエル・C・デネット -1942-2024 意識と進化の哲学-」

    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3961

    *******

    ・書店でデネットだ! と手にとった

    ・と同時に、なんで今デネット…もしや…とふと不安になる

    ・ああ、やっぱりD.デネット死す、しかも4月に
     https://innovatopia.jp/ai/ai-news/40181/

    ・知らなかった( ノД`)シクシク… おつかれさまでしたm(__)m 




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■38862 / inTopicNo.40)  Re: コウモリであること(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/15(Sun) 22:10:49)
    No.38717

    >私はここで、体験がその所有者にのみ知られうるといういわゆる私秘性の問題に言及しているのではない。

    いま問題となっている視点とは、一人の人間にしか近づきえないようなものではないのだ。むしろ、それは一つの型=ka type=lなのである。

    自分自身の視点以外をとることもしばしば可能なのであって、それゆえ、特定の視点を具現しているような事実を理解することは、自分自身の場合以外にも可能なのである。

    ある意味では、現象学的事実とはまったく客観的なもの〔objective〕である。一人の人間は他の人間のもつ体験の性質が何であるかを知ったり言ったりすることができるからである。

    しかし別の意味では、それはやはり主観的なもの〔subjective〕である。ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは、その対象に十分似ているために彼の視点をとってみることができる − いわば第三人称においてと同時に第一人称においてその帰属を理解することができる − ような主体だけだからである。

    他の体験主体〔experiencer〕の自分との違いが大きければ大きいほど、彼の視点をとってみようとする試みの成功は望み薄となる。

    われわれ自身の場合には、適切な視点がすでに用意されている。だが、もし他の視点からわれわれ自身の体験に接近しようとすれば、その体験を正しく理解することはきわめて困難となろう。

    それはちょうど、その生物種≠フ視点をとることなしに、ある生物種の体験を理解しようとする際に、われわれが陥る困難と同じものであろう。<

    〔ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」, 訳書p.268〜p.269〕

    *******

    ・私うましかが、友人いのしかさんの気持ちをどう推し量るかについて考えてみよう

    ・私は、いのしかさんの気持ちを第三人称的に推し量るばかりではなく

    ・いのしかさんの気持ちを第一人称的にも推し量るのだ<三人称としての「私」?

    ・他方、私うましかが、夜空にまうBatの"気持ち"を第一人称的に推し量ることは困難である(擬"人"化はしない)

    ・というのも、いのしかさんと私は似ているが、Batと私は違うからだ

    ・Batであるとはどのようなことか、Batにでもならないかぎり、私にはわからない、ということか。。。(;´・ω・)沼

    *******

    ◇トマス・ネーゲル/永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』,1989年

    https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26794.html


    の目次は、あらためてながめると興味ぶかいですね(;´・ω・)

    >序文
    1 死
    2 人生の無意味さ
    3 道徳における運の問題
    4 性的倒錯
    5 戦争と大量虐殺
    6 公的行為における無慈悲さ
    7 優先政策
    8 平 等
    9 価値の分裂
    10 生物学の埒外にある倫理学
    11 大脳分離と意識の統一
    12 コウモリであるとはどのようなことか
    13 汎心論
    14 主観的と客観的<


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■38841 / inTopicNo.41)  井保和也「お前が言うな」を哲学(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/15(Sun) 11:08:20)
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■38718 / inTopicNo.42)  Re: コウモリであること(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/08(Sun) 23:27:45)
    ネーゲルいわく、

    >この〔経験の主観的〕性格は、心の機能的な状態や志向的な状態の観点からなされる説明体系によっては分析不可能である。そうした状態ならば、人間のように振舞いはするが何ごとも体験することのないロボットやオートマトンもまた、持っていると言えるからである。

    ネーゲルは「ロボット」や「オートマトン」をはじめから「人間のように振舞いはするが何ごとも体験することのない」ものだとしたうえで、それらが主観的なものを有することを認めない。しかし、それらが感覚やAI(人工知能)を有したらどうか?〔 No.38551 参照〕 そこではAI自体の感じる「主観的なもの」と、それが還元される「客観的なもの」が一致するのではないか?
    しかし、上の一致は、私うましかの主観的体験と、私の脳内で起きている現象との対応とおなじなのであろうか?
引用返信/返信 削除キー/
■38717 / inTopicNo.43)  ネーゲルのコウモリであること(;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/08(Sun) 22:34:06)
    ◇トマス・ネーゲル/永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』,1989年

    https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26794.html

    新装版があるらしい

    https://www.keisoshobo.co.jp/book/b637133.html

    原典はこちら

    https://www.sas.upenn.edu/~cavitch/pdf-library/Nagel_Bat.pdf

    *******

    タイトルの論文が収められているのが、p.258〜p.282

    >しかし、根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物である≠アととはそのようにあることであるような何かが − しかもその生物にとって≠サのようにあることであるような何かが − 存在している場合であり、またその場合だけなのである。
     われわれはこれを、経験の主観的性格と呼んでよいだろう。それは、心的なものに関して最近考察されたような周知の還元的分析のどれによっても捉えられない。というのも、それらの分析はどれも、そのような主観的性格が存在しないことと論理的に両立可能だからである。この性格は、心の機能的な状態や志向的な状態の観点からなされる説明体系によっては分析不可能である。そうした状態ならば、人間のように振舞いはするが何ごとも体験することのないロボットやオートマトンもまた、持っていると言えるからである。この主観的性格はまた、同じ理由によって、人間の典型的な振舞い方との関連における諸体験の因果的な役割によっても、分析不可能である。< 〔ネーゲル,p.260〕

    >私はここで、体験がその所有者にのみ知られうるといういわゆる私秘性の問題に言及しているのではない。いま問題となっている視点とは、一人の人間にしか近づきえないようなものではないのだ。むしろ、それは一つの型≠ネのである。自分自身の視点以外をとることもしばしば可能なのであって、それゆえ、特定の視点を具現しているような事実を理解することは、自分自身の場合以外にも可能なのである。ある意味では、現象学的事実とはまったく客観的なものである。一人の人間は他の人間のもつ体験の性質が何であるかを知ったり言ったりすることができるからである。しかし別の意味では、それはやはり主観的なものである。ある対象にある体験を客観的に帰属させることができるのは、その対象に十分似ているために彼の視点をとってみることができる − いわば第三人称においてと同時に第一人称においてその帰属を理解することができる − ような主体だけだからである。他の体験主体の自分との違いが大きければ大きいほど、彼の視点をとってみようとする試みの成功は望み薄となる。われわれ自身の場合には、適切な視点がすでに用意されている。だが、もし他の視点からわれわれ自身の体験に接近しようとすれば、その体験を正しく理解することはきわめて困難となろう。それはちょうど、その生物種≠フ視点をとることなしに、ある生物種の体験を理解しようとする際に、われわれが陥る困難と同じものであろう。< 〔同, p.268〜p.269〕




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■38579 / inTopicNo.44)  うましか密かに涙する(´;ω;`)ウッ…
□投稿者/ うましか -(2024/09/03(Tue) 23:47:50)
    比嘉選手の試合後会見みてたら胸がいっぱいになったです



引用返信/返信 削除キー/
■38569 / inTopicNo.45)  うましかさんへ (´∀`)ノ
□投稿者/ パ二チェ -(2024/09/03(Tue) 08:48:51)
    2024/09/03(Tue) 08:51:21 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。

    No38551に返信(うましかさんの記事)

    > >身体性や生死に相当するものが与えられても、AIにはクオリアや自我が芽生えないと思います。理由は身体性だけを有しても感覚(五感)と主体が同時に成立していなければクオリアは生じないでしょうし、また生死に相当するプログラムが与えられたとしても、自己保存本能と主体が同時成立していなければ生死に意味や価値をなさないと思います。ちなみに人間は自利の根底には自己保存本能が、利他の根底には種の保存本能という矛盾したベクトルを有しながらこれを止揚する能力があると考えています。

    > これは、とても勉強になるコメントですねφ(..)メモメモ
    > ありがたいです。
    > おもったことを書いてみます(;´・ω・)

    私も以下は忖度なし、好き勝手に返信してみますので返信はお気遣いなく♪

    > もし身体に相当するものを有したAI〔アーティフィシャル・インテリジェンス〕の感覚(五感)を統合する機能、それをかりに「主体」と呼びましょう− が与えられたとすれば、そのAIの感覚によって得られたものをAIの主観的体験とすることはできないでしょうか。というのも、当のAIの「身体」がその時その場で得た感覚ですから、それ自体にとっての体験には違いないとおもうので。

    理屈的にはうましかさんの言う通りですが。。。
    あえて先のレスでは「主体」と表現しましたがパニチェ的には〈私〉なんですね。
    結論から言うと科学の定義や唯物論の網目をすり抜ける〈私〉はアルゴリズム上のAIでは再現不可能です(再現不可能なところに〈私〉の本質がある)。

    > >生死に相当するプログラムが与えられたとしても、自己保存本能と主体が同時成立していなければ生死に意味や価値をなさないと思います。
    > ちょっと未だよく分からないのですが、「自己保存本能」の"自己"とは「主体」とどう区別されるのかな… 自らの身体の生滅に対して自らを保存しようと意志する本能的な主体の内的な感覚(主観的体験)について意味付け、価値付けしようとするメタ自己(。´・ω・)?

    自己、自我、主体 etc これらの本質が〈私〉です。

    > >ちなみに人間は自利の根底には自己保存本能が、利他の根底には種の保存本能という矛盾したベクトルを有しながらこれを止揚する能力があると考えています。
    >
    > 一瞬、独りになりたい寂しがり屋さんの知人をおもい浮かべてしまいました(;・∀・)
    >
    > 最後に No.38548 で紹介した本のなかから…
    >
    > >人工恋人[アーティフィシャルラバー]ははっきり2タイプに分類することができる。1つめは従順な、快楽の提供者としてのロボットで、「ブレードランナー」や続編「ブレードランナー2049」がその典型例を示している。…(略)… 1982年の第1作に登場する主要な女性キャラクターは一様にセクシャライズされているか、モノ化されている。…(略)… ヒロインである<レイチェル>でさえも、レプリカント狩りの<デッカード>に言い寄られてセックスを強要されるシーンがあるなど、従属的なレプリカントとして描かれている。女性の人工恋人[アーティフィシャルラバー]たちは男性に奉仕する存在として描かれる。< 〔前掲書、p.196〜p.197〕
    >
    > デッカードの抱える「矛盾」( No.38529 参照)、レイチェルにはどう映ったか?(゚Д゚;)

    そういう矛盾を抱えるところが人間らしいとか。。。((´∀`))ケラケラ

引用返信/返信 削除キー/
■38551 / inTopicNo.46)  パニチェさんへ(・ω・)ノ
□投稿者/ うましか -(2024/09/01(Sun) 22:52:13)
    こんばんはー

    返信ありがとうございますm(__)m

    No.38515 (パニチェさん)

    >身体性や生死に相当するものが与えられても、AIにはクオリアや自我が芽生えないと思います。理由は身体性だけを有しても感覚(五感)と主体が同時に成立していなければクオリアは生じないでしょうし、また生死に相当するプログラムが与えられたとしても、自己保存本能と主体が同時成立していなければ生死に意味や価値をなさないと思います。ちなみに人間は自利の根底には自己保存本能が、利他の根底には種の保存本能という矛盾したベクトルを有しながらこれを止揚する能力があると考えています。

    これは、とても勉強になるコメントですねφ(..)メモメモ
    ありがたいです。

    おもったことを書いてみます(;´・ω・)

    もし身体に相当するものを有したAI〔アーティフィシャル・インテリジェンス〕の感覚(五感)を統合する機能、それをかりに「主体」と呼びましょう− が与えられたとすれば、そのAIの感覚によって得られたものをAIの主観的体験とすることはできないでしょうか。というのも、当のAIの「身体」がその時その場で得た感覚ですから、それ自体にとっての体験には違いないとおもうので。

    >生死に相当するプログラムが与えられたとしても、自己保存本能と主体が同時成立していなければ生死に意味や価値をなさないと思います。

    ちょっと未だよく分からないのですが、「自己保存本能」の"自己"とは「主体」とどう区別されるのかな… 自らの身体の生滅に対して自らを保存しようと意志する本能的な主体の内的な感覚(主観的体験)について意味付け、価値付けしようとするメタ自己(。´・ω・)?

    >ちなみに人間は自利の根底には自己保存本能が、利他の根底には種の保存本能という矛盾したベクトルを有しながらこれを止揚する能力があると考えています。

    一瞬、独りになりたい寂しがり屋さんの知人をおもい浮かべてしまいました(;・∀・)

    最後に No.38548 で紹介した本のなかから…

    >人工恋人[アーティフィシャルラバー]ははっきり2タイプに分類することができる。1つめは従順な、快楽の提供者としてのロボットで、「ブレードランナー」や続編「ブレードランナー2049」がその典型例を示している。…(略)… 1982年の第1作に登場する主要な女性キャラクターは一様にセクシャライズされているか、モノ化されている。…(略)… ヒロインである<レイチェル>でさえも、レプリカント狩りの<デッカード>に言い寄られてセックスを強要されるシーンがあるなど、従属的なレプリカントとして描かれている。女性の人工恋人[アーティフィシャルラバー]たちは男性に奉仕する存在として描かれる。< 〔前掲書、p.196〜p.197〕

    デッカードの抱える「矛盾」( No.38529 参照)、レイチェルにはどう映ったか?(゚Д゚;)

    相手が「エクス・マキナ」のエヴァだったらとおもうとΣ(゚∀゚ノ)ノキャー

    では〜(/・ω・)/


引用返信/返信 削除キー/
■38548 / inTopicNo.47)  ケイト・デヴリンのturned on! (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2024/09/01(Sun) 21:49:02)
引用返信/返信 削除キー/
■38529 / inTopicNo.48)  Re[29]: うましかメモ(;´・ω・)
□投稿者/ パ二チェ -(2024/09/01(Sun) 08:39:06)
    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。

    No38515に返信(うましかさんの記事)

    > >身体性や生死がないAIにクオリアや自我が芽生えるはずがない。
    > もし身体性や生死に相当するものが与えられるならば、AIにもそういったものが芽生えるのでしょうか?

    身体性や生死に相当するものが与えられても、AIにはクオリアや自我が芽生えないと思います。
    理由は身体性だけを有しても感覚(五感)と主体が同時に成立していなければクオリアは生じないでしょうし、また生死に相当するプログラムが与えられたとしても、自己保存本能と主体が同時成立していなければ生死に意味や価値をなさないと思います。ちなみに人間は自利の根底には自己保存本能が、利他の根底には種の保存本能という矛盾したベクトルを有しながらこれを止揚する能力があると考えています。

    > ・https://www.youtube.com/watch?v=ZcoWJuh7CkU

    デッガードは人間とレプリカントを差別し、レプリカントに対しては非情であったが、秘書であるレイチェルにはレプカントであると知りながら好意を寄せるという矛盾を抱えていた。
    バッティは人間から設定された寿命が尽きる直前であることを悟りながらもデッガードに対しては情けをかけ救出し、最期のメッセージとともに微笑んで死んだ。
    人間らしいのはデッカードか、それともバッティか。。。


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