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【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】を読んでて、わたしの印象に残ってるのが、「本能」とか「欲望」っていうの。
部分的に書き出して見るね。
3の一部(p14) ********* 十分に長い間、虱(しらみ)つぶしに監視してきた挙句、私は自分に言うのだが、意識的な思惟の大部分をなお本能活動のうちに数えなければならない。しかも哲学的な思惟の場合でさえもそうなのである。遺伝や「生得性」に関して学び直したように、ここでも再び学び直さなければならない。分娩の作用が遺伝の進行や継続の全過程において問題とならないように、「意識している」ということも何か決定的な意味で本能的なものと対立したものではない。――或る哲学者の大概の意識的な思惟は、その本能によって秘かに導かれ、一定の軌道を進むように強いられている。あらゆる論理とその運動の外見上の自主性の背後にも、評価が、もっと明瞭に言えば、或る一定の生の保存のための生理的な要求が存している。例えば、確定したものは不確定なものより以上の価値があり、仮象は「真理」より以下の価値をもつ。このような評価は、われわれにとってどれほど重要な規制力をもっていようとも、やはり単に前景的な評価にすぎないもので、われわれの如き生物の保持のためにこそ必要な一定の《愚かさ》でしかない。もっともこれは、格別に人間が「事物の尺度」なのではない、と仮定してのことであるが…‥…・ *********
36の一部(p63) ********* 実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれはまさにわれわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降することも上昇することもできないとすれば――思惟することはこれらの衝動が相互に関係し合うことにすぎないから――、この「与えられて」いるものがその同類のものから更にいわゆる機械的(または「物質的」)世界をも理解するに十分でないかどうかを、試みに問うことが許されるのではないか。・・・・・・・・・・・ *********
わたし勝手に見ちゃって、 〈実存私に与えられているのは欲望。意識的な思惟もこの欲望という本能活動のうちに入ってる〉みたいな? もっと飛んじゃって、 〈知りたい〉っていう欲望(人のもつ一つの本能活動)のうちで〈考えてる〉、みたいな?
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