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■32911 / inTopicNo.1)  Re[61]: みのりさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/07(Thu) 15:03:43)
    みのりさん、こんにちは。

    申し訳ありませんm(__)m

    こっちのトピがまだ残っていることに気づかず、新トピのほうに投稿してしまいました。すみませんでした。

    *******

    本の話、少し読ませてもらったんですが、

    私は、子供のころから本屋通いを趣味とし、

    かつてボロアパート住まいだったころ、本棚の重みで床が沈んできて、
    あせって引っ越しをしたことのある人間です(笑)

    また、これまでの人生で、たぶん一番お金を使ったのも書籍代だと思います。

    幸い、私の周りにはそれを気持ち悪いと思うひとはいなかった(と信じたい(笑))、ので、まだ恵まれているのでしょうかね…。
引用返信/返信 削除キー/
■32910 / inTopicNo.2)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/07(Thu) 14:03:44)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No32902に返信(みのりさんの記事)
    > > 後は、蛇足なりますが、原始の中では「私が存在するというのは、妄想です」という表現もされているようです。

    > 薄っすらとした記憶をたどり、今、ネットで調べてみてなのですが、スッタニパータの第五章にある記述がそれに相当しますか?

    いいえ。それを書いた時に思いの中にあった「私は存在するというこのは妄想ですよ」と言う表現は、中部経典の140経「界分別経」にあるのですね。後は、小部経典の3経「ウダーナ」の1-10の「バーヒヤ」に、「バーヒヤよ、あなたはまさにこの世になく、あの世になく、両者の中間において存在しないのです。」等の訳文があるようです。他にも探せば見つかるように思います。^^

    > 私というものは実体として存在しているのではない、としても、実際、犯罪し放題でいいわけはないですものね。
    > 被害者はもちろん苦しむし、加害者も事件を起こすに至るまでに様々な意味で恵まれた環境にはいないことが多いですから、裁きは司法にお任せするとしても、一言でいうなら「生まれてきてよかった」と誰もがじんわりと思えるような世界になるといいなと思います。
    > それにより犯罪も減少するのではないかな、と。
    > 甘いかもですがそんなふうに考えています。

    私もみのりさんと同じく「生まれてきてよかった」と思えるような世の中になればいいなぁと思います。現実には、難しいのかもしれませんが^^

    > 今、ふと思ったのですが、電子書籍だと場所を取らなくていいのかもですね。
    > 時さんは利用されていますか?

    私の場合には、10数年前までは多くの書籍を読んでいましたが、眼が悪くなり、細かい字が読みにくくなりだしてからはほとんど書籍を読んでいませんし、電子書籍も最初はお試しでやった記憶はありますが、感覚的に合わなさそうでしたので利用していませんね。でも、仰るように、電子書籍ならば場所を取りませんので、そう言った意味では良いと思います。ですので今は、興味を引くようなものはもっぱらネットで読んだりしています。

    > なんかこんなこと書くと可哀そうな人みたいですけど(笑)、家族が本をまったく読まないので、異質(頭だいじょうぶ? みたいに)、気持ち悪いみたいに思うんでしょうね。(笑)
    > でも、世間の普通ってそうなんだと思うんですね。

    はい。世間の普通ですよね。。

    たくさん読書される方個人の世界では、読むのが普通であり、あまり読書をされない方個人の世界では、読まないのが個人的には普通なのでしょう。でも、両者が入り乱れての各人の視点での世界観=世間でしょうから、、、これも無理くり定義するのならば、世間の普通とは、各人の世界観における最低6割以上の人が行う行為。と、私ならば自身を一応は納得させるでしょうか(笑)

    つまりは、みのりさん個人はたくさん読書をするのが個人の世界での普通なのですが、みのりさんの世界観に登場する周りの人々は、あまり読書をされない方が多く(6割以上)おられるという事で、その世界観での中では、読書をされない方の人が多いという事ですね。そしてみのりさん個人の世界とは相反して、みのりさんの世界観でそれが普通(6割以上)だとみのりさんが感じるという事でしょう。その普通の人々(読書をしない人々)から見れば、異質(頭だいじょうぶ? みたいに)、気持ち悪いみたいに思われてもおかしなことではないですね。逆に、読書家のみのりさんからすれば、読書をあまりしない人々を、異質と感じても、何も感じなくても良いことですものね。どちらにしても、問題なさそうですよ^^

    という事で、みのりさんのご認識での「世間の普通ってそうなんだと思う」という事と合致しそうですね。

    ですので、哲学の世界では、その人物の周りに観念論者が6割以上ならば、その場においては観念論が普通であり、唯物論者が6割以上ならば、その場においては唯物論が普通。天動説が普通の時代には、それが普通であり、地動説の時代では、それが普通ですものね。(笑)

    なにか趣旨とはずれたややこしげなお話になりましたので、スルーという事でご容赦いただければと思います。

    >>私の場合には、今から思うとそのアドヴァイタの境地を知り、ホゲホゲーっと問題のない世界を散策していた時に、原始に詳しい人との出会いがあり、こう言われました。「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」と。・・・問題がないという認識の世界観のはずなのに、まだ何かありそうだなとの予感が起こり、その興味の触手が仏教という道の世界に向いたのですね。(笑)そこで教わった事がもう一つ。「時さん、大乗と原始は違うものですよ」と。。。まぁ、これで原始に関わることになりました。^^そして現在では、何の事を無知だと仰っていたのか、私なり理解できたつもりでいます。一言で「なるほど」です。

    > 存在している無知ってなんでしょう?
    > よかったら教えていただけますか。

    アドヴァイタの境地は、この世での普通の二元と相対する一元の世界観ですので、二元の存在から見れば言わば神の処(視点)という感覚なのですね。でもそこには、うーん。。これ以上の境地がないのかぁ?というぼんやりとした感想を持ちつつ、その当時、でもこれが最高の処なんだろうなと感じていましたが、、、そのような事も忘れていて、そのような事も意識もせずホゲホゲーっと散策しているときにそれを言われたのですが、その方は、原始を数十年学ばれていた方だったようで、(時にとって)運よくその真髄をご存じだったと今から思うとそう思いますが、、、当時の私は、原始も何もほぼ知らなかったのですね。

    その処(アドヴァイタ獲得の境地)では、まだ現世での神の処なので、輪廻転生の終焉はなされないという事です。これ(アドヴァイタではまだ輪廻の終焉を迎えずに、終焉を迎えないことをも知らずにホゲホゲしている事)を無知と仰ったのだと思います。(不二一元でも次の不一不二でも、その死後には天界への転生で、その天界からも輪廻転生し続けます)

    原始では、現世での神の処(天界の視点)では、まだ有の世界内ですので、輪廻転生は終焉を迎えないという思想なのですね。つまりは、次世があるという事です。そこでいくら有頂天(不一不二の境地)の体現者で、難しげな顔をしていてもホゲホゲーとしていても、所詮は、その死後には天界に転生するだけで、そこから再度の輪廻転生が続きますよという事ですね。

    「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」の意味は、このようなことだったのだろうと、現在では納得できましたので「なるほど」なのですね。^^

    > あ、でも、アドヴァイタと言っても私の場合、現代版のだけですし、境地の理解も知的理解だけで実際にいつでもその境地にいるのでもないです。
    > というのを付け加えます(;^_^A

    了解しました。^^

    その境地の理解だけでも大したものだと思います。そして、アドヴァイタ等の境地に至れても、常に自らの意志でそこに留まれるわけではなく、二元の世界に引き戻され、そして再度その境地へと行ったり来たりしつつ、最終的にはその境地に留まってしまっている方は留まっているし、留まっていない方は留まっていないということなのですね。そこに自らの意志で留まることはできませんので、全ては自覚なき運命に身を委ねるという事になりそうですね。そこには、留まるという心の行為もそれを選択する自由意志もありませんしね(笑)

    そしてバクティにより、神への帰依という行為が、ある人に結果的に自然選択されたとき、そしてそれが結果的に自然に上手く行ったときには、アドヴァイタという境地に至れるのでしょう。そしてそこには、神しか実在しないという深い理解が自然に生じますね。

    まぁ、これらは、生活の役に立つかは分かりませんが。自らの心を整えるという意味では、大きな助けにはなるようには思います。^^
引用返信/返信 削除キー/
■32902 / inTopicNo.3)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/07(Thu) 08:38:45)
    2023/09/07(Thu) 09:09:47 編集(投稿者)

    No32891に返信(時さんの記事)

    > 後は、蛇足なりますが、原始の中では「私が存在するというのは、妄想です」という表現もされているようです。

    薄っすらとした記憶をたどり、今、ネットで調べてみてなのですが、スッタニパータの第五章にある記述がそれに相当しますか?

    > 現世では、例えば何かの犯罪を起こした人がいて、通常はその人の責任という意味で裁かれますね。でも、この世の本質的には、自己選択による行為の結果についての責任は、ないでしょう。なぜならば、そこにあったはずの自由意志の存在が幻想だからですね。つまりは、本質的には、人に人は裁けません。勿論、その犯罪自体も起こっていませんね。まぁ、通常の二元の世界観では、当然のごとく犯罪が起こったと分別認識された場合に、その人物が犯罪者として扱われて裁かれるのは当たり前というのも、十分に承知していますが。ですので、人に人は裁けるのか?といった問いが立つのでしょうから^^

    私というものは実体として存在しているのではない、としても、実際、犯罪し放題でいいわけはないですものね。
    被害者はもちろん苦しむし、加害者も事件を起こすに至るまでに様々な意味で恵まれた環境にはいないことが多いですから、裁きは司法にお任せするとしても、一言でいうなら「生まれてきてよかった」と誰もがじんわりと思えるような世界になるといいなと思います。
    それにより犯罪も減少するのではないかな、と。
    甘いかもですがそんなふうに考えています。

    > おー、現代版のアドヴァイタですか。知りませんでした(笑)道理で、アドヴァイタの境地でのお話も通じやすいはずですね^^ ご存じだと思いますが、普通は通じませんよね(笑)仏教関係は、どのあたりからどのあたりまで学ばれたのでしょうか?

    仏教思想の流れ的な本を二冊ほど読んだのと、原始仏典も以前一通りは読みましたが、今はどちらも手元にはありません。
    宗教、哲学などの本を手元にたくさん置いておくことが難しい環境にいます。
    以前、家族に見られて訝しがられてしまい、読んだら売ったり捨ててしまうこともあるんです。
    なので、原始仏典を読みたいと思う時は、ネットで閲覧させてもらいます。
    知識としては全体にうっすらとしかありません。

    今、ふと思ったのですが、電子書籍だと場所を取らなくていいのかもですね。
    時さんは利用されていますか?

    なんかこんなこと書くと可哀そうな人みたいですけど(笑)、家族が本をまったく読まないので、異質(頭だいじょうぶ? みたいに)、気持ち悪いみたいに思うんでしょうね。(笑)
    でも、世間の普通ってそうなんだと思うんですね。

    > 私の場合には、今から思うとそのアドヴァイタの境地を知り、ホゲホゲーっと問題のない世界を散策していた時に、原始に詳しい人との出会いがあり、こう言われました。「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」と。・・・問題がないという認識の世界観のはずなのに、まだ何かありそうだなとの予感が起こり、その興味の触手が仏教という道の世界に向いたのですね。(笑)そこで教わった事がもう一つ。「時さん、大乗と原始は違うものですよ」と。。。まぁ、これで原始に関わることになりました。^^そして現在では、何の事を無知だと仰っていたのか、私なり理解できたつもりでいます。一言で「なるほど」です。

    存在している無知ってなんでしょう?
    よかったら教えていただけますか。

    > 一応は、アドヴァイタの境地を理解する者同士だと思いますので、後はなにがしかの確認作業も必要ないのかもしれませんね。でも将来的に何かお尋ねすることもあるかもしれません。その際には宜しくお願いします。m(__)m

    こちらこそです。_(._.)_

    あ、でも、アドヴァイタと言っても私の場合、現代版のだけですし、境地の理解も知的理解だけで実際にいつでもその境地にいるのでもないです。
    というのを付け加えます(;^_^A
引用返信/返信 削除キー/
■32891 / inTopicNo.4)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/06(Wed) 13:32:53)
    みのりさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32887
    > 五蘊非我、そうですよね。
    > 私も、「自由意志というものは無いのだ」という話を聞いた時、最初は訝しんだのですが、自分なりに考察して納得した後に、仏教の五蘊非我という言葉で説明されている内容というのと、現代人が語る自由意志の無さというのは、もしや重なる部分があるのではないか、と思ったことがありました。

    > > 後は、原始の中に「同じように教えていても、なぜ慧解脱に達する弟子と、心解脱に達する弟子とに分かれるのでしょうか?」と、教える側の弟子が仏陀に質問した時に「それは、機根の違いを理由として説きます」と仏陀が答えるというシーンがあるのですね。機根とは(理解する度量・器・性格)の事ですので、この機根も、自由意志での選択は不可能でしょう。つまりは、自由な意志で自らの度量や性格等を選択、決定できそうにありませんね。これは、自らの自由意志での選択により、慧解脱と心解脱を選択できないことを意味します。同じ教えを耳にしても行きついた先が、慧解脱か心解脱かの違があるというのは、そこに修行者自身の自由意志による選択はなさそうだという事です。

    > なるほどと思います。

    この説明内容で、なるほどと思います。と返信を頂けたのは初めてかも知れません^^
    後は、蛇足なりますが、原始の中では「私が存在するというのは、妄想です」という表現もされているようです。

    > > 要は、機根の相違。自らの選択権のない機根の相違だろうと思います。つまりは、何かを行う際には、それが可能な機根の持ち主なのかどうか?という事で、そこに自身の自由意志での選択権はなさそうですね。(笑)
    >
    > なるほど、と読ませていただきました。^^

    こちらもそうですね。上記と同じ感想が起こりました。通常は、これでなるほどという返信は頂けません。大抵は、スルーされます。(笑)

    > 一人の人間が生まれてくるまでに何人ぐらいなのだろう・・見当がつかないくらいの御先祖がいてその遺伝子を受け継いできているわけで、どういう遺伝子を選択するか自分では決められないですものね。

    現世では、例えば何かの犯罪を起こした人がいて、通常はその人の責任という意味で裁かれますね。でも、この世の本質的には、自己選択による行為の結果についての責任は、ないでしょう。なぜならば、そこにあったはずの自由意志の存在が幻想だからですね。つまりは、本質的には、人に人は裁けません。勿論、その犯罪自体も起こっていませんね。まぁ、通常の二元の世界観では、当然のごとく犯罪が起こったと分別認識された場合に、その人物が犯罪者として扱われて裁かれるのは当たり前というのも、十分に承知していますが。ですので、人に人は裁けるのか?といった問いが立つのでしょうから^^

    > いえ、私も非二元(=ノンデュアリティ)という現代版のアドヴァイタで、「自由意志の無さ」を含めた簡単に言えば「全体性という分離の無さ」が語られているのを知り、「やはりそうか」と思ったのです。
    > それはもう10年ぐらい前になると思います。
    > 先ほどの五蘊非我についても同じころに考えてみていました。

    おー、現代版のアドヴァイタですか。知りませんでした(笑)道理で、アドヴァイタの境地でのお話も通じやすいはずですね^^ ご存じだと思いますが、普通は通じませんよね(笑)仏教関係は、どのあたりからどのあたりまで学ばれたのでしょうか?

    私の場合には、今から思うとそのアドヴァイタの境地を知り、ホゲホゲーっと問題のない世界を散策していた時に、原始に詳しい人との出会いがあり、こう言われました。「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」と。・・・問題がないという認識の世界観のはずなのに、まだ何かありそうだなとの予感が起こり、その興味の触手が仏教という道の世界に向いたのですね。(笑)そこで教わった事がもう一つ。「時さん、大乗と原始は違うものですよ」と。。。まぁ、これで原始に関わることになりました。^^そして現在では、何の事を無知だと仰っていたのか、私なり理解できたつもりでいます。一言で「なるほど」です。

    > 自由意志は無いということについて、これまで語り合えた方というのはいなかったのでとても貴重な体験をさせていただけました。
    > ありがとうございます。_(._.)_
    > もし、私へも何か質問などありましたら遠慮なくされてくださいね。

    こちらこそ、ありがとうございます。m(__)m

    一応は、アドヴァイタの境地を理解する者同士だと思いますので、後はなにがしかの確認作業も必要ないのかもしれませんね。でも将来的に何かお尋ねすることもあるかもしれません。その際には宜しくお願いします。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32887 / inTopicNo.5)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/06(Wed) 08:05:09)
    2023/09/06(Wed) 08:10:52 編集(投稿者)
    時さん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No32872に返信(時さんの記事)
    > 2023/09/05(Tue) 17:23:29 編集(投稿者)
    > 2023/09/05(Tue) 14:38:56 編集(投稿者)


    >>原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?
    >
    > 過去に原始”だけ”をされている方にはお会いしたことは在りませんが、原始に詳しい方との出会いは、短期間ではありましたがありました。そしてその方は、自由意志については語られていませんでしたね。ですので、自由意志は存在しないという考えの方との出会いはありませんでした。

    そうなんですね。ありがとうございます。

    >>また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?
    >
    > うーん、私自身は、原始仏教を学ぶという事と自由意志の有無を考察した事は別時期ですので、同時進行で考えたことはないのですね。
    >
    > ですが、今考えてみますと、原始には「色は、あなた方のものではないので、捨てなさい。」色に続いて、受、想、行、識の「これら五蘊は、全てあなた方のものではないので捨てなさい」と言う、五蘊非我という教えがあるのですね。ですので、ここで非我という事を学びます。例えば、この中の行(身行・口行・意行)も私のものではないので、(仏典での趣旨内容とは違う例になりますが)身行(走り出すという行動)意行(頑張るぞーという思い)口行(3番で悔しーと声を発する)等の三行は、私のものではありませんね。私ではないが、走り出しますし、悔しいという思いも起こります。。。ここに自由意志はあるとはいえなさそうです。

    五蘊非我、そうですよね。
    私も、「自由意志というものは無いのだ」という話を聞いた時、最初は訝しんだのですが、自分なりに考察して納得した後に、仏教の五蘊非我という言葉で説明されている内容というのと、現代人が語る自由意志の無さというのは、もしや重なる部分があるのではないか、と思ったことがありました。

    > 後は、原始の中に「同じように教えていても、なぜ慧解脱に達する弟子と、心解脱に達する弟子とに分かれるのでしょうか?」と、教える側の弟子が仏陀に質問した時に「それは、機根の違いを理由として説きます」と仏陀が答えるというシーンがあるのですね。機根とは(理解する度量・器・性格)の事ですので、この機根も、自由意志での選択は不可能でしょう。つまりは、自由な意志で自らの度量や性格等を選択、決定できそうにありませんね。これは、自らの自由意志での選択により、慧解脱と心解脱を選択できないことを意味します。同じ教えを耳にしても行きついた先が、慧解脱か心解脱かの違があるというのは、そこに修行者自身の自由意志による選択はなさそうだという事です。

    なるほどと思います。

    > 後は、根本的なことですが、非我故に無我というイメージがあるのですが、ここは同じ語源を訳者により非我と無我に使い分けられているようですので、実際のところは分かりようがないのですが、同じ語源という事で非我=無我と考えると、無我・・私がない・・私がないのならば、私の自由な意志も選択もない・・と無理くりですが、一応の筋は通りそうですかね。ですが、原始では「私は存在しません。ありませんよ」とは説かれていませんので注意が必要ですね。何故説かれていないのかというと、それ(私による自由意志の有無)が涅槃や解脱に役に立たないことだからで、原始の中では無記とされているようです。

    ご説明、ありがとうございます。

    > みのりさんのご指摘により、原始と自由意志のなさという事を、その整合性という意味で考えてみましたが、無理くりのところはありそうですが、一応の整合性は取ろうと思えば取れそうだと感じますが。

    理論的な意味合いでの整合性について説明いただいて、時さんのお考えを理解できたと思います。

    >>想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。
    >
    > はい。通常はそのような表明はしないと思います。仮にですが、Aがゴリゴリの原始仏教の僧侶であり原始だけを教える立場で、自由意志はないという強固な偏った見解の持ち主だったのならば、という事を考えてみると、これはもはや原始の理解、実践者ではありませんので、仏典内容を語れません。語れないはずなのに語っているという事で、偽物と判断されるでしょう。私ならば、Aの前から無言で立ち去りますね(笑)
    >
    > 私の立ち位置というのは、僧侶でもなければ教える立場でもなく、名声を得たいわけでもなく、マウントをとりたいという自己顕示欲があるわけでもなく、お賽銭という形でもある種のお金儲けを企んでいるわけでもありませんで、ただ単純に、仏陀は何を言っていたのかな?という事を知りたかったので、原始を学んだだけの普通の立ち位置なのですね。ですので、人生哲学もやりますし、いろいろなことを学んできたつもりです。
    >
    > と言うわけで、もしも仮に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「いいですよー♪自由意志がないといっているのに、あなたはその自由意志で何かをしようと意志するのですねー♪」で、お終いでしょ?もっと単純に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「勿論、いいですよー♪」でお終いです。
    >
    > 要は、機根の相違。自らの選択権のない機根の相違だろうと思います。つまりは、何かを行う際には、それが可能な機根の持ち主なのかどうか?という事で、そこに自身の自由意志での選択権はなさそうですね。(笑)

    なるほど、と読ませていただきました。^^

    > そしてここでいう自由意志での選択のできない「機根」は、現代でいうのであれば動植物の各細胞に組み込まれた遺伝子によるものではないのかな?そしてこの遺伝子は、あるとき自然発生的にこの地球上に生じたものであり受け継がれてきたもので、それは太古の昔、その遺伝子を含んだ細胞というものや周りの環境をも生み出した自然の事を、全ての根源、源泉である「神」と、畏怖や畏敬の念をこめて名付けたのでは無いのかな?といった感じで今のところ考えています。(笑)

    > No32847
    > には、その辺りの事を書いていたつもりなのですね。(笑)
    > 思考実験としての、水槽の脳や世界5分前仮説がOKならば、遺伝子環境仮説もOKだと思ったのですね(笑)

    一人の人間が生まれてくるまでに何人ぐらいなのだろう・・見当がつかないくらいの御先祖がいてその遺伝子を受け継いできているわけで、どういう遺伝子を選択するか自分では決められないですものね。
    >
    > 仮に真実には自由意志がないとして、では、どのように”私は”動けばよいのか?という疑問が発生するかもしれませんが、そんなことは考えずに、今まで通り、自由意志があるかの如くに選択していけばよいと思いますね。今日は天気が良いので買い物に行こう。今夜はカレーを作ろう。しまった!バスの定期券を忘れてしまった。。。等々、何ら日常生活に不具合は生じませんしね。それがあろうとなかろうと同じことになると思います。(笑)そのような意味で、今現在の時個人の見解は、どちらにも偏らずに「自由意志があろうとなかろうと同じです。」になるでしょうか(笑)

    はい、そうですよね。

    >>私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    >>でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    >>リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    > >つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    >>ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。
    >
    > 自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。というのは、上記でのお話でご理解いただけると思います。(何ら日常生活に不具合は生じませんしね。同じことになると思います。)
    >
    > 私が自由意志はないのではないかという、一応の答えにたどり着いたものが、アドバイタ(不二一元)の学びの時だったのですね。アドバイタという境地は、かなり楽になれるのですね。それを哲学的に分析してしまうと、相互理解という事で一元だ存在だ実在だと言うややこしいお話になってしまうと思うのですが、その境地には、みのりさんが仰るような、頑張らないとという深刻さや堅苦しさといった、ある種の義務感や苦しみはかなり軽減しますね。といいますか、その境地にはそれらはありません。そこから二元の通常世界に引き戻されたときに、それらの義務感や苦しみ等が再度生じやすくなりますね。しかしそれを体験していないときと比較した場合には、かなり楽な状態です。そんな風に感じています。
    >
    >>時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    >>それとも違う方向性からになりますか?
    >>ここを教えていただけたら嬉しいです。
    >
    > 多分ですが、みのりさんがお書きになられていることは、龍樹の空や無常観故に自由意志はないんだという事の様に感じるのですが、違うでしょうか?

    いえ、私も非二元(=ノンデュアリティ)という現代版のアドヴァイタで、「自由意志の無さ」を含めた簡単に言えば「全体性という分離の無さ」が語られているのを知り、「やはりそうか」と思ったのです。
    それはもう10年ぐらい前になると思います。
    先ほどの五蘊非我についても同じころに考えてみていました。

    > 無理くりですが、整合性という意味では、冒頭に書きましたように思います。一言で表現するならば、無我だからという事になるでしょうか。違う方向性で見るのであれば、アドバイタの世界観(自由意志もない)と原始の世界観との重なるイメージのところでの考察になりますが、古典物理学と現代物理学が同じ物理なのに違うように、やはり似て非なるものですかね。後は、ニーチェではありませんが、各人の解釈次第と言うところでしょう。
    >
    > お尋ねの事に答えられたかどうかは分かりませんので、もしも何か私の方の理解不足等がありましたら、ご指摘いただければと思います。

    自由意志は無いということについて、これまで語り合えた方というのはいなかったのでとても貴重な体験をさせていただけました。
    ありがとうございます。_(._.)_
    もし、私へも何か質問などありましたら遠慮なくされてくださいね。
    能力的な意味から答えられるかどうかはまた別になってしまいそうですが、可能な部分についてはそうします。
引用返信/返信 削除キー/
■32872 / inTopicNo.6)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 13:45:15)
    2023/09/05(Tue) 17:23:29 編集(投稿者)
    2023/09/05(Tue) 14:38:56 編集(投稿者)

    みのりさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32866に返信(みのりさんの記事)
    > 「よーいドン」を聞き、自分の意志が身体を動かす指令を出した、と感じるのですね。
    > 意志というのが意識の中に含まれているかのように、日常感覚だと感じる人も多いでしょうし、私も以前はそんなふうに感じていたと思います。

    はい。過去の日常生活という記憶の一部を切り取って、今から思い起こすとそうですよね。

    通常は「よーいドン」を聞いてから瞬時に”私が”走り出したのだ。と、なると思います。ですが、本当にそうなのか?を考え続けたのですね。「よーいドン」の音で身体が勝手に反応して身体が動いたのではないかと。それをその後に思い出して何か感想文を書くときには「私は、よーいドンというスタートの音を聞いて、一生懸命に走りました。」となるのでしょうか。実は、その「私」は、人間という動物共通の幻想ではないのか?それをエゴや自我と言っているのではないのだろうかと考えてみました。

    > 前野さんの本に「痛み」についての興味深い記述がありました。
    > 人が痛みを感じる時、怪我したり出血した箇所が痛みを感じているように思うけれど、脳が痛いという感覚を作り出しているそうです。
    > 一瞬、疑問でしたが、全身麻酔での手術、鎮痛薬を思えば納得ですよね。

    はい、そのように思います。幻肢痛(事故等でなくした体の部分に痛みを感じる)なんかも、多分ですが脳が錯覚を起こしているのでしょうね。

    > 原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?

    過去に原始”だけ”をされている方にはお会いしたことは在りませんが、原始に詳しい方との出会いは、短期間ではありましたがありました。そしてその方は、自由意志については語られていませんでしたね。ですので、自由意志は存在しないという考えの方との出会いはありませんでした。

    > また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?

    うーん、私自身は、原始仏教を学ぶという事と自由意志の有無を考察した事は別時期ですので、同時進行で考えたことはないのですね。

    ですが、今考えてみますと、原始には「色は、あなた方のものではないので、捨てなさい。」色に続いて、受、想、行、識の「これら五蘊は、全てあなた方のものではないので捨てなさい」と言う、五蘊非我という教えがあるのですね。ですので、ここで非我という事を学びます。例えば、この中の行(身行・口行・意行)も私のものではないので、(仏典での趣旨内容とは違う例になりますが)身行(走り出すという行動)意行(頑張るぞーという思い)口行(3番で悔しーと声を発する)等の三行は、私のものではありませんね。私ではないが、走り出しますし、悔しいという思いも起こります。。。ここに自由意志はあるとはいえなさそうです。

    後は、原始の中に「同じように教えていても、なぜ慧解脱に達する弟子と、心解脱に達する弟子とに分かれるのでしょうか?」と、教える側の弟子が仏陀に質問した時に「それは、機根の違いを理由として説きます」と仏陀が答えるというシーンがあるのですね。機根とは(理解する度量・器・性格)の事ですので、この機根も、自由意志での選択は不可能でしょう。つまりは、自由な意志で自らの度量や性格等を選択、決定できそうにありませんね。これは、自らの自由意志での選択により、慧解脱と心解脱を選択できないことを意味します。同じ教えを耳にしても行きついた先が、慧解脱か心解脱かの違があるというのは、そこに修行者自身の自由意志による選択はなさそうだという事です。

    後は、根本的なことですが、非我故に無我というイメージがあるのですが、ここは同じ語源を訳者により非我と無我に使い分けられているようですので、実際のところは分かりようがないのですが、同じ語源という事で非我=無我と考えると、無我・・私がない・・私がないのならば、私の自由な意志も選択もない・・と無理くりですが、一応の筋は通りそうですかね。ですが、原始では「私は存在しません。ありませんよ」とは説かれていませんので注意が必要ですね。何故説かれていないのかというと、それ(私による自由意志の有無)が涅槃や解脱に役に立たないことだからで、原始の中では無記とされているようです。

    みのりさんのご指摘により、原始と自由意志のなさという事を、その整合性という意味で考えてみましたが、無理くりのところはありそうですが、一応の整合性は取ろうと思えば取れそうだと感じますが。

    > 想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。

    はい。通常はそのような表明はしないと思います。仮にですが、Aがゴリゴリの原始仏教の僧侶であり原始だけを教える立場で、自由意志はないという強固な偏った見解の持ち主だったのならば、という事を考えてみると、これはもはや原始の理解、実践者ではありませんので、仏典内容を語れません。語れないはずなのに語っているという事で、偽物と判断されるでしょう。私ならば、Aの前から無言で立ち去りますね(笑)

    私の立ち位置というのは、僧侶でもなければ教える立場でもなく、名声を得たいわけでもなく、マウントをとりたいという自己顕示欲があるわけでもなく、お賽銭という形でもある種のお金儲けを企んでいるわけでもありませんで、ただ単純に、仏陀は何を言っていたのかな?という事を知りたかったので、原始を学んだだけの普通の立ち位置なのですね。ですので、人生哲学もやりますし、いろいろなことを学んできたつもりです。

    と言うわけで、もしも仮に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「いいですよー♪自由意志がないといっているのに、あなたはその自由意志で何かをしようと意志するのですねー♪」で、お終いでしょ?もっと単純に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「勿論、いいですよー♪」でお終いです。

    要は、機根の相違。自らの選択権のない機根の相違だろうと思います。つまりは、何かを行う際には、それが可能な機根の持ち主なのかどうか?という事で、そこに自身の自由意志での選択権はなさそうですね。(笑)

    そしてここでいう自由意志での選択のできない「機根」は、現代でいうのであれば動植物の各細胞に組み込まれた遺伝子によるものではないのかな?そしてこの遺伝子は、あるとき自然発生的にこの地球上に生じたものであり受け継がれてきたもので、それは太古の昔、その遺伝子を含んだ細胞というものや周りの環境をも生み出した自然の事を、全ての根源、源泉である「神」と、畏怖や畏敬の念をこめて名付けたのでは無いのかな?といった感じで今のところ考えています。(笑)

    No32847
    には、その辺りの事を書いていたつもりなのですね。(笑)
    思考実験としての、水槽の脳や世界5分前仮説がOKならば、遺伝子環境仮説もOKだと思ったのですね(笑)

    仮に真実には自由意志がないとして、では、どのように”私は”動けばよいのか?という疑問が発生するかもしれませんが、そんなことは考えずに、今まで通り、自由意志があるかの如くに選択していけばよいと思いますね。今日は天気が良いので買い物に行こう。今夜はカレーを作ろう。しまった!バスの定期券を忘れてしまった。。。等々、何ら日常生活に不具合は生じませんしね。それがあろうとなかろうと同じことになると思います。(笑)そのような意味で、今現在の時個人の見解は、どちらにも偏らずに「自由意志があろうとなかろうと同じです。」になるでしょうか(笑)

    > 私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    > でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    > リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    >つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    > ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。

    自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。というのは、上記でのお話でご理解いただけると思います。(何ら日常生活に不具合は生じませんしね。同じことになると思います。)

    私が自由意志はないのではないかという、一応の答えにたどり着いたものが、アドバイタ(不二一元)の学びの時だったのですね。アドバイタという境地は、かなり楽になれるのですね。それを哲学的に分析してしまうと、相互理解という事で一元だ存在だ実在だと言うややこしいお話になってしまうと思うのですが、その境地には、みのりさんが仰るような、頑張らないとという深刻さや堅苦しさといった、ある種の義務感や苦しみはかなり軽減しますね。といいますか、その境地にはそれらはありません。そこから二元の通常世界に引き戻されたときに、それらの義務感や苦しみ等が再度生じやすくなりますね。しかしそれを体験していないときと比較した場合には、かなり楽な状態です。そんな風に感じています。

    > 時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    > それとも違う方向性からになりますか?
    > ここを教えていただけたら嬉しいです。

    多分ですが、みのりさんがお書きになられていることは、龍樹の空や無常観故に自由意志はないんだという事の様に感じるのですが、違うでしょうか?

    無理くりですが、整合性という意味では、冒頭に書きましたように思います。一言で表現するならば、無我だからという事になるでしょうか。違う方向性で見るのであれば、アドバイタの世界観(自由意志もない)と原始の世界観との重なるイメージのところでの考察になりますが、古典物理学と現代物理学が同じ物理なのに違うように、やはり似て非なるものですかね。後は、ニーチェではありませんが、各人の解釈次第と言うところでしょう。

    お尋ねの事に答えられたかどうかは分かりませんので、もしも何か私の方の理解不足等がありましたら、ご指摘いただければと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■32866 / inTopicNo.7)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/05(Tue) 08:04:39)
    2023/09/05(Tue) 08:22:09 編集(投稿者)

    時さん、レスありがとうございます。

    No32805に返信(時さんの記事)

    >>「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。
    >
    > なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。

    「よーいドン」を聞き、自分の意志が身体を動かす指令を出した、と感じるのですね。
    意志というのが意識の中に含まれているかのように、日常感覚だと感じる人も多いでしょうし、私も以前はそんなふうに感じていたと思います。

    >>能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。
    >
    > こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)

    サーチライトモデルってはじめて聞きました。ありがとうございます。

    >>時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    >>私はそんなふうに感じます。
    >
    > はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。

    そうですね。自分の意志が先立つという錯覚。

    >>つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。
    >
    > はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。

    前野さんの本に「痛み」についての興味深い記述がありました。
    人が痛みを感じる時、怪我したり出血した箇所が痛みを感じているように思うけれど、脳が痛いという感覚を作り出しているそうです。
    一瞬、疑問でしたが、全身麻酔での手術、鎮痛薬を思えば納得ですよね。

    原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?
    また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?

    想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。

    私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。

    時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    それとも違う方向性からになりますか?
    ここを教えていただけたら嬉しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■32805 / inTopicNo.8)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/02(Sat) 12:50:56)
    みのりさへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32800
    > 『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を私は読んでいたので、今回、投稿にしてみたのですが、受動意識仮説そのものについては、この本より前に出ているという『脳はなぜ「心」を作ったのか─「私」の謎を解く受動意識仮説』が詳しいそうです。
    > もしまだ売っていたら、こちらも読んでみようかなと思っています。

    > 自由意志について例を出して書かれている部分を取り上げてみますね。
    > p55になります。

    ありがとうございます。^^ でも、お手数をおかけしてすみません。m(__)m

    > 「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。

    なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。

    > 能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。

    こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)

    > 時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    > 私はそんなふうに感じます。

    はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。

    > つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。

    はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。

    > ありがとうございます。^^
    > せっかくなのですが、お話できるようなことがないですし、ロムが楽しいのでそうします。

    了解しました。^^  
    また何かの話題の時に、一緒にお話していただければと思います。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32800 / inTopicNo.9)  Re[53]: 受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ みのり -(2023/09/02(Sat) 08:51:07)
    時さん、おはようございます。^^
    レスありがとうございます。

    No32790に返信(時さんの記事)

    > 先ほど少しだけではありますが、ネット検索をしてその概略をしりましたが、私が感覚で書いていることの根本的な事を主張されている仮説なんだろうなぁとの印象を持ちましたが、これからもう少しその内容を見てみたいと思います。

    『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を私は読んでいたので、今回、投稿にしてみたのですが、受動意識仮説そのものについては、この本より前に出ているという『脳はなぜ「心」を作ったのか─「私」の謎を解く受動意識仮説』が詳しいそうです。
    もしまだ売っていたら、こちらも読んでみようかなと思っています。

    自由意志について例を出して書かれている部分を取り上げてみますね。
    p55になります。

    「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。
     と、あります。

    仮説なので最後は「考える」で締めくくられているのだと思います。

    能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。

    時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    私はそんなふうに感じます。
    違うのは、突然にボールが飛んできてそれを避けるか(飛んでくるよ、という人の声は無い)、「よーいドン」の掛け声を聞き走りだすかの違いはありますが。

    つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。

    > もしもよろしければ、みのりさんもあちらのトピで皆さんと一緒にお話ししませんか?^^

    ありがとうございます。^^
    せっかくなのですが、お話できるようなことがないですし、ロムが楽しいのでそうします。

    > うーん。。前野隆司さんの受動意識仮説ですか。貴重な情報をありがとうございました。m(__)m

    どういたしまして。
引用返信/返信 削除キー/
■32790 / inTopicNo.10)  Re[52]: 受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ 時 -(2023/09/01(Fri) 18:48:58)
    みのりさんへ。こんにちは。

    No32786に返信(みのりさんの記事)
    > 前野隆司さんは、受動意識仮説を提唱しています。

    今回も、他トピしか開いておりませんで、ザビビのふくろうさんのお知らせが無ければ気づかずに素通りするとこでした。m(__)m

    前野隆司さんの受動意識仮説は、初めて知りましたが、やはり世の中には変わったことを考える人がおられるのですね。

    先ほど少しだけではありますが、ネット検索をしてその概略をしりましたが、私が感覚で書いていることの根本的な事を主張されている仮説なんだろうなぁとの印象を持ちましたが、これからもう少しその内容を見てみたいと思います。

    もしもよろしければ、みのりさんもあちらのトピで皆さんと一緒にお話ししませんか?^^

    うーん。。前野隆司さんの受動意識仮説ですか。貴重な情報をありがとうございました。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32786 / inTopicNo.11)  受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ みのり -(2023/09/01(Fri) 12:15:45)
    前野隆司さんは、受動意識仮説を提唱しています。

    『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』のp53で以下のように書いています。
    ===
    受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識下」の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである』というものだ。
    ===

    p55に、無意識下の情報処理により決定されたことを、意識はクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったかのように勘違いする、とあり、自由意志があるように感じるのはこうした仕組みによるものと考えられています。

    例で考えてみます。
    柄物のTシャツを着ようか、それとも無地のTシャツにしようか迷っているとします。
    外出先がどこか、着心地はどちらがどうか、、最近着ていないのはどちらかな、なども考えると思います。
    最終的に無地を選んだとします。
    この選択は、「自分がした選択」とされるけれども、実は無意識下での情報処理がしてくれたものを意識がクオリアとして体験したものである、というのが受動意識仮説での見解になると思います。

    ここで私が考えたのは・・。
    それであるなら、受動意識仮説においては自由意志の有無までは問題としなくてもいいのではないのかな、ということです。
    無意識下とはいえ、(自分の)脳内が情報処理により選択しているには違いないと思うからです。

    受動意識仮説そのものについては私は、自分の体験的理解としても納得がいきます。

    ここから、前野さんの受動意識仮説を離れて、私自身の見解として考えてみます。
    自由意志の有無についてのそれぞれの見解は、解釈の相違によりどちらとも語れる疑似問題なのだろうな、と思います。

    その上でですが。
    あくまで自分なりに、世界の実相として考えた場合、自由意志という概念を使用して語るなら、それは「無い」として語る使い方が相応しいと考えます。

    「私」とは何だろう?と考えた時、身体と精神を持った「私」と言われるものは、実体としては在らず、世界の自然物や人との関係性の中に溶け込んでいるものだと思うのです。
    「自分の脳」といわれるものも、「自分の」と名称をつけているだけのものです。

    前野さんの受動意識仮説の、エピソード記憶を保持するための意識の働きがもし人間になければ、ミミズなどの生物と同じく、刺激に都度反応するだけの生き物だったのかもしれません。
    しかし、人間は高度に発達した脳、記憶と社会生活を持つため、「私」という自我(記憶)とあり、より良い生存状態でいられるようにクオリアとしての意志(心)を実感できるように進化してきたのだろう、と考えています。

    自由意志が無い、ということは社会生活で到底受け入れられる見解ではないです。
    個人の責任に関わってきますから。
    しかし、これから科学的にこのことについて論証されていき、社会制度や倫理との兼ね合いで上手く融合されたしたら、私たちの意識(この場合の意識は、見解とか考え方といった意味合いです)も、競争原理から善い意味で離れた緩やかなものになるように思えます。



引用返信/返信 削除キー/
■32778 / inTopicNo.12)  意識、クオリア
□投稿者/ みのり -(2023/09/01(Fri) 08:39:41)
    2023/09/01(Fri) 08:41:45 編集(投稿者)

    他トピでの皆様のやりとりを読んでいたら、『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』前野隆司 著 を持っていて以前にパラパラと読んでいたのを思い出しました。
    再度読み直してみようと思いそうしていたら、最初のあたりに「意識とクオリア」に関する二つの考え方の相違に関係しそうなところが出てきました。

    前野さんは、p26で書いているように

    ===
    端的に言うと、意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が思わせている、「幻想」または「錯覚」のようなものでしかないと、私は思う。
    ===

    という立場で、クオリアはイリュージョン(p28で前野さんは、幻想、錯覚ではなく、イリュージョンという言い方がよいので今後そう呼ぶと書いている)だと考える立ち位置です。

    一方、チャーマーズなど「心の哲学者」は、個人が感じるクオリアをハードプロブレムとして考えます。
    P34に、チャーマーズ自身、意識はイリュージョンだと思い込もうとしていた時期があったそうですが、やはり、現象的な意識は第一人称的な私たちの心の中にれっきとして存在しているように思えるので意識がイリュージョンだとは思えない、という考えであるということが書かれています。

    そして。ここが大切なところなのかなと私は解らないなりに考えているのですが・・。
    前野さんの立場もチャーマーズの立場もそれぞれ証明はできないところにいる、ということ。
    前野さんは、p34で、意識がイリュージョンであることの証明はできない、と書かれていて、
    チャーマーズも、意識の存在を証明できない、としていることを同じくp34で書かれています。

    また、P37〜p38で、チャーマーズの立場は、一種の心身二元論で、前野さんは自身の立場を、心身一元論の中の物的一元論としています。

    私自身としては、どちらの立場を取るかというのは特になく(どちらと言い切れるまでの知識が無いので)、おもしろそうな話題だなぁと思っているだけなのですが・・。
    また、続きの部分でまとめられそうだったらそうしてみます。

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