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■37145 / inTopicNo.1)  カントの「神」論
  
□投稿者/ rest -(2024/04/20(Sat) 11:02:16)

    「それだから内感の対象だけの心が、死後にも存続するということは、まだ証明されていないし、また証明され得るものでもない。」(カント著『純粋理性批判』B414)
    「我々は、心が死後に分離されてもなおその実際的存在を維持し得るかどうかという問題に関する限り、我々の心の性質については、たとえどんな仕方によるにせよ、何事も認識し得ない、と。」(同著B420)
    カントにおいては理論理性では「霊」は存在証明ができない、と同時に非存在も証明できないので認識不可能ということ。「物自体」と同様に認識できない、つまりわからないということが理性的態度ではないか。
    「ところで私としては、神の存在に関する教説はまさにこのような理論的信に属するものであると言わざるを得ない。理論的な世界認識に関しては、世界の現象を説明するための条件としての{神の存在という}思想を必然的に前提するものを用意してはならない。」(同著B854)
    「神」もまた霊的存在と同様に認識不可能だから世界の現象の必然的前提としてはならないということであり、信仰としてのみ成り立つということ。
    カントの「不可知論」的立場を支持したい。
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■37108 / inTopicNo.2)  善と悪について
□投稿者/ rest -(2024/04/13(Sat) 11:32:30)
    2024/04/15(Mon) 09:19:13 編集(投稿者)

    「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」(歎異抄第3章)
    親鸞の『悪人正機説』である。
    「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それこそ天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ福音書5章44〜45節)
     私の解釈では善は共同体に属し、悪は異質な個性に属する。つまり共同体的「善」はルールに対して類的行為をするものであり、「悪」とはその類的行為を嫌う個性的行為なのである。しかし共同体も異質を嫌うので社会的に異質なものを差別したり、ときには異民族間の戦争に発展したりする。換言すれば、バランスをとりどちらにも極端に走らないようにするというのが現実的な態度ではなかろうか。現実的感覚からするとバランスをくずして極端に走るのが「悪」でバランスの範囲内の行為が「善」と新しく定義しなおしていいかも知れない。
     フォイエルバッハの「神」の本質は共同体の疎外されたものだが、上記から考えると「神」は共同体とは別の存在ではなかろうか。


    「神」に関しては無神論と有神論がある。「無」神論と無神論とあるが違う意味かもしれない。唯一無二の三次元空間が永遠の「無」の空間であり、それが「有」の性質をもつことから存在の根源、あるいは出発点として「無」を信仰の対象とするのが「無」神論。それが人格神なのか、人格神でないのかわからないが。
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■37023 / inTopicNo.3)  ラッセルの変化説
□投稿者/ rest -(2024/04/06(Sat) 11:04:06)

     過去ログより

     □投稿者/ rest -(2019/07/28(Sun) 00:28:33)

    マクタガートにおける変化とはA系列の変化である。未来の出来事が現在に移動しそして現在から過去へと移動していく。これが変化だ。それに対してラッセルは変化を物の性質、状態の変化としてとらえている。それはB系列のみで変化を認識できるという考え方だ。真理値(真である/偽である)の交代で「変化」を捉えることである。「火かき棒は熱い」から「火かき棒は冷たい」への変化はこうなる。「時点tで火かき棒は熱い」は真であるが、「時点t′で火かき棒は熱い」は偽である。真理値のこのような真から偽への交代によって「変化」を捉える。
    B系列=A系列+C系列なのでどの時点も現在であり、ある時点より前の時点は未来であり後の時点は過去である。われわれが今この時点を唯一の現在とする根拠はない。するとB系列は変化を含んでいることになる。
    アウグスティヌスが
    「三つの時間すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさいこれらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。すなわち、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの記憶は直覚であり、未来の現在は期待である」(『告白』岩波文庫p.123)
    で述べているようにすべてが現在である。
    永遠の「現在」という概念は二つの存在の仕方があるのである。ひとつはB系列はどの時点も現在だから変化のない映像フィルムとして永遠の現在とみなす見方とつまりはラッセルの見方と、もう一つは未来や過去を主観とみなして現在のみを実在とみなす永遠の現在という見方つまりはアウグスティヌスの見方がある。前者は決定論的運命を示し、後者は非決定論的自由意志を示している。
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■37022 / inTopicNo.4)  Re[38]: 「過去」の実在性について
□投稿者/ rest -(2024/04/06(Sat) 09:27:15)

     過去ログより

    □投稿者/ rest -(2019/06/23(Sun) 11:53:14)

    大森荘蔵も過去の実在性を否定することに関して不安を抱いている。これは一般的な不安かもしれない。この不安を解消するために投影として外の時間を形作ったのかもしれない。外に時間がないよりはあったほうが安心するのである。自由は不安である、といったのはたしかサルトルであるが時間を外に確定してしまえば不安はなくなる。しかし時間の実体はない。とすれば不安と向き合わざるを得ない。それが自由に生きることだ。
    フォイエルバッハは唯物論だが疎外論はもともとヘーゲル由来だ。自己の本質を本来的自己の外に出し自己にとって疎遠な他者になることが疎外の本来の意味だ。神に関しては賛否があろうが、時間に関してはてき面的中だと思う。人間が作ったものが、人間自身から離れ逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること、これが疎外だ。
    過去が消滅することの不安に対処するために写真という記録を残して置こう。過去は消えるが唯一残す方法は写真という記憶装置があり、不安をやわらげる。少しでも工夫しながら自由に生きることを選択してほしい。自己疎外からの脱却だ。
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■36977 / inTopicNo.5)  Re[37]: 「過去」の実在性について
□投稿者/ rest -(2024/03/30(Sat) 11:56:07)
    No36886に返信(restさんの記事)
    > 2024/03/26(Tue) 09:28:08 編集(投稿者)
    > 2024/03/23(Sat) 12:36:56 編集(投稿者)
    >
    >  「過去自体は普通の意味では(すなわち牛乳が冷蔵庫に保存されているようには)まったく保存されていない。保存されているのはせいぜい「痕跡」である。一方で、痕跡に戻ろうというのではない。痕跡は戻らなくとも、今現在存在しております。そして他方、過去自体は一滴も保存されていないのですから、どうあがいてもそこへはトラベルできないはずです。」(中島義道 著『時間を哲学する』講談社現代新書pp94-95)
    >  カント哲学者の中島義道氏も当然認識されているとおりカントは唯一無二の三次元空間を前提に展開している。無数の空間が存在していると考えるB系列論者(相対論者)とは一線を画している。B系列論者は過去にタイムトラベルできるような「過去」が実在していると考えている。マクタガートもC系列しか認めていないので「過去」実在論者である。なぜ日常では時間が客観的に外に流れているようにみえるのか、ということに少し触れてみたい。
    >  『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ著 岩波文庫)によれば「神」は類(共同体)の外に投影(疎外態)されたものであり、共同体の合わされた力の大きさや相互扶助の「愛」の精神が外に投影(疎外)されたものである。共同体の内側にある精神が外に疎外されたものである。疎外とは自分がつくりだしたものが自分を支配する構造をいう。共同体が作り出した「神」によって共同体が支配されること。民主主義において例えばロシアでは選挙によってプーチン大統領を選ぶがやがてプーチンが選んだ人民を支配するようになるという疎外現象。独裁者は民主主義から誕生するという矛盾。同じように共同体精神の疎外されたものとして「神」を理解する、というのがフォイエルバッハの考え方である。これは精神障碍者の幻聴にもあてはまる。幻聴は神の声としてきこえる場合が多い。本人の共同体意識(良心)の疎外されたものとして神となり、あるいは世間の噂となり、個性を支配しようとする。(参考文献 木村敏著『自覚の精神病理』紀伊国屋書店)
    >  「時間」も共同体の社会的約束事であるルールが「神」と同様にそとに投影(疎外)されたものではないか。唯一無二の三次元空間があたかも無数にあるような錯覚。そしてそれが決定論的運命論と結びつき人々の自由意志を奪ってしまうという疎外現象。

    追記1.疎外論はもともとヘーゲルの概念である。ヘーゲルでは精神が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者になること。ある存在が自己の本質を本質的自己の外に出し、自己にとって疎遠な他者になること。と定義している。ヘーゲルによれば「神」は世界精神として人間の意識に宿っており、人類の歴史はこの世界精神が文化の発展を通して自己意識を獲得していく過程である。つまり、歴史は神そして人間が(つぼみが開くように)自己を展開していく壮大な物語である。弁証法的発展ということだろう。神に関してはフォイエルバッハとはずいぶん違うが、疎外の考え方は同じなので「時間」を疎外論だけでみても成り立つと思う。
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■36886 / inTopicNo.6)  「過去」の実在性について
□投稿者/ rest -(2024/03/23(Sat) 12:22:58)
    2024/03/26(Tue) 09:28:08 編集(投稿者)
    2024/03/23(Sat) 12:36:56 編集(投稿者)

     「過去自体は普通の意味では(すなわち牛乳が冷蔵庫に保存されているようには)まったく保存されていない。保存されているのはせいぜい「痕跡」である。一方で、痕跡に戻ろうというのではない。痕跡は戻らなくとも、今現在存在しております。そして他方、過去自体は一滴も保存されていないのですから、どうあがいてもそこへはトラベルできないはずです。」(中島義道 著『時間を哲学する』講談社現代新書pp94-95)
     カント哲学者の中島義道氏も当然認識されているとおりカントは唯一無二の三次元空間を前提に展開している。無数の空間が存在していると考えるB系列論者(相対論者)とは一線を画している。B系列論者は過去にタイムトラベルできるような「過去」が実在していると考えている。マクタガートもC系列しか認めていないので「過去」実在論者である。なぜ日常では時間が客観的に外に流れているようにみえるのか、ということに少し触れてみたい。
     『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ著 岩波文庫)によれば「神」は類(共同体)の外に投影(疎外態)されたものであり、共同体の合わされた力の大きさや相互扶助の「愛」の精神が外に投影(疎外)されたものである。共同体の内側にある精神が外に疎外されたものである。疎外とは自分がつくりだしたものが自分を支配する構造をいう。共同体が作り出した「神」によって共同体が支配されること。民主主義において例えばロシアでは選挙によってプーチン大統領を選ぶがやがてプーチンが選んだ人民を支配するようになるという疎外現象。独裁者は民主主義から誕生するという矛盾。同じように共同体精神の疎外されたものとして「神」を理解する、というのがフォイエルバッハの考え方である。これは精神障碍者の幻聴にもあてはまる。幻聴は神の声としてきこえる場合が多い。本人の共同体意識(良心)の疎外されたものとして神となり、あるいは世間の噂となり、個性を支配しようとする。(参考文献 木村敏著『自覚の精神病理』紀伊国屋書店)
     「時間」も共同体の社会的約束事であるルールが「神」と同様にそとに投影(疎外)されたものではないか。唯一無二の三次元空間があたかも無数にあるような錯覚。そしてそれが決定論的運命論と結びつき人々の自由意志を奪ってしまうという疎外現象。
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■36871 / inTopicNo.7)  神々の解釈
□投稿者/ rest -(2024/03/20(Wed) 11:56:43)
    2024/03/20(Wed) 16:45:06 編集(投稿者)

    旧約聖書の創世記第1章26節より
    『神はおおせられた。「さあ人をつくろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配するように。」』
    この場合、「われわれ」という神が複数形になっているので、神は複数存在し、「神々」という多神教ではないのか。そのような疑問も成り立つ。キリスト教では神・聖霊・イエスの三位一体で説明しているが、旧約の時代はユダヤ教のみであり、三位一体は成立せず、ユダヤ教ではどのように解釈したのであろうか。やはり一神教が多神教から派生したとする名残だろうか。
    自然を神とする「汎神論」、スピノザがそうだがこれは人格神ではない。自然的事物の本質は「空」であるとする仏教。『般若心経』の「色相是空。空即是色」によれば「空」こそ万物をつくりだした根源ではないか、とも受け取れる。現象上の「色」はカントによれば構成主観によって構成されたものであり、この構成主観こそが「空」ではないのか。
     真理とは普遍的という狭義の真理と多様性を包摂した広義の真理というのがある。普遍性は共同性によって担保され、多様性は個性によって担保される。共同性は異質性を排除し、民族間の紛争にもつながる。多様性は類対立ゆえに共同体的秩序からはみ出す。つまり犯罪も増えるという難点をもつ。広義の真理は両者のバランスをはかる。強権的ではなく自律的に調整(correct)していく。その意味で多様性を包摂している広義の「真理」は大切ではないか。真理の基準として類推的結果を現実かどうかの個別的確認をするバランスが重要だろう。
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■36824 / inTopicNo.8)  Re[34]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/03/16(Sat) 12:20:57)
    2024/03/17(Sun) 19:48:35 編集(投稿者)
    2024/03/17(Sun) 19:14:16 編集(投稿者)

    田秋さん、パニチェさん 貴重な時間を割いてレスを書いていただいて深く感謝いたします。「ジャネーの法則」に関しては定説がないようなので多様な解釈が可能だと思います。ですからあまり独断的に断定はしないほうがいいかもしれませんね。気がついたことがあったらまた書きたいと思います。
     floraさんが「理想郷」について触れられていたので少しだけ触れたいと思います。旧約聖書によれば理想郷は「エデンの園」であり、そこでは「死」もなく、弱肉強食の世界もなく草食中心のおだやかな世界です。また神の支配する国ではありますが独裁者の支配とはイメージが180度違います。まず神の支配とは神の言葉による支配であり、神の言葉は真理であり、真理は人を自由にするのです。神の国は「自由の国」なのです。(独裁者の支配する国には自由はありません。)これがキリスト教の考える理想郷だと思います。仏教の理想郷はどうなっているでしょうか。涅槃の境地、悟りの境地、輪廻転生から解放された自由の境地、あるいは西方浄土ともいわれているようです。仮にこの地上にユートピア(理想郷)を実現するとしたら、どのような国になるでしょうか。
     かって社会主義が「平等」の理想をかかげ、それを実現するために権力を集中させ、自由を失っていったように、あるいは逆にアメリカのように「自由」を理想にすると、富の集中が進み、貧富の差がつまり不平等が拡大してしまいます。(宗教上の理想と現実の求められる理想とは必ずしも一致しません。)バランスをとるために「中間層」を拡大させるというのは至難のわざです。既得権益層が必ず妨害します。なぜならそれは分配率の問題だからです。賃上げ分を価格上昇に転嫁すればいい、という問題ではないのです。
     政治の役割が大きいと思いますがそこでもネックがあります。民度の高い民主主義が望ましいのですが、民度の高い状態とは定義によれば、経済的に不安がなく、文化的に高い水準、ということですから、いかに中間層を増やすかということと教育水準をいかに高めるかということがテーマになってきます。ネックになっているのは間接民主主義の議会制度があまり民意を反映しないシステムになっていることです。まえに指摘した「党議拘束」の矛盾もあります。さらに投票率が50%を割った場合、政権は民意を反映できるのかという疑問もあります。大手メディアに「バージョンアップした民主主義」とか「深化した民主主義」とか民主主義の方向性が載っていましたが今求められているのはそれだと思います。もっと直接民主主義の利点を反映したシステムにすべきだと思います。
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■36809 / inTopicNo.9)  Re[33]: 時間論の系譜
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/15(Fri) 21:30:30)
    こんばんは、restさん。レスありがとうございます。

    No36769に返信(restさんの記事)

    > こむつかしい書き方をしているのでたぶん読まれないだろうな、と思っていましたが安心しました。

    restさんの投稿は、レスしてない時でも読ませてもらってますよ。^^

    > パニチェさんに紹介していただいた「分数仮説」ですが1年の長さを人生の経過した年数で割った数字はなぜ時間の速さを示しているのか疑問です。人生の経過年数における1年の割合が時間の速さというのは理解に苦しみます。それよりも私が書いた
    > > A、Bが並んで一定の速度で走っているとしよう。Bがスピードを上げるとAは段々と遅く走っているように見える。そしてBがスピードを落としていくとAは段々と速さを増していくように見える。Aを時計の針の変化、Bを意識の変化と考えれば同様のことがいえるのである。
    >  のほうが時間の速さを明確に示しているのでわかりやすいと思うのですが。

    同意します。
    分数仮説などと大そうなタイトルを付けてしまいましたが、私が独断でもってこんな要素もあるのかなぁ〜とボンヤリ考えていたことです。
    あくまで主観的なものですが生きてきた時間から1年を振り返れば歳を取るとともに相対的に短くなるみたいな感覚です。

    > > 鋭敏性仮説
    > >子どもの頃は初体験が多くそれぞれの出来事に対して感覚や感情が敏感に反応するが、歳をとるとともに経験が増え出来事に対しての目新しさがなくなり鈍感になる。一日の時間の流れでも印象的なエピソードが多ければ体験した時間は長く感じられるが少なければ早い。これに同じ。

    > 上記の「鋭敏性仮説」のほうが私の仮説と重なっているような気がします。ただ
    > 年をとると時間があっという間に過ぎるというのは個人差があるので、たとえば若くても新しい経験が少なくルーティン化していると時間がたつのが速く感じられるので必ずしも年齢によって決まるとは言えません。ジャネーの法則は傾向性とはいえても科学的法則とまではいえないと思います。ですから年とって時間が速くなったと感じたら、新しい経験を増やすとか、思考速度を速める訓練をすれば時間が経つのも遅くなるだろうと思います。

    同意です。
    鋭敏性仮説も分数仮説と同じくなんとなくこんな要素もあるかなぁ〜と考えていた戯言みないなものでして、失礼しました。^^:

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■36796 / inTopicNo.10)  Re[33]: 時間論の系譜
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/14(Thu) 16:29:58)
    こんにちは、restさん

    お返事ありがとうございます。

    主観的時間経過はそれこそ主観に左右されることが多く、感じ方も人それぞれです。いずれ科学的に説明される日がくると思いますが、今は「へええ、そういう感じ方もあるんだ」くらいが良いのかも知れません。

    ボクの死生観と感覚的時間経過の考察も常にそう感じている訳でもなく、自分なりに理由をつけようとするとこうなのかな?という程度です。

    興味ある話題だったので自分の考えをまとめる意味もあり書いてみました。また参加できる話題のときに横レスしたいと思います。

    どうもありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36784 / inTopicNo.11)  Re[32]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/03/13(Wed) 09:42:57)
    2024/03/13(Wed) 20:31:52 編集(投稿者)
    2024/03/13(Wed) 20:30:04 編集(投稿者)

    田秋さん おはようございます。貴重なレスありがとうございます。こういう考え方もあるのだなあと新鮮な気持ちになっています。
    > 本当に歳と共に時間の流れが早くなることを感じます。そう感じるということは以前から聞いていたので、やはりそうだったと再度認識しなおしている次第です。

    >何故そう感じるのかはこれまであまり深く考えてきませんでしたが、最近、自分の死期が近づいてくるにも拘わらずやはりまだ死にたくないという気持ちが、時間の流れを早く感じさせているのかなと思っています。自分の死に向かって出来るだけ遅く歩みたいのに時間はおかまいなく進むので、相対的に早く進んでいるように感じるのかなと考えたりしています。

    おそらく病院にいって診察時間を待っている感覚と同じだと思います。9時に行って10時に始まるのと、11時に始まるのとでは待ち時間の感覚がちがいますよね。10時のほうが時間が速く感じられ、11時のほうが時間が遅く感じられます。診察開始時間を死期と置き換えれば、年をとると残る時間は短いので速く感じられ、少年の頃は残り時間は長いので時間は遅く感じられるということだと思います。ただこれは時計で測った時間、いわば客観的時間(残された時間)の多寡が基準になっていますから1時間あたりの速い、遅いという主観的感覚とは別のように思います。

    >一方、夢中になっている時は時間があっという間に過ぎ、退屈な時は時間の進みを遅く感じるということもあります。これも独特の感覚的時間経過です。

    Aがある作業をする時間が1時間とし、Bという人が同じ作業を夢中になってやると時間が10分かかるとするとBが時間が速いということになります。夢中ということは作業が速いということのようです。ほかのひとにくらべれば時間が速い。これは2人のランナーが100メートル走る時間を競って、時計の針がすすむのが少ないほうを時間が速いとするのと同じです。1時間あたりの速い、遅いという主観的感覚とは別のようです。くわしくはあとで。とりあえずここまでということで。
    研修があって中断しましたが続けましょう。退屈な時間は進みが遅く感じるのはなぜかいうことですが、これもAがある作業をするのに1時間かかりますが、Bが同じ作業をゆっくり、のんびりやると3時間かかりました。退屈な気分でゆっくり、のんびり作業をすると時間が長くかかり、Aに比べて時間が遅いということになります。これも2人のランナーが100メートルを競って客観的時間を測定するというのと似ています。
    これは同じ1時間でも速く感じたり、遅く感じたりする、主観的時間とはちがうような気がします。



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■36782 / inTopicNo.12)  Re[31]: 時間論の系譜
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/12(Tue) 20:53:53)
    2024/03/12(Tue) 20:57:36 編集(投稿者)

    こんばんは、restさん。横レス失礼します。

    本当に歳と共に時間の流れが早くなることを感じます。そう感じるということは以前から聞いていたので、やはりそうだったと再度認識しなおしている次第です。

    何故そう感じるのかはこれまであまり深く考えてきませんでしたが、最近、自分の死期が近づいてくるにも拘わらずやはりまだ死にたくないという気持ちが、時間の流れを早く感じさせているのかなと思っています。自分の死に向かって出来るだけ遅く歩みたいのに時間はおかまいなく進むので、相対的に早く進んでいるように感じるのかなと考えたりしています。

    これはパニチェさんが書かれた分数仮説に通ずるところがあります。分数仮説では今まで生きた年月を分母にしていますが、この考えは残りの人生の時間を分母にしています。人生の長さを線分で表すと、例えば若い時の1年は残りの人生全体に占める比率は少ないですが、70歳の時の1年は残りの人生の長さに対して大きな部分を占めます。
    仮に人生80年とすると、10歳の時の1年は残りの1/70ですが、70歳の時の1年は1/10になります。同じ1年で1/70経過するのと1/10経過するのとでは1/10経過した方が時間の進み方が早いと感じるのではないかという仮説です(この仮定では分数仮説とは異なり値が大きいほど感覚的な時間進行が早いことになります)。自分の人生が何年なのかはわかりませんが、歳をとるほど残り時間が少なくなることは確かです。

    そもそも子どもの頃は感覚的時間経過の進み方について遅いとか早いとかは考えることもなかったように思います。それは老年期を経験していないので比較の対象がなかったことも一因としてあるでしょう。また自分の死はまだ真剣に思考すべきことでもないので、とりあえずは永遠の生の中の1年のように感じていたのかも知れません。

    このように考えてくると、(自分には経験がないのでわかりませんが)悟りの境地を得、生死から自由になると時間経過の遅早も感じなくなるのかもしれません。

    自分の人生を振り返ると小学校6年間が一番長く感じます。幼稚園やそれ以前のことは記憶量もそれほど多くありません。このことから死生観とは別に記憶量の多寡が時間経過の遅早(おそはや)に関係しているかもしれません。

    一方、夢中になっている時は時間があっという間に過ぎ、退屈な時は時間の進みを遅く感じるということもあります。これも独特の感覚的時間経過です。

    最後に時間の進み具合を最も切実に感じた事例を紹介します。
    まだ学生の頃、エキストラでベルリオーズの幻想交響曲を演奏した事があります。この曲は50分ほどかかる大曲です。本番前日、激辛のカレーを食べたためか、おなかの調子がよくなく、始まってすぐに便意が襲ってきました。幻想の1楽章の冒頭部分のイントロダクションはテンポが遅く、ああ、これは最後まで持たない・・・という絶望的な気持ちでした。
    詳しくは書きませんが、曲のテンポの速い部分では光明が見え、遅い部分ではどうやって舞台から引っ込むか?だけを考えていました。特にテンポの遅い3楽章、冒頭のコールアングレののんびりした田舎の情景部分はまさに時間が止まっているかのようで地獄でした。4楽章の断頭台へ行進が始まった時はひょっとしたらセーフかもしれないと一縷の望みがみえたことを覚えています(結果的に持ち堪えました)。

    人間の感覚とは不思議なものです。

    長々と失礼しました m(_ _)m

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