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■36481 / inTopicNo.1)  詩をGoogleラテン語訳→それを和訳
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/09(Fri) 16:42:30)
    伊東静雄 わがひとに與ふる哀歌(前半部分)

    太陽は美しく輝き
    或は 太陽の美しく輝くことを希ひ
    手をかたくくみあはせ
    しづかに私たちは歩いて行つた

    かく誘ふものの何であらうとも
    私たちの内の
    誘はるる清らかさを私は信ずる

    ******
    Googleーラテン語訳から、それを和訳

    太陽が美しく輝いています
    あるいは太陽が美しく輝くことを願います
    手をしっかりと合わせて
    彼は静かに私たちのもとを去った

    何が私を誘惑するかは関係ない
    私たちの中で
    私は貞操は誘惑だと信じています。

    ***
    名言出た

    ☆ 私は貞操は誘惑だと信じています
引用返信/返信 削除キー/
■36471 / inTopicNo.2)  Microsoft OneDrive
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/08(Thu) 11:39:27)
    前の投稿をテキスト管理のソフトで保存していたところ、今朝不具合で内容が失われた。回復不可能と思い、さっさと投稿しておけばよかったと焦ったが、全体をOneDriveに置いていたので、もしやと思ってオンラインで見たら過去の内容が保存されていて回復できた。
    OneDriveすごい! えらい! 有料契約して容量増やせと時々通知が来るが、人によったら十分その価値あるんだろうな。自分は無料の容量で足りているが。
引用返信/返信 削除キー/
■36470 / inTopicNo.3)  ノート>『論考を読む』
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/08(Thu) 11:36:06)
    2024/02/08(Thu) 11:49:05 編集(投稿者)

    野矢さんの『論考を読む』を読んで、分かった(つもりの)ことを、忘れてしまわないよう復習用に書いたノートを投稿します。

    **
    事実に対応する(写像である)言葉の像(真なる命題)から「名」なる要素を切り出す。名に対応する対象(名が像である対象)が同時に事実から切り出される。
    名が他の名と結びつき有意味な命題となれる可能性が「形式」であり、それは対象が諸対象と結びつき事態となれる形式に一致する。

    猫、は「寝ている」「哺乳類」「かわいい」などと結びつけば有意味。「素数だ」「活火山だ」などと結びつけば無意味(=事態の像ではない)
    それらの結びつき方に一般則のようなものはないゆえに、
    全ての名についてのすべての形式を(したがって全ての対象についての形式を)把握するには、言語全体を把握しなければならない。
    私の知る言語全体からのみ、名の(したがって対象の)形式が分かる。(言語に習熟し使いこなす中での把握)

    ゆえに、形式(論理形式)は「語り得ぬもの」の一つ。形式を写像することはできない。
    言語全体からのみ示されるものだから。

    有意味な諸命題の各々が真か偽である。真なる命題に対応する事態が事実(現実に成立している事態)。つまり、すべての事態に「現実に成立している・していない」の可能性がある。それらのすべての組合せによって個々の可能世界のありさまが決まる。
    (「可能世界」という表現には注意が必要と野矢氏は書いており、また論考では「状況(Sachlage)」と表現されているというが、あえて可能世界と書きます)

    それら可能世界をすべて集めた集合が「論理空間」
    論理空間の中で、ある命題を真にする世界(状況)が、その命題の「真理根拠」 (真理根拠である世界をすべて合わせたものを「真理領域」と野矢氏は命名)
    可能世界のうち、可能な事態がすべて現実に成立している(対応する諸命題がすべて真である)ものが、この世界である。

    言語の全てを把握していて、したがってすべての形式を把握できる主体が要請される。
    その主体が上記のように論理空間を持つ。

    私の言語を把握し私の論理空間を持つ主体が私である。その論理空間で現実に成立している事態(=事実)だけからなるのが私のこの世界である。
    異なる言語からは異なる論理空間・異なる世界が導かれるだろうが、その論理空間も世界も私にとっては存在しない。
    私の論理空間の外にあるものを私は思考できないから。
    「世界は私の世界である」   (存在論的独我論=野矢表現)

    (私の)論理空間を導いた主体もまた、世界の内にはなく、したがって思考できない(語れない)が、それは示され得る。
    論理空間と世界が、それを成立させた主体としての私を示す。 - 比喩:写真の中に撮影者が写っていなくても、写真自体が撮影者の存在を「示して」いる

    しかし語り得ないものである私は消去される。主体の否定。
    すると
    「世界は私の世界である」 →「世界はこの世界である」
    『5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見て取られる。』


    *****
    真理関数
    複合命題の真偽はそれを構成する各要素命題の真偽により自動的に決まる。

    ラッセルは論理定項(論理記号)も対象の像だと考えたが、論考のウィトゲンシュタインは、像ではないと考える
    『4.0312 命題の可能性は記号による対象の代表という原理にもとづいている。
    私の根本思想は論理定項は代表機能を持たない。事実の論理は代表され得ないというものである。』

    事実の論理は命題の形式に示されるのみ。
    論理定項は対象を表すのではなく(像ではなく)、「操作」を表す。

    *****
    ここはおかしいという点あればご指摘ください。
引用返信/返信 削除キー/
■36464 / inTopicNo.4)  詩をGoogle英訳→それを和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/07(Wed) 11:53:52)
    (元詩)
    「はじめてのものに」 立原道造

    ささやかな地異は そのかたみに
    灰を降らした この村に ひとしきり
    灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
    樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

    その夜 月は明かつたが 私はひとと
    窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
    部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
    よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

    ――人の心を知ることは……人の心とは……

    私は そのひとが蛾(が)を追ふ手つきを あれは蛾を
    把(つかま)へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

    いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
    火の山の物語と……また幾夜さかは 果(はた)して夢に
    その夜習つたエリーザベトの物語を織(お)つた

    *****
    これをGoogle英訳し、それをGoogle和訳

    小さな不思議はそんなもの
    灰が降ったこの村で一瞬だけ
    灰は懐かしい思い出のような音を立てる
    雨が木のてっぺんや家の屋根に降り注ぎました。

    その夜、月は輝いていましたが、私は一人でした。
    私たちは窓に寄りかかりながら話しました(窓からは山が見えました)。
    部屋の隅々まで光が差し込み、峡谷のように
    大きな笑い声がたくさんありました。

    ――人の心を知るとは……人の心とは……。

    私はその人が蛾を追いかける様子を見ていました。
    私を掴もうとしているのかと思いましたが、何かがおかしいようでした。

    灰の煙が上がり始めたのは何日ですか?
    火の山の物語…そして何夜もそれは夢に変わった。
    私はその夜知ったエリザベスの話を織り上げました。

    ****
    Deeplもやってみて、そちらの方が元詩に近い気がするが、Googleの方は趣の違うなかなか良い詩になっている・と思う
    『私はひとと』で改行の部分を I was alone.→私は一人 としてしまうのはDeepl/Google共通
引用返信/返信 削除キー/
■36450 / inTopicNo.5)  Re[28]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/06(Tue) 14:32:23)
    No36428に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは!

    > 山口修二先生『カント超越論的論理学の研究』p18.19より抜粋引用
    > (山口先生の解説文)
    > 『 (略) この考えに従って、「判断の真理決定条件は、表象された〈主語と述語の内容的合致〉が実際に成立していることである」としよう。(略)しかし、「表象された何かが実際に成立している」ということは「真」という言葉の言い換えにすぎない。したがって、上の言明は、「判断の真理決定条件は、〈主語と述語の内容的合致〉が真であることである」と言い換えられる。これは結局「判断の真理決定条件は判断が真である」という同語反復に帰着する。
    >  このような循環的な事態を「各々の認識の真理性の普遍的かつ十分な基準とは何か」(A58,B82)を問う場合に不可避的に陥る事態として把握するのが『純粋理性批判』のカントである。後に検討するように、「論理学者たち」を「惨めな循環論法」(A57,B82)に追い込んだこの問は「それ自体において矛盾している」(A59,B83)。このように、『判明性』論文における真理論は、事態的に見て、循環を抱え込んだ理論と見なされうる。たしかに、この真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準を示していると考えるかぎりにおいて、それは欠陥を免れない。
    >  しかしながら、もしこの真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準をではなく、したがって、認識と対象との「合致」の基準をではなく、むしろ、認識と対象との「関係」の基準を示すものであるとすれば、どうであろうか。この種の真理論を考えたのは言うまでもなく後のカント自身である。『純粋理性批判』においてカントは、「真理の論理学」、すなわち、「認識がそれに反する場合には必ず、同時にあらゆる内容を、すなわち何らかの客観とのあらゆる関係を失い、したがってあらゆる真理を失う」(A62f.B87)ような規則を示す「超越論的論理学」という構想を提示する。(略)』

    認識と対象の一致という真理の基準に疑問を呈していることは憶えていたのですが、それが循環になるということを端的に説明されている山口修二先生の解説、ありがたいです。そしてカントはどういう真理の基準を構想したのかも。

    > ---------------------
    > (おくたがわさん)
    >>> 純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?<<
    > (pipit)
    > >はい、そう考えています。
    > 持たされている、というか、概念作成の主犯は悟性側のイメージです。<
    >
    > についても、pipitの考え方はどんどん変わる気はするのですが、
    > とりあえずこの箇所に関係あるかな、と、思えた山口先生の解説文章を引用します。
    >
    > 同本p93より引用
    > (山口修二先生の解説文)
    > 『(略)すなわちカテゴリーとしての「原因と結果」の関係は「超越論的内容」(A80,B105)を持つ。言いかえれば、「原因と結果」という概念は、対象一般を包摂する「超越論的述語(transzendentale Pradikate)」(A343,B402)であり、この包摂を行う機能が「純粋総合」なのである。「総合」は「表象そのものを生産する」(A51,B75)「自発性」の機能である以上、「純粋総合」は「超越論的内容」を直観一般において「生産する」と言ってもよいだろう。このように、我々がカテゴリーを対象一般についての「普遍的」規定として理解しうるのは、カテゴリーを「純粋総合」として見なす場合のみである。すなわち、我々の「純粋悟性認識」は「純粋総合」によってのみ可能なのである。これは、「我々自身が諸物のうちに置き入れるものだけを我々は諸物に関してアプリオリに認識する」(B ]XV)という、カントがコペルニクスの業績に比した「考え方の変革的方法」(ebd.)に他ならない。(略)』
    > 引用終了
    >
    > 今回おくたがわさんのおかげで、挫折していた山口修二先生の本に少しだけ再チャレンジでき、pipitの誤解も認識できて、感謝です!
    > ありがとうございます♪

    そのように言ってもらえることが、ありがたいですし、
    上記の引用でpipitさんが見つけたこと、私も(ほのかに)分かったような気がします。ありがとうございます。それでも、自分には難しいですけどね。カントの場合、原文だけでなく日本の学者の解説も難しいという…。
引用返信/返信 削除キー/
■36449 / inTopicNo.6)  Re[28]: 記憶
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/06(Tue) 14:00:26)
    No36422に返信(パニチェさんの記事)

    > エピソード記憶は言語的に保存された物語が思い出す都度、映像として再現される。
    > 配線ミスはこの段階で思い込みやバイアスによって別の言語的記憶と結びついてしまうのではないでしょうか。
    >
    > 言語によりエピソード(物語)を元に映像化されるわけですから主たるエピソード以外の細かな景色や情景などはフォーカスされないままぼやけているか、完全につくり直されているんだと思います。

    エピソード記憶(物語)という話からすると、なおさら記憶の塗り替えは起きやすそうですね。

    > PS.「探査日記2」設置しておきましょうか?

    自分からリクエストしないといけなかったんですね?
    お手数をおかけします。よろしくお願いいたします。

引用返信/返信 削除キー/
■36428 / inTopicNo.7)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/04(Sun) 22:55:50)
    おくたがわさん、こんばんはー(^O^)

    No36415の追記で
    (pipit)
    >なぜそのように考え直したのか→山口修二先生の解説本p17-19を読んだから、です。
    >次の投稿で、その箇所を引用したいと思います。<

    と書きました。
    今回の投稿で、意見の変化の経過と、変化のきっかけになった山口修二先生の解説文章を引用しようと思います。

    No36352 で、
    (pipit)
    >純粋悟性概念の内容の源泉は悟性なのですが、悟性が概念生成の段階において純粋直観を使用して概念に内容を持たせているので、内容と対象の一致を確かめられるのは経験的直観の対象に限定されることになるのではないかと、そんなふうに考えています。<

    と書いた時は、pipitは「内容と対象の一致が真偽を決定する」というイメージを持っていました。
    ところが、山口修二先生『カント超越論的論理学の研究』の解説本を読み、
    カントは、内容と対象の一致の是非が真偽を決定づけるという考え方ではなく、認識と客観との関係の規則についての考察を試みたのかな、と、考え直しました。
    もちろんpipitがまたまた誤解曲解してる可能性は大ですが、とりあえず今はそう考えています。

    山口修二先生『カント超越論的論理学の研究』p18.19より抜粋引用
    (山口先生の解説文)
    『 (略) この考えに従って、「判断の真理決定条件は、表象された〈主語と述語の内容的合致〉が実際に成立していることである」としよう。(略)しかし、「表象された何かが実際に成立している」ということは「真」という言葉の言い換えにすぎない。したがって、上の言明は、「判断の真理決定条件は、〈主語と述語の内容的合致〉が真であることである」と言い換えられる。これは結局「判断の真理決定条件は判断が真である」という同語反復に帰着する。
     このような循環的な事態を「各々の認識の真理性の普遍的かつ十分な基準とは何か」(A58,B82)を問う場合に不可避的に陥る事態として把握するのが『純粋理性批判』のカントである。後に検討するように、「論理学者たち」を「惨めな循環論法」(A57,B82)に追い込んだこの問は「それ自体において矛盾している」(A59,B83)。このように、『判明性』論文における真理論は、事態的に見て、循環を抱え込んだ理論と見なされうる。たしかに、この真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準を示していると考えるかぎりにおいて、それは欠陥を免れない。
     しかしながら、もしこの真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準をではなく、したがって、認識と対象との「合致」の基準をではなく、むしろ、認識と対象との「関係」の基準を示すものであるとすれば、どうであろうか。この種の真理論を考えたのは言うまでもなく後のカント自身である。『純粋理性批判』においてカントは、「真理の論理学」、すなわち、「認識がそれに反する場合には必ず、同時にあらゆる内容を、すなわち何らかの客観とのあらゆる関係を失い、したがってあらゆる真理を失う」(A62f.B87)ような規則を示す「超越論的論理学」という構想を提示する。(略)』

    ↑この箇所を読んで、、、そうかぁ、『純粋理性批判』では、概念の内容と対象の一致を問題にするのではなく、コペルニクス的転回で(対象が認識に従う。)という考え方を展開するんだったぁ、と思い出しました。

    まだまだいっぱい誤解してるかもしれませんが勉強続けてみますね。m(_ _)m

    ---------------------
    (おくたがわさん)
    > > 純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?<<
    (pipit)
    >はい、そう考えています。
    持たされている、というか、概念作成の主犯は悟性側のイメージです。<

    についても、pipitの考え方はどんどん変わる気はするのですが、
    とりあえずこの箇所に関係あるかな、と、思えた山口先生の解説文章を引用します。

    同本p93より引用
    (山口修二先生の解説文)
    『(略)すなわちカテゴリーとしての「原因と結果」の関係は「超越論的内容」(A80,B105)を持つ。言いかえれば、「原因と結果」という概念は、対象一般を包摂する「超越論的述語(transzendentale Pradikate)」(A343,B402)であり、この包摂を行う機能が「純粋総合」なのである。「総合」は「表象そのものを生産する」(A51,B75)「自発性」の機能である以上、「純粋総合」は「超越論的内容」を直観一般において「生産する」と言ってもよいだろう。このように、我々がカテゴリーを対象一般についての「普遍的」規定として理解しうるのは、カテゴリーを「純粋総合」として見なす場合のみである。すなわち、我々の「純粋悟性認識」は「純粋総合」によってのみ可能なのである。これは、「我々自身が諸物のうちに置き入れるものだけを我々は諸物に関してアプリオリに認識する」(B ]XV)という、カントがコペルニクスの業績に比した「考え方の変革的方法」(ebd.)に他ならない。(略)』
    引用終了

    今回おくたがわさんのおかげで、挫折していた山口修二先生の本に少しだけ再チャレンジでき、pipitの誤解も認識できて、感謝です!
    ありがとうございます♪
    (これからもいっぱい誤解曲解した書き込みしてしまうと思います、すみません!)

引用返信/返信 削除キー/
■36422 / inTopicNo.8)  Re[27]: 記憶
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/04(Sun) 09:54:47)
    2024/02/04(Sun) 09:56:06 編集(投稿者)

    おはようございます、おくたがわさん。横レス失礼します。

    No36407に返信(おくたがわさんの記事)
    > 事実の記憶は海馬に保存され、感情の記憶は偏桃体に保存される。

    > 例えば楽しい(もしくは不快な)パーティーの記憶は海馬にある事実についてのネットワークと偏桃体の感情記憶が結びついて保存される。
    > 感情を伴う出来事は記憶に残りやすいとはよく言われる。

    > 不快な出来事を思い出すとき、別件の不快なできごとまで思いだしてしまうことがある。

    > もしかして、これによる配線ミスもあり得るのでは。
    > Aさんにされた不快なことをBさんにされたと記憶違いするなど。


    記憶が思い出すたびに上書き(再形成)されるというのはその通りだと思います。
    すり替わった記憶による証言でもって冤罪が生じた事例ってのは私も別の番組で見ました。

    おそらくエピソード記憶と言われるものは言語的記憶(陳述記憶)と呼ばれることからしても、言語的な物語として保存されているのであって、映像として保存されたものでないように思います。

    これに対して非言語的な記憶(非陳述記憶)と呼ばれるのは手続記憶、運動や職人芸等、マニュアル化(言語化)できないものあり、職人が弟子に「見て覚えろ」というのはこのためだと言われています。

    エピソード記憶は言語的に保存された物語が思い出す都度、映像として再現される。
    配線ミスはこの段階で思い込みやバイアスによって別の言語的記憶と結びついてしまうのではないでしょうか。

    言語によりエピソード(物語)を元に映像化されるわけですから主たるエピソード以外の細かな景色や情景などはフォーカスされないままぼやけているか、完全につくり直されているんだと思います。


    PS.「探査日記2」設置しておきましょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■36415 / inTopicNo.9)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/03(Sat) 19:17:23)
    2024/02/04(Sun) 13:29:04 編集(投稿者)

    ※2024.2.4時点での追記として、、、
    下記の投稿は、その後解説本などを読んで、pipitの誤解かもと今思っています。
    カントは「内容と対象の一致」を判断するのではなく、「認識(内容含む)と客観との関係」の基準について、超越論的論理学で考察してるのかな、と今の時点では思いました。(これもまたpipitの勘違いかもですけど。)
    なぜそのように考え直したのか→山口修二先生の解説本p17-19を読んだから、です。
    次の投稿で、その箇所を引用したいと思います。
    以上で追記を終わります。いったん失礼しますm(_ _)m


    ---------------------
    おくたがわさん、こんばんは(^O^)

    No36410
    > これって、添付画像の判断表の例えば「すべてのAはB」のA,Bに入るものが直観に与えられないといけないということでしょうか?<

    いえ、pipitは判断表関連のことは考えていませんでした。
    判断表ではなく、カテゴリー表のカテゴリー(純粋悟性概念)に関して考えていました。
    カテゴリーが持つ内容が適正に働くのは、直観に与えられたものに対して、という意味でpipitは文章を書いており、
    「カテゴリーの使用条件をはずれるとカテゴリーの持つ内容は【空虚】(独leer、英empty)になる」
    と思っているということです。

    おくたがわさんの画像の中の単語【単一性】を例にすれば、
    「【単一性】という純粋悟性概念は、カテゴリーの使用条件(※直観に与えられた対象に適用させること)を逸脱すると、【単一性】の内容は空虚となる(【単一性】としての概念の正当性が失われる)」
    と思っているということです。

    わかりにくく独りよがりに書いてしまってすみません。

    > 純粋直観て時間空間という形式のことですか?<

    はい、そう考えています。

    > 純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?<

    はい、そう考えています。
    持たされている、というか、概念作成の主犯は悟性側のイメージです。
    (またわかりにくく書いてしまってすみません)

    > 「内容と対象の一致」というのはどのようなことを指しているのでしょうか?<

    例えば、
    【単一性】の内容 と 目の前のコップ(直観に与えられた対象)の一致、、、正確には包摂関係?の成立、をpipitはイメージしています。
    《【単一性】(一つ)-------目の前のコップ》
    という関係を結ばせることを「内容と対象の一致」と表現しました。
    結ばせる判断をしたのは、両辺に同じ規則を見出したから、だと今のところ思っています。

    未勉強箇所が山ほどあるので、いろいろめちゃくちゃ勘違いしてたらすみません。
    細々と勉強続けてみますm(_ _)m

    > pipitさんの投稿はできているのに、それを引用するとerrorになるのは何故なんでしょう。原文か英文を外すと投稿できる。<

    いろんな条件の組み合わせでerrorになったりならなかったりなんですかね?
    pipitも英文を外して投稿すること、けっこうあります
    (^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■36414 / inTopicNo.10)  Re[28]: 『青色本を掘り崩す』
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/03(Sat) 18:44:27)
    こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No36404に返信(おくたがわさんの記事)

    > いえ、パニチェさんあてのつもりの投稿でした^^

    そうでしたか。^^

    > 実は、野矢さんの「論考を読む」にかかってまして、これを読み終わってから「青色本」とその後半を対象にしたという「掘り崩す」を読み直すという方針にしました。こちらから話を振っておいてすみません。先延ばしさせてください。m(_ _)m

    了解しました。全然大丈夫ですので、お気遣いなく。

    > パニチェさんにとって大事な問題が関係すると思われますので、思い付きで書くのは避けたいとも思い。

    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■36410 / inTopicNo.11)  Re[25]: おくたがわさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/03(Sat) 18:08:05)
    No36352に返信(pipitさんの記事)
    こんばんは

    > No36348
    > >>山口先生は、超越論的論理学の思考規則は、経験的ではないアプリオリな思考内容を持たなくてはならない、と考えられているみたいとpipitは読みました。<<
    >>
    >>自分もそう読みます。
    >>それがすなわち純粋悟性概念(カテゴリー)ということでしょうか?<
    >
    > そうだとpipitは思うのですが、これまた微妙な話題で、
    > その純粋な思考規則(純粋悟性概念/カテゴリー)の内容が、
    > 対象との一致において真偽を論じることが可能な内容として存するためには、
    > その使用が直観的対象への場合に限定されている、
    > とカントは言っているのかなとpipitは考えています。
    >
    > カントの文章(山口修二先生訳)では、
    >
    > 『超越論的論理学において我々は悟性を孤立させて(上述の超越論的感性論において感性を孤立化させたように)、我々の認識から、もっぱら悟性に起源を持つところの思考の部分を取り出す。
    > しかし、この純粋認識の使用は、その条件として、純粋認識が適用されうるところの対象が直観において与えられているということに基づいている。
    > なぜなら、直観がなければ我々のあらゆる認識には客観が欠けることになり、この場合認識はまったく空虚だからである。』(A62,B87)
    > (『カント超越論的論理学の研究』p63より引用)
    >
    > とあり、使用条件をはずれると内容は【空虚】(独leer、英empty)ということかな、の思いました。

    これって、添付画像の判断表の例えば「すべてのAはB」のA,Bに入るものが直観に与えられないといけないということでしょうか?
    違ってたらすみません。遠慮なく批判ください。
    (別な目的で作った画像なので大げさですみません)

    > pipitの今の段階の私見なのですが、
    > 純粋悟性概念の内容の源泉は悟性なのですが、悟性が概念生成の段階において純粋直観を使用して概念に内容を持たせているので、内容と対象の一致を確かめられるのは経験的直観の対象に限定されることになるのではないかと、そんなふうに考えています。

    自分には難しいです。
    純粋直観て時間空間という形式のことですか?
    純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?
    全然違ってたらすみません。
    「内容と対象の一致」というのはどのようなことを指しているのでしょうか?

    pipitさんの投稿はできているのに、それを引用するとerrorになるのは何故なんでしょう。原文か英文を外すと投稿できる。
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■36407 / inTopicNo.12)  Re[26]: 記憶
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/03(Sat) 14:04:12)
    事実の記憶は海馬に保存され、感情の記憶は偏桃体に保存される。

    例えば楽しい(もしくは不快な)パーティーの記憶は海馬にある事実についてのネットワークと偏桃体の感情記憶が結びついて保存される。
    感情を伴う出来事は記憶に残りやすいとはよく言われる。

    不快な出来事を思い出すとき、別件の不快なできごとまで思いだしてしまうことがある。

    もしかして、これによる配線ミスもあり得るのでは。
    Aさんにされた不快なことをBさんにされたと記憶違いするなど。
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