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■26559 / inTopicNo.1)  pipitさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/21(Wed) 11:57:36)
    pipitさん、こんにちは。
    質問です。

    No26556に返信(pipitさんの記事)
    > (みのりさん)
    > >pipitさんもありがとうございました<
    >
    > みのりお姉さん、いつもいろいろありがとうございます
    > (o^^o)♪
    >
    >
    > (ふくろうさん)
    > >今は数学的公理体系が現実世界と独立に成立することを否定する数学者や哲学者がいるのでしょうか?私には疑問ですね<
    >
    > 公理体系が思考の法則の使用のみで成立することをカントは問題にしてるのではなく、理性により作成された体系が無矛盾でも、その体系を感性の領域を超えた諸問題にあてはめて断定的結論を下すことをカントは問題視したのではないかな、と、私は思いました。

    ここ、「その体系を感性の領域を超えた諸問題にあてはめて断定的結論を下すこと」って、具体的にどんなことを念頭においていらっしゃるのですか?
引用返信/返信 削除キー/
■26558 / inTopicNo.2)  Re[52]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 11:57:16)
    真理は論理の中にあるのではなく、経験にある。

    カント的には、経験は、感性と論理が出会うことによって生じる総合判断。
引用返信/返信 削除キー/
■26556 / inTopicNo.3)  Re[51]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 11:28:43)
    (みのりさん)
    >pipitさんもありがとうございました<

    みのりお姉さん、いつもいろいろありがとうございます
    (o^^o)♪


    (ふくろうさん)
    >今は数学的公理体系が現実世界と独立に成立することを否定する数学者や哲学者がいるのでしょうか?私には疑問ですね<

    公理体系が思考の法則の使用のみで成立することをカントは問題にしてるのではなく、理性により作成された体系が無矛盾でも、その体系を感性の領域を超えた諸問題にあてはめて断定的結論を下すことをカントは問題視したのではないかな、と、私は思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■26552 / inTopicNo.4)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ みのり -(2022/09/21(Wed) 07:54:26)
    ふくろうさん、レスありがとうございます。

    No26536に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ■No26526に返信(みのりさんの記事)
    >>↑ でいいんですよね。
    >>なんだか気になりだしたら気になるので。
    >>pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    >>
    >>
    >>超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    >>世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    >>【認識論】より
    >>…しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    >>
    >>
    >>さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    >>夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
    >
    > >超越論的主観=超越論的自我
    >
    > で、いいです。さらに
    > =純粋自我=意識一般(一般的意識)
    > でもいいですし、
    > 『論考』で言えば、
    > =哲学的自我=独我論的私
    > ってことになります。
    > ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。

    わかりました。ありがとうございます。

    > なので、=神ではありません^^

    はい。^^


    哲学を巨大なジグソーパズルに喩えたなら、その一つ一つのピースを少しずつ集めたいと思い質問させていただきました。
    集めてばかりいないで、パズル作りもしないといけないですね、私。(^▽^;)

    pipitさんもありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■26550 / inTopicNo.5)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 06:28:35)
    詳しいことは、わからないけど、私思うんです。

    理論が現実に観察できた時、その理論が証明されたとする。

    カントは、その理論と現実が、同じ源から出てるとし、

    また、証明も、観測地点を計測するなら、単純三次元の座標から結果を見てることにならないのかな、って。

    ちょっと話変わるかもだけど、

    観察が結果を変える、も、もしかしたら、意識が原因の作用現象としたら、

    一応、因果法則にのってる可能性もあるのかなぁ、ないのかなぁ?って。

    いいかげんにいろんなことおもってるpipitの日記でしたー。
引用返信/返信 削除キー/
■26549 / inTopicNo.6)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/21(Wed) 06:18:47)
    ふくろうさん、おはようございます!

    No26547
    >柄谷の文章を読むと、なんかカントの数学観を否定するラッセルの数学観もヒルベルトの数学観も、ゲーデルの不完全性定理によって完全に破綻した、みたいな印象を受けますよね。
    でも、上の引用文を見れば明らかなように、専門家の不完全性定理についての見解は、柄谷の見解とまったく異なります。
    また、詳細は省きますが、柄谷のラッセルの論理主義についての評価も肯定できません。
    直観主義の哲学的評価についても同様です。
    あ、少しだけ言うと(笑)、柄谷の文章も元文を読んでいないので、勘違いがあるかもしれませんが、「物自体」という概念なんて、直観の形式を超えているのだから、そもそも直観主義からしたら無意味なんじゃないの?と思いますが。あえて数学に類比するなら実無限に相当するので、構成主義数学からすると、排除されそうですが。ウィトゲンシュタインはそうでしたしね。<

    感想ありがとうございます(^人^)

    >あとひとつ、これは柄谷も知らないはずはないのに触れてないようなんですが、幾何学の公理系が物理的世界と独立の形式的体系とみなされるようになり、一種のゲームのようなものとして捉えられるようになったのは、非ユークリッド幾何学がアインシュタインにより相対性理論で用いられたからということが大きな要因となっています。
    つまり、物理的世界が、非ユークリッド幾何学で記述できたわけです。
    このことは、それまで仮に非ユークリッド幾何学が形式的体系(ゲーム)として成立しえたとしても、やはり現実の物理的世界はユークリッド幾何学的世界である、その意味でユークリッド幾何学は特別である、とする直観が誤りであったことを示したわけです。
    なぜ、このことを柄谷が無視しているのかわかりませんが、いずれにせよ、今は数学的公理体系が現実世界と独立に成立することを否定する数学者や哲学者がいるのでしょうか?私には疑問ですね。<

    非ユークリッド幾何学が現実に適応できたとしても、カントの『純理』を否定する材料にはならない可能性を私は持っています。(純理をまだ読み通せてないので勘違いの可能性も大いにありますけど)
    柄谷さんの記事注釈にあった、人間は三次元しか表象できない、みたいな文章は、カントの大学卒論みたいな若者時代の文章からの引用で、
    カントが60歳前に出版した純理で私が今のところみたのは、ユークリッド幾何学を例に出してることと、数学のアプリオリな正しさの範囲は感性圏内で表現できること(pipit意訳、いま何も見ずに入力しているpipitの心象です。お望みなら本文にあたってみるのでおっしゃってください。)と主張しているということです。


    >柄谷はウィトゲンシュタインについても論じていますし、私も割と好きで読んでいた手前言いにくいんですが(笑)、正直あんまり信用されるのはどうかと…^^

    ま、余計なお世話かもしれませんが。m(__)m
    一応、こんな感想です。
    なんか、気分を害されたらすみませんm(__)m<

    気分害しません。
    わたしは数学のことも哲学のことも全然知らないので、勉強しているふくろうさんの意見を聞かせてもらうのは、とてもうれしいです。
    ありがとうございます。
    (^人^)m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■26547 / inTopicNo.7)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/21(Wed) 01:02:15)
    pipitさん、こんばんは。
    レスありがとうございます。
    また、柄谷の文章の再投稿、ありがとうございました。

    No26537に返信(pipitさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん、こんばんは(^_^)
    >
    > ■No26535
    >>pipitさん、
    >>今回は申し訳ないですが、確認のための質問をさせてください。
    >>
    >>私は『論考』における言語の論理学的考察の類比としてよくユークリッド幾何学を用いています。
    >>それはユークリッド幾何学がそれ自体としては現実世界(物理的世界)とは独立で、その幾何学的法則(ピタゴラスの定理etc.)はあくまでユークリッドの公理系(ユークリッド宇宙)で成り立つものであって、それ自体では物理的世界の真理を意味するものではないからです。
    >>この幾何学のとらえ方は非ユークリッド幾何学の成立以降に生まれたもので、カントの考えと異なるものですが、この点について、pipitさんは理解・納得してらっしゃいますか?<
    >
    > ちょっとpipitには複雑ですね。
    > pipitの今のところの私見は、
    > (人間に起こる)非ユークリッド幾何学も、結局(人間に起こる)ユークリッド幾何学となんらかの対応関係を持った上で成り立ってるのではないかと思っています。
    > そして、結局数学は、人間の感性の形式の上に人間の思考能力で概念を構成することで(人間には)アプリオリな学として成り立つもの、と、思っています。
    > 感性の形式と思考能力で成り立ってる数学だから、人間の感性と思考によって経験する物理的世界にも数学は適応できる、と考えています。
    >

    なるほど、このあたり、私の思い込みとやはり全然違いましたね。
    だとしたら、私の説明は、理解できないと思います。
    もともと、『論考』について勉強されたこともないのに、
    勝手にわかりやすいかと思って私が持ち出したわけで、かえって混乱させてしまったかと思います。前提が違うんだから、理解が困難であっても仕方ありません。すみませんでした。


    >>このことを理解・共有していなければ、超越論的考察の説明もたぶん理解するのが難しいと思うんですが、私は勝手に理解してらっしゃるだろうと思いこんで、それを前提にして説明に喩えとして利用してました。でも、これが納得できていなかったら、喩えもわかりませんよね。
    >>なので、改めての確認です。いかがでしょうか。
    >>
    >
    > 私の過去投稿で引用した雑誌の記事を読んでもらえますか?
    > よかったらですが、その記事を読んでのふくろうさんの感想を教えてもらえますか?
    >
    > No20619カントと数学@
    > No20633カントと数学A
    > No20639カントと数学B
    >
    > の三投稿です。
    > そのままコピペを再投稿しますね。
    >

    あと、ご要望の柄谷の文章の感想ですが、私としては、かなり受け入れがたいことが書いてありますね(笑)。
    この人、実は私も哲学を本格的にやる前、結構好きで著作も何冊か読みました。
    この文章は未読ですが。
    pipitさんはご存じかどうかわからないんですけど、この人、数学者でも哲学者でもなく、批評家ですが、ゲーデルの不完全性定理を日本で流行らせた第一人者ですね。
    日本のみならずこの定理は数学基礎論のあくまで数理論理学的定理であることを超えて、哲学やいろんな拡大解釈が行われ、後に専門家から批判されるようになったんですが、その日本における第一人者がこの人、柄谷行人。
    例えば、ウィキで、専門家の見解について、次のようにあります。
    ****************
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86#top-page
    Wikipedia「ゲーデルの不完全性定理」

    数学基礎論研究者の菊池誠によると不完全性定理は、20世紀初め以降に哲学から決別した数学基礎論の中で現れた[6][注 3]。コンピュータ科学者・数理論理学者のトルケル・フランセーン[7]および数学者・数理論理学者の田中一之[7]によると、不完全性定理が示した不完全性とは、数学用語の意味での「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である[8]。不完全性定理を踏まえても、数学の形式体系の公理は真であり無矛盾であるし[9][注 4]、数学の完全性も成立し続けている[8]。しかし“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”といった誤解や、“数学には「不完全」な部分があると証明済みであり、数学以外の分野に「不完全」な部分があってもおかしくない”といった誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている[10][注 5]。

    数学の「無矛盾性」を証明することを目指したヒルベルト・プログラムに関して「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の哲学的発言はよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる、とフランセーン達は解説している[11]。正確には、ゲーデルはヒルベルトと同様の見解を持っており、彼が不完全性定理を証明して示したのは、ヒルベルトの目的(「無矛盾性証明」)を実現するためには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということだった[11]。日本数学会が言うには「彼〔ゲーデル〕の結果はヒルベルトの企図を直接否定するものではなく,実際この定理の発見後に無矛盾性証明のための様々な方法論が開発されている」

    数学上の「無矛盾性」と不完全性定理について、フランセーンは以下の通り解説している[9]。

    「ゲーデルの定理のどこを見ても、“数学で使われているどんな形式体系も、その無矛盾性にはまったく疑いがない”という立場と矛盾してはいない。実際、これらの体系の公理が真であり、そして無矛盾であるという絶対確実な知識をもっていると主張しても、ゲーデルの定理のどこにも相反しないのである。」[9]
    **************************
    以上の引用抜粋はウィキとは言え、引用元もはっきりした専門家の意見を引いたものですので、信頼できると思います。
    できれば、他の個所も読んでみられると参考になると思います。
    柄谷の文章を読むと、なんかカントの数学観を否定するラッセルの数学観もヒルベルトの数学観も、ゲーデルの不完全性定理によって完全に破綻した、みたいな印象を受けますよね。
    でも、上の引用文を見れば明らかなように、専門家の不完全性定理についての見解は、柄谷の見解とまったく異なります。
    また、詳細は省きますが、柄谷のラッセルの論理主義についての評価も肯定できません。
    直観主義の哲学的評価についても同様です。
    あ、少しだけ言うと(笑)、柄谷の文章も元文を読んでいないので、勘違いがあるかもしれませんが、「物自体」という概念なんて、直観の形式を超えているのだから、そもそも直観主義からしたら無意味なんじゃないの?と思いますが。あえて数学に類比するなら実無限に相当するので、構成主義数学からすると、排除されそうですが。ウィトゲンシュタインはそうでしたしね。

    あとひとつ、これは柄谷も知らないはずはないのに触れてないようなんですが、幾何学の公理系が物理的世界と独立の形式的体系とみなされるようになり、一種のゲームのようなものとして捉えられるようになったのは、非ユークリッド幾何学がアインシュタインにより相対性理論で用いられたからということが大きな要因となっています。
    つまり、物理的世界が、非ユークリッド幾何学で記述できたわけです。
    このことは、それまで仮に非ユークリッド幾何学が形式的体系(ゲーム)として成立しえたとしても、やはり現実の物理的世界はユークリッド幾何学的世界である、その意味でユークリッド幾何学は特別である、とする直観が誤りであったことを示したわけです。
    なぜ、このことを柄谷が無視しているのかわかりませんが、いずれにせよ、今は数学的公理体系が現実世界と独立に成立することを否定する数学者や哲学者がいるのでしょうか?私には疑問ですね。

    柄谷はウィトゲンシュタインについても論じていますし、私も割と好きで読んでいた手前言いにくいんですが(笑)、正直あんまり信用されるのはどうかと…^^

    ま、余計なお世話かもしれませんが。m(__)m
    一応、こんな感想です。
    なんか、気分を害されたらすみませんm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■26541 / inTopicNo.8)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 19:45:30)
    以上で引用記事の再投稿終わります。

    よかったらですが、記事内容の感想を聞かせてもらえると、pipitはわからないなりに参考にできるかもしれません。

    書き込みありがとうございますm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■26540 / inTopicNo.9)  No20639カントと数学B
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 19:42:54)
    No20639カントと数学B

    みなさま、こんにちはー (^○^)

    柄谷さんの記述文章
    >カントが言うのは、非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである<

    を、柄谷さんが説明される箇所から引用を再開します。

    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p17-
    『 ある公理体系の無矛盾性を証明する一つの方法は、直観的なモデルに訴えることである。

    たとえば、リーマン幾何学の場合、その公理系において、
    "平面"がユークリッド幾何学の球面を、
    "点"がその球面上の点、
    "直線"がその球の大円を指していると見なすことによって、
    ユークリッド幾何学の球面をモデルにすることができる。
    そうすれば、リーマン幾何学の各公理はユークリッド幾何学の定理に変わる。

    つまり、ユークリッド幾何学が無矛盾であるかぎり、非ユークリッド幾何学も無矛盾であるということになる。

    ところが、ユークリッド幾何学の無矛盾性は、それ自体では証明できないのであり、結局は直観に訴えることになる。
    つまりは、ユークリッド幾何学に帰着するのである。

     ところで、そのような方法を断念するところにヒルベルトの形式主義がある。
    彼は、『幾何学原理』において、第五公準だけでなく、他の定義・公準もまた自明的な真理ではないこと、たとえば、「点」や「直線」にそれ自体意味はないと考える。
    つまり、数学を形式化したのである。

    ところが、どんな幾何学でも成立してしまうかというとそうではない。
    彼は、それを公理系のなかで、三つの判定基準がみたされているかどうかで区別する。
    完全性(すべての定理がその公理系から得られること)、
    独立性(その公理から任意に一個の命題を除いた場合、もはや証明不可能になるような定理が存在すること)、
    無矛盾性(その公理系から互いに相矛盾するような諸定理を証明することが不可能であること)。

     ヒルベルトは、数学を、直観的自明性ではなく、形式体系の無矛盾性によってのみ基礎づけようとしたのである。
    (略)
    ヒルベルトは直観主義者の言うように「有限的立場」をとりながら、なお直観を必要としない数学の基礎づけを企てる。
    それがヒルベルトのプログラムである。

     しかし、これは、このプログラムを文字どおり実行したゲーデルによって自己言及的なパラドックスに陥ることが示された。
    (略)
    ゲーデルの証明は、いうまでもなく「形式主義」のなかでなされているのであり、形式主義を前提するかぎりでパラドックスに陥るという証明である。
    もちろん、それはラッセルの論理主義の破綻をもふくんでいる。

    ゲーデルが示したのは、数学的真が、形式的な公理体系から必ずしも決定されないということであり、いいかえれば、形式的に基礎づけられないような真がありうるということである。
    もう一つは、数学が無矛盾であるかぎり、数学は自らの無矛盾性を証明できないということである。
    (略)

    私の考えでは、形式的な公理系によって数学を基礎づけるという夢想は、数学に固有のものではない。
    分析的判断を唯一確実なものと見なす形而上学によってもたらされたものである。
    カントが否定しようとしたのは、そのような思考である。
    しかし、それはそうした形而上学が、自ら押しつけた数学に依拠している以上、数学においてなされなければならない。
    逆に、数学においてなされたことは、それを模範としてきた哲学に投げかえされるだろう。
    ゲーデルの「超数学」的批判は、そのような意味をもつ。
    したがって、それはカントの超越論的批判とつながっている(4)。

    ※註(4)しかも、カント、ヒルベルト、ゲーデルは数奇な歴史の糸によってつながっているのである。
    《カントと同じケーニヒスベルク出身の数学者ヒルベルトは、『純粋理性批判』の刊行から一三五年後に、「ヒルベルトのプログラム」と呼ばれる研究目標をかかげ、純粋理性の無限の可能性を数学の中に見ようとしました。ゲーデルはその不完全性定理によって『理性の限界』を証明して、ヒルベルトのプログラムを否定的に完成させました。しかもそれを「原理に基づいて」なしたのですから、ゲーデルはヒルベルトの大先逹であるカントの夢を、皮肉な結果でありましたが、字義通りに実現してみせたといってもいいかもしれません》(吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』講談社、一八頁)。

     現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。
    綜合的判断とはカントがいうように「拡張的判断」である。
    実際、数学は歴史的に発展してきたし、今後もそうである。
    (略)
    問題は、カントのいう「綜合的判断」が非ユークリッド幾何学の可能性から来ているのに、つねに古くさいものとして扱われてきたことである。
    それはカント読解を今もゆがめている。
    (略)』

    以上で柄谷行人さんの記事の引用を終わります。

    pipitの感想としては、
    ある見解が正しい、とか、正しくない、などは、
    どのような地点からどのような基準でみるか、などの条件が絡まってて、一概には断定できないんじゃないかな、と、思いました。

    「数学がアプリオリな綜合判断」というのは、数学が発見か、発明か、どちら?という問いかけにも関わるのかなとも思いますが、
    (総合判断なら発明、分析判断なら発見、と、pipitは今のところ思いますが)、

    手持ちの材料で発明してる、とすれば、
    手持ちの材料に着眼すれば分析的事態だし、
    発明に着眼すれば綜合的事態だし、
    みたいな。

    現在の柄谷さんが
    >現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。<
    という意見をまだお持ちか、否かはわかりませんが、
    pipitとしては、理念としては、
    【カントがどのような理屈で綜合的判断とみなしたのか、を、理解する】 
    という道を選択したいな、と、、、

    頭では思ってますが、、、

    カントの見解に、執着してしまってますから、、、反省するけど、治し難い!
    (*_*)
引用返信/返信 削除キー/
■26539 / inTopicNo.10)  No20633カントと数学A
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 19:42:07)
    No20633カントと数学A
    柄谷行人さんの記事の引用ですが、
    冒頭は、ラッセルさんの文章の引用から始まります。

    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p15-

    『幾何学をふくむすべての純粋数学が形式論理学以外の何物でもないということの証明は、カント哲学にとっては致命的な打撃である。
    カントは、ユークリッドの諸命題が図形の助けなしにはユークリッドの諸公理から演繹されえないということを正しく認知しつつ、この事実を説明しうる認識論を発明した。
    その説明は非常によく成功しているので、その事実がたんにユークリッドの欠陥にすぎず、幾何学的推論の本性の結果ではないことが示された場合には、カントの理論もまた排撃されねばならないのである。
    ア・プリオリな直観についての全教説は、カントがそれによって純粋数学の可能性を説明したところのものであるが、それは現代のかたちでの数学にはまったく適用不可能である。
    (ラッセル:神秘主義と論理、と、他のエッセイ、1976)
    ※アク禁になるので、引用元の情報を英語から日本語に訳しました

     ラッセルのこの見方は、カントが数学を非ユークリッド幾何学以前で考えていたという思いこみに立っている。
    しかし、たとえばカントが「ユークリッドの諸命題が図形の助けなしにはユークリッドの諸公理から演繹されない」と見なしたというラッセルの理解は、完全にまちがっている。
    「それは現代のかたちでの数学にはまったく適用不可能である」どころではない。
    実際には、「すべての純粋数学が形式論理学以外の何物でもない」というラッセルの「論理主義」のほうが破綻したのである。

     二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。
    このなかで、直観主義(ブロウウェル)は、無限を実体として扱う数学に対して、有限的立場を唱えた。
    (略)
    彼は排中律は無限集合にかんしては適用できないと言う。
    (略)、有限な場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。
    ブロウウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える(3)。

    ※註(3)カントの弁証論(アンチノミー論)は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。
    (略)
    つまり、カントは、「物自体」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。
    彼自身がそう考えていなかったとしても、現代数学のパラドックスが無限を一つの数として扱おうとしたカントールの無限集合論から出てきたことは、カントのアンチノミー論とつながっている。

     直観主義は、有限な、つまり構成できるもののみを承認する立場である。
    G・マルチンは、現代の数学基礎論において、カントに最も近い立場をとるのは、直観主義であると言っている。

    (略)

     カントは、任意の公理をとることによって矛盾無く別の幾何学ができるということを知っていたが、同時に、感性的直観の形式としての空間と時間は、ユークリッド的なものだと考えていた。
    このために、カントはユークリッド幾何学とニュートン物理学を基礎づけたのだと考えられてしまう。
    また、のちに非ユークリッド幾何学に反対する論拠にされたりもした。
    しかし、すでにのべたように、実状は逆である。

    カントが言うのは、非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである。』

    ここでいったん投稿します。

    この後、
    直観主義においての
    >非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである<
    についての、柄谷さんの簡易な解説に続き、

    ヒルベルトの形式主義や、直観を必要としない数学の基礎づけを企てたというヒルベルトのプログラムにも言及されていきます。

    続きをまた引用するつもりでいます。

    おやすみなさい ☆彡

    少し感想。。。

    見解は楽しい?それとも苦しい?
    数学基礎論みたいな土台の厳密性は追求せず、
    現実に数学が働いている世界を感じることが楽しい人もいるかも。

    なんて、数学に全く詳しくない母が、数学が現実に役立ってる場面を見るのが好きらしい息子を見て、

    数学の不思議さを少し想う。

    世界は案外スカスカでもうまくまわるんやなーという、息子のいいかげんな感想を、

    少し想う。

    厳密なんかなー、スカスカなんかなー

    わからんね。

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■26538 / inTopicNo.11)  No20619カントと数学@
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 19:41:17)
    No20619カントと数学@
    みなさま、こんばんは。
    ラッセルさんというワードに触発されて、前に間違って購入した古い雑誌を読んだ時から、一度まとめてみたいかも、と思ってた箇所の投稿にチャレンジしてみます。


    カントの『数学はアプリオリな総合判断』という言説は、非難の対象になり、カントは数学がわかってない、という意見は多数なのかもしれませんが、
    再考の余地もあるのではないか、と、思わせてくれた柄谷行人さんの記事を抜粋引用します。


    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p12-
    『(略)、カントのいう直観形式やカテゴリーが、ユークリッド幾何学とニュートン物理学にもとづくという誤解にある。
    (略)、彼自身ユークリッド-ニュートン的数学・物理学に背反するようなものを考えていたからである。
    彼は若い時から物理学者として非ニュートン的・非ユークリッド的な物理学を構想していた(2)

    註※(2)カントは二二歳のときに、大学卒業論文にこう書いている。《法則が変われば広がり(空間)も違った性質と次元数をもつことになるだろう。もしあらゆる可能な種類の空間ができれば、それこそわれわれ人間の考える働きによって企てられる最高の幾何学というものであろう。われわれにあっては、三次元以上の空間を表わすことのできないことを認めざるをえないけれども》(『活力測定考』第一章第十節)。

    (略)非ユークリッド幾何学にかんしては、一八世紀半ばにすでに知られていた。
    たとえば、〈三角形の内角の総和は二直角より小である〉という公理によっても、矛盾無く定理の体系を組立てることができることが示されていた。
    また、非ユークリッド幾何学を球面において考えることもすでになされていた。
    特に注意すべきなのは、G・マルチンが指摘するように、最初のこの主張者の一人ラムベルトがカントの友人だったことである。
    また、カント自身の物理学論文から見ても、彼が「批判」において、それを念頭においていたことは疑いがない。
     カントが基礎づけしようとしたのは、一八世紀に確固として成立していた数学や物理学ではない。
    (略)
    ユークリッドの『原理』にかんして、この公準が疑われていたのは、それが他の公準や公理から演繹的に導き出せる定理ではないか、ということである。
    非ユークリッド幾何学が示したのは、この公理が他から「独立」していること、さらに、それが直観的に自明なものではなく、別の公理をとっても矛盾が生じないということである。
    (略)
    ライプニッツのような考え方にとって、「公理」は邪魔である。彼は「公理」なしに済まそうと努め、結局徒労に終っている。
    (略)
    言いかえれば、カントが数学をア・プリオリな綜合的判断と見なすのは、このような「公理」のステイタスへの考察から来るのである。
    彼は数学を論理学に還元することに反対する。
    しかし、数学を分析的なものとみなす思考は、けっして死滅しない。その典型が、一九世紀末においてあらわれたフレーゲ・ラッセルらの「論理主義」(数学を論理学に還元できるという)である。』

    ※※※※※※※
    とりあえず途中まで(前半とします)引用しました。


    カントは数学とは、直観において概念を構成することと言ってたと思い、過去ログを検索したら、以下のものが出てきました。
    ーーーーーーーー
    No1799
    >用語説明
    まずは、『概念の構成』

    数学的認識は「概念の構成からの理性認識」by カント

    【構成】、カント自身が綴っていた単語は、【Construction】

    動詞は「konstruieren」コンストルイーレン、「構成する」。

    『概念を構成するとは、その概念に対応する直観をアプリオリに描き出すことである。(略)。私が三角形を構成するには、この概念に対応する表象を、ひたすら想像力によって純粋直観において描き出すか、また想像に従って紙の上に経験的直観において描き出すかであり、いずれの場合にも、まったくアプリオリで、そのための見本をなんらかの経験から借りてくることはない。描かれた個別の図形は経験的であるが、にもかかわらず、概念が持つ普遍性を損なうことなくその概念を表現するのに役立つ。(略)』byカント(B741.742)

    ☆冨田先生の解説☆
    どこに描くかというと、「想像」によって心の中に描く、というのがその一つです。
    カントが使っているのはドイツ語の「アインビルドゥング」(Einbildung)ですが、その中に含まれている「ビルト」(Bild)はまさしく「像」のことであり、「アインビルドゥング」は「心の中に像を作ること」、あるいはそのようにして作られた「心象」を意味します。<
    ーーーーーーーーーー

    最初に引用した柄谷さんの記述は、pipitの誤解かもしれない理解としては、

    たとえば公理に対する態度が、【自らの感性の直観形式に則った上に、自らの知性をもってして、(公理を)構成している】とするのがカントと言ってるのではないかなーと。


    (後半の引用部分の先出しですが、それに対して論理主義は、直観(感性的なもの)は必要なく、知性(思考形式)だけで、数学は確かなものとして成り立つ、としてるのかなーと。)

    明日以降、引用の後半として、ラッセルさんのカントへの批判、への、柄谷さんの再批判的見解などの箇所を引用しようと考えています。
引用返信/返信 削除キー/
■26537 / inTopicNo.12)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 19:40:04)
    ザビビのふくろうさん、こんばんは(^_^)

    No26535
    > pipitさん、
    > 今回は申し訳ないですが、確認のための質問をさせてください。
    >
    > 私は『論考』における言語の論理学的考察の類比としてよくユークリッド幾何学を用いています。
    > それはユークリッド幾何学がそれ自体としては現実世界(物理的世界)とは独立で、その幾何学的法則(ピタゴラスの定理etc.)はあくまでユークリッドの公理系(ユークリッド宇宙)で成り立つものであって、それ自体では物理的世界の真理を意味するものではないからです。
    > この幾何学のとらえ方は非ユークリッド幾何学の成立以降に生まれたもので、カントの考えと異なるものですが、この点について、pipitさんは理解・納得してらっしゃいますか?<

    ちょっとpipitには複雑ですね。
    pipitの今のところの私見は、
    (人間に起こる)非ユークリッド幾何学も、結局(人間に起こる)ユークリッド幾何学となんらかの対応関係を持った上で成り立ってるのではないかと思っています。
    そして、結局数学は、人間の感性の形式の上に人間の思考能力で概念を構成することで(人間には)アプリオリな学として成り立つもの、と、思っています。
    感性の形式と思考能力で成り立ってる数学だから、人間の感性と思考によって経験する物理的世界にも数学は適応できる、と考えています。

    > このことを理解・共有していなければ、超越論的考察の説明もたぶん理解するのが難しいと思うんですが、私は勝手に理解してらっしゃるだろうと思いこんで、それを前提にして説明に喩えとして利用してました。でも、これが納得できていなかったら、喩えもわかりませんよね。
    > なので、改めての確認です。いかがでしょうか。
    >

    私の過去投稿で引用した雑誌の記事を読んでもらえますか?
    よかったらですが、その記事を読んでのふくろうさんの感想を教えてもらえますか?

    No20619カントと数学@
    No20633カントと数学A
    No20639カントと数学B

    の三投稿です。
    そのままコピペを再投稿しますね。

引用返信/返信 削除キー/

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