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■25192 / inTopicNo.1)  おくたがわさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2022/07/26(Tue) 17:16:09)
    おくたがわさん、こんにちは!
    No25188
    そうおっしゃってくださり嬉しいです
    (*^▽^*)

    ただわたしは、すご-----く偏って勉強してるので、申し訳ないです
    (^^;)

    またよかったら、どんな話題でも、おくたがわさんのペースで、書き込みくださいね!

引用返信/返信 削除キー/
■25188 / inTopicNo.2)  Re[22]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/26(Tue) 08:47:35)
    仏教について興味がありながら、どこから手を付けていいか分からない状態だったので、pipitさんが仏教関係のトピを立てられたことがありがたいです。
    先日こちらのトピを発見後 1から通して読ませていただきました。
    ご挨拶が後になりすみません。
    とても丁寧な案内で進められていてありがたいです。
    他の哲学と関連づけて考えが書かれているのも、スパイス(?)になって読み進めやすかったです。

    ネットなどで仏教関係の文章を見るとき、自分の一つ覚え的なこと(あるがまま、とか)に結びつけて解釈する傾向がいままであったのですが、
    今回は、先入観なしで、何が言われて(示されて)いるのか見ていけたらと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■25000 / inTopicNo.3)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/19(Tue) 22:34:52)
    おくたがわさん、ありがとうございます(^_^)

    No24959
    > 前後(悪魔ちゃんとの会話を含め)を読んで考えたことを書かせてください。<

    私、単純に、何であっても結局は自分の意志で決めてることなんだ、って意味内容に捉えてたんですけど、
    悪魔ちゃんやおくたがわさんの書き込み読んで、
    もっと複雑なこと言ってたのかも、って思いました(・・;)


    >>『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >>
    >>「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    >>(『道徳形而上学』から)
    >>
    >> まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    >>(御子柴善之)』
    >
    > (『他人に対して拘束』の意味が確かには分からず、勝手に解釈するので、以下は間違いかもしれません。)<

    確かに、きちんと考えてみれば、ちょっとわからなくなる文章表現ですね。


    > 認識する主体である「私」が他人に拘束されるそれ(自分)と完全に一致してしまっていたら、全て他人に操られるままなので、自分が拘束されているという認識も持てない。他者から拘束を受けない「私」がまず存在し、対象としての[自分自身]を拘束できるときのみ、その[自分]が他者から(も)拘束されているという認識を持つことができる。
    > ・・・かなぁ<

    おぉ、わたしにはなかった丁寧な考え方。。。
    pipitは最初から先入観もって読んじゃってたなぁ。

    確かに、物自体(叡智界)の私と現象(自然界?)の私とか区別してるかもだなー。



    >>御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >>
    >>ダンマパダ160(中村元先生訳)
    >>『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    >>自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    >>岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』
    >
    > 上の私の解釈(間違っているかもしれません)でも、『自己こそ自分の主(あるじ)である。』と結びつく気がします。<

    > https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート
    >
    > 面白いですね
    >
    >>「「私は考える」ということは、あらゆる私の表象に伴いえなければならない。」
    >
    > これは純粋理性批判を読んでみるトピでも何回か俎上にのりましたね。
    >
    >> ヴォルフラート論文にも登場する『純粋理性批判』第2版超越論的演繹論のあまりにも有名な一節ですが、この一節の解釈をめぐり、200年以上にわたって有名無名問わず世界中の哲学者がのたうち回ってきた(私もその一人です)ことを思うと、なんだかゾクゾクします。
    >>(辻麻衣子)
    >
    > そうなんや。世界中の哲学者がのたうち回ってきたんや〜 そ、それは たしかにゾクゾクする。<

    はい (−_−;)

    残念ながら、、、(((o(*゚▽゚*)o)))ヲソロシヤー
引用返信/返信 削除キー/
■24959 / inTopicNo.4)  Re[20]: 日記
□投稿者/ おくたがわ -(2022/07/18(Mon) 12:37:07)
    No24880に返信(pipitさんの記事)
    前後(悪魔ちゃんとの会話を含め)を読んで考えたことを書かせてください。

    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』

    (『他人に対して拘束』の意味が確かには分からず、勝手に解釈するので、以下は間違いかもしれません。)

    認識する主体である「私」が他人に拘束されるそれ(自分)と完全に一致してしまっていたら、全て他人に操られるままなので、自分が拘束されているという認識も持てない。他者から拘束を受けない「私」がまず存在し、対象としての[自分自身]を拘束できるときのみ、その[自分]が他者から(も)拘束されているという認識を持つことができる。
    ・・・かなぁ

    > 御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >
    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』

    上の私の解釈(間違っているかもしれません)でも、『自己こそ自分の主(あるじ)である。』と結びつく気がします。



    https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート

    面白いですね

    > 「「私は考える」ということは、あらゆる私の表象に伴いえなければならない。」

    これは純粋理性批判を読んでみるトピでも何回か俎上にのりましたね。

    >  ヴォルフラート論文にも登場する『純粋理性批判』第2版超越論的演繹論のあまりにも有名な一節ですが、この一節の解釈をめぐり、200年以上にわたって有名無名問わず世界中の哲学者がのたうち回ってきた(私もその一人です)ことを思うと、なんだかゾクゾクします。
    > (辻麻衣子)

    そうなんや。世界中の哲学者がのたうち回ってきたんや〜 そ、それは たしかにゾクゾクする。
引用返信/返信 削除キー/
■24956 / inTopicNo.5)  Re[25]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/18(Mon) 11:24:08)
    ■24927 、
    >「自分」「私」「自分自身」は、御子柴先生の言?<
    そうで〜す。
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」<
    >この文脈で言うと、「自分」は「私」のことで、「私」は認識している主体で、「自分自身」も「私」のことなんじゃない??<

    〈私が他人に対して拘束されていると認識している主体が認識できるのは、私が同時に私を拘束している限りにおいてだけである。〉
    ってうことかな。
    これならなんとなく分かる気がする。
    ありがとございま〜す。


引用返信/返信 削除キー/
■24927 / inTopicNo.6)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 23:12:14)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^○^)

    No24917
    > No24880のなかに、
    >
    > 「自分」「私」「自分自身」「自己」ってあるけど、
    > これら、それぞれ、どういうの?<

    「自分」「私」「自分自身」は、御子柴先生の言?

    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート/御子柴善之先生の回答より
    >
    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』<

    この文脈で言うと、
    「自分」は「私」のことで、
    「私」は認識している主体で、
    「自分自身」も「私」のことなんじゃない??

    認識主体にとっての行為の主語を「私」と表現したり、認識主体にとって認識主体を認識対象とするとき「自分」とか「自分自身」って表現してるのかな?と思ったよ。

    「自己」はダンマパダだね。

    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』<

    「自分」もあるね。

    パーリ原文は、

    Atta hi attano natho,
    ko hi natho paro siya;
    Attana hi sudantena,
    natham labhati dullabham.

    訳語「自己」原語「Atta」
    訳語「自分の」原語「attano」

    どっちも中心は「atta」で、原語はあんまり区別されてないのかな?

    英訳(Bhikkhu Sujato様)を見てみたよ

    Self is indeed the lord of self,
    for who else would be one’s lord?
    When one’s self is well-tamed,
    one gains a lord that’s rare indeed.

    自己も自分も「Self」「self」だね。

    pipit私見
    >認識主体にとって認識主体を認識対象とするとき「自分」とか「自分自身」って表現してるのかな?と思ったよ。<

    んー、この場合、pipit私見は当てはまるかなあ、当てはまらないかなぁ。

    当てはまるかな?
    悪魔ちゃんどう思うかな?

引用返信/返信 削除キー/
■24917 / inTopicNo.7)  Re[23]: Pipitさんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/07/17(Sun) 19:21:24)
    お邪魔するね。
    >みなさま< ってるから、

    No24880のなかに、

    「自分」「私」「自分自身」「自己」ってあるけど、
    これら、それぞれ、どういうの?




引用返信/返信 削除キー/
■24910 / inTopicNo.8)  Pipitさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/07/17(Sun) 15:46:00)
    No24901に返信(pipitさんの記事)
    > マジモンさん、おはよーございます(^○^)
    > No24898
    > >Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?<
    >
    > pipitのイメージでこたえますね。
    >
    > 【めちゃかしこく、めちゃやさしい、智慧と慈悲から生じる行為を、主体的に選択実行が可能になる状態】をpipitはイメージします。
    > 慈悲と智慧で行為する、なんて、普通は理想であり得ない感じだから、『得難き』なんじゃないかな?と思っています。
    > 先に引用したダンマパダ160の一つ前、ダンマパダ159には【自己は実に制し難い】とあります。
    >
    > ダンマパダ159(中村元先生訳)
    > 『他人に教えるとおりに、自分でも行えーーー。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。』
    >
    > ちょっと目に入った、『自己』の章で、印象的な句を引用しますね。中村元先生訳です。
    >
    > ダンマパダ163
    > 『善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。』
    >
    > ダンマパダ165
    > 『みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。』
    >
    > ダンマパダ166
    > 『たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。』

    こんにちわ、Pipitさん。

    まず、『 得難き主を得る 』は理解できました。

    修得しにくい主を得る…、言った具合なんでしょうね。

    俺はその『得』って言う文字が苦手で…。
引用返信/返信 削除キー/
■24903 / inTopicNo.9)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 07:10:27)
    過去投稿からのコピペ。
    ここでは、城主は、『識』だね!

    ====================

    片山先生訳の『キンスカ喩経』の一部分を引用
    「比丘よ、たとえば王の辺境の都市が強固な城壁、強固な城塁、城門、六門をそなえ、

    そこにその賢明、聡明にして、有能で、智慧のある門番がおり、
    見知らぬ者を止め、
    知っている者を入れさせているとします。

    東方より急ぎの使者が来て、その門番に次のように言います。
    『これ、この城主はどこにおられるのか』と。
    かれはこのように言います。
    『そのお方は、中央の四大路に坐っておられます』と。

    そこで、そのその急ぎの使者二人は、城主に如実の使命を伝え、
    来たとおりの道を引き返します。

    西方より...
    北方より...
    南方より...急ぎの使者が二人来て...城主に如実の使命を伝え、来たとおりの道を引き返します。

    比丘よ、私は意味を知らせるためにこの比喩を作りましたが、その意味はつぎのとおりです。

    比丘よ、
    『都市』は四大種からなり、母と父から生まれ、米飯と麦菓子の集積であり、無常の、除滅の、摩滅の、破滅の、破壊の性質からなる、この〈身〉の同義語です。

    『六門』とは〈六内処〉の同義語です。

    『門番』とは〈正念〉の同義語です。

    『急ぎの使者二人』とは〈止観〉の同義語です。

    『城主』とは〈識〉の同義語です。

    『中央の四大路』とは地界・水界・火界・風界なる、この〈四大種〉の同義語です。

    『如実の使命』とは〈涅槃〉の同義語です。

    『来たとおりの道』とは〈聖なる八支の道〉、すなわち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の同義語です」』
    引用終了。

    『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生、p161-162


    [四大種](都市)

    【眼φ(・_・正念】--------【耳φ(・_・正念】--------【鼻φ(・_・正念】--
    |・・・・G・・・・・・・水水G水・・・・・・・G・・・・|
    |・・・・・・・・G・・・水水G水・・・・G・・・・・・・|
    |地地地地地地地地地地地地【城主】火火火火火火火火火火火火|
    |地地地地地地地地地地地地【★識】火火火火火火火火火火火火|
    |・・・・・・・・・G・・風風G風・・・G・・・・・・・・|
    |・・・・G・・・・・・・風風G風・・・・・・G・・・・・|
    【舌φ(・_・正念】--------【身φ(・_・正念】--------【意φ(・_・正念】--

    ε=ε=ε=ε=┌(止)┘≪如実の使命(涅槃)
    ε=ε=ε=ε=┌(観)┘≪如実の使命(涅槃
引用返信/返信 削除キー/
■24902 / inTopicNo.10)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 06:36:46)
    >ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』<

    トピ主(ぬし)の『主(ぬし)』とかで考えたらどうかな?

    ◯◯な主、
    △△な主、

    pipitが仏教に詳しいわけでは全くないので、仏教教義と全く違ってる可能性もあります。
    単にpipitのイメージなので、いろいろ間違ってたらごめんね!
    m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■24901 / inTopicNo.11)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/07/17(Sun) 06:18:46)
    マジモンさん、おはよーございます(^○^)
    No24898
    >Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?<

    pipitのイメージでこたえますね。

    【めちゃかしこく、めちゃやさしい、智慧と慈悲から生じる行為を、主体的に選択実行が可能になる状態】をpipitはイメージします。
    慈悲と智慧で行為する、なんて、普通は理想であり得ない感じだから、『得難き』なんじゃないかな?と思っています。
    先に引用したダンマパダ160の一つ前、ダンマパダ159には【自己は実に制し難い】とあります。

    ダンマパダ159(中村元先生訳)
    『他人に教えるとおりに、自分でも行えーーー。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。』

    ちょっと目に入った、『自己』の章で、印象的な句を引用しますね。中村元先生訳です。

    ダンマパダ163
    『善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。』

    ダンマパダ165
    『みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。』

    ダンマパダ166
    『たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。』


引用返信/返信 削除キー/
■24898 / inTopicNo.12)  Re[20]: 日記
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/07/16(Sat) 23:03:58)
    No24880に返信(pipitさんの記事)
    > みなさま、おはようございます。
    > カント関連の記事から、pipitは仏典のことも連想するので、日記します。
    >
    > 『思想』「カント」特集記念 特別ページ*アンケート/御子柴善之先生の回答より
    >
    > 『イチオシしのフレーズとその理由を教えて下さい
    >
    > 「自分が他人に対して拘束されていると私が認識できるのは、私が同時に自分自身を拘束している限りにおいてだけである。」
    > (『道徳形而上学』から)
    >
    >  まっとうな倫理学が発するメッセージはただ一言に集約できると思う。〈あなたの主人はあなた以外にはいない〉、と。これを裏づける思想の深淵がこのフレーズから窺われる。平凡を生きてなお、自由の洞察を忘れない。
    > (御子柴善之)』
    >
    > https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/1376
    >
    > 御子柴善之先生の回答から思い出すのはダンマパダの『自己』の章にある経文。
    >
    > ダンマパダ160(中村元先生訳)
    > 『自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    > 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』
    > 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』
    >
    >
    > 正田大観さま日訳
    > ダンマパダ 
    > 12. 自己の章
    >
    > https://suttacentral.net/dhp157-166/jpn/daikan?reference=none&highlight=false


    Pipitさんにご質問ですが、『 得難き主を得る 』ってどういう意味ですか?

引用返信/返信 削除キー/

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