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■24185 / inTopicNo.49)  A
  
□投稿者/ pipit -(2022/06/26(Sun) 06:46:39)
    2022/06/26(Sun) 07:42:17 編集(投稿者)

    (片)これは貪...瞋...見...疑...慢...有貪...無明という潜在煩悩の終わりです。

    (T)then that is the end of the obsessions of passion,
    the obsessions of resistance,
    the obsessions of views,
    the obsessions of uncertainty,
    the obsessions of conceit,
    the obsessions of passion for becoming,
    & the obsessions of ignorance.

    (S)just this is the end of the underlying tendencies to
    desire,
    repulsion,
    views,
    doubt,
    conceit,
    the desire to be reborn,
    and ignorance.
引用返信/返信 削除キー/
■24184 / inTopicNo.50)  @
□投稿者/ pipit -(2022/06/26(Sun) 06:37:56)
    (片)比丘よ、人に妄執想(もうしゅうそう)の諸部分が起こる根拠があるとき、もしここに歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきものがなければ、

    (T)If, with regard to the cause whereby the perceptions & categories of objectification assail a person, there is nothing there to relish, welcome, or remain fastened to,

    (S)A person is beset by concepts of identity that emerge from the proliferation of perceptions. If they don’t find anything worth approving, welcoming, or getting attached to in the source from which these arise …
引用返信/返信 削除キー/
■24183 / inTopicNo.51)  Re[7]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/26(Sun) 06:32:06)

    > まずは、片山先生の@の訳文(一部分)を引用させていただきます。
    >
    > 『比丘よ、人に妄執想(もうしゅうそう)の諸部分が起こる根拠があるとき、もしここに歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきものがなければ、これは貪...瞋...見...疑...慢...有貪...無明という潜在煩悩の終わりです。
    > これこそ棒を取ること、刀を取ること、言い争い、論争、口論、喧嘩、中傷、虚言の終わりです。
    > ここにはこれら悪しき不善の法が残りなく滅します。』
    > 『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生、p155より引用


    この部分の原典の、お二方の英訳を見てみます。

    (T)Thanissaro Bhikkhuさま英訳
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/mn/mn.018.than.html

    (S)Bhikkhu Sujatoさま英訳
    https://suttacentral.net/mn18/en/sujato?layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    です。


引用返信/返信 削除キー/
■24182 / inTopicNo.52)  Re[6]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/26(Sun) 06:26:55)
    みなさま、おはようございます。

    No24173
    Aのマハーカッチャーナ尊者の説法の部分だけ読もうと思っていましたが、
    読み進めるうちに、@の釈尊の説法も目を通してみたいと思いが変わったので、少しだけでも見ることにチャレンジします。

    Aは、@の補足説明ということで、Aを読むなら、@にも目を通した方がいいと考えました。

    まずは、片山先生の@の訳文(一部分)を引用させていただきます。

    『比丘よ、人に妄執想(もうしゅうそう)の諸部分が起こる根拠があるとき、もしここに歓喜すべきもの、歓迎すべきもの、愛着すべきものがなければ、これは貪...瞋...見...疑...慢...有貪...無明という潜在煩悩の終わりです。
    これこそ棒を取ること、刀を取ること、言い争い、論争、口論、喧嘩、中傷、虚言の終わりです。
    ここにはこれら悪しき不善の法が残りなく滅します。』
    『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生、p155より引用

引用返信/返信 削除キー/
■24173 / inTopicNo.53)  Re[5]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/25(Sat) 21:32:15)
    2022/06/25(Sat) 21:39:44 編集(投稿者)

    考察に自分にとって必要なので、過去投稿を再投稿させていただきます。

    (以下再投稿)
    No23881
    みなさま、こんにちは。
    超難しそうな経典であきらめかけたのですが、やっぱり一部分でも読みたい!
    しかも蜜丸は、蜜の飴玉のように元気が出るという比喩のよう!
    ので、片山一良先生解説文章の十二処の記述箇所に引用されてた箇所だけでも、読んでみようかな、と、思いました。

    まず、光明寺経蔵さんのサイトでpipitには理解しきれないなりにざっと経文を読ませてもらいました。
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn02/mn02c18.files/sheet001.htm

    大まかな構成としては、

    @お釈迦さまがダンダパーニさんとお話しした内容について、弟子たちに説かれる。



    A説法を聞いたものの理解しきれなかった弟子たちが、マハーカッチャーナ尊者に頼んで、内容を解説してもらう。



    Bマハーカッチャーナ尊者に解説してもらった旨を弟子たちがお釈迦さまに報告すると、お釈迦さまは解説内容を追認される。

    みたいな感じかなーと。

    それで十二処の箇所は、Aのマハーカッチャーナ尊者の解説として、出てくるようです。
引用返信/返信 削除キー/
■24172 / inTopicNo.54)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/25(Sat) 21:27:44)
    まだpipitなりの『蜜丸経』の考察日記続けます。
    誤解釈ばかりしてたらすみませんm(_ _)m


    No23966に返信(pipitさんの記事)
    > みなさま、こんばんは。
    > No23917の続きの箇所の英訳をpipitなりに日訳しました。
    > 英訳はこちらです。↓
    >
    > https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/mn/mn.018.than.html
    >
    > ※※※※※※※※※※※※※※※※
    > 【可能バージョン】
    >
    > @さて、眼が有り、色形が有り、眼の意識が有るとき、人は触れるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 触れるという仮設が有るとき、
    > 人は感じるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 感じるという仮設が有るとき、
    > 人は知覚(解釈、理解)するという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 知覚(解釈、理解)という仮設が有るとき、人は考えるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 考えるという仮設があるとき、人は捏造客体化の知覚(解釈、理解)とカテゴリー(分類)に襲われるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > A耳が有るとき、、、
    > B鼻が有るとき、、、
    > C舌が有るとき、、、
    > D身体が有るとき、、、
    >
    > E知性が有り、観念が有り、知性の意識が有るとき、人は触れるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 触れるという仮設が有るとき、人は感じるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 感じるという仮設が有るとき、人は知覚(解釈、理解)するという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 知覚(解釈、理解)という仮設が有るとき、人は考えるという仮設を仮設することが可能です。
    >
    > 考えるという仮設があるとき、人は捏造客体化の知覚(解釈、理解)とカテゴリー(分類)に襲われるという仮設を仮設することが可能です。
    > ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
    >
    > この次は、【不可能バージョン】に続きます。
引用返信/返信 削除キー/
■24169 / inTopicNo.55)  Re[23]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/25(Sat) 19:02:09)
    これも好きだけど、悪魔ちゃんは、嫌いかなー

    https://youtu.be/QvWsAIc5mO8

    最後の最後とかも、いやらしい??

    いや、でも、まあ、うーん、でも私はきらいじゃないかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■24168 / inTopicNo.56)  Re[22]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/25(Sat) 18:59:56)
    No24167に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > https://youtu.be/0KK5vQlCVYo
    > pipitさま、歌詞だけみたよ。
    >
    > この歌詞作った人、いやらしい。
    >

    悪魔ちゃん、こんばんはー

    悪魔ちゃんは、お気に召さなかったかな?

    私はオレンジスターさんの作る曲、好きなんだよねー
引用返信/返信 削除キー/
■24167 / inTopicNo.57)  Re[21]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/06/25(Sat) 18:55:49)
引用返信/返信 削除キー/
■24165 / inTopicNo.58)  Re[20]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/25(Sat) 18:28:01)
    2022/06/25(Sat) 18:57:11 編集(投稿者)
    2022/06/25(Sat) 18:28:43 編集(投稿者)

    みなさまこんにちはー
    延ばし延ばしになってた、片山先生の引用ふぁいとおー

    引用開始
    『地水火風
    仏は、あるとき、実子であるラーフラ(羅睺羅)尊者に、色(しき・四大)をどのように見るかについて、つぎのように説明されました。

    「過去・未来・現在のいかなる色も、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝(すぐ)れたものであれ、あるいは遠くのものも、近くのものも、すべて色は、
    『これは私のものではない』
    『これは私ではない』
    『これは私の我(が)ではない』
    とこのように、これが如実に、正しく、慧によって見られるべきです」
    (※中部第六二『大ラーフラ教誡経(きょうかいきょう)』)

    と。
    そして色だけではなく、受も、想も、行も、識も、すなわち五蘊(ごうん)のすべては、愛、慢、見という三種の妄執(もうしゅう)によって観られるべきではない。
    正しい智慧によって、無我である、と如実に見られるべきである、と語られたのです。
    (略)』
    引用終了

    『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』片山一良先生著、p89より。

    (pipit感想)
    よく見かけるフレーズが、

    『これは私のものではない』→【愛】
    『これは私ではない』→【慢】
    『これは私の我(が)ではない』→【見】

    にそれぞれ対応してるっぽいことに、片山先生の解説を読んで初めて感想しました。

    pipit的には
    No24153のwiki説明とも合わせて、興味深いです。

    ちなみに無有愛は破壊欲と言えるところもあるかも、と思いました。
    気に入らないものを破壊する。

    有愛は、バワ・タンハー
    無有愛は、ビ・バワ・タンハー

    バワが存在、ビが離れるという語感をpipitは抱いています。

    人間なら誰しも持ってるのかもと思ったり。(他人のことはわかりませんが)
    もちろん私も。

    今思い出したなー、この曲
    ♪雨き声残響 オレンジスターさん

    https://youtu.be/0KK5vQlCVYo

    この曲で思い出す心所は、慢(マーナ)。

    マーナには、測るという語感をpipitは持っています。
    何かを仮置きしてから測らないと、数値、でないね。
    今思い出したのは、ゆうパックの荷物の大きさ測ること。三方測って合計するんだよん。知ってた?
引用返信/返信 削除キー/
■24154 / inTopicNo.59)  Re[19]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/24(Fri) 23:51:12)
    で、片山先生の文章の引用は、、、

    また明日ー (°▽°)ネムイヲ

    おやすみなさい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■24153 / inTopicNo.60)  Re[18]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/06/24(Fri) 23:48:55)
    みなさま、こんばんは。

    No24118
    > 註釈書では、パパンチャは、渇愛(タンハー)と慢(マーナ)と見(デイッティ)を含む思考と説明されている、<


    片山先生の文章を引用する前に、
    @【渇愛】
    A【慢】
    B【見】
    について、wikiってみます。

    ※※※※※※※※

    @【渇愛】wikiより一部抜粋引用。

    渇愛[1](かつあい、巴: 略, 梵: 略)とは、十二因縁の一つで、対象のものごとを貪ったり、執着することを指す[2]
    。仏教においては中核的概念のひとつであり[3]、身体・精神的な「渇き、欲望、渇望、貪欲」を指している[4][5]。愛(あい)とも訳される[2]。
    * 欲愛[2](巴: 略) - 感官によって得られる刺激・快楽への渇愛
    * 有愛[2](巴: 略) - 存在することへの渇愛
    * 非有愛[2](巴: 略) - 存在しなくなることへの渇愛

    という以上の三種に分類される

    ※※※※※※※※

    A【慢】wikiより一部抜粋引用

    慢(まん)とはサンスクリット語のMana(マーナ)に由来し、仏教が教える煩悩のひとつである[1]。
    他人と比較して思い上がることを言う。
    慢は渇愛(タンハー)より生まれる[1]。
    (略)
    「私」という幻覚が生まれること自体が、慢の始まりなのである[1]。
    「私」という幻覚が生まれると以下のように、自分を標準として他人を判断するようになる[1]。
    * 私が優れている(seyya mana)[1]
    * 私と等しい(sadisa mana)[1]
    * 私が劣っている(hina mana)[1]

    ※※※※※※※※

    【見】wikiより一部抜粋引用

    仏教用語の見(けん、巴: 略, 梵: 略)とは、哲学的な見解のこと。
    仏教思想において見とは、単なる命題の抽象的集合ではなく、思考、感覚、行動によって強く形づくられ影響を及ぼす、過去の体験の解釈である[1]。
    (略)
    見は志向作用(行)より起こり、そして構築されるものである。これは個人が冷静に選択できるような中立な選択肢といったものではなく、「条件付け」によって発生する症状なのである[1]。
    パーリ仏典において、釈迦は涅槃に達したならば「束縛、結縛、貪欲、妄執、執著、愛着、見への固執」を「超越する」と語っている[3]。

    ※※※※※※※※

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