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■28153 / inTopicNo.1)  Re[3]: be動詞
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/24(Sat) 21:11:47)
    こんばんは、エフニさん。レスありがとうございます。

    No28150に返信(エフニさんの記事)
    > be動詞は、文型によって、完全自動詞になる場合と、不完全自動詞になる場合があります。

    > 完全自動詞の場合は存在を現わし、不完全自動詞の場合は補語を取り、主語の様態、属性、性質を現わします。

    例えば完全自動詞の場合、不完全自動詞の場合って、具体的にはどんな例文になるんでしょうか。

    > 因みにインドはアジアですが、パーリ語やサンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族に入ります。

    そうなんですね。ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■28152 / inTopicNo.2)  Re[2]: be動詞
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/24(Sat) 21:06:34)
    2022/12/24(Sat) 21:15:53 編集(投稿者)

    こんばんはフローラさん。レスありがとうございます。

    No28146に返信(floraさんの記事)

    > >> >西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。

    > >> >私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。
    > >> >例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。
    > >> >結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。

    > >> 最後の引用文に『その実存こそが「私」の本質である』と「〜である」が使われています。パニチェさんの解釈によれば「本質」も「父親」と同様、述語が「である」故、「最も大事な根本の性質・要素」ではないことになります(その前の「<私>は実存であり」も「〜である」の形です)。
    > >> もしも「その実存こそが「私」の本質である」がパニチェさんの本意を正しく表現しているとするならば、「〜である」の形が「本質規定である」とも言える様な気がします。

    > >上記は先の私の論旨とは異なりますので(伝わらないかもしれませんが)返信してみます。
    > 私の先の論旨はあくまでも『西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感がある』さらに言えば反対だ、否定するということです。

    > be動詞なのですが、例えば I am の後に名詞や形容詞がくれば、その時点での属性を示すことになると思いますが、I am.で終われば、私はある(存在する)という意味になると思います。つまりbe動詞は構文により、属性を現すこともあれば本質を現すこともあると思います。

    ここ確認ですが、I am.で終われば、私はある(存在する)という意味になるとうのは分かりますが、本質を現すのはどういう例文の場合ですか?

    > 皆様ご存じのデカルトのCogito ergo sum 我思う、ゆえに 我あり、ラテン語ですから主語を省略してありますが、最後のsumは英語で言えばamになります。確かデカルト自身も色々な著作の中でsumと existo (exist)を互換していたと思います。(『省察』)
    > 結果を言えば著者の方がbe動詞を例に挙げたのは、適切ではなかったと思います。

    なるほど。上記は了解しました。
    てっきりどこかの時点で『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義でもなされたのかな、それを前提として著者が書かれたものと読解してました。

引用返信/返信 削除キー/
■28138 / inTopicNo.3)  Re[19]: 第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/24(Sat) 08:21:23)
    2022/12/24(Sat) 08:29:15 編集(投稿者)

    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No28032に返信(bwv602さんの記事)
    > そうですね。おっしゃる意味は分かりますが、川原栄峰氏が言わんとすることとポイントが少しずれていると思います。

    はい。先の私の主張は川原栄峰氏が言わんとすることへの反論ではありません。
    あくまでも「PはQである」のQを本質とするという定義への反論です。

    > 川原氏が「『私はPである、P'である、P"である・・・』といくらこれを積み重ねていっても、そのように言っているEはどうしても言い表すことができない。」と言っているように、Pに何を入れても駄目だということです。その理由は、「私はPである」と規定した瞬間に、〈私〉は見る側から見られる側に回ってしまうから、つまり〈私〉が「私」に変質してしまうからです。
    > 上でパニチェさんが「〈私〉は実存であり」と書いているのも同じことで、Pに「実存」を入れても、「特異点」を入れても、それを入れた瞬間に、〈私〉が見る側から見られる側に回ってしまい、〈私〉が「私」に変質してしまうことに変わりはありません。この話のポイントはそういうところにあります。
    > (パニチェさんは「Panietzsche Room」の「〈私〉の哲学」の「電脳の可能性」で、「言葉にした瞬間に必然的に変質してしまう」と書いているので、このことを理解されているはずだと思います。ただ、これは「言葉」による変質ではないと私は思います。それについては後で書きます。)

    はい。上記の川原氏の主張は以下の引用にもあるようにパニチェも同じことを考えていたと「Panietzsche Room」を紹介させていただいた通り、完全同意です。

    >>引用ありがとうございます。上記は完全に同意できます、というか、これは手前味噌ですが。。。
    >>〈私〉は「私は〇〇である」で表現されるところの属性ではない、ということを20年ほど前にYahoo!掲示板の議論でレスしたことがあります。
    >>Pを本質と呼ぶというのは知らなかったというより、少し言葉遊びのようで違和感がありますが、それは横に置くとしてEが実存であり、実存は本質にとどまらず全てに先立つという意味で同意です。
    >>目で目を見ることができないとか、鏡に映った自分の目は直接目を見ているわけではないとか、同じようなことを考える人がいるもんだなぁ〜と嬉しくもあり感心しました。
    >>(「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学 > 2.語りえぬ〈私〉」にまとめてあります)


    > ご紹介いただいた「Panietzsche Room」の「〈私〉の哲学」を読ませていただきました。いろいろと考えさせられることもあり、面白かったです。

    ありがとうございます。

    > 思ったことは色々ありますが、例えばその一つに〈私〉という表記の仕方があります。パニチェさんは(永井均さんも)〈 〉の中を【私】としていますが、〈私〉という表記が良いと思われる理由は何かありますか?
    > 読んでいて思ったのですが、〈私〉という表記は、普段自分で「自分」と思っているもの(あるいは見られた「私」)のイメージに思考が引っ張られ易いような気がしました。そしてそのために、〈私〉と「私」の違いが曖昧になり易いような気がしました。
    > 「実存」という語や、ハイデガーの「現存在」、サルトルの「対自存在」という語は、それらの語を使った理由はいろいろあるでしょうが、その理由の一つは、普段自分で「自分」と思っているもののイメージに思考が引っ張られないようにするためではないかと思います。

    > パニチェさんが〈私〉について書かれている中で、これは〈私〉ではなく「私」のことではないだろうか?と私が疑問に思った箇所がいくつかありました。
    > 例えば、「9.外延と内包」の
    > 「胎児の〈私〉と、物心がついた〈私〉は、同じものであるとは思えないが、パニチェは〈私〉について重層的な、あるいは束のようなものだと考えている。
    > 言語的な〈私〉、身体的な〈私〉、記憶による自己同一的な〈私〉、性格や性質としての〈私〉、父親としての〈私〉などなどである。」
    > という記述の〈私〉は、「私」ではなく〈私〉だと理解して良いのでしょうか?

    ご指摘通り上記は誤記です。訂正しておきました。ありがとうございました。
    今回、自分の駄文を読み直して気付いたのですが、どうやらこの時点では「私」ではなく〈私〉を重層的なものとして考察していたようです。
    そういう意味では探究が深まり変更していますね。

    > 〈 〉の中を自分ならどうするか・・・と考えてみると、瞑想修行中の身としては、〈「今ここ」における「サティ」〉としたいと思います。
    > 〈サティ〉は、ただ世界をあるがまま「観る」働きであり、「観られる」側には回りません。また〈サティ〉は普段自分と思っている「私」を客観的に観て、「それは私(=サティ)ではない」と観るので、「私」のイメージに引っ張られることも少ないと思います。パニチェさんも〈私〉から〈サティ〉に転向されてはいかがでしょうか。(半分以上冗談ですが)

    アドバイス、ありがとうございます。
    以前からパニチェは新しい哲学用語をつくるということについて、できるだけ避けたいと考えております。
    まぁパニチェの頑固頑迷なところですが、いずれにしても言葉で表現できないのだから新しい言葉を作っても無駄だろう、と。

    さらに「私」はやっぱり本来〈私〉なんですね。
    これを気付かずに多くの人は「私」という一人称を用いている。もっとも日常的には全く問題ないし、何の不便でもない。
    だから、そういうことも(あえて、あるいは、わざわざ)考えずに「私」と名乗っている。
    ここから気付くことができるので「私」の変形表現として〈私〉という表記に執着(笑)しています。

    > カントは、「道徳と信仰の場所をあけておくために、私は理性の範囲を制限しなければならなかった」(うろ覚えなので正確ではありません)と言っていて、『純粋理性批判』で、理性が学問的(科学的)に働き得る範囲を明確にしようとしたのでした。そこを明確にしないと、神や自由は存在するのか否かとか、宇宙は有限なのか無限なのか・・・などの理論理性では解決できない問題の中に迷い込んで、理性は空回りし、堂々巡りしてしまう。だから理論理性が正当に働き得る範囲を制限しなければならないとカントは考えたのでした。(これは形而上学的な問題には沈黙を守って議論しないというブッダの「無記」の態度にちょっと似ていると思います。)

    なるほど。

    > そのように、神の存在は理論理性の限界を超えた信仰の領域なので、神の存在の有無を学問的に論じることはできませんが、しかし、有神論という「信仰」的立場を表明しつつ「哲学」するのも、無神論という「信仰」的立場を表明しつつ「哲学」するのも、どちらも同じようにあって良いこと(あるいは同罪)だと私は思います。(有神論と無神論の他には、ただ判断しないという意味でのエポケーという態度もあり得るでしょうが、それは悪く言えば自らの信仰的立場を曖昧にしているとも言えるでしょう。)実存主義では、サルトルは無神論的実存主義、ヤスパースは有神論的実存主義として有名ですね。

    同意です。

    > ところで、「理性の限界」ということに関連して言えば、たぶんパニチェさんは〈私〉を探究する際に「理性の限界」を感じることが多いのではないかと思います。というのも、探究している(見ている)のが〈私〉であって、探究された(見られた)ものはもはや〈私〉ではないのだから、〈私〉を探究すること自体が始めから矛盾を孕んでいるからです。それは、見ている目を見ることはできないのに、見ようとしているようなものだと思います。
    > この矛盾は、自己言及のパラドックスと何らかの関連があると思われます。川原栄峰氏は『哲学入門以前』の「実存」の章を、嘘つきのパラドックスから書き始めています。

    はい。風車に挑むドンキホーテである所以です。^^

    > 「自分で自分を見るという場合、見る自分と見られる自分との二つが考えられる。このように、人間の対自存在は二重の自己から成り立っているのであって、これをいま『自己分裂』と呼んでおこう。あの嘘つきの話の妙なぐるぐる回りはこの自己分裂から来ているのである。私は嘘つきだという場合、そう見られた自分はたしかに嘘つきだが、そう見ている自分は嘘つきではないのである。このように人間は、自分について、何々であると言うとき、そのことにおいて、それと同時に、その何々ではなくなる、という妙なことがあるのであって、これはなにも嘘つきの場合だけとは限らない。」

    > 川原氏が言うように、「自分で自分を見る」時に「自己分裂」が生じ、そこにパラドキシカルな事態が生じる。ここでは言語は必ずしも関係していないと思われるので、この場合に生じる「頽落」は、「言語化」による頽落ではなく、自己を「対象化」することによって生じる頽落、つまり自己が見る側から見られる側に回ってしまうことによって生じる頽落だと私は思います。

    > 他方、言語化による頽落は、代理不可能な〈個〉は一般化(普遍化)する性質をもつ言語によっては言表不可能であるという理由によって生じる頽落であり、これは「個と普遍」の問題と関連があると思います。「個と普遍」の問題で有名なのは中世の普遍論争ですが、〈個〉の言表不可能性を主張したドゥンス・スコトゥスは、代理不可能な〈個〉を言い表すために「ソクラテス性」「このもの性」などの奇妙な独自の言葉を作ったのでした。言語化による頽落は、この辺と関連があると思います。
    > 上でパニチェさんが、「〈私〉を起点として言葉の(特に本質や実存、存在を)再定義が必要でもある」と書いておられるのは、ドゥンス・スコトゥスの考えに通じるところがあると私は思いました。

    ほぼ同意なんですが、私が思うには。。。
    自己を「対象化」することによって生じる頽落、つまり自己が見る側から見られる側に回ってしまうことによって生じる頽落は言語による頽落と同じだと思います。
    言い方を変えれば言語による頽落の中に「対象化」したものを言語化しているということです。つまり言語は対象化しなければ言語化できないということでもあると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■28137 / inTopicNo.4)  Re[19]: 第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/24(Sat) 07:48:46)
    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No28017に返信(田秋さんの記事)

    > >西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。
    >
    > >私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。
    > >例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。
    > >結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。

    > 最後の引用文に『その実存こそが「私」の本質である』と「〜である」が使われています。パニチェさんの解釈によれば「本質」も「父親」と同様、述語が「である」故、「最も大事な根本の性質・要素」ではないことになります(その前の「<私>は実存であり」も「〜である」の形です)。
    > もしも「その実存こそが「私」の本質である」がパニチェさんの本意を正しく表現しているとするならば、「〜である」の形が「本質規定である」とも言える様な気がします。

    上記は先の私の論旨とは異なりますので(伝わらないかもしれませんが)返信してみます。
    私の先の論旨はあくまでも『西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感がある』さらに言えば反対だ、否定するということです。

    「PはQである」をPを「私」とすると「私は父親である」以下同様にQは「夫」「男」「社長」「短気」などなど、Q全てが「私」の本質ということになり、本質を「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素(Oxford Languagesの定義)」とすれば、「夫」や「男」や「社長」や「短気」それぞれが「私として欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」なんてことはありえず、「私」でなくとも「彼」でも、上記の立場や肩書や性質を有する人に当てはまる、よって『・・・である』の方はbe動詞で表現されるQが本質であるなんてことはないということです。

    そして『〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。』という私の主張は『〈私〉こそが実存であり、〈私〉以外の実存はありえない。〈私〉のみが実存である。またその実存こそが「私」の本質であり、「私」の本質は〈私〉以外にありえない、〈私〉のみが「私」の本質である』ということを「PはQである」のQを本質とするという定義を否定した上で〈私〉についてのみ断言できることを上記の表現で主張しているということです。

    > 私見ですが「である」には様々な用法があるのではないでしょうか。

    さまざまな用法があるということには同意です。
    そして田秋さんの指摘が「である」には様々な用法があり、必ずしも「である」で表現されるQが本質とは限らないが、本質を表現する文も可能である、ということであれば、上記の理由でもって『「その実存こそが「私」の本質である」がパニチェさんの本意を正しく表現しているとするならば、「〜である」の形が「本質規定である」とも言える様な気がします』というところを除いて同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■28032 / inTopicNo.5)  Re[18]: 第一原理
□投稿者/ bwv602 -(2022/12/19(Mon) 23:15:57)
    こんばんは、パニチェさん。

    > 西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。
    > 日本語で言うとのころの「本質」とは「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素(goo辞書)」であって、例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。
    > 私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。
    > 結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。
    > ついでに暴論を展開すれば〈私〉を起点として言葉の(特に本質や実存、存在を)再定義が必要でもある、と。
    > ここは少しパニチェの戯言ですからスルーしてもらっても大丈夫です。

    そうですね。おっしゃる意味は分かりますが、川原栄峰氏が言わんとすることとポイントが少しずれていると思います。
    川原氏が「『私はPである、P'である、P"である・・・』といくらこれを積み重ねていっても、そのように言っているEはどうしても言い表すことができない。」と言っているように、Pに何を入れても駄目だということです。その理由は、「私はPである」と規定した瞬間に、〈私〉は見る側から見られる側に回ってしまうから、つまり〈私〉が「私」に変質してしまうからです。
    上でパニチェさんが「〈私〉は実存であり」と書いているのも同じことで、Pに「実存」を入れても、「特異点」を入れても、それを入れた瞬間に、〈私〉が見る側から見られる側に回ってしまい、〈私〉が「私」に変質してしまうことに変わりはありません。この話のポイントはそういうところにあります。
    (パニチェさんは「Panietzsche Room」の「〈私〉の哲学」の「電脳の可能性」で、「言葉にした瞬間に必然的に変質してしまう」と書いているので、このことを理解されているはずだと思います。ただ、これは「言葉」による変質ではないと私は思います。それについては後で書きます。)


    > 引用ありがとうございます。上記は完全に同意できます、というか、これは手前味噌ですが。。。
    > 〈私〉は「私は〇〇である」で表現されるところの属性ではない、ということを20年ほど前にYahoo!掲示板の議論でレスしたことがあります。
    > Pを本質と呼ぶというのは知らなかったというより、少し言葉遊びのようで違和感がありますが、それは横に置くとしてEが実存であり、実存は本質にとどまらず全てに先立つという意味で同意です。
    > 目で目を見ることができないとか、鏡に映った自分の目は直接目を見ているわけではないとか、同じようなことを考える人がいるもんだなぁ〜と嬉しくもあり感心しました。
    > (「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学 > 2.語りえぬ〈私〉」にまとめてあります)


    ご紹介いただいた「Panietzsche Room」の「〈私〉の哲学」を読ませていただきました。いろいろと考えさせられることもあり、面白かったです。
    思ったことは色々ありますが、例えばその一つに〈私〉という表記の仕方があります。パニチェさんは(永井均さんも)〈 〉の中を【私】としていますが、〈私〉という表記が良いと思われる理由は何かありますか?
    読んでいて思ったのですが、〈私〉という表記は、普段自分で「自分」と思っているもの(あるいは見られた「私」)のイメージに思考が引っ張られ易いような気がしました。そしてそのために、〈私〉と「私」の違いが曖昧になり易いような気がしました。
    「実存」という語や、ハイデガーの「現存在」、サルトルの「対自存在」という語は、それらの語を使った理由はいろいろあるでしょうが、その理由の一つは、普段自分で「自分」と思っているもののイメージに思考が引っ張られないようにするためではないかと思います。

    パニチェさんが〈私〉について書かれている中で、これは〈私〉ではなく「私」のことではないだろうか?と私が疑問に思った箇所がいくつかありました。
    例えば、「9.外延と内包」の
    「胎児の〈私〉と、物心がついた〈私〉は、同じものであるとは思えないが、パニチェは〈私〉について重層的な、あるいは束のようなものだと考えている。
    言語的な〈私〉、身体的な〈私〉、記憶による自己同一的な〈私〉、性格や性質としての〈私〉、父親としての〈私〉などなどである。」
    という記述の〈私〉は、「私」ではなく〈私〉だと理解して良いのでしょうか?

    〈 〉の中を自分ならどうするか・・・と考えてみると、瞑想修行中の身としては、〈「今ここ」における「サティ」〉としたいと思います。
    〈サティ〉は、ただ世界をあるがまま「観る」働きであり、「観られる」側には回りません。また〈サティ〉は普段自分と思っている「私」を客観的に観て、「それは私(=サティ)ではない」と観るので、「私」のイメージに引っ張られることも少ないと思います。パニチェさんも〈私〉から〈サティ〉に転向されてはいかがでしょうか。(半分以上冗談ですが)


    > 説として展開できるだけの知識と深堀はできてないんですが(笑)感覚的に。。。^^;
    > デカルトにそても神を持ち出し思考停止に陥ってるのではないか、またカントにせよ「何故、人間は理性を有するのか」について神がかり的な跳躍(トートロジー)でもって片付けているように思われるからです。私は哲学という学問に神は不要だと考えています。もっとも神を心理学的に解体したり、ルーツや歴史を探ることについては意義や意味は認めますが、あるテーマの帰結や第一原因として神を持ち出すことは哲学を放棄することだとさえ考えているので、こういう私の偏狭な発想からの主張です(笑)


    了解しました。ありがとうございます。

    カントは、「道徳と信仰の場所をあけておくために、私は理性の範囲を制限しなければならなかった」(うろ覚えなので正確ではありません)と言っていて、『純粋理性批判』で、理性が学問的(科学的)に働き得る範囲を明確にしようとしたのでした。そこを明確にしないと、神や自由は存在するのか否かとか、宇宙は有限なのか無限なのか・・・などの理論理性では解決できない問題の中に迷い込んで、理性は空回りし、堂々巡りしてしまう。だから理論理性が正当に働き得る範囲を制限しなければならないとカントは考えたのでした。(これは形而上学的な問題には沈黙を守って議論しないというブッダの「無記」の態度にちょっと似ていると思います。)

    そのように、神の存在は理論理性の限界を超えた信仰の領域なので、神の存在の有無を学問的に論じることはできませんが、しかし、有神論という「信仰」的立場を表明しつつ「哲学」するのも、無神論という「信仰」的立場を表明しつつ「哲学」するのも、どちらも同じようにあって良いこと(あるいは同罪)だと私は思います。(有神論と無神論の他には、ただ判断しないという意味でのエポケーという態度もあり得るでしょうが、それは悪く言えば自らの信仰的立場を曖昧にしているとも言えるでしょう。)実存主義では、サルトルは無神論的実存主義、ヤスパースは有神論的実存主義として有名ですね。

    ところで、「理性の限界」ということに関連して言えば、たぶんパニチェさんは〈私〉を探究する際に「理性の限界」を感じることが多いのではないかと思います。というのも、探究している(見ている)のが〈私〉であって、探究された(見られた)ものはもはや〈私〉ではないのだから、〈私〉を探究すること自体が始めから矛盾を孕んでいるからです。それは、見ている目を見ることはできないのに、見ようとしているようなものだと思います。
    この矛盾は、自己言及のパラドックスと何らかの関連があると思われます。川原栄峰氏は『哲学入門以前』の「実存」の章を、嘘つきのパラドックスから書き始めています。

    「自分で自分を見るという場合、見る自分と見られる自分との二つが考えられる。このように、人間の対自存在は二重の自己から成り立っているのであって、これをいま『自己分裂』と呼んでおこう。あの嘘つきの話の妙なぐるぐる回りはこの自己分裂から来ているのである。私は嘘つきだという場合、そう見られた自分はたしかに嘘つきだが、そう見ている自分は嘘つきではないのである。このように人間は、自分について、何々であると言うとき、そのことにおいて、それと同時に、その何々ではなくなる、という妙なことがあるのであって、これはなにも嘘つきの場合だけとは限らない。」

    川原氏が言うように、「自分で自分を見る」時に「自己分裂」が生じ、そこにパラドキシカルな事態が生じる。ここでは言語は必ずしも関係していないと思われるので、この場合に生じる「頽落」は、「言語化」による頽落ではなく、自己を「対象化」することによって生じる頽落、つまり自己が見る側から見られる側に回ってしまうことによって生じる頽落だと私は思います。

    他方、言語化による頽落は、代理不可能な〈個〉は一般化(普遍化)する性質をもつ言語によっては言表不可能であるという理由によって生じる頽落であり、これは「個と普遍」の問題と関連があると思います。「個と普遍」の問題で有名なのは中世の普遍論争ですが、〈個〉の言表不可能性を主張したドゥンス・スコトゥスは、代理不可能な〈個〉を言い表すために「ソクラテス性」「このもの性」などの奇妙な独自の言葉を作ったのでした。言語化による頽落は、この辺と関連があると思います。
    上でパニチェさんが、「〈私〉を起点として言葉の(特に本質や実存、存在を)再定義が必要でもある」と書いておられるのは、ドゥンス・スコトゥスの考えに通じるところがあると私は思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■28021 / inTopicNo.6)  Re[13]: 第一原理
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/19(Mon) 18:54:46)
    ねえ、
    「本質」ってなあに?
引用返信/返信 削除キー/
■28017 / inTopicNo.7)  Re[18]: 第一原理
□投稿者/ 田秋 -(2022/12/18(Sun) 23:48:12)
    2022/12/18(Sun) 23:55:46 編集(投稿者)

    こんばんは、パニチェさん

    >西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。

    >私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。
    >例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。
    >結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。

    最後の引用文に『その実存こそが「私」の本質である』と「〜である」が使われています。パニチェさんの解釈によれば「本質」も「父親」と同様、述語が「である」故、「最も大事な根本の性質・要素」ではないことになります(その前の「<私>は実存であり」も「〜である」の形です)。

    もしも「その実存こそが「私」の本質である」がパニチェさんの本意を正しく表現しているとするならば、「〜である」の形が「本質規定である」とも言える様な気がします。

    私見ですが「である」には様々な用法があるのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■27963 / inTopicNo.8)  Re[17]: 第一原理
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/17(Sat) 08:51:10)
    2022/12/17(Sat) 09:08:17 編集(投稿者)

    おはようございます、bwv602さん。レスありがとうございます。

    No27901に返信(bwv602さんの記事)

    >>なるほど、少し安心しました。というのも私は『存在と時間』で先にbwv602さんが述べたような〈私〉との共通性は読み込めなかったからです。
    >>ただ感覚的にひょっとしたら現存在も〈私〉に隣接するハイデガーの哲学用語なのかな?と考えていました。

    > そうですね。ハイデガーの関心は〈私〉というよりも〈存在そのもの〉の方にあるので、パニチェさんとは関心の方向が少し違うと思います。
    > (『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』の72ページに、〈私〉の〈 〉という括弧は、ハイデガーの抹消記号からヒントを得たことが書かれていますが、永井均さんが「私」の上に抹消記号を付けたのに対して、ハイデガーが抹消記号を付けたのは「存在」なので、そこに関心の違いがあります。)
    > ただ、ハイデガーも実存的哲学者とされているので、隣接はしていると思います。

    『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』の72ページを確認しました。ここ見落としてました。ありがとうございます。^^;
    なるほど、ハイデガーは〈存在〉をフォーカスしてるんですね。

    > 永井均さんは、「〈私〉ということの本当のポイント」は《実存は本質に先立つ》ということだと言っています(『〈仏教3.0〉を哲学するバージョンU』の〔「形相と質料」から「本質と実存」へ〕の節)。そして実存的哲学者たちの共通理解もそこにあると思われます。
    > 実存的哲学者たちの共通理解について、この前引用した川原栄峰氏が書いているので、それを一部引用します。

    西洋(言語?)的な分類『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、前者を本質規定とし、後者を実存とするという定義(あるいは和訳)には違和感があります。

    日本語で言うとのころの「本質」とは「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素(goo辞書)」であって、例えば「私は父親である」で表現するところの「父親」が「私が私であるところの欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」ではないですからね。

    私は『・・・である』で表現される対象は私の属性(そのものの性質や特徴の意)であると考えています。
    結論から言えば〈私〉は実存であり、その実存こそが「私」の本質である。
    ついでに暴論を展開すれば〈私〉を起点として言葉の(特に本質や実存、存在を)再定義が必要でもある、と。
    ここは少しパニチェの戯言ですからスルーしてもらっても大丈夫です。

    > 「自分で自分を見る・・・対自。私は無知である、私は学生である、私はキリスト教徒である、などなど。これはいつでも『私は何々である』という形をとる。この『何々』をPと略記することにしよう。そうすると、私が私を見て、『私はPである』と言うことになる。そして私を見て私をPだと認めて、それを誇ったり、恥じたり、疑ったりしているのが人生であるが、そうしているその私の方は決してPではない。この、私をPと見ている私の方を今かりにEと略記する。
    > Pというのは普遍的概念であって、このように普遍的な概念で包んで『SはPである』というように決めることを本質規定といい、その場合のPを本質と呼ぶ。しかし『私はPである、P'である、P"である・・・』といくらこれを積み重ねていっても、そのように言っているEはどうしても言い表すことができない。Pは『ほんとうの私』からはズレている。ほんとうの私は、『私はPである』と言っている私、つまりEの方だ。
    > ではEとは何か? EとはPであるという形では絶対に答えられない。Eはいつも答える側にいるのであって、答えられる側にはいないのである。いつも見る側にいて、見られる側にはいない。別の言い方をすると、常に主体の側にいて、決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。これは妙なことのようにも思えるが、しかし考えてみるとあたりまえのことでもある。一体自分の目を見たことのある人があるかどうか、考えてみればよい。自分の目を見たことのある人は絶対にいないはずだ。鏡に映して見てもそれは自分の目の鏡に映った映像であって、自分の見ている目そのものではない。見ている目を見ることはできない。
    > 『私はPである』と言うとき、いつも言う側にいて、言われる側にはいない『私』、これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。これはもはや『何か』サムシングではない。
    > 都合のいいことに、日本語には同じ『ある』という語に、『・・・である』という用法と、『・・・がある』という用法との二つがある。だからPの方はいつも『私はPである』という形で言い表せるのに対して、絶対的な主体としての私(E)の方は『私がある』という言い方で言い表すことができる。『私がある』『われあり』。この『私がある』『われあり』の『あり』つまり『存在』『有』こそは、古今東西を通じて哲学の最も根本的な問題なのである。
    > 『・・・である』に対する『・・・がある』、これを英語で言うとしたら、『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、このexistを名詞にするとexistenceとなる。日本語ではこれを『実存』と訳しているのである。実存主義と言われる場合の『実存』とは、もちろんそれを説く人によってニュアンスの違いはあるが、今述べたように、人間の絶対の主体としての『私がある』のその『ある』のことである。実存主義と言われるのは、この『ある』を主張するのである。もっと細かくいうと、実存が本質に先立つということを主張するのである。」(『哲学入門以前』)

    引用ありがとうございます。上記は完全に同意できます、というか、これは手前味噌ですが。。。
    〈私〉は「私は〇〇である」で表現されるところの属性ではない、ということを20年ほど前にYahoo!掲示板の議論でレスしたことがあります。
    Pを本質と呼ぶというのは知らなかったというより、少し言葉遊びのようで違和感がありますが、それは横に置くとしてEが実存であり、実存は本質にとどまらず全てに先立つという意味で同意です。
    目で目を見ることができないとか、鏡に映った自分の目は直接目を見ているわけではないとか、同じようなことを考える人がいるもんだなぁ〜と嬉しくもあり感心しました。
    (「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学 > 2.語りえぬ〈私〉」にまとめてあります)

    > 「存在とか自己探究について西洋は東洋に比べ後進だった」と私はあまり感じたことがないので、これについては何とも言えませんが・・・
    > よろしければ、パニチェさんの説をもっと展開してみてください。

    説として展開できるだけの知識と深堀はできてないんですが(笑)感覚的に。。。^^;
    デカルトにそても神を持ち出し思考停止に陥ってるのではないか、またカントにせよ「何故、人間は理性を有するのか」について神がかり的な跳躍(トートロジー)でもって片付けているように思われるからです。私は哲学という学問に神は不要だと考えています。もっとも神を心理学的に解体したり、ルーツや歴史を探ることについては意義や意味は認めますが、あるテーマの帰結や第一原因として神を持ち出すことは哲学を放棄することだとさえ考えているので、こういう私の偏狭な発想からの主張です(笑)

    > 私もそう思います。「言語によって頽落してしまうようなあるがままの存在」は、仏教でいえば真如門でしょうね。それを「第一原理」とする。
    > それと同時に、現象世界に生きる私たちは、真如門にありながらも同時に生滅門に生きており、また、〈私〉でありながらも同時に「私」としても生活しているわけなので、そこには二重性があります。そういう二重性をどう考えるかが重要だと思います。
    > 真如門や〈私〉が本来的なものであり、生滅門や「私」の世界を非本来的なものとしてネガティブに見るだけではなく、真如門から生滅門を見直し、また、〈私〉に立脚して「私」の世界を見直し、「私」の世界を再構築することが必要だと私は思っています。
    > 『〈仏教3.0〉を哲学する』でいえば、普段私たちは第四図の中にハマり込んで生活しているわけですが、いったんそこから抜け出して、第五図から第四図を見直してみれば、第四図の世界にハマり込んでいた時とは全く違ったものとして、第四図の世界が見えてくるだろうと思います。

    全くもってその通りで、同意します。

    > そうですね。
    > それに関連して以前から思っていたことですが、「〈実存〉は対象化(客体化)できない」という類いの話をする時に、話し相手と会話が通じにくくなる理由の一つに、《読み方》の問題があると思います。つまり、いくら〈 〉のような特殊な記号を付けたとしても、言語によって対象化してしまっていることに変わりはないので、それを相手が読む際に、〈実存〉としていったん対象化されたものを、

    はい。その言語的な反復運動を永井さんは「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と表現しています。

    >>ある大きさがあり、それが世界の大きさと違うのであれば世界と〈私〉は分離あるいは分断化します。
    >>世界と合一であるということは〈私〉が大きさを持たない点であるからで、点であるが故に「一即一切一切即一」になりうるのではないか?と今のところは考えています。
    >>大きさを持たない位置だけが今ここにある、それは世界が開闢する特異点でもある、と。
    > 説明ありがとうございます。
    > 「〈私〉が大きさを持たない」と、私も思います。
    > 〈私〉は、世界内部的な(現象世界の中にある)ものではないので、それは「大」「小」という世界内部的なものに適用されている区別(比較)を超越していると思います。
    > 「世界と合一」ということについては、自我(「私」としての自分)が無化(空化)する時には、自己は自ずと世界と一体化しているのではないかと私は思います。

    同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■27901 / inTopicNo.9)  Re[16]: 第一原理
□投稿者/ bwv602 -(2022/12/13(Tue) 02:45:22)
    こんばんは、パニチェさん。

    > なるほど、少し安心しました。というのも私は『存在と時間』で先にbwv602さんが述べたような〈私〉との共通性は読み込めなかったからです。
    > ただ感覚的にひょっとしたら現存在も〈私〉に隣接するハイデガーの哲学用語なのかな?と考えていました。

    そうですね。ハイデガーの関心は〈私〉というよりも〈存在そのもの〉の方にあるので、パニチェさんとは関心の方向が少し違うと思います。
    (『西田幾多郎〈絶対無〉とは何か』の72ページに、〈私〉の〈 〉という括弧は、ハイデガーの抹消記号からヒントを得たことが書かれていますが、永井均さんが「私」の上に抹消記号を付けたのに対して、ハイデガーが抹消記号を付けたのは「存在」なので、そこに関心の違いがあります。)
    ただ、ハイデガーも実存的哲学者とされているので、隣接はしていると思います。
    永井均さんは、「〈私〉ということの本当のポイント」は《実存は本質に先立つ》ということだと言っています(『〈仏教3.0〉を哲学するバージョンU』の〔「形相と質料」から「本質と実存」へ〕の節)。そして実存的哲学者たちの共通理解もそこにあると思われます。
    実存的哲学者たちの共通理解について、この前引用した川原栄峰氏が書いているので、それを一部引用します。

    「自分で自分を見る・・・対自。私は無知である、私は学生である、私はキリスト教徒である、などなど。これはいつでも『私は何々である』という形をとる。この『何々』をPと略記することにしよう。そうすると、私が私を見て、『私はPである』と言うことになる。そして私を見て私をPだと認めて、それを誇ったり、恥じたり、疑ったりしているのが人生であるが、そうしているその私の方は決してPではない。この、私をPと見ている私の方を今かりにEと略記する。
    Pというのは普遍的概念であって、このように普遍的な概念で包んで『SはPである』というように決めることを本質規定といい、その場合のPを本質と呼ぶ。しかし『私はPである、P'である、P"である・・・』といくらこれを積み重ねていっても、そのように言っているEはどうしても言い表すことができない。Pは『ほんとうの私』からはズレている。ほんとうの私は、『私はPである』と言っている私、つまりEの方だ。
    ではEとは何か? EとはPであるという形では絶対に答えられない。Eはいつも答える側にいるのであって、答えられる側にはいないのである。いつも見る側にいて、見られる側にはいない。別の言い方をすると、常に主体の側にいて、決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。これは妙なことのようにも思えるが、しかし考えてみるとあたりまえのことでもある。一体自分の目を見たことのある人があるかどうか、考えてみればよい。自分の目を見たことのある人は絶対にいないはずだ。鏡に映して見てもそれは自分の目の鏡に映った映像であって、自分の見ている目そのものではない。見ている目を見ることはできない。
    『私はPである』と言うとき、いつも言う側にいて、言われる側にはいない『私』、これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。これはもはや『何か』サムシングではない。
    都合のいいことに、日本語には同じ『ある』という語に、『・・・である』という用法と、『・・・がある』という用法との二つがある。だからPの方はいつも『私はPである』という形で言い表せるのに対して、絶対的な主体としての私(E)の方は『私がある』という言い方で言い表すことができる。『私がある』『われあり』。この『私がある』『われあり』の『あり』つまり『存在』『有』こそは、古今東西を通じて哲学の最も根本的な問題なのである。
    『・・・である』に対する『・・・がある』、これを英語で言うとしたら、『・・・である』の方はbe動詞になり、『・・・がある』の方はexistとなり、このexistを名詞にするとexistenceとなる。日本語ではこれを『実存』と訳しているのである。実存主義と言われる場合の『実存』とは、もちろんそれを説く人によってニュアンスの違いはあるが、今述べたように、人間の絶対の主体としての『私がある』のその『ある』のことである。実存主義と言われるのは、この『ある』を主張するのである。もっと細かくいうと、実存が本質に先立つということを主張するのである。」(『哲学入門以前』)


    > あと、存在とか自己探究について西洋は東洋に比べ後進だったのはやはり存在や自己を信仰心、端的に言えば神でもって思考停止していたのではないかと邪推しているのですが、この点についてbwv602さんはどのように思われますか?

    「存在とか自己探究について西洋は東洋に比べ後進だった」と私はあまり感じたことがないので、これについては何とも言えませんが・・・
    よろしければ、パニチェさんの説をもっと展開してみてください。


    > 引用ありがとうございます。
    > この川原栄峰氏の述べるコツにハイデガーも同意できるなら、ハイデガーも西洋では数少ない哲学者だと思います。
    > 言語によって頽落してしまうようなあるがままの存在こそが(洋の東西を問わず本来の)哲学の第一原理です。

    私もそう思います。「言語によって頽落してしまうようなあるがままの存在」は、仏教でいえば真如門でしょうね。それを「第一原理」とする。

    それと同時に、現象世界に生きる私たちは、真如門にありながらも同時に生滅門に生きており、また、〈私〉でありながらも同時に「私」としても生活しているわけなので、そこには二重性があります。そういう二重性をどう考えるかが重要だと思います。
    真如門や〈私〉が本来的なものであり、生滅門や「私」の世界を非本来的なものとしてネガティブに見るだけではなく、真如門から生滅門を見直し、また、〈私〉に立脚して「私」の世界を見直し、「私」の世界を再構築することが必要だと私は思っています。
    『〈仏教3.0〉を哲学する』でいえば、普段私たちは第四図の中にハマり込んで生活しているわけですが、いったんそこから抜け出して、第五図から第四図を見直してみれば、第四図の世界にハマり込んでいた時とは全く違ったものとして、第四図の世界が見えてくるだろうと思います。


    > 少し補足しますと、あの眼の図は客体化してしまってるので本来はありえない図なんです。
    > あの図をリアルにしたのがフッサール現象学の起点ともなるマッハ的光景(添付)になります。

    そうですね。
    それに関連して以前から思っていたことですが、「〈実存〉は対象化(客体化)できない」という類いの話をする時に、話し相手と会話が通じにくくなる理由の一つに、《読み方》の問題があると思います。つまり、いくら〈 〉のような特殊な記号を付けたとしても、言語によって対象化してしまっていることに変わりはないので、それを相手が読む際に、〈実存〉としていったん対象化されたものを、対象化できないものとして読み取る(再変換する)作業が必要になります。なので、話し相手がそういう《読み方》をしてくれない場合には、話が通じなくなります。


    > ある大きさがあり、それが世界の大きさと違うのであれば世界と〈私〉は分離あるいは分断化します。
    > 世界と合一であるということは〈私〉が大きさを持たない点であるからで、点であるが故に「一即一切一切即一」になりうるのではないか?と今のところは考えています。
    > 大きさを持たない位置だけが今ここにある、それは世界が開闢する特異点でもある、と。

    説明ありがとうございます。
    「〈私〉が大きさを持たない」と、私も思います。
    〈私〉は、世界内部的な(現象世界の中にある)ものではないので、それは「大」「小」という世界内部的なものに適用されている区別(比較)を超越していると思います。
    「世界と合一」ということについては、自我(「私」としての自分)が無化(空化)する時には、自己は自ずと世界と一体化しているのではないかと私は思います。
引用返信/返信 削除キー/
■27878 / inTopicNo.10)  Re[12]: マッハ的光景の哲学的意義
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/11(Sun) 19:32:38)
    ■27874、パニさん、
    マッハさんが描いた絵のマッハさんの意義がだいたいわかった感じです。
    ありがとございます。

    でもあの絵は
    >直接経験を絵画にしたもの<
    にはわたしには見えない。思考的客観性がかなり入ってる気がするから。

    あ、これはスルーしといてね。わたしの主観的なのだから。








引用返信/返信 削除キー/
■27874 / inTopicNo.11)  マッハ的光景の哲学的意義
□投稿者/ パニチェ -(2022/12/11(Sun) 18:15:24)
    2022/12/11(Sun) 18:34:10 編集(投稿者)

    以下は悪魔ちゃんへの返信にはならないけど、度々取り上げてるマッハ的光景の哲学的な意義を私なりにカキコしてみようと思う。

    マッハはオーストリアの物理学者にして科学史家、哲学者でもあり、日本では音速のマッハ数でも知られている。
    彼によればこの世界は「感性的諸要素」が相互に関数的に依属し連関しあいながら絶えず離合集散しているとし、これまで真の実在である物に対して「単なる現象」として軽視されてきた感性界こそ究極の実在とした。世界についてわれわれが知りうることはすべて、必ず感覚器官のうちに現れるものであり、われわれの感覚器官が進化すれば、いまとは違った関数的依属関係のうちにあらわれてくるかもしれないと考えた。

    彼の発想によれば、進化の現段階では、これが、それ以上還元不可能な究極的所与であり、これが世界なのであって、これを経験的に記述し、それに適応するしかない。
    科学の本質的な課題とは事実の経済的記述であるとし、形而上学的なものはいっさい余計であり、科学の思考経済を混乱させるものとして消去されるべきだという見解がある。この発想は「オッカムの剃刀」と類似する。

    彼はニーチェ(Panietzsche Room ニーチェU 第14章 哲人 1.エルンスト・マッハ参)と並ぶフッサール現象学の先駆けであり、後のフッサールが試みた科学や哲学、思想や芸術など最も基底となるものとして我々の感覚器官に現れる直接経験に先んじてスポットを当てた。数学や論理学が科学や哲学の基底なるものとされているが、さらにこの直接経験こそより基礎付けされる土台とした。

    右目を閉じたマッハ的光景はこの直接経験を絵画にしたものである。
    そもそも直接経験は右目を閉じる必要はないが、目の眼孔から見た部屋の光景を見えるまま(正確には鼻や髭は部屋に焦点が合っているならピンボケになっているか、見えないとは思うが)に描くことで直接経験を強調している。

    このマッハ的光景の哲学的意義はフッサール現象学の起点となっている直接経験を絵画にしている点である。

    他の絵画には自分の身体を直接見たようには描かれていない。
    自画像はあくまでも鏡や写真として映った自分の姿形であって、そのままの自分ではない。
    そのままの自分は自分の眼で眼を見ることができないように頭部を見ることができないばかりか、首から上はぽっかり世界から抜け落ちている。

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■27868 / inTopicNo.12)  Re[10]: 第一原理
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/12/11(Sun) 11:18:59)
    パニさん、こんにちは。
    ■27861、
    >でもその話と今のマッハ的光景とどう関係してくるのかが分からない。<

    わたしにも「マッハ的光景」と「半側空間無視」がわたしのうちでどう結びついてきちゃったのかよく分かんないだけど、ちょっと考えて見たよ。

    わたし、「私」「身体」「見ること」「見られたもの」、そしてそれを「表現すること・されたもの」、こんなの考えてる。

    「マッハ的光景」の絵なんだけど、前にも書いたかもしれないけど、そうだったらごめんね。
    マッハさんの左眼で見られた光景を絵で表現したんだとわたし見てるんだけど、これ見たとき、な〜んかヘンだな〜って感じたのね。この人には、本当にこういうふうに見えてるのかしら?って。まず思ったのは、どうして右眼を閉じてるのかな〜?って。あ、これはいいわ。

    わたしがこのような絵を描くことができるのにはどうしたいいか実際やって見たのね。
    この絵では右の方に鼻、下の方に髭、上の方にまぶたの裏側が描かれてるみたいだけど、あ、わたし髭ないから、これはなしにするね。
    わたしの頭を動かさないようにして、右眼を閉じて、まっすぐ前を向いたときには、鼻やまぶたの裏側は見えてない感じだった。鼻やまぶたの裏側を見えるようにするためには、それが見えるように意識するとやっと見えた。
    マッハさんはこうふうにしてこの絵を描いたんだな〜、って思った。

    このとき思ったんね。鼻やまぶたの裏側を見えるようにするためにはその方向に意識を向けること、そして、鼻を見えるようにするためにはわたしの眼玉は右斜め下の方に(わたし鼻低いせいかめいっぱいして、やっと見ることができたんだけど)、まぶたの裏側を見えるようにするためにはわたしの眼玉は上の方に、回転し、焦点を合わせてるんだということ。
    鼻やまぶたの裏側を見えるようにするときだけじゃなくて、たとえば、鉛筆をもつ自分の手を描くとき、意識はそこへ向かい、目玉はそちらに回転し、焦点を合わせている、そのとき他の光景はぼやけてる(意識にのぼってない)んじゃないかしら、って。

    これって、対象への〈意識の志向性〉と〈身体の働き〉にかかわってる、ってわたしに思われたんかもね。
    「半側空間無視」もこういうのを問題としてるんじゃないかしら、ってね。
    半側空間無視に関してはパニさんはご存知のようなのでここでは触れない。



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