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■26405 / inTopicNo.73)  受動意識仮説に関する記事
  
□投稿者/ みのり -(2022/09/15(Thu) 08:34:21)
    2022/09/15(Thu) 08:56:30 編集(投稿者)
    2022/09/15(Thu) 08:38:52 編集(投稿者)

    純理トピに出ていた受動意識仮説。私も興味あるものなので記事をお借りしました。

    受動意識仮説についての著作もある、慶応義塾大学の前野先生が寄せられた文章です。

    https://news.yahoo.co.jp/articles/d41f6dfbf4c7bcc4c136db2aa915e5cec8c05e48

    =====
    私たちは、あたかも自分がやっていると錯覚するように、そう感じるちょうどいいタイミングで行動を意識するよう、巧妙に作られているのです。まるでロボットのように。

     あまりにも生き生きと意思決定している自分を感じるせいで、多くの人は「意識」のことを、判断を下す司令塔のように感じています。

     しかし、「意識」は「幻想」です。幻想とは、あたかも存在するように生き生きと感じられるけれども、本当はないもののこと。意識は、脳の無意識の部分が動作した結果を受動的に受け取って、あたかも自らが主体的に意図したかのように、つまり、「幻想」をリアルであるかのように錯覚する機能に過ぎないのです。

     これが、私の考える「受動意識仮説」です。あくまで仮説ではありますが、多くの脳神経科学の結果を説明できる合理的な仮説だと私は考えています。

     「受動意識仮説」の下では、人間には本当は自由に下せる判断なんかない、ロボットのように単に外部情報を反射して動いるだけだ、ということになります。

     人間に自由意思はない、ということです。

     「お前はすでに死んでいる」ようなものだということです。昔あった漫画のようですね。言い換えれば、人間はロボットのような自動機械だったのです。
    =====
    一部抜粋させていただきました。

    この仮説をどう受け止めるかはそれぞれで、自らが意志を持ち様々なことを決定しているのだ、ロボットではないと考えられる方も多いと思います。

    私はこの仮説で言われていることについて、納得いってしまっています。
    この方の本も以前、一冊ですが読みました。

    では、人間にできることは何もないのか、となってしまうのですが・・・
    人間には意識的な意思決定権がなくても、外部環境やそこから取り入れる物、情報などを良質なものにしていこうとすれば、自ずと脳内が勝手に決めてくれるものも良いものになっていく。そういう可能性は多いにあると考えます。
    その他にも何かあるかもしれないですが、今は思いつきません。





引用返信/返信 削除キー/
■26512 / inTopicNo.74)  Re[68]: 受動意識仮説に関する記事
□投稿者/ 田秋 -(2022/09/19(Mon) 21:13:42)
    こんばんは、みのりさん

    >受動意識仮説についての著作もある、慶応義塾大学の前野先生が寄せられた文章です。

    >https://news.yahoo.co.jp/articles/d41f6dfbf4c7bcc4c136db2aa915e5cec8c05e48

    興味深く読みました。受動意識仮説を全面的に信じるわけではありませんが、上記文章中2枚目中の《心は幻想、体も幻想》以下に書かれている
    「心は脳の神経回路網が作った幻想に過ぎず、死んだら炭素や水素などでできているこの肉体は風と土に戻り、死後も残る霊魂なんてないのだろうなあ、と私は思います」

    ここは説得力がありました。死んだら終わり派のボクとしては強力な根拠を得た思いです。

    この受動意識仮説の冒頭にベンジャミン・リベット教授が行った実験結果として、《自分が「指を曲げよう」と意識するよりも、平均で0.35秒前に、筋肉への指令、つまり脳の活動が始まっていたというのです》、ということが書かれています。

    ここで思うのは自分とは何か?ということです。
    無意識は自分か?無意識と意識は自分とどのように関わっているのか?
    ここはさらに研究する必要があるように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■26527 / inTopicNo.75)  Re[69]: 受動意識仮説に関する記事
□投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 08:15:20)
    田秋さん、おはようございます。

    No26512に返信(田秋さんの記事)
    > こんばんは、みのりさん
    >
    > >受動意識仮説についての著作もある、慶応義塾大学の前野先生が寄せられた文章です。
    >
    > >https://news.yahoo.co.jp/articles/d41f6dfbf4c7bcc4c136db2aa915e5cec8c05e48
    >
    > 興味深く読みました。受動意識仮説を全面的に信じるわけではありませんが、上記文章中2枚目中の《心は幻想、体も幻想》以下に書かれている
    > 「心は脳の神経回路網が作った幻想に過ぎず、死んだら炭素や水素などでできているこの肉体は風と土に戻り、死後も残る霊魂なんてないのだろうなあ、と私は思います」
    >
    > ここは説得力がありました。死んだら終わり派のボクとしては強力な根拠を得た思いです。

    そうだったんですか。 ここ、私、勝手に勘違いしてたかもです。
    輪廻を信じられているように書かれていた記憶を勝手に持ってしまってたんです。
    私の妄想ですね。(^▽^;)

    > この受動意識仮説の冒頭にベンジャミン・リベット教授が行った実験結果として、《自分が「指を曲げよう」と意識するよりも、平均で0.35秒前に、筋肉への指令、つまり脳の活動が始まっていたというのです》、ということが書かれています。

    この実験、有名ですね。

    > ここで思うのは自分とは何か?ということです。
    > 無意識は自分か?無意識と意識は自分とどのように関わっているのか?
    > ここはさらに研究する必要があるように思います。

    自分とは何か? これは万人の納得いく答えはおそらく出ないですよね。
    それぞれの哲学、宗教がそれぞれに語りますけど、万人向けの真理はないと思うのです。

    心や身体が幻想だとしても(脳内でイメージ作成されたもの)、私たちにはありありと鮮明に感じられるから、苦しみも楽しみも感じられる。
    楽しみはそのままに、苦しみのほうだけはそれ「幻想だから」と都合よく取りたいなぁ、と自分勝手に思ったりしています。
引用返信/返信 削除キー/
■26528 / inTopicNo.76)  削除ができなくて・・・
□投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 08:21:20)
    スマホから投稿した分だったので、以下の投稿、削除できませんでした。
    pipitさん、]無駄遣いしてすみません。。
    (一つ前の投稿の削除は私の分ではないです。)


    ■26523 / inTopicNo.3)  まさかのですが。
    ▲▼■
    □投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 02:01:35)
    ここでの私とはもしやの 神?
    下からずっと辿り来てそういうこと?と。
    神以外誰もいない?
    そういう解釈なのかな。
    あ、横失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■26532 / inTopicNo.77)  Re[71]: 削除ができなくて・・・
□投稿者/ pipit -(2022/09/20(Tue) 12:15:33)
    みのりさん、こんにちは!
    まーったく、pipitには!無駄遣いではないですよん、ありがとうございます!
    もしかしたら超越論的主観の主は神様とどなたかは思われてるかもですよ
    (o^^o)
    語り得ないものには沈黙しなければならないのかもですけどね
    (^_−)−☆


    No26528に返信(みのりさんの記事)
    > スマホから投稿した分だったので、以下の投稿、削除できませんでした。
    > pipitさん、]無駄遣いしてすみません。。
    > (一つ前の投稿の削除は私の分ではないです。)
    >
    >
    > ■26523 / inTopicNo.3)  まさかのですが。
    > ▲▼■
    > □投稿者/ みのり -(2022/09/20(Tue) 02:01:35)
    > ここでの私とはもしやの 神?
    > 下からずっと辿り来てそういうこと?と。
    > 神以外誰もいない?
    > そういう解釈なのかな。
    > あ、横失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■26553 / inTopicNo.78)  仮保存させてもらおう。
□投稿者/ みのり -(2022/09/21(Wed) 07:57:45)
    (記憶に残すためにこちらにも仮保存させていただく。)



    No26536に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ■No26526に返信(みのりさんの記事)
    >>↑ でいいんですよね。
    >>なんだか気になりだしたら気になるので。
    >>pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    >>
    >>
    >>超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    >>世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    >>【認識論】より
    >>…しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    >>
    >>
    >>さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    >>夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
    >
    > >超越論的主観=超越論的自我
    >
    > で、いいです。さらに
    > =純粋自我=意識一般(一般的意識)
    > でもいいですし、
    > 『論考』で言えば、
    > =哲学的自我=独我論的私
    > ってことになります。
    > ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。
引用返信/返信 削除キー/
■26554 / inTopicNo.79)  pipitさんへ
□投稿者/ みのり -(2022/09/21(Wed) 07:59:19)
    pipitさん、わざわざすみません。
     ありがとうございました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■26557 / inTopicNo.80)  みのりさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/21(Wed) 11:54:40)
    みのりさん、こんにちは。
    ちょっと、言い忘れていたことの補足です。

    No26553に返信(みのりさんの記事)
    > (記憶に残すためにこちらにも仮保存させていただく。)
    >
    >
    >
    > ■No26536に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>■No26526に返信(みのりさんの記事)
    > >>↑ でいいんですよね。
    > >>なんだか気になりだしたら気になるので。
    > >>pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    > >>
    > >>
    > >>超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    > >>世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    > >>【認識論】より
    > >>…しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    > >>
    > >>
    > >>さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    > >>夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
    > >
    >>>超越論的主観=超越論的自我
    > >
    >>で、いいです。さらに
    >>=純粋自我=意識一般(一般的意識)
    >>でもいいですし、
    >>『論考』で言えば、
    >>=哲学的自我=独我論的私
    >>ってことになります。
    >>ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。


    まあ、言うまでもないことなのかもしれませんが、以上は、あくまでふくろう個人の見解です。

    特に、『論考』の独我論的自己を超越論的主観とみなす解釈は、
    長らく日本においてウィトゲンシュタインの独我論研究の第一人者とされてきた永井均が、否定している見解です。
    このあたり、ご注意くださるようお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■26564 / inTopicNo.81)  ふくろうさんへ
□投稿者/ みのり -(2022/09/21(Wed) 16:11:43)
    No26557に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > みのりさん、こんにちは。
    > ちょっと、言い忘れていたことの補足です。
    >
    > ■No26553に返信(みのりさんの記事)
    >>(記憶に残すためにこちらにも仮保存させていただく。)
    >>
    >>
    >>
    >>■No26536に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>
    > >>■No26526に返信(みのりさんの記事)
    >>>>↑ でいいんですよね。
    >>>>なんだか気になりだしたら気になるので。
    >>>>pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    >>>>
    >>>>
    >>>>超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    >>>>世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    >>>>【認識論】より
    >>>>…しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    >>>>
    >>>>
    >>>>さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    >>>>夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
    >>>
    > >>>超越論的主観=超越論的自我
    >>>
    > >>で、いいです。さらに
    > >>=純粋自我=意識一般(一般的意識)
    > >>でもいいですし、
    > >>『論考』で言えば、
    > >>=哲学的自我=独我論的私
    > >>ってことになります。
    > >>ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。
    >
    >
    > まあ、言うまでもないことなのかもしれませんが、以上は、あくまでふくろう個人の見解です。
    >
    > 特に、『論考』の独我論的自己を超越論的主観とみなす解釈は、
    > 長らく日本においてウィトゲンシュタインの独我論研究の第一人者とされてきた永井均が、否定している見解です。
    > このあたり、ご注意くださるようお願いします。

    ふくろうさん、こんにちは。

    だとすると、永井さんのほうは「経験的自我」を『論考』の「独我論的自我」とみなしているということなのかな。
    今、純理トピまで行き、「経験的自我」という正式表現を見つけ出してきました。
    こっちがそれなら永井さんの説ということなのかな、と。
    それともそういうことではない?

    >『論考』で言えば、
    > =哲学的自我=独我論的私
    > ってことになります。

    =超越論的主観ですね。(ここ、説明いただいた分になりますね。)
    こちら(ふくろうさん説ですね)を取る研究者の方もいらっしゃるのでしょうね。


    私の書いたこと、もし意味不明でしたらスルーしてくださいね。

引用返信/返信 削除キー/
■26566 / inTopicNo.82)  みのりさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/09/21(Wed) 17:14:56)
    みのりさん、こんにちは。


    No26564に返信(みのりさんの記事)
    > ■No26557に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>みのりさん、こんにちは。
    >>ちょっと、言い忘れていたことの補足です。
    >>
    >>■No26553に返信(みのりさんの記事)
    > >>(記憶に残すためにこちらにも仮保存させていただく。)
    > >>
    > >>
    > >>
    > >>■No26536に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>
    >>>>■No26526に返信(みのりさんの記事)
    > >>>>↑ でいいんですよね。
    > >>>>なんだか気になりだしたら気になるので。
    > >>>>pipitさん、ふくろうさん、割り込みしてすみません。
    > >>>>
    > >>>>
    > >>>>超越論的主観(読み)ちょうえつろんてきしゅかん
    > >>>>世界大百科事典内の超越論的主観の言及
    > >>>>【認識論】より
    > >>>>…しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。…
    > >>>>
    > >>>>
    > >>>>さすがに、ここでの「私」=「神」はないだろうと思い、私の投稿一つ削除させていただきますね。
    > >>>>夜中に目覚めてふとスマホで見て、ここでの「私」は「え? 神?」と思ったのですけど・・
    > >>>
    >>>>>超越論的主観=超越論的自我
    > >>>
    >>>>で、いいです。さらに
    >>>>=純粋自我=意識一般(一般的意識)
    >>>>でもいいですし、
    >>>>『論考』で言えば、
    >>>>=哲学的自我=独我論的私
    >>>>ってことになります。
    >>>>ただ、これがカントとウィトゲンシュタインでは、ビミョーかつ重要なところで違うからややこしいんですよ。
    >>
    >>
    >>まあ、言うまでもないことなのかもしれませんが、以上は、あくまでふくろう個人の見解です。
    >>
    >>特に、『論考』の独我論的自己を超越論的主観とみなす解釈は、
    >>長らく日本においてウィトゲンシュタインの独我論研究の第一人者とされてきた永井均が、否定している見解です。
    >>このあたり、ご注意くださるようお願いします。
    >
    > ふくろうさん、こんにちは。
    >
    > だとすると、永井さんのほうは「経験的自我」を『論考』の「独我論的自我」とみなしているということなのかな。
    > 今、純理トピまで行き、「経験的自我」という正式表現を見つけ出してきました。
    > こっちがそれなら永井さんの説ということなのかな、と。
    > それともそういうことではない?

    まあ間違いじゃないんですが、もう少し正確に言うと、
    永井は『ウィトゲンシュタイン入門』で、「一般的自我の独我論」だと言っています。
    問題は、この「一般的」を、形式的一般性として解釈するか、
    経験的一般性として解釈するかで、全然意味が異なるんですが、
    それをどう解釈しているか本人の意図としてはいずれにせよ、
    結果としては「経験的一般的自我」として解釈してしまっているんです。
    私の理解では^^

    >
    > >『論考』で言えば、
    >>=哲学的自我=独我論的私
    >>ってことになります。
    >
    > =超越論的主観ですね。(ここ、説明いただいた分になりますね。)
    > こちら(ふくろうさん説ですね)を取る研究者の方もいらっしゃるのでしょうね。
    >
    >
    私の解釈は基本的に私自身が考えたものなので、全く一致する人がいるかどうかはわかりません。
    超越論的主観=独我論的自己
    と解釈している人がいるかどうかはちょっと忘れたのですが、
    日本でも、何人かの近い解釈の哲学者はいます。

    > 私の書いたこと、もし意味不明でしたらスルーしてくださいね。
    >

    いえ、私の言うことはわかりにくいでしょうに、読んでくださってありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■26592 / inTopicNo.83)  ふくろうさんへ
□投稿者/ みのり -(2022/09/22(Thu) 08:15:21)
    ふくろうさん、レスありがとうございます。


    >> だとすると、永井さんのほうは「経験的自我」を『論考』の「独我論的自我」とみなしているということなのかな。
    >> 今、純理トピまで行き、「経験的自我」という正式表現を見つけ出してきました。
    >> こっちがそれなら永井さんの説ということなのかな、と。
    >> それともそういうことではない?

    >まあ間違いじゃないんですが、もう少し正確に言うと、
    永井は『ウィトゲンシュタイン入門』で、「一般的自我の独我論」だと言っています。
    >問題は、この「一般的」を、形式的一般性として解釈するか、
    経験的一般性として解釈するかで、全然意味が異なるんですが、
    >それをどう解釈しているか本人の意図としてはいずれにせよ、
    結果としては「経験的一般的自我」として解釈してしまっているんです。
    私の理解では^^

    う〜ん。。わかりません。せっかく説明頂いたのにすみません。
    永井さんの『ウィトゲンシュタイン入門』は読もうとしたのですが難しすぎて無理でした。
    ですのでここ、スルーいただいてだいじょうぶです。


    >私の解釈は基本的に私自身が考えたものなので、全く一致する人がいるかどうかはわかりません。
    >超越論的主観=独我論的自己
    と解釈している人がいるかどうかはちょっと忘れたのですが、
    日本でも、何人かの近い解釈の哲学者はいます。

    そうなんですね。


    >いえ、私の言うことはわかりにくいでしょうに、読んでくださってありがとうございます。

    古田徹也さんという方の『論考』の入門的な本を読み、「一」からの解説について理解できたと思うところを投稿する、というのを春頃にしてたんです。
    暑くなりやる気なくしてやめたんですが、また読みだそうかと考えてたんです。
    今後は、読み進めるすべてについてではなく、おもしろいと感じた点、解りそうで解らない点などを書いて行くスタイルで投稿しようかな、と考えていたところでした。
    そんな状態に私はいます。

    やりとりしていただいてありがとうございました。^^

引用返信/返信 削除キー/
■26623 / inTopicNo.84)  あるでもなくないでもなく
□投稿者/ みのり -(2022/09/23(Fri) 14:42:07)
    個別の人間が脳内無意識下で決定されたものを自覚しつついろんな行動をしている。
    この状況についてを自由意志のなさの根拠としているのが受動意識仮説になると思う。
    この説について私は、こうした根拠からならば別に自由意志はある、なぜなら個人とされる人間の脳内無意識において知らずのうちに決定されてはいるのだから…。
    これについては実験を通さなくても簡単な瞑想的観察をすれば実感できるものとは思う。

    私が自由意志は実はないんだなと感じる根拠は、世界のすべては分離がなく本来分けられないものだからということ。
    しかし、個別の人間が存在するというとき、自由意志も存在すると言って何の問題もないとき思う。

引用返信/返信 削除キー/

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