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■23164 / inTopicNo.13)  永遠平和のために
  
□投稿者/ みのり -(2022/05/09(Mon) 09:20:30)
    NHK 100分de名著シリーズ『カント 永遠平和のために 悪を克服する哲学』
    萱野稔人 著 のまとめを引き続きします。

    今回も同書p106〜の第三章「人間の悪こそ平和の条件である」から。

    永遠平和を保証する「自然」の働きとは、具体的にどういうものか?
    を今回は見ます。

    ・・・・・
    自然が暫定的に準備したものとして次の三つの点をあげることができる。
    自然は
    (一)人間が世界のあらゆる地方で生活できるように配慮した。
    (二)戦争によって、人間を人をも住めぬような場所にまで駆り立て、そこに居住させた。
    (三)また戦争によって、人間が多かれ少なかれ法的な状況に入らざるをえないようにしたのである。
    ・・・・・
    同書p112より引用 この部分、カント『永遠平和のために』中山元 訳から萱野さんが引用したもの。

    今回は、(三)を見ます。


    ・・・・・
    ある民族に内的な不和がなく、公法の強制に服する必要を感じていない場合にも、戦争が外部からこれを強いることになるだろう。すでに指摘しておいたような自然の準備によって、どの民族も隣接する地のほかの民族に圧迫されることになり、それに対抗する力をもつためには、その民族は内部において国家を形成していなければならないのである。
    ・・・・・
    同書p117より引用 この部分、カント『永遠平和のために』中山元 訳から萱野さんが引用したもの。

    内部の構造が単純で規模も大きくない社会であれば、その社会が維持されるために強制力が組織される必要はないかもしれないが、外部からの侵略や征服から自らの独立を守るためには、防衛力が必要となる。
    防衛力を整備するということは、社会に強制力をもった機関を出現させるということであり、したがって国家を形成せざるをえない。
    (p118まとめ)

    国家を形成することに成功しなかった民族や社会は結果的に他国の統治のもとに組み込まれてしまっている。
    国家からは逃れられないというのが人類史の現実である。
    (p118〜p119まとめ)


    中央集権的な国家としての機能が明確ではない社会があったとして、その内部で内乱が続いていたとしても、外部からの攻撃、侵略を前にして防衛力(軍)を持つ国家として統一することで、外敵から自分たちを守るという目的のために統一されていく、というようなことだと考えます。(ここ、私の考え)


    国家が形成されるためには、人間は道徳的に優れた存在になる必要はない。
    それどころか、人間に利己心と自己保存の欲求さえあれば国家は形成される。
    このようにカントは考えました。(p121まとめ)

    戦争というのは人間の本性に接ぎ木されたかのようである、とカントはかいています。
    自分たちの土地以外の地に侵入し、そこを自分たちのものにして支配したい、またその地域と交易することで利益を得たいという人々に対抗するために、より強固な強制力、軍事力を持つ国家は自然に形成されてきたのであり、道徳的に優れているいないの問題ではない、ということ。
    相手よりより一層強くなり自分たちが得をしたい、相手を牽制したいと互いが思い合うところに国家が形成されてきた、ということなのですね。
    そのためには、国家としての内部は法的に統一されてきた、ということ。
    (ここ、私の考え
引用返信/返信 削除キー/
■23177 / inTopicNo.14)  永遠平和のために
□投稿者/ みのり -(2022/05/10(Tue) 10:00:22)
    NHK 100分de名著シリーズ『カント 永遠平和のために 悪を克服する哲学』
    萱野稔人 著 のまとめを引き続きします。

    今回も同書p106〜の第三章「人間の悪こそ平和の条件である」から。

    ・・・・・
    他方ではまた自然は、たがいの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。
    これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できないものであり、遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである。
    というのは、国家権力のもとにあるすべての力と手段のうちでもっとも信頼できるのは財力であり、諸国は道徳性という動機によらずとも、この力によって高貴な平和を促進せざるをえなくなるのである。
     そして世界のどこでも、戦争が勃発する危険が迫ると、諸国はあたかも永続的な同盟を結んでいるかのように、仲裁によって戦争を防止せざるをえなくなるのである。
    戦争をするための大規模な同盟はその性格からしてきわめて稀なものであり、成功する可能性はごくわずかなのである。
    ・・・・・
    同書p122〜p123より引用 この部分、カント『永遠平和のために』中山元 訳から萱野さんが引用したもの。

    カントは国家間の関係においても永遠平和にむけた「自然のメカニズム」が機能していく、と考えた、とあります。(p123より)

    国家間はたがいに対立もするが、みずからの経済力を高めるために交易(商業)をつうじて結びつきもする。
    カントによれば、この結びつきは「戦争とは両立できないもの」。
    カントが述べているように、戦争が勃発しそうになると多くの国がそれを避けようと仲裁に入るのは、交易関係を維持することが各国の利益にかなうからである。
    利己心にもとづいた自国の利益追求が結果的に戦争を抑止する。
    (p123より)


    物を売り買いする交易によって自国の利益を上げることを考えれば、自国以外の国々が焦土となり、自由な交易ができなくては結果的に損失ですし、自国にはない資源を輸入することなども困難になります。
    主に自分の国の中で経済が収まっていた時代と違い、外国との経済的な結びつきが強くなってくれば、自国の利益のために各国との戦争を抑止するほうが得だと考えるようになるのはたしかに自然なものだと思います。
    備えとしての軍事力に高額な武器を用意しておくためにも、先立つものは財力ですね。(ここ、私の考え)

    逆に、自国の経済的利益を拡大しようという国家の利己心が戦争を引き起こすこともよくあり、カントはそうした事実を否認しているわけではない。
    国家の利己心は戦争に向かうこともあれば、商業活動をつうじて平和にむかうこともある。というようにカントは述べている。
    (p125まとめ)


    各国の商業活動がどちらに転ぶか、それはどちらの可能性もあるのだ、ということもカントは予測していた、ということですね。


    先日、在日の兄を頼ってウクライナから日本に避難してきた青年が、「まず何がたべたいか?」という質問に、「決まってるよ、ラーメン」と答えていたのを思い出しました。
    日本のラーメンって外国でとても人気みたいですよね。
    商業活動が発展して、外国にも日本人がお店を開いたり、即席めんが輸出されたりしてそのおいしさが広まり、日本に親しみをもってくれる。
    逆に、日本にいても外国料理はほんとに身近なもので、そうしたところから親しみを感じたりもします。
    遥か遠い国、行ったことがない国でも、胃袋の距離はそんなにない、というか。
    こうしたことも「商業の精神」と無関係ではないと思います。
    多くの人々は戦争などしたくなく、外国から輸入されるものに自由に触れて愉しみたい、と考えていると思うのです。
    こうしたことも利己心から発生することではあるけれど、敵対心を外国の国々に持つよりはずっといいのではないかな〜。


引用返信/返信 削除キー/
■23178 / inTopicNo.15)  疑問
□投稿者/ みのり -(2022/05/10(Tue) 16:44:39)
    『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也 著 を読んでいて解らないところがあります。

    p46に、

    ・・・・・・
    ある記号列が現実の像(模型)であるためには、その記号列は何らかの秩序に従っているのでなければならない。
    その秩序の最も普遍的なかたちを、『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。
    ・・・・・・
    とあり、ここについては理解できていると自分では思っています。

    文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題。
    こうしたものを「論理」と呼んでいるというのが、同ページを読んで理解できました。

    「雪が降っている」という日本語が各言語の間で相互に翻訳可能なのも、こうした秩序に従っているから、という具体的な記述があり理解しやすかったのもあると思います。

    ただ。

    ・・・・・・
    いずれにせよ、ウィトゲンシュタインによれば、有意味な命題がそのように各々の日常言語の間で原理的に翻訳可能であるのは、まさに、それらが共通の秩序 
    ─ つまり、論理 ─ に従っているからに他ならない。
    そして、ここが『論考』の議論にとって肝心なのだが、そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    つまり、論理は語りえない、ということだ。
    ・・・・・・
    と、同書p47にあって、


    「そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    つまり、論理は語りえない、ということだ。」

    ここです、この「 」内で言われていることが解らないのです。
    これ、どういう意味なんでしょう?

    どなたか教えていただけると、とても有難いです。

     
引用返信/返信 削除キー/
■23186 / inTopicNo.16)  Re[15]: 疑問
□投稿者/ みのり -(2022/05/10(Tue) 23:22:20)
    ふと浮かんだのは、

    論理そのものだけを取り出すことは不可能で、論理は必ず命題として存在する。
    だから論理は語りえない。
    命題についてなら例を挙げ無数に語れるが、論理そのものは語りえない。

    こういうことかな。。
引用返信/返信 削除キー/
■23187 / inTopicNo.17)  Re[15]: 疑問
□投稿者/ エフニ -(2022/05/11(Wed) 00:38:23)
    No23178に返信(みのりさんの記事)
    > 『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也 著 を読んでいて解らないところがあります。
    >
    > p46に、
    >
    > ・・・・・・
    > ある記号列が現実の像(模型)であるためには、その記号列は何らかの秩序に従っているのでなければならない。
    > その秩序の最も普遍的なかたちを、『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。
    > ・・・・・・
    > とあり、ここについては理解できていると自分では思っています。
    >
    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題。
    > こうしたものを「論理」と呼んでいるというのが、同ページを読んで理解できました。
    >
    > 「雪が降っている」という日本語が各言語の間で相互に翻訳可能なのも、こうした秩序に従っているから、という具体的な記述があり理解しやすかったのもあると思います。
    >
    > ただ。
    >
    > ・・・・・・
    > いずれにせよ、ウィトゲンシュタインによれば、有意味な命題がそのように各々の日常言語の間で原理的に翻訳可能であるのは、まさに、それらが共通の秩序 
    > ─ つまり、論理 ─ に従っているからに他ならない。
    > そして、ここが『論考』の議論にとって肝心なのだが、そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    > つまり、論理は語りえない、ということだ。
    > ・・・・・・
    > と、同書p47にあって、
    >
    >
    > 「そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    > つまり、論理は語りえない、ということだ。」
    >
    > ここです、この「 」内で言われていることが解らないのです。
    > これ、どういう意味なんでしょう?
    >
    > どなたか教えていただけると、とても有難いです。
    >
    >  


    野球やテニス、サッカーなどのゲームは、それぞれの規則・ルールに則って行われます。

    私達はそれらのゲームを観ても、その試合のなかには規則・ルールは説明されていません。

    プレイヤー達の振る舞いのなかに示されているだけです。

    また、言語の日常の使用において、未然形接続や命令形、仮定法などと文法(規則・ルール)が、明確に説明されているわけではありません。

    文法は言語の使用のなかで、示されているだけです。

    そんな感じのことを言っているのです。

    つまり、論理にしろ、ゲームの規則・ルールにせよ、言語の文法にせよ、その形式のなかにいるときは、それを語り得ず、ただ示されるだけなのです。

    パニさんだったら、もっと上手に説明して下さると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■23191 / inTopicNo.18)  Re[16]: 疑問
□投稿者/ みのり -(2022/05/11(Wed) 08:03:32)
    No23187に返信(エフニさんの記事)

    エフ二さん、レスありがとうございます。

    >>ただ。
    >>
    >>・・・・・・
    >>いずれにせよ、ウィトゲンシュタインによれば、有意味な命題がそのように各々の日常言語の間で原理的に翻訳可能であるのは、まさに、それらが共通の秩序 
    >>─ つまり、論理 ─ に従っているからに他ならない。
    >>そして、ここが『論考』の議論にとって肝心なのだが、そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    >>つまり、論理は語りえない、ということだ。
    >>・・・・・・
    >>と、同書p47にあって、
    >>
    >>
    >>「そのような普遍的な秩序をそれとして明示することはできない。
    >>つまり、論理は語りえない、ということだ。」
    >>
    >>ここです、この「 」内で言われていることが解らないのです。
    >>これ、どういう意味なんでしょう?
    >>
    >>どなたか教えていただけると、とても有難いです。
    >>
    >> 
    >
    >
    > 野球やテニス、サッカーなどのゲームは、それぞれの規則・ルールに則って行われます。
    >
    > 私達はそれらのゲームを観ても、その試合のなかには規則・ルールは説明されていません。
    >
    > プレイヤー達の振る舞いのなかに示されているだけです。
    >
    > また、言語の日常の使用において、未然形接続や命令形、仮定法などと文法(規則・ルール)が、明確に説明されているわけではありません。
    >
    > 文法は言語の使用のなかで、示されているだけです。
    >
    > そんな感じのことを言っているのです。
    >
    > つまり、論理にしろ、ゲームの規則・ルールにせよ、言語の文法にせよ、その形式のなかにいるときは、それを語り得ず、ただ示されるだけなのです。
    > パニさんだったら、もっと上手に説明して下さると思います。

    理解できたと思います。
    ありがとうございました。^^

    読んでいる本は、「はじめての」の言いながら難しいですが、なぜか読まずにいられないんですよね。
    なんとか読み進めたいです。

引用返信/返信 削除キー/
■23192 / inTopicNo.19)  論理(自己レス)
□投稿者/ みのり -(2022/05/11(Wed) 08:15:45)
    No23178に返信(みのりさんの記事)

    『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也 著 から引用。
    >
    > p46に、
    >
    > ・・・・・・
    > ある記号列が現実の像(模型)であるためには、その記号列は何らかの秩序に従っているのでなければならない。
    > その秩序の最も普遍的なかたちを、『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。
    > ・・・・・・

    ある記号列が現実の像(模型)である時、その記号列は何らかの秩序に従っている。
    その普遍的なかたちを『論考』のウィトゲンシュタインは論理と呼ぶ。

    論理とは、の再確認。

    >
    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題。
    > こうしたものを「論理」と呼んでいるというのが、同ページを読んで理解できました。

    ここは違うんだな。

    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題

    が、論理なのではなく、

    論理は、

    > 文法や文の結合の仕方を規定する秩序に従っている有意味な命題

    として示される。そして、論理そのものは語りえない。

     で、今度はあってると思う。


引用返信/返信 削除キー/
■23217 / inTopicNo.20)  永遠平和のために
□投稿者/ みのり -(2022/05/13(Fri) 09:29:28)
    NHK 100分de名著シリーズ『カント 永遠平和のために 悪を克服する哲学』
    萱野稔人 著 のまとめを引き続きします。

    今回も同書p106〜の第三章「人間の悪こそ平和の条件である」から。


    人間の利己心、自己保存の欲求により国家が形成され、法的な状態に入り、また、利己心は、商業の精神によって戦争を回避させるようになる。
    このようにカントは考えていたというのを前回までで見ました。

    では、自然にまかせておけば、人間は何もしなくても平和は訪れるとカントは考えたのでしょうか。
    どうもそうではないようです。

    ・・・・・
    さてここで永遠平和の意図にかかわる本質的な問題を考察しよう。
    自然は永遠平和を意図することで、人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的を実現するために、すなわち人間の道徳的な意図を助けるだめに、何をするのだろうか。
    ・・・・・
    同書p127より引用 この部分、カント『永遠平和のために』中山元 訳から萱野さんが引用したもの。


    「自然」は「人間の道徳的な意図を助ける」とカントは言います。
    人間が理性の働きのもとで永遠平和を実現しようと努力するなら、それを「助け」てくれるような自然の働きがたしかに存在する。
    (p128まとめ)

    ここについて自分なりに考えてみました。
    国家が形成され、人々が法的な状態に入ったのも、自然の意図の働きによるものとカントは考えます。
    そうして形成された国家を、人々が安心して暮らせる大きな家のように考え、また、他の国家(大きな家)を尊重しようと各国家がしていけば、単純に考えればですが平和は訪れると思います。
    自然によって形成されてきたものをどのように使用していくか、扱っていくか、これは人間の理性の働きでの努力が必要なのだ、とカントは考えたのではないかな。



    今回で、永遠平和のために は終了にします。



引用返信/返信 削除キー/
■23353 / inTopicNo.21)  論理哲学論考
□投稿者/ みのり -(2022/05/20(Fri) 10:25:55)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を理解できそうなところだけでもと思い、少しずつ読んでいます。
    古田さんの『はじめてのウィトゲンシュタイン』も、なんとなくわかりそうなところだけを読んでみて、和訳されている文章そのものが載っている本も読んでみたいなと思うようになったのです。

    この本も入門書、哲学や論理学初心者向けの内容とはされていますが、やはり難しいです。
    でも、抽象的な文章だけでなく、ところどころに身近な具体的な物が例として出てくるのでそこを糸口として考えることは可能になっていると思います。
    (ほんとに理解できるか否かは別として。)

    なぜ読んでみたいのか、少しでも理解したいと思うのかというのには、崇高な思いとか一切なくて、ただおもしろそうだからです。(^▽^;)

    というわけで。
    一   世界は、成立している事柄の総体である。
    一・一 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。

    最初の部分です。 不完全な理解のまま次に進んでいたのだけど、もしかしたらロムの方にもなにかしら参考になるかも、と思い(ぜんぜん解ってない私が書いてみることにより)改めて読み、そして文章化してみることにしました。


    ◎ 世界は成立している事柄の総体、つまり事実の総体であり、物の総体ではない。

    物の総体ではない、と言っていますね。
    え〜、だって世界にはいろんな物が溢れてるじゃない? とも思うのですが・・・。

    しかし。 仮に、ただただ世界に物だけが溢れているとしても、その物の名前や用途などが不明であれば、「ここに 椅子 があります。」と言うこともできません。
    椅子 とさえ言えない。あります も言えない。
    ちょうど、家の中に様々な物が溢れていても赤ちゃんはそれらについて何も言うことができない、説明できない、というのと同じようなことだと思います。
    これが「世界は物の総体ではない」の説明。


    では、「世界は成立している事柄の総体であり、事実の総体である」とは。

    例えば、椅子がダイニングにあります。
    という時、椅子というものの名前を知っているし、ダイニングという物の名前も知っている、最低限として名前については既知なはずです。
    それぞれの名前を知らなかったら、そもそも「ある」ということも言えません。

    何か物が世界に「ある」という時、その名前や形状、色、用途などの内の何かしらが把握され、それが言語表現される必要がある。
    例えば、「青い何かがある」とか、「三角形の何かがある」とかでも。

    私たち(言葉が理解できる)が世界と出会う時、ただ物が並んでいる物が溢れている場所として世界と出会うのではなく、その物の名前、用途、形状、色などの理解が先にあって出会うか、出会うこととそうしたものの理解が同時になされたりする。

    先に「イチゴ」と知っていれば、「皿の上に美味しそうなイチゴがある」となるし、
    名前を知らない機械に出会い、用途や名前を教えてもらう、など。
    こうした「事実」、「成立している事柄の総体」が世界であり、名もなき物がただ単に羅列されているのが世界ではない。

     (例については、本からの引用ではなく自分で考えてみました。)


    基本的に全然違うふうに理解しているみたいだよ、というのを私が書いているとしたら、遠慮なく、詳しい方、指摘していただけると助かります。

引用返信/返信 削除キー/
■23403 / inTopicNo.22)  論理哲学論考
□投稿者/ みのり -(2022/05/22(Sun) 08:22:47)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の二回目。

    今日は、以下の『論理哲学論考』(以下、『論考』)本文について考えます。
    一 などの番号がふってある文章というのは、『論考』の本文です。
    以降、ご了承ください。


    一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべてであ
         ことによって規定される。


    前回見たように、世界は物の総体ではなく、成立している事柄の総体であり、事実の総体である。 と、ウィトゲンシュタインは言います。
    名もなき何かがただ雑然と立ち並んでいるのが世界なのではなく、意味が言語表現されうるのが世界である。

    例えば、「イチゴ」という単語だけであっても、それを誰かが言う時それは、「イチゴがあるよ」「イチゴが食べたい」「イチゴ買ってきて」など、イチゴにまつわる事実が表現されているのだ、ということ。
    「イチゴ」というものがどういうものかという意味付けが既になされていなければ、「イチゴ」という単語を用いて言語表現することも不可能である。


    一・一二 なぜなら、事実の総体は、どのようなことが成立しているかを規定する
         と同時に、どのようなことが成立していないかも規定するからである。

    ここについては。同書p40の例を引用します。

    ・・・・・
    それはちょうど、自分がこれまでどの都道府県に行ったかがはっきりすれば、それによって同時に、自分がこれまでどの都道府県に行っていないかもはっきりするようなものである。
    ・・・・・

    わかりやすいですよね。


    一・一三 論理空間にある事実が世界である。


    ここも引用で。
    ・・・・・
    成立している事柄であれ、成立していない事柄であれ、それ等のすべて ─ 世界の可能性の全体 ─ を、彼はさらに一・一三のなかで、「論理空間」と呼んでいる。
    ・・・・・
    同書p40より引用

    つまり、論理空間というのは。成立していない事柄(=事実ではないこと)も含むものである、ということ。
    ありうる、起こりうる可能性のあるものすべてを含むのが論理空間。

    論理空間には「明日、紫式部に会う」「月に別荘を建てようと思う」なんていうのも含まれます。

    ただ、論理的に破綻している、意味をなしていないものは、論理空間にであっても含まれない。
    例えば、「ほは※ひけは、P@Dだ」とか。


     以降、引用として示されていない例は、わたしが考えたものということでご了承ください。(今、書いた例も私が考えたものです。)


    ウィトゲンシュタインの言っていることはとても難しいのですが、おもしろいと思うんです。
    それと、人物としてもウィトゲンシュタインはおもしろいと思います。
    今のところ、哲学者のなかで人物として最も興味深い人かなぁ。
    自分で建てた別荘の写真というのも本で観たのですが、剪定もしたり、設計もしたりととにかく器用で、金持ちだったから逆になのかどうか金銭欲がなかったり(財産権を放棄してしまった)、戦争では有能な兵士だったりと。
    小学校教師をしていた時は、キレたりすることも度々ありながら、後でとても後悔して謝罪に出向いたとか。

    次回また、わかりそうなとこだけ続けてみます。


      
引用返信/返信 削除キー/
■23467 / inTopicNo.23)  ハキリアリ
□投稿者/ みのり -(2022/05/24(Tue) 10:14:14)
    昨日たまたまBSプレミアムで観た、ハキリアリというアリたちの習性が興味深かったです。
    ジャングルの中で、木が伐採されて太陽光が当たりやすくなった土地に、植物たちが上に上にと伸びて生存競争が行われていて、ひときわ大きな葉を持つ植物の葉をハキリアリたちが顎だったかで切り取り巣に運び込む。
    緑の葉っぱをせっせと運ぶ虫、というのは以前にも何かで観たんだけど、それがハキリアリだったのかな。
    体重の10倍の重さの葉を運ぶそうです。

    巣に持ち帰ると、それを巣穴でアリたちが飼育している菌類に食べさせ、その菌類を増やし、アリたちは増えた菌類を食料にしているのだそうでした。
    農業をするアリ。 おもしろいなぁ。

    そのアリたちに切り取られて運ばれていた植物も、その木が枯れそうになると、葉に毒素を発生し、その葉を食べた菌類が弱ってしまうようになるので、アリたちは他の木に行くようになるのだそうです。

    偶然に偶然が重なって生き延びる術を生み出したものたちによる命の営みが、地上のあらゆるところで起きているのだな〜、と思ったら、感動しにくい私も(笑)、久しぶりにわくわくしました。


    そうそう。 苔(コケ)。 これが庭に生えやすくて、石灰でもまけばいいのかな、とか思ってたのですが、熱湯かけると枯れると知り、してみたらほんとに翌日には枯れてました。
    枯れたところは綺麗に取れやすいと思うのです。
    まだ枯らしただけで取ってはないけど。

引用返信/返信 削除キー/
■23489 / inTopicNo.24)  論理哲学論考 3
□投稿者/ みのり -(2022/05/25(Wed) 14:45:46)
    シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』古田徹也 著
    を読み、理解できそうなところをまとめる、の三回目。


    二    成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。

    二・〇一 事態とは、対象(もの、物)の結合である。

    二・〇二 事態の構成要素になりうることが、物にとって本質的である。

    今日はこれらの部分を見ます。


    まずは、
    二    成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。

    前回は、
    一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべてであ
         ことによって規定される。
    を見ました。

    二では、「成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。」とあります。

    「事態」というのが新たに出て来たのですが、これは何なのでしょう、となりますよね。

    ・・・・・
    事実として成立しているにせよ、成立していないにせよ、論理的に可能な事柄。
    それをウィトゲンシュタインは「事態」あるいは「状況」と呼ぶ。
    逆に言えば、成立している「事態」(=状況、事柄)のことを彼は「事実」と呼ぶのである。
    ・・・・・

    ・・・・・
    世界ははじめから事実の総体としてあり、そして同時に、世界のあらゆる可能性を含んだ論理空間 ─ 事態の総体 ─ が限りなく広がっている
    ・・・・・
    同書p45より引用

    論理的に可能な事柄、それが「事態」。
    前回、例に出したもので言えば、「明日、紫式部に会う」という蓋然性の低いものも事態には含まれる。

    論理空間=事態の総体ということになる。


    次に
    二・〇一 事態とは、対象(もの、物)の結合である。

    二・〇二 事態の構成要素になりうることが、物にとって本質的である。

    ここは二つまとめて。

    ※ ウィトゲンシュタインは、物のことを「対象」と呼ぶことが多いそうです。

    ・・・・・
    いずれにせよ、ここでまず重要なのは、物ないし対象が結合することによって事態が構成されるとはいえ、事態の構成に先立って物(対象)がそれ単独で存在するわけではない、ということである。
    むしろ、物は事態ありきで、事態から特定の仕方で切り分けられる ─ 分節化される ─ ものとしてはじめて輪郭づけられる。

    すなわち、「事態の構成要素になりうることが物にとって本質的」(二・〇一一節)なことであり、事態の中に現れることなしには物は存在しえないのである。
    ・・・・・
    同書p45〜p46から引用

    以前にも触れているように、私たちが世界のうちで出会うのは、物ではなく事実だとウィトゲンシュタインはします。

    薔薇の花を知らず、初めて観た人がいたとして、「これは花だと思うのですが、何という花ですか?」と花屋さんで質問して、「その花は薔薇といいます。」と教えてもらうというのを例にすると・・。
    「花屋さんで売られている薔薇という名前の花」、として初めて薔薇と出会います。

    また。薔薇は、「庭に植えられたり」、「誕生日プレゼントとして送られたり」、「綺麗な薔薇には棘がある」という譬えに使われたりします。

    そうした「事態」の中に現れる要素として、薔薇という物(対象)を見出す。

    事態(成立していないものも含まれる)なので、「薔薇を燃料として走る車を開発した」なんていうのも含み、そうした事態の中に現れる「要素」として、例として出している薔薇は見出される。

    こうしたことが、引用した、

    「むしろ、物は事態ありきで、事態から特定の仕方で切り分けられる ─ 分節化される ─ ものとしてはじめて輪郭づけられる。」

    だとすると解りやすいかな、と思います。

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