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■2046 / inTopicNo.1)  ジョーカー
  
□投稿者/ パニチェ -(2019/11/04(Mon) 17:17:52)
    2019/11/04(Mon) 21:25:52 編集(投稿者)

    久々に見応えのある映画。
    もともとジャック・ニコルソン演じるバットマンのジョーカーは最も好きな悪役やったけど、全く別物の作品。

    度を超した悲劇は喜劇的でもあり、ジョーカーは虚ろであった自己存在を喜劇の主人公として確たるものに仕立て上げた。

    ジル・ド・ラ・トゥレット症候群。
    ドーパミン系の受容体異常によっておこる音声チックのひとつ。
    脈絡のない罵声や猥雑な言葉を口走ってしまう病気。街中で独り言のように暴言を吐いている人は上記の病気による症状であることも多い。

    この病気がつらいのは多くの患者は精神的には正常で、中には平均以上の知能の持ち主もおり、他人から自分がどのように見られているのが分かっているにもかかわらず、本人の意志でこのチックを止められないこと。

    ピエロやコメディアンにとって観客の笑いは喜びとなるが、笑いものにされることは望まない。そんなことはお構いなしで、視聴率のためなら笑い者を見つけては電波に乗せるどこぞのマスメディアの常套手段。

    恐怖と怒り、逃走と攻撃は脳の扁桃体が司る最も原初的な情動で、自己保存本能の表出として多くの動物が有する根源的なもの。

    憎悪は人を殺人鬼にも仕立て上げるほどの力をもつ。
    度を超した悲劇はむしろ喜劇的でもあり、人間を残酷で凶暴な野獣に変える。それは現実であろうが妄想であろうが同じ。

    ひとつ間違えば犯罪者になっていたような人が観ると沁みるんやないかなぁ〜。
    善良なる一般ピーポーにはお勧めできない映画(笑)。

    それにしてもデ・ニーロが脇役で出演しているとはちょい驚いた。
    部屋でのジョーカーによる独り言のシーンはデ・ニーロ主演、同じテーマを有する不朽の名作「タクシードライバー」がインスパイアされている。映画の終盤でかかる“White Room”の選曲もお見事!

    「俺は孤独の集まるこの場所で眠る。俺は暗闇にいる。影が影から逃げていくようなこの暗闇に。(クリーム“White Room”より)」
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■1992 / inTopicNo.2)  どういたしまして
□投稿者/ パニチェ -(2019/10/27(Sun) 08:47:55)
    No1989に返信(pipitさんの記事)
    > すみません、私、
    > 「何を綺麗ごと言うてんねん」って感じやな、
    > の次の行から、リンク先からの引用文と勘違いしてて、
    > 別に私には違和感ないのに、パニチェさんには綺麗ごとに聞こえるのかなー
    > パニチェさんと私は感性がけっこう違うんかなー、人それぞれでおもしろいなー、
    > どこが違和感あるのか聞いてみよ(^ ^)、ってお聞きしました。
    > 。。。パニチェさんの文章だったのですね、
    > パニチェさんにとっては、まったく違和感無しの文章ですね
    > いつもいつもアホですみません m(_ _)m

    いえいえ、私の文章が違和感なくて良かったです。^^

    > 写真、とてもいいですね

    ありがとうございます。

    > 私の住んでるところは、とても田舎で、気持ちよさそうに飛んでる鳥見てるとわたしも鳥の見てる映像を見てみたいなー、とよく思っています。
    > カラスが意地悪して、自分より大きな鳥に対して複数で空中で攻撃したりするとこも見ますけど。
    > カラスはたくましいですね。

    カラスは頭もいいですね。最近の研究で霊長類だけが持っているとされていた未来計画能力があることが判明したとのことでした。
    ttps://www.afpbb.com/articles/-/3135731

    鷲とか鷹、トンビなどは飛んでいる姿が優雅ですね。
    ツァラトゥストラでは動物は超人へ向かうべき人間が動物へと退行するさまざまな人間の揶揄的比喩として用いられますが、鷲と蛇だけはツァラトゥストラの友として好意的に描かれています。群れをなさない孤高で高貴な動物という設定です。

    > ということで、お騒がせして、すみませでした!

    いえいえ。^^
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■1989 / inTopicNo.3)  ありがとうございます
□投稿者/ pipit -(2019/10/26(Sat) 19:13:00)
    すみません、私、
    「何を綺麗ごと言うてんねん」って感じやな、

    の次の行から、リンク先からの引用文と勘違いしてて、

    別に私には違和感ないのに、パニチェさんには綺麗ごとに聞こえるのかなー
    パニチェさんと私は感性がけっこう違うんかなー、人それぞれでおもしろいなー、
    どこが違和感あるのか聞いてみよ(^ ^)、ってお聞きしました。

    。。。パニチェさんの文章だったのですね、
    パニチェさんにとっては、まったく違和感無しの文章ですね

    いつもいつもアホですみません m(_ _)m

    写真、とてもいいですね

    私の住んでるところは、とても田舎で、気持ちよさそうに飛んでる鳥見てるとわたしも鳥の見てる映像を見てみたいなー、とよく思っています。

    カラスが意地悪して、自分より大きな鳥に対して複数で空中で攻撃したりするとこも見ますけど。

    カラスはたくましいですね。

    ということで、お騒がせして、すみませでした!
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■1988 / inTopicNo.4)  Re[7]: こんにちは
□投稿者/ パニチェ -(2019/10/26(Sat) 18:16:25)
    ピピットさんこんばんは、レスありがとうございます。

    No1987に返信(pipitさんの記事)

    > 写真が綺麗です〜

    ありがとうございます。

    > ところで、
    > >「何を綺麗ごと言うてんねん」って感じやな。<

    > って、どのあたりのことが綺麗ごとに聞こえるのですか?

    例えば「苦しみを苦しみと感じないようにする、命の時間が少しでも充実して、その人が生きていけるようにできればと思います。宗教者だけでなく、周りの人もそのように振舞っていけたら、命を放棄せず自然に任せた生涯を送れるのではないでしょうか。医療者など専門家と連携して、向き合っていくことができるように思います。」のような考え方。


    究極の状態では命の時間が少しでも充実するためにも安楽死という選択は必要だと思いますし、上記のような言い回しは平常時に誰でもペロペロ言えることです。

    死刑廃止を訴える弁護士が妻子を殺され死刑肯定論者に代わるような軽口と同じ綺麗ごと、私からすればチューブを繋ぎまくって延命していることが「救命」としている医者と同じ発想のように思えます、
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■1987 / inTopicNo.5)  こんにちは
□投稿者/ pipit -(2019/10/26(Sat) 16:23:26)
    パニチェさん、こんにちは

    写真が綺麗です〜

    ところで、
    >「何を綺麗ごと言うてんねん」って感じやな。<

    って、どのあたりのことが綺麗ごとに聞こえるのですか?


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■1986 / inTopicNo.6)  孤独死
□投稿者/ パニチェ -(2019/10/26(Sat) 15:55:57)
    独り住まいで亡くなった人を「孤独死」と呼ぶのは失礼やし、死者への冒涜やろ。

    独りで逝っても安らかな死を迎えた人もいるやろし、多くの人に囲まれながらも孤独を感じつつ逝く人もいるんとちゃうか?

    いつの日か人は必ず一人で死ぬ。

    この事実から目を背けている人間が一人で亡くなった人を「孤独死」なんてラベリングするように思ふ。

    生まれる時には人の手を借りるが、死ぬ時には延命治療などはもちろん、人の手を極力借りないことが美しい死に方ではないかと最近思うようになった。

    野生の鳥類は死期が迫ると群れから離れ山林へ向かうらしい。
    なんか美しくないか?(笑)
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■1985 / inTopicNo.7)  自死は仏教的にアリか?
□投稿者/ パニチェ -(2019/10/26(Sat) 08:21:12)
    リンク先のサイト。
    「何を綺麗ごと言うてんねん」って感じやな。

    釈尊の弟子(仏弟子)でも史実に残っている限りでは少なくとも二名の自殺者がいる。自分の修行がいつまでたっても完成しないことを嘆いて自殺したゴーディカ尊者と、病の激痛に耐えながら最終的には「我が身は苦痛きわまり、堪忍すること難し。刀を求めて自殺せんと欲す。苦しみつつ生くるを楽(ねが)わず。」と述べ刀をとって自殺したヴァッカリ長老。

    釈尊はこの二人を非難していない。むしろ「かれの魂はどこかにとどまることなく、この立派な人は、完全にときほぐされたのである」と述べ、有余依涅槃から無余依涅槃へと移行したことを認めている。釈尊は修行を完成した仏弟子が自殺を行うことを必ずしも非難しなかった。(中村元選集第13巻「仏弟子の生涯 パーリ聖典」からの引用)

    さらに仏教的には自己の究極的本質は永遠普遍の法(ダルマ)そのものなんだから「私の命」も「命の私」もない。

    仏教の目的は生に伴う苦を抜く(慈悲)ことなのだから、どんな激痛にも耐えながら生き抜かなくてはならないなんて教説は矛盾する。

    安楽死が認められている国で、筋ジストロフィー患者が自死を選択するまでのドキュメントを見たことがある。その患者が「いつでも自分の意志で安らかな死を選択できることで、苦痛を伴うかもしれない死の恐怖から解放されていから、絶望に陥ることなく、今を生きることができる。」と述べた言葉が重い。

    自死は安易に認めるべきでないことは支持するが、プロならもうちょっと佛典を調べるべきやし、平常時に誰でもペロペロと述べれるような軽口をたたくでない。

    『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(ニーチェ著「偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番」より)』

    ttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57965
    安楽死は仏教的にアリか? お坊さんに聞いてみた
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■1888 / inTopicNo.8)  Re[3]: ダンマパダ
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 15:09:15)
    こんにちは、ピピットさん

    No1886に返信(pipitさんの記事)

    > ダンマパダの引用を入力してくださって、ありがとうございます!

    どういたしまして。

    > 中村元さんの訳、心にしみますね〜
    > なんなのですかね、目にすると、心が少しまるくなる気がします。
    > 選ぶ文字がやさしいのかなぁ

    現代文に徹しているから、とっつきやすいとこもありますね。

    > >1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    > >一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^ <
    > パニチェさん、そういうふうに考えられてたのですね
    > なんかパニチェさんなら『10000持ってこ〜い』みたいな、って、
    > どんな勝手なイメージつくってんねん!ですよねm(_ _)m

    あはは。リアルでの友人はそういうイメージをもってるかもしれません。(笑)

    > 自分の主観は誤解だらけなんでしょうね
    > また、哲学のこととか仏教のこととか教えていただければうれしいです。
    > ありがとうございます

    どういたしまして。
    こちらこそ、ありがとうございます。
    私でよければなんなりとどうぞ。

引用返信/返信 削除キー/
■1886 / inTopicNo.9)  Re[2]: ダンマパダ
□投稿者/ pipit -(2019/09/23(Mon) 13:12:56)
    パニチェさん、こんにちは

    ダンマパダの引用を入力してくださって、ありがとうございます!

    中村元さんの訳、心にしみますね〜
    なんなのですかね、目にすると、心が少しまるくなる気がします。
    選ぶ文字がやさしいのかなぁ

    >1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^ <

    パニチェさん、そういうふうに考えられてたのですね
    なんかパニチェさんなら『10000持ってこ〜い』みたいな、って、
    どんな勝手なイメージつくってんねん!ですよねm(_ _)m

    自分の主観は誤解だらけなんでしょうね

    また、哲学のこととか仏教のこととか教えていただければうれしいです。
    ありがとうございます


引用返信/返信 削除キー/
■1881 / inTopicNo.10)  ダンマパダ
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 09:38:50)
    2019/09/23(Mon) 09:39:53 編集(投稿者)

    おはようございます、ピピットさん。

    No1875に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさんが考えてることを教えてくださって
    > ありがとうございます

    いえいえ、どういたしまして。
    私の方こそ、いつもレスいただきありがとうございます。

    > 改めて今考えてみると、
    > どう生きるか、しか、直接的には行為できないですよね。

    全くもってその通りです。「如何に死ぬか」は「如何に生きるか」と同義ですし、(魂のようなものが存在せず、自分の死を客観的に眺めることができないとするなら)自分では自分の死を体験できないことから、「如何に生きたか」や「如何に死んだか」の過去形評価は他人が下すものだと思います。集約すれば自己においては「如何に生きるか」しかないんでしょう。

    > ふと思い出してダンマパダを取り出しました。

    対比のため同じ箇所を中村元先生訳として引用してみました。

    『此の身は瓶の如しと觀 、此の心を城の如く安住せしめ 、慧の武器を以て魔と戰ひ 、彼の捕虜を守り懈廢すること勿れ 。
    嗟 、此の身久しからずして地上に横たはらん 、神識逝けば棄てられ 、猶ほ無用の材の如けん 。
    怨が怨に對して爲し 、敵が敵に對して爲す處は如何なりとも 、邪に向ふ心の造る害惡に若くものなし 。
    母 、父 、また其他の親戚の爲す所は如何なりとも 、正に向ふ心の造れる幸福に若くものなし 』

    『40.この身体は水瓶のように脆(もろ)いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克(か)ち得たものを守れ。──しかしそれに執着することなく。
    41ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木切(きぎれ)のように、投げ棄てられて。
    42.憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
    43.母や父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを正しく向けられた心がしてくれる。』

    > 何はともあれ、
    > せっかく生きてるから、生きてるうちに、私の場合はちょっとでも煩悩捨てることを上手になりたいな。
    > (煩悩にまみれてますけど。ほど遠いですけど。)

    執着するものが1,080あったとして、1,000から0(死)になるよりも、500から0になる方がきっと楽です。
    一つでも消せれば儲けもんくらいの気持ちで私はいきます。^^

    > ありがとうございます(o^^o)

    こちらこそ。^^

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■1880 / inTopicNo.11)  仏教、ニーチェ、脳科学他 2
□投稿者/ パニチェ -(2019/09/23(Mon) 09:03:47)
    初期仏教、中論、唯識、華厳、大乗仏教

    ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、〈私〉の哲学、科学哲学など哲学全般

    脳科学、進化論、物理(相対性理論、量子力学)などなど
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