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■2040 / inTopicNo.73)  Re[28]: プリンキピア
  
□投稿者/ pipit -(2019/11/03(Sun) 23:39:30)
    原理、でもまあまあよかったのかな。
    多分説明が記憶の底らへんにあったんだろうな(^^;;

    wikiより引用↓
    『(羅: Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)は、アイザック・ニュートンの著書で、ニュートン力学体系の解説書である。1687年刊、全3巻。古典力学の基礎を築いた画期的なもので、近代科学における最も重要な著作の1つ。運動の法則を数学的に論じ、天体の運動や万有引力の法則を扱っている。Principia という略称でもよく知られている。日本語では『自然哲学の数学的原理』、『プリンキピア』、あるいは『プリンシピア』とも表記される(岡邦雄訳、春秋社、1930年や、中野猿人訳、講談社、1977年等)。』
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■2041 / inTopicNo.74)  勘違いしてましたm(_ _)m
□投稿者/ pipit -(2019/11/04(Mon) 00:15:17)
    むむ?

    ラッセルさんの著作に『プリンキピア・マテマティカ』という本があるのですね。
    現代数学のことなら、多分こちらの本のことですね、失礼しましたm(_ _)m

    ニュートンの著作の『プリンキピア』と勘違いしてました。
    私が見たのは、ニュートンの原書です。
    こちらは、ちょうどカントが生きていた時代に印刷された本かな?(o^^o)

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■2044 / inTopicNo.75)  プリンキピア
□投稿者/ pipit -(2019/11/04(Mon) 00:32:39)
    調べたら、ニュートンの『プリンキピア』初版は、カントが生まれる前に出版されてました。
    第3版は、カント先生が2歳の時に出版されたみたいですけど。

    (´-`).。oO( そんな時代もありました。)
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■2050 / inTopicNo.76)  アプリオリな分析判断、と、『赤馬経』
□投稿者/ pipit -(2019/11/05(Tue) 19:11:04)
    こんばんは

    アプリオリなものは分析判断でしか真になれない。
    これは、今の私の心、と、腑に、しっかりと、落とされましたよ。
    ありがとうございますm(_ _)m

    思い浮かぶのは、解説本で読んだパーリ経典『赤馬経』(しゃくめきょう・増支部経典)の一節です。

    釈尊の言葉として、
    『友よ、私は、生まれることのない、死ぬことのない、没することのない、再生することのない世界の終わりを、歩行によって、知る、あるいは見る、あるいは極めることができる、とは説きません。
    私は、世界の終わりを極めないまま、苦(輪転苦)の終わりを作ることを説きません。
    友よ、私は、想があり意があるわずか一尋のこの身体における、世界(苦諦)と世界の生起と世界の滅尽と世界の滅尽にいたる行道とを説くのみです。

    世界の終わりは歩行によって 決して極められ得ない
    世界の終わりを極めなければ 苦からは解放され得ない
    それゆえ世界を知る賢者 梵行を修めた世界の達人
    寂者は世界の終わりを知って この世あの世を願い求めず 』

    (『パーリ仏典入門』片山一良先生、p231.232)


    少なくとも、数学では、アプリオリなものは、すでに備わってるものの中でしか、真になれない、と言われている。

    真理は、自己に揃ってる。
    そんな気持ちになります。

    本当の本当にありがとうございます。

    でも、カントの勉強は続けますよお〜(^O^)/

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■2052 / inTopicNo.77)  苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 19:46:29)
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■2053 / inTopicNo.78)  Re[33]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 21:53:02)
    カント哲学 / オートポイエーシス

    物自体 / 認識システムに属さない環境

    主観的な感覚 / 環境の影響をきっかけとする自律的表象

    認識可能な現象の総体 / 認識システムが産出する認識表象の総体
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■2054 / inTopicNo.79)  Re[34]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 21:54:47)
    システムを内側から見るんだね、多分 ?
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■2058 / inTopicNo.80)  Re[35]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/08(Fri) 23:42:09)
    pipitがメビウスリング掲示板に投稿した、オートポイエーシス論関連のものをコピペします。


    全然勉強できてないので間違えてたらごめんなさい。↓

    自動車工場では、外部から部品を調達して、車を組み立てますよね。
    それに対して、細胞は、その構造を維持し続けるように、細胞自身の構成要素となるものを、絶えず生成または分解してますよね。
    比喩的に言えば、細胞は、自分が自分の構成要素を生み出し続けていて、そのシステムのことを、オートポイエーシス(自己産出)と言ってるのかと、今の所考えていて、
    ここまでの考え方だと、SumioBabaさまの工場の後半の例があてはまるかと思うのですが、

    また、さらに追加される概念がオートポイエーシス論にはあって、

    システムにとっての自己、と、自己以外(環境)に分別し、
    環境からの決定性のない影響関係が生じることを『撹乱』としてるようです。

    つまり、環境からシステムはある意味閉じた領域にある、ということだと思います。

    車工場の場合、車の構成要素は外部からそのまんま取り入れられてますよね。
    自己産出はされてませんよね。
    工場は環境から閉じられてはいない。

    オートポイエーシスの場合、環境からの影響を受けてそれが引き金となってたとしても、構成要素は自己産出、システムとしては環境から閉じられた域を生成してる、ということかと今の所考えています。

    それから、まだ、追加概念がありまして、、、
    システム(作動や機能としての)として閉じられた域、を、システムの自己、とし、
    それとは別に、構成素が作るシステムの構造(目に見える形)も、もう1つのシステムの自己として、オートポイエーシスには二重の自己があるとされてる研究者もいるようです。

    ※※※※※※※※

    というような、
    オートポイエーシス論から考えてみると(オートポイエーシスもSumioBabaさまの記述も誤解してたらすみません)、

    心Mも脳Bも、自己というシステム、の、自己産出による構成要素、ということになるのかな??
    と思いました。


    または、脳Bを環境と考えれば、
    心Mを生じさせてるシステムと互いに決定性のない影響を与えあっている、つまり、ある言い方で言えば、脳Bに撹乱されて心Mが閉域システム内で生じた、と言えるのかな??
    と思いました。

    勘違いしてたらすみませんm(_ _)m

    (オートポイエーシス論自体もまだまだ定義付けがしっかりなされていない概念のようですね。)』
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■2059 / inTopicNo.81)  Re[36]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 18:07:14)
    オートポイエーシスのこといろいろ誤解してたらすみません。
    とりあえず今の段階での感想です。
    ↓メビウスに投稿したものでふ。

    『>>69
    脳Bと心Mのことを、考えてみました。

    生きる、ということを、オートポイエーシス・システムとして捉えたらどうかなと思いました。

    『私』の構成要素の産出の連鎖によって、『私』が『私』であり続けるシステム、が、生きるというオートポイエーシス・システムと捉えた時、
    脳Bも心Mも、『私』というシステムの構成要素の連鎖の中に組み込まれると考えることが可能なのではないかと思いました。

    構成要素は、次の構成要素へと繋がっていきます。
    仏教概念で言えば、『依りて』という単語が当てはめることが可能かも、と、思いました。
    十二因縁で『無明に依りて行が生じる』の『依りて』です。

    脳Bに依りて心Mが生じる。
    心Mに依りて心M2が生じる。
    心M2に依りて脳B2が生じる。

    心に依りて脳も生じる、も可能、
    脳に依りて脳が生じる、も可能、
    脳に依りて心が生じる、も可能、
    心に依りて心が生じる、も可能、
    しかも、その単位1つ1つがワンシステムの構成要素の産出連鎖内での、構成要素という考え方です。

    顕在意識だけが心ではなく、顕在意識以外(例えば無意識)も心に含めるなら、
    受動意識仮説のように、顕在意識を受動と考えることも可能ではないかと思いました。

    生きる、というシステムが稼働する。
    目的が、生きるというシステムの維持となる時、
    システムの維持に有利になるとの判断(客観的に妥当か否かは別問題)から、ストーリー性まで持ち得る意識を生じさせたとしたら、
    その意識に依りて、脳の変化はあり得る、と思いました。

    私が今考えてることは、パソコンで考えたら、整理しやすいかなと思いました。

    顕在意識(心M)はモニターの映像とします。
    パソコンの内部でいろいろガチャガチャして、モニター画面を変化させます。
    パソコンの内部が物理的な脳、そしてパソコンの前にいてパソコンを操作してるのが、心。

    心M(顕在意識)はパソコン(脳・物質)の結果だけど、
    心M(顕在意識)に対する心の反応で、次にパソコン(脳・物質)に影響を及ぼす。

    私が今考えてることは、心と物質の二元論かな、と、思いました。

    ※パソコンのモニターだと結局は物質になるけど、私の今考えてることは、意識は、心の変容、という捉え方もできるかな、ということです。
    そうなると、、、そう考える時は、物自体としての物質は直接知ることができない、となってしまうな

    自分で今何を考えているのか整理するために書き込みました。
    失礼いたしましたm(_ _)m


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■2060 / inTopicNo.82)  Re[37]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 19:30:33)
    オートポイエーシスの面白いところは、
    システムの域は環境から閉じられてる、ってとこですね。

    『オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たない。』と、表現されたりするみたいだけど、
    そう表現するには、多分たくさんの説明が本当は必要なんじゃないかな?と、思いました。

    とにかく、『カントとオートポイエーシス』という本の、せめて通読を目指したいな〜
    (ーー;)
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■2061 / inTopicNo.83)  Re[38]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 20:16:30)
    心は、腕(物質)を動かせる、とした時、
    心、は、脳(物質)も動かせる?

    でも、腕(物質)の可動範囲の規制はある、としたとき、
    脳(物質)の働かせ方も規制はある?


    心は、腕を、動かせない、なら、

    何が、腕を、動かしている ?
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■2078 / inTopicNo.84)  感性・悟性・理性について
□投稿者/ pipit -(2019/11/16(Sat) 17:32:12)
    メビウスリング掲示板に投稿した文章です。

    『私見書きます。
    1の感性は、感受したものを『現わす』能力。
    2の悟性は、1によって現れたものを、人間にとっての最低限の意味ある概念に包摂させる能力。
    3の理性、は、2によって規定された概念を使って、推論により、より高次の概念に包摂させる能力。

    2悟性、も、考える、ですが、
    3理性の、考える、とは志向(?)が違うかな、と思います。

    カントの文章でいえば、
    『知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。』

    游さま、何が見えてますか?
    1.とりあえず、なにかの色は見えてますか?
    2.色、が、何かの実体としての固まりに思えてますか?
    3.何か実体として捉えたものは、いつかは壊れると思いますか?

    2が、規則をつくる能力
    3が、原理をつくる能力
    だと、私は思っています。

    カントの文章です↓
    『超越論的な論理学の第一部においては、知性を〈規則を作る能力〉と説明してきた。ここでは理性は〔規則ではなく〕原理を作る能力と呼ぶことによって、知性との違いを明確にしたいと思う。
    (略)
    わたしが〈原理〉による認識と呼ぶものは、概念によって特殊なものを普遍的なもののうちに認識する働きをする認識である。
    (略)
    すでに指摘したように、知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。だから理性は直接に経験や、ある経験の対象にかかわるのではなく、知性に働きかけるのである。そして概念によって知性の多様な認識に、アプリオリな統一を与えるのである。だからこの統一は〈理性の統一〉と呼ぶことができるのであり、これは知性がもたらすことのできる統一とは、まったく異なる種類のものである。』

    黒崎政男先生の解説を参考にすると、
    『インテレクトゥスは、基本的に、媒介を経ないで全体を一瞬で把握する能力、他方、ラチオは、これがこうで、それがそうだから、すると、あれがああなって、と理詰めで次々推論していく能力である』
    2悟性としての思考がインテレクトゥス、
    3理性としての思考がラチオ、だと思っています。

    どちらも考える、ですね。
    だから、カント哲学においては、広い意味での理性と、『狭義の理性』が区別されてる解説を目にします。

    詳しくなくてすみません。

    私はまだ『純粋理性批判』を通読できてない者です。』
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