| カントの文脈では、アプリオリ、とは、経験によらない、という意味だと思います。
『三角形の内角の和、は、180度である。』を、 カントの文脈において、アプリオリな分析判断、と言った時には、 三角形の内角の和、に、180度という概念が先に含まれているということを意味してると思います。
では、その述語概念(180度)はどうやって、主語概念(三角形の内角の和)に含まれますか?
経験から、ですか?
もし経験からなら、カントの言葉の文脈から言えば、 『三角形の内角の和は、180度』は、 【アポステリオリな総合判断】になります。
その場合、先の命題を、アプリオリな分析判断、というのは仮面の言葉だ、と、今の段階の私は思いました。
そして、経験から総合判断されてる、ということは、 時間空間から総合判断されてる、と、同義でしょう?
カントは、その時間空間はアプリオリなものだから、 三角形の内角の和、は、180度。というのを、アプリオリな総合判断、と述べ、
時間空間は人間にとってアポステリオリなもの、と、思う人が、 三角形の内角の和、は、180度。というのを、アポステリオリな総合判断、と述べてるのだと思いました。
アプリオリな分析判断、と、言う時、 では、その主語概念にどのような手段で問題となる概念が含まれたのか、という視点は、考えてもいい事柄なんじゃないかと思いました。
例え、三角形の内角の和は180度。という命題であっても、 経験からの総合判断、つまり、アポステリオリな総合判断であると考えるのが常識的ですよね。
カントは変人なのかなぁ?☆彡
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