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■1898 / inTopicNo.13)   読書籠り部屋D
  
□投稿者/ pipit -(2019/09/26(Thu) 23:21:30)
    『カント入門講義』冨田恭彦先生著
    p269.270より引用
    引用開始
    『例えば、図48に示すように、その描かれた三角形の一片を延長し、そこにできる外角に、その対辺に平行な線を書き加えることによって、私たちは「三角形の内角の和は二直角である」ことを見出します。
    これは、「三角形」の概念をいくら分析しても出てこない、作図によらなければ明らかにできないことなのです。

    カントのこの説明においては、作図の行われる空間自体が私たちにアプリオリに備わっている純粋直観であることが、重要な役割を演じています。
    そこに想像力によって図が描かれ、それをもとに「総合判断」が導き出されるというのです。

    つまり、幾何学の判断は、私たちの感性と知性にもともと備わっているものだけを使って純粋直観から引き出される総合判断だから、「アプリオリな総合判断」だというわけです。』
    引用終了。

    以上が、幾何学におけるアプリオリな総合判断とカントが思ったものの説明。

    次は、形而上学の場合について、冨田先生の解説は進みます。

    p270〜

    幾何学のような純粋数学の場合「概念の構成」による「純粋直観」からそのアプリオリな総合判断を導出したが、
    形而上学の場合、このような「概念の構成」からではなく、
    「概念から」導かれる、と、カントは述べる。

    前に引用した箇所の再掲↓

    ※※※※※※※※

    カント的には、アプリオリな総合判断は二種類ある、と考える。
    一つは、「純粋哲学」、言い換えれば、「形而上学」に属する〈アプリオリな総合判断〉
    一つは、「数字」に属する〈アプリオリな総合判断〉

    ※※※※※※※※

    カントの言葉
    『哲学的認識は概念からの理性認識であり、
    数字的認識は概念の構成からの理性認識である。』
    (A713/B741)

    ※※※※※※※※

    上記カント文に出てくる(理性認識)は、アプリオリな総合的認識、言い換えれば、
    経験に依存しないアプリオリな総合判断のことです。
    (by 冨田先生)


    ☆☆☆☆☆☆☆☆

    ここで、概念から、って言うとこ、分析判断を連想するけど、
    それだと知識の拡張にならない。から、その解釈は×。

    冨田先生の文章を引用します。(p271)
    引用開始
    『もとより、カントは、「純粋哲学」ないし「形而上学」に属するアプリオリな総合判断として、このような分析判断まがいのことを考えているわけではありません。カントは「超越論的分析論」の「概念の分析論」に続く「原則の分析論」の序論で、次のように述べています。

    〔原則の分析論〕第二章は、〔・・・〕純水知性概念からアプリオリに生じ、他のあらゆるアプリオリな認識の基礎をなす総合判断について、すなわち純粋知性の原則について論じる。(A一三六/B一七五)

    ここに言う「純粋知性の原則」は「アプリオリに生じ〔る・・・〕総合判断」ですから、アプリオリな総合判断ですよね。しかもそれが、「純粋知性概念から〔・・・〕生じ〔る〕」と言われています。そうすると、概念から引き出されるものでありながら、分析判断ではなく総合判断であるというその理由は、何か別のところにありそうです。しかも、ここに言う純粋知性概念からアプリオリに引き出される「原則」がそうしたアプリオリな総合判断なのですから、前章で言及したように、私たちは「原則の分析論」で扱われるいくつかの原則こそ、カントの言う「純粋哲学」ないし「形而上学」に属するアプリオリな総合判断の事例であると考えなければいけないことになります。』
    引用終了


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■1899 / inTopicNo.14)  感想
□投稿者/ pipit -(2019/09/27(Fri) 00:08:44)
    あー、そうなんやー

    カテゴリーの適用、から、総合判断が行われる、ってカントは言ってたんやー

    全然理解してなかったなー
    (今も誤解してるかもたけど)

    複雑そうやなあ
    できるかなぁ

    私まだカテゴリーもまだきちんと把握してないのに、
    カテゴリーが適用される際の原則、から総合判断される様を見ていくのかなぁ

    。。。とりあえず今日は寝ます。。。

    無量の生命さん今日も一日お互いがんばったよね!
    おつかれさまです

    日々是好日になるといいね!


引用返信/返信 削除キー/
■1900 / inTopicNo.15)  感想2
□投稿者/ pipit -(2019/09/27(Fri) 00:21:21)
    あ、さっきの私の投稿、純水知性概念、って打ち間違えてる

    純粋を純水って打ち間違えてたixtlanさんを思い出した

    純水直観だったかなー

    きれいな表現されるなー、って思ってたら、
    変換間違いやった

    ご冥福を願います
引用返信/返信 削除キー/
■1903 / inTopicNo.16)  オートポイエーシス論
□投稿者/ pipit -(2019/09/27(Fri) 22:27:49)
    wikiのシステム論の項目より抜粋引用

    『オートポイエーシス

    構成素が自己言及的に新たな構成素を生成する循環をシステムとして記述する。

    オートポイエーシスにおいては、自己を構成する最小単位に関しては、階層関係を想起させる構成要素とは呼ばず構成素と呼ぶ。

    システムを入力も出力もない構成素の産出関係の循環として表現する。この時、システムは直接的に物理空間内に表現することは出来ず、システムの動作を記述するためだけに用意された位相空間内で自己言及的に動作するように表現される。従って、システムの動作を物理的に観測することが出来ないため、閉鎖系であり、自己言及的に動作するため、自律的に動作する。生命の発生機構や、神経系の動作や、主観世界を構成する心的システムも含めて説明する。』


    おもしろい捉え方の概念ですね

    普通システムは、観察者からの視点で記述されると思うけど、
    徹頭徹尾、内からの視点、ということかなぁ(違うかなぁ)

    システムが物理空間上に表現できない、というのもおもしろいですよね。
    システムの内からの視点だからかな?

    難しいけど、山下和也さんの『カントとオートポイエーシス』の内容、ちゃんと理解できたらいいな
引用返信/返信 削除キー/
■1907 / inTopicNo.17)  システム&独我論
□投稿者/ pipit -(2019/09/29(Sun) 00:25:26)
    システム、が、気になって、wiki読みました。

    原語は、組み立てられたもの、みたいなこと書いてありました。

    仏教で使用されている言語の一つ、パーリ語のサンカーラー、思い出しました。

    サンカーラー、という単語は、多義だけど、その中の1つは、
    組み立てられたもの=現象、って私はイメージしてます。

    現象、と、システムが、私の中で繋がりを持った気がしました。

    カントは「純粋理性批判」の第二版序文でおもしろい文章を書いています。

    英訳では、
    For pure speculative reason is an organic structure in which there is nothing isolated or independent, but every Single part is essential to all the rest;

    3人の日本人の先生の訳を見たけど、英訳も含め、細かくは統一されてないから、(細かくは)他解釈が可能な原文箇所かもしれないけど、
    3人の訳から私が抽出した言葉は、
    【純粋な思弁的理性は有機的な構造であり、すべてのものはある一つのもののために存在し、それぞれのものはまたすべてのもののために存在しているのである。】
    みたいな雰囲気の文章。

    山下和也先生の本にあったけど、
    一般システム理論の提唱者であるルードヴィッヒさんのシステムの定義は、
    「交互作用しあう要素の複合体」だそうで、山下先生は、カントは認識する純粋理性をシステムとして理解してるのである、と述べられてました。

    ま〜、でも、認識をシステムと捉えるのは、普通に考えそうなことのような気もしますね。

    ふと、思いましたけど、
    、、、独我論は、認識とはシステム、とも考えないのかな???

引用返信/返信 削除キー/
■1910 / inTopicNo.18)  読書籠り部屋E
□投稿者/ pipit -(2019/09/29(Sun) 19:05:08)
    p272から。

    アプリオリな総合判断がどのように純粋知性概念から引き出されるというのか。

    冨田先生の訳によるカントの文章を少しずつ、読んでいきます。
    超越論的方法論・B764〜765、の箇所です。

    (´-`).。oO【単なる思弁的な使用における全純粋理性は、概念からの直接的に総合的な判断を一つも含まない。
    というのも、われわれが示したように、純粋理性は、客観的妥当性を有する総合判断を、理念によって得ることができないからである。】

    この文章は、理性による二律背反を検証したあとの、『方法論』での文章なので、直観を伴わない単なる理性が作り出した概念(その時点では経験を伴わない概念)からの総合判断は無理だ、って言っていると私は思っています。

    では、どのように、総合判断を引き出すというのか。なにから引き出すというのか?

    (´-`).。oO【しかし、純粋理性は、知性概念によって確実な原則を立てる。けれども、概念から直接にではなく、常にただ間接的に、その概念がまったく偶然的ななにか、つまり、可能的経験に対して持つ関係によって、そうするのである。】

    知性概念は、理性概念(理念)と違うものだと思います。
    知性はインテリジェンス、知性、理解能力、だと思いますが、
    カントは人間のインテリジェンス能力には、アプリオリな概念が備わっており、そのアプリオリな概念のことを、純粋知性概念(カテゴリー)と呼んでると思っています。

    純粋理性は、そのアプリオリな知性概念によって原則を立てる。

    が、知性概念から直接に原則を立てるのではなく、

    常にただ間接的に、、、

    偶然的ななにか、
    それは、アポステリオリな出会い、
    アポステリオリな体験、に対して、知性概念が持つ《関係》において、純粋理性は、確実な原則を立てる。

    間接的にとは、関係において、原則を立てるから。

    関係がないとき、原則もない。

    ここまでの復習。

    純粋理性は、概念のみからの直接的な、客観的妥当性を有する総合判断を一つも持てない。
    だが、
    純粋理性は、知性概念がアポステリオリな知に何らかの関係を持つ時、その関係において、確実な原則を打ち立てる。
引用返信/返信 削除キー/
■1911 / inTopicNo.19)  読書籠り部屋F
□投稿者/ pipit -(2019/09/29(Sun) 22:44:57)
    p273〜

    (´-`).。oO【なぜなら、その原則は、可能的経験(可能的経験の対象としてのなにか)が前提される場合には、もちろん明証必然的に確かであるが、しかしそれ自体では(直接)アプリオリにはまったく認識されえないからである。】

    形のない原則は、原則に則った現実として現れることで認識できるが、原則自体では認識できない。

    (´-`).。oO【したがって、これらの与えられた概念からだけでは、「生起するものはみなその原因をもつ」という命題を、誰も徹底的に洞察することができない。】

    生じるものには原因がある、という概念を普通私たちは持っているけど、
    (例・赤ちゃんが生まれたなら、母胎から生まれた、という原因要素を、赤ちゃんの存在に内包させて、赤ちゃんというものを認識する。)
    この結果があるとき原因がある、の空疎な枠組み単体だけでは、この概念が必然的明証的であるか否かの判別はできない。

    (´-`).。oO【この命題は、自らの証明根拠すなわち経験を、自らはじめて可能にするとともに、この経験において常に前提されなければならないという、特殊な性質を持つ。】

    この原則が必然的明証的である証拠・根拠は、経験である。
    が、この原則があることで経験が可能となる類いのものであり、
    常に経験の前提とならなければいけない、という特殊な性格を持つ。

    ・・・

    生じるものには原因がある、は総合判断だが、
    生じるものには原因がある、という概念があることで、経験が成り立ち、
    経験の前提にはこの概念が関わっている。

    概念があるとき経験が成り立ち
    概念がないとき経験は成り立たない。

    概念だけでは、その概念の客観的妥当性の証拠にはならない。
    経験、が、概念の証明根拠となる。

    あー、概念が直観に適用されて、経験が成り立ち、
    その経験が成り立ったときにはじめて、その概念は客観的妥当性を持つ
    と言ってるのかな?

    ・・・なんか、今のところ、ご都合主義的な言い分に思えますよ。

    ここのところを、もう少し詳しく見ていくみたい。

    次は、p274の「第二の類推における証明」から、です。
    『「すべての変化は原因と結果の結合の法則に従って生起する」という原則を、カントは次のように証明しようとします。』by 冨田恭彦先生
    ということだそうで、
    どんな風に証明しようとするのかな〜???

    今日はもう寝ます。

    休みが終わるー(u_u)

    おやすみなさい (^ ^) ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■1913 / inTopicNo.20)  カッシーラーさんの『カントの生涯と学説』
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 22:31:31)
    今はまだ難しすぎると思うけど、いつか、読んでみたいなー


    『カントの生涯と学説』


    エルンスト・カッシーラー

    説明
    内容紹介
    カッシーラーの『カントの生涯と学説』は、
    初版(1918)以来数十年をへた現在もなお、
    最良のカント書のひとつである。
    カントの哲学思想とその生涯の全体がひとつに溶けあった
    その内容と文体は、
    明晰で深い洞察をしめしている。
    名匠の手によるこのカント把握によって、
    読者はカントの哲学および人間の理解へと導かれるであろう。
    本書の最大の魅力は、論述の対象であるカント哲学の偉大さと、
    著者であるカッシーラーの思想とが見事な一致を示している点にある。
    本書執筆当時、カッシーラーの思想は転換期にあった。
    ひとつには第一次大戦に直面して、
    理性にもとづく現実認識の一面性を確信した彼は、
    それまでの新カント派的な発想をこえて、
    世界了解の前提となる想像力・感情・意志等々
    人間の豊かな精神の全体の学をめざしながら、
    カントの把え直しに向かっていたのである。
    〈全体が問題になっている〉カントとカッシーラーの親和力は、
    カントの雄大な体系的思索の頂点である
    『判断力批判』をめぐる本書の考察に、
    その結実をみることになる。
    『判断力批判』を人間の精神形態の十全な表現ととらえる著者の分析は、
    〈象徴形式〉へとつらなるであろう。
    ふたりの巨匠の出会いから成った
    第一級の古典的著作といえよう。
引用返信/返信 削除キー/
■1914 / inTopicNo.21)  とりあえずは、
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 22:35:25)
    目の前の課題だ〜(>_<)

    目の前の課題からして(わたしには)高すぎるぞっ

    は、はやく、倫理パートに〜

    遠い〜

    って、勉強するのいやだなーって

    。。。読んでる途中の本の続きの二行くらい読んでみよ

    がんばるんだわたす〜
引用返信/返信 削除キー/
■1915 / inTopicNo.22)  読書籠り部屋G
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 23:05:59)
    目標 二行

    p274〜

    『すべての変化は原因と結合の法則に従って生起する』という原則を、カントは次のように証明しようとする。

    わたしたちは、対象のある状態と別の状態が続いて現れることを、さまざまな仕方で知覚する。

    以上二行!

    とりあえず、私の実感としての実例あげてみます。

    スマホの画面なんか、わかりやすいですね。

    タッチパネルでスクロールしながら画面を見てる時など、
    1秒ごとに、スマホに映る映像も違ってくるでしょう?
    でも、対象としてのスマホは同じように感じてるでしょう?

    つまりaという画面が映ってるスマホの次に、bという画面が映ってるスマホが続いて現れてるようにわたしたちは思ってますよね?

    そのような現象の状態を、
    【わたしたちは、対象のある状態と別の状態が続いて現れることを、さまざまな仕方で知覚する。】と冨田先生は表現してるのかな?と思いました。

    で、3行目も見てみると、、、

    なるほど、知覚、かぁ。

    3行目は、
    【けれども、私たちが知覚する多様な状態の継起は、ものごとの客観的先後関係を示すとは限りません。】

    私が挙げたスマホの画面の例の場合、時系列に沿って起きた対象の状態と私の知覚の先後関係が対応したものとなってるけど、
    いつも知覚と客観的先後関係が対応するとは限らない、ということですね。

    例えば、私が、家という対象を見るとき、先にドアを見て、次に屋根を見て、
    だと、知覚の先後関係と、家の対象の状態の先後関係は、ぴったり対応してるとは言えないですね。
    状態としては一応同一な対象と考えた時、私は先に屋根をみることも可能ですし、
    ということで、

    カントは、
    (´-`).。oO【継起する諸現象の客観的関係は、単なる知覚によっては定まらない。(B233.234)】
    と述べてるとのこと。

    。。。でも、仏教で刹那滅という現象の捉え方があるんだけど、その捉え方だと、対象の変化と知覚の先後関係は対応してると言えるかもですね。
    とりあえずは、カントの考え方を知りたいので、カント先生が何を言うのか、耳を澄ましてみたいです

    んー、結構進みましたよ、20行くらい進んだかな?

    次はp275の最後の行から!

    知覚の継起と対象の客観的なあり方に関係あり、と、カント先生が考えてる例(上流の船が下流へと移りいく映像の知覚)からですね。

    今日もおつかれさまなのです
    それぞれの在り方で、心と体がすこしでもゆっくり休めますように

    今日もおやすみなさい

引用返信/返信 削除キー/
■1916 / inTopicNo.23)  Re[9]: pipitさんへ (ミョウバン
□投稿者/ おくったがわ -(2019/10/03(Thu) 14:17:28)
    2019/10/03(Thu) 19:38:49 編集(投稿者)

    No1893に返信(pipitさんの記事)
    >>ミョウバンの三角が同じシステムから作られるというのは、ミョウバンの結晶に触発されて、それを三角形と認識するとき、同じシステムによっているということですか?<
    >
    > 私見書きます。間違えてたらすみません。
    >
    > 三角形と認識しても、三角形と認識しなくても、
    > 『ミョウバンの結晶』からして《物自体ではなくて現象》とするのが、
    > カントの認識論だと今の私は思っています。

    まあそこは、ミョウバンの結晶という認識(同時に現象)の生起を触発した「何か」に触発されて認識した△ という意味に読んでください。言葉足らずのため、お手数をおかけしてすみませんでした。

    追記
    でも考えてみると
    ミョウバンの側面に△という図形を認識する場合、物自体に触発されてなのか、現象(対象)として生起したミョウバンからなのか・・ケースバイケースなのか…
引用返信/返信 削除キー/
■1917 / inTopicNo.24)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/10/03(Thu) 23:27:55)
    おくったがわさん、こんばんは!
    読み取れてなくてすみませんでしたm(_ _)m



    > ■No1893に返信(pipitさんの記事)
    > >>ミョウバンの三角が同じシステムから作られるというのは、ミョウバンの結晶に触発されて、それを三角形と認識するとき、同じシステムによっているということですか?<
    >>
    >>私見書きます。間違えてたらすみません。
    >>
    >>三角形と認識しても、三角形と認識しなくても、
    >>『ミョウバンの結晶』からして《物自体ではなくて現象》とするのが、
    >>カントの認識論だと今の私は思っています。
    >
    > まあそこは、ミョウバンの結晶という認識(同時に現象)の生起を触発した「何か」に触発されて認識した△ という意味に読んでください。言葉足らずのため、お手数をおかけしてすみませんでした。<


    > 追記
    > でも考えてみると
    > ミョウバンの側面に△という図形を認識する場合、物自体に触発されてなのか、現象(対象)として生起したミョウバンからなのか・・ケースバイケースなのか…<

    自信なしですが、今の時点での私見では、
    、、、うーん、難しい。
    私としては、現象として生じてるミョウバンから、空間の特性を考えてみようと、空間に改めて自分の意志で△を新たに構成してる、かなぁ
    受動と能動かなあ
    感性は受動だとカントは言ってるのですけど、
    ミョウバンは物自体から受動的に生じて
    そこに△を見るときは、能動的に感性の形式である空間に△を書き込みしてるかんじかなぁ。
    難しくてはっきりわからなくてすみません!

    とりあえず、このコメントを書く前に書いた文章を下に貼ります。



    私見書きます。

    正確な例ではありませんが、例えてみます。
    もし私たちがバーチャルリアリティの世界の住人だとします。
    バーチャルではない実在世界には三次元空間はありません。
    バーチャル世界は三次元設定ゆえに、バーチャル世界の中では三角形も作図できます。
    バーチャルリアリティを作り出す純粋直観としての空間という仕掛けがあるから、バーチャルリアリティの住人は三次元で現象を知る。
    その仕掛けである空間を使って、純粋な概念を描く、ということは、つまり、仕掛けとしての空間の特性を描き出していることでもあると思います。
    経験、は、空間の特性に従って現れる。
    その特性に則して純粋数学の概念も構成される。
    経験も仕掛けの特性に則して現れたもの。
    数学の概念も仕掛けの特性に則して作られたも
    の。
    同じ、純粋直観としての空間の特性に則して在るもの、という考え方を今のところしています。



    カントの著作『プロレゴーメナ』よりカントの文章の引用をします。

    【純粋数学が、同時に確然的かつ必然的なものとして現れる、みずからのすべての認識や判断の根拠にする直観は、空間と時間である。】(Ak283、中公52、岩波70)(『カント哲学の核心』御子柴善之先生著、p87.88)

    【したがって、空間と時間は純粋直観なのである。この純粋直観はあのもの〔経験的直観〕に対してア・プリオリに根拠として存するので、それ自身は決して取り去られ得ない。(略)ただし、諸対象がどのように私たちに現象するかが認識されるに過ぎないことは、もちろんのことである。】(Ak283、中公53、岩波71)(同本p89)

    【こうして本章の課題は解決された。純粋数学は、ア・プリオリな総合認識としては、感官の単なる対象以外の何ものにもかかわらないことによってのみ可能である。この感官の経験的直観には、(空間と時間という)純粋直観が、それもア・プリオリに根拠としてあり、また、純粋直観が対象の現実的現象に先行する感性のたんなる形式であることで、根拠としてあり得るのである。】(Ak283-284、中公53-54、岩波71-72)(同本p94)

    【両者〔空間と時間〕は物それ自体に付着する諸規定では決してない。両者は、感性に対する物それ自体のたんなる関係だけに付着する規定である。】(Ak284、中公54、岩波72)(同本p95)






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