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■2084 / inTopicNo.1)  手記
  
□投稿者/ pipit -(2019/11/17(Sun) 09:17:26)
    おはようございます。
    今朝、新聞に被害者の父親の手記が載っていました。
    その中に、
    『死刑判決を望みそれが執行されたことに後悔はありませんが、残された遺族は被害者、加害者の命の重さ、悲しみにこの先も向き合っていかなければなりません。』
    という文章がありました。

    人間の心は、優しいひとであればあるほど、死刑が執行された加害者の命の重さにも、どうしても考えが及んでしまうのかな、と、切ない気持ちになりました。

    犯罪は、多くの心を破壊的なほどに苦しめますね

    犯罪が最初から起こらないことが一番ですが、それは無理なように思えるのが、かなしいですね

    なりたくないとすごく思うけど、わたしも、犯罪者になるかもしれない

    世界は切ない、世界は悲しい、と、感じます


引用返信/返信 削除キー/
■2083 / inTopicNo.2)  Re[42]: 感性・悟性・理性について
□投稿者/ pipit -(2019/11/17(Sun) 08:50:37)
    メビウスリング掲示板へ投稿した書き込みです。

    『カントの言葉をご紹介します。↓

    『たんなる純粋悟性や純粋理性からする物の認識は、すべて単なる仮象にほかならず、真理は経験のうちにのみ存する。』
    『プロレゴメナ』付録、Aka.W.374

    ちなみに、すみません、私は感性として『色』を例に出しましたけど、
    カントは、『色』は主観的なものと断言してた覚えがあるので、認識の材料には考慮しない可能性が大です。(書き込み時に気づかずすみません。)
    認識の材料としては、『延長』みたいな感じかな?
    空間の中でどこかの『位置』を持って感受される、って感じかな?

    おもしろいですよね、

    色は、同じ色見てるかわからなくても、見えてるものについての位置は一応お互いに確かめあえる気がしますね。

    、、、、

    あ、また、間違えたかも、

    感性は、感じたものを、空間のどこかの位置に(受動的であれ)表す、ってかんじかも?

引用返信/返信 削除キー/
■2080 / inTopicNo.3)  Re[41]: 感性・悟性・理性について
□投稿者/ pipit -(2019/11/16(Sat) 17:36:50)
    『カントは、人間の認識能力を総称して『理性』と呼ぶこともあるそうですけど、
    それは別として、
    人間の認識能力を、感性/悟性/理性に分けた時の、理性についての記述と思われるものを引用しますね。


    『わたしたちのすべての認識は、感覚能力に始まって知性を経由し、理性で終わる。直観の素材に働きかけて、思考の最高の統一のもとにもたらす能力としては、理性よりも高次のものは存在しない。
    (略)
    理性の第一の〈論理的な使用の能力〉はもちろん、以前から論理学者たちによって間接的な推論の能力として説明されてきたものであり、これは直接的な推論とは区別されてきたものである。
    第二の〈実在的な使用の能力〉は、理性がみずから概念を作りだすものであるが、それだけではまだこの能力について理解できない。ここでは理性を論理的な能力と超越論的な能力に区別するわけであるから、理性の二つの源泉の概念を、みずからのもとに統合するような高次の概念が必要とされる。
    (略)
    超越論的な論理学の第一部においては、知性を〈規則を作る能力〉と説明してきた。ここでは理性は〔規則ではなく〕原理を作る能力と呼ぶことによって、知性との違いを明確にしたいと思う。
    (略)
    わたしが〈原理〉による認識と呼ぶものは、概念によって特殊なものを普遍的なもののうちに認識する働きをする認識である。
    (略)
    すでに指摘したように、知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。だから理性は直接に経験や、ある経験の対象にかかわるのではなく、知性に働きかけるのである。そして概念によって知性の多様な認識に、アプリオリな統一を与えるのである。だからこの統一は〈理性の統一〉と呼ぶことができるのであり、これは知性がもたらすことのできる統一とは、まったく異なる種類のものである。』
    カント『純粋理性批判4』中山元訳、p28〜35より抜粋引用』
引用返信/返信 削除キー/
■2079 / inTopicNo.4)  Re[40]: 感性・悟性・理性について
□投稿者/ pipit -(2019/11/16(Sat) 17:35:36)

    中山先生が、『知性』と訳されてる単語は、『悟性』と訳されてることも多い単語です。

    この悟性などについての解説を、
    『カント『純粋理性批判』入門』黒崎政男先生の本から引用します。

    『「悟性」(Verstand)はドイツ語verstehen(理解する)の名詞形である。英語だと、understandingに当たる。
    英語でも、理解する(understand)の名詞形がunderstandingで、通常「知性」と訳される。
    したがって「悟性」(Verstand)は、「知性」(understanding)とほぼ同じことなのである。
    そもそも悟性(Verstand)も知性(understanding)も、もともとは、ラテン語のインテレクトゥスintellectus(知性)を近代語に訳したものである。インテリなどという言葉もあるが、ラテン語でも、インテレクトゥスは動詞intelligo(理解する)からできた言葉である。

    これに対して、理性(Vernunft)のほうはちょっと系列が違う。英語ではreasonに対応する。
    これは、もともとラテン語のラチオratioから来ている。合理的とか理想的とかいう意味もあるが、基本的には、ラチオは〈比〉のことであり、〈比較〉して考える、推論して考える、という意味である。

    だからこれらの問題を考えるには、カントよりさかのぼって、ラテン語の中世・スコラ哲学におけるインテレクトゥス(知性)とラチオ(理性)の基本対立を押さえておけばよいことになる。
    インテレクトゥスは、基本的に、媒介を経ないで全体を一瞬で把握する能力、他方、ラチオは、これがこうで、それがそうだから、すると、あれがああなって、と理詰めで次々推論していく能力である。』
    p61.62より引用』
引用返信/返信 削除キー/
■2078 / inTopicNo.5)  感性・悟性・理性について
□投稿者/ pipit -(2019/11/16(Sat) 17:32:12)
    メビウスリング掲示板に投稿した文章です。

    『私見書きます。
    1の感性は、感受したものを『現わす』能力。
    2の悟性は、1によって現れたものを、人間にとっての最低限の意味ある概念に包摂させる能力。
    3の理性、は、2によって規定された概念を使って、推論により、より高次の概念に包摂させる能力。

    2悟性、も、考える、ですが、
    3理性の、考える、とは志向(?)が違うかな、と思います。

    カントの文章でいえば、
    『知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。』

    游さま、何が見えてますか?
    1.とりあえず、なにかの色は見えてますか?
    2.色、が、何かの実体としての固まりに思えてますか?
    3.何か実体として捉えたものは、いつかは壊れると思いますか?

    2が、規則をつくる能力
    3が、原理をつくる能力
    だと、私は思っています。

    カントの文章です↓
    『超越論的な論理学の第一部においては、知性を〈規則を作る能力〉と説明してきた。ここでは理性は〔規則ではなく〕原理を作る能力と呼ぶことによって、知性との違いを明確にしたいと思う。
    (略)
    わたしが〈原理〉による認識と呼ぶものは、概念によって特殊なものを普遍的なもののうちに認識する働きをする認識である。
    (略)
    すでに指摘したように、知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。だから理性は直接に経験や、ある経験の対象にかかわるのではなく、知性に働きかけるのである。そして概念によって知性の多様な認識に、アプリオリな統一を与えるのである。だからこの統一は〈理性の統一〉と呼ぶことができるのであり、これは知性がもたらすことのできる統一とは、まったく異なる種類のものである。』

    黒崎政男先生の解説を参考にすると、
    『インテレクトゥスは、基本的に、媒介を経ないで全体を一瞬で把握する能力、他方、ラチオは、これがこうで、それがそうだから、すると、あれがああなって、と理詰めで次々推論していく能力である』
    2悟性としての思考がインテレクトゥス、
    3理性としての思考がラチオ、だと思っています。

    どちらも考える、ですね。
    だから、カント哲学においては、広い意味での理性と、『狭義の理性』が区別されてる解説を目にします。

    詳しくなくてすみません。

    私はまだ『純粋理性批判』を通読できてない者です。』
引用返信/返信 削除キー/
■2061 / inTopicNo.6)  Re[38]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 20:16:30)
    心は、腕(物質)を動かせる、とした時、
    心、は、脳(物質)も動かせる?

    でも、腕(物質)の可動範囲の規制はある、としたとき、
    脳(物質)の働かせ方も規制はある?


    心は、腕を、動かせない、なら、

    何が、腕を、動かしている ?
引用返信/返信 削除キー/
■2060 / inTopicNo.7)  Re[37]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 19:30:33)
    オートポイエーシスの面白いところは、
    システムの域は環境から閉じられてる、ってとこですね。

    『オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たない。』と、表現されたりするみたいだけど、
    そう表現するには、多分たくさんの説明が本当は必要なんじゃないかな?と、思いました。

    とにかく、『カントとオートポイエーシス』という本の、せめて通読を目指したいな〜
    (ーー;)
引用返信/返信 削除キー/
■2059 / inTopicNo.8)  Re[36]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/09(Sat) 18:07:14)
    オートポイエーシスのこといろいろ誤解してたらすみません。
    とりあえず今の段階での感想です。
    ↓メビウスに投稿したものでふ。

    『>>69
    脳Bと心Mのことを、考えてみました。

    生きる、ということを、オートポイエーシス・システムとして捉えたらどうかなと思いました。

    『私』の構成要素の産出の連鎖によって、『私』が『私』であり続けるシステム、が、生きるというオートポイエーシス・システムと捉えた時、
    脳Bも心Mも、『私』というシステムの構成要素の連鎖の中に組み込まれると考えることが可能なのではないかと思いました。

    構成要素は、次の構成要素へと繋がっていきます。
    仏教概念で言えば、『依りて』という単語が当てはめることが可能かも、と、思いました。
    十二因縁で『無明に依りて行が生じる』の『依りて』です。

    脳Bに依りて心Mが生じる。
    心Mに依りて心M2が生じる。
    心M2に依りて脳B2が生じる。

    心に依りて脳も生じる、も可能、
    脳に依りて脳が生じる、も可能、
    脳に依りて心が生じる、も可能、
    心に依りて心が生じる、も可能、
    しかも、その単位1つ1つがワンシステムの構成要素の産出連鎖内での、構成要素という考え方です。

    顕在意識だけが心ではなく、顕在意識以外(例えば無意識)も心に含めるなら、
    受動意識仮説のように、顕在意識を受動と考えることも可能ではないかと思いました。

    生きる、というシステムが稼働する。
    目的が、生きるというシステムの維持となる時、
    システムの維持に有利になるとの判断(客観的に妥当か否かは別問題)から、ストーリー性まで持ち得る意識を生じさせたとしたら、
    その意識に依りて、脳の変化はあり得る、と思いました。

    私が今考えてることは、パソコンで考えたら、整理しやすいかなと思いました。

    顕在意識(心M)はモニターの映像とします。
    パソコンの内部でいろいろガチャガチャして、モニター画面を変化させます。
    パソコンの内部が物理的な脳、そしてパソコンの前にいてパソコンを操作してるのが、心。

    心M(顕在意識)はパソコン(脳・物質)の結果だけど、
    心M(顕在意識)に対する心の反応で、次にパソコン(脳・物質)に影響を及ぼす。

    私が今考えてることは、心と物質の二元論かな、と、思いました。

    ※パソコンのモニターだと結局は物質になるけど、私の今考えてることは、意識は、心の変容、という捉え方もできるかな、ということです。
    そうなると、、、そう考える時は、物自体としての物質は直接知ることができない、となってしまうな

    自分で今何を考えているのか整理するために書き込みました。
    失礼いたしましたm(_ _)m


引用返信/返信 削除キー/
■2058 / inTopicNo.9)  Re[35]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/08(Fri) 23:42:09)
    pipitがメビウスリング掲示板に投稿した、オートポイエーシス論関連のものをコピペします。


    全然勉強できてないので間違えてたらごめんなさい。↓

    自動車工場では、外部から部品を調達して、車を組み立てますよね。
    それに対して、細胞は、その構造を維持し続けるように、細胞自身の構成要素となるものを、絶えず生成または分解してますよね。
    比喩的に言えば、細胞は、自分が自分の構成要素を生み出し続けていて、そのシステムのことを、オートポイエーシス(自己産出)と言ってるのかと、今の所考えていて、
    ここまでの考え方だと、SumioBabaさまの工場の後半の例があてはまるかと思うのですが、

    また、さらに追加される概念がオートポイエーシス論にはあって、

    システムにとっての自己、と、自己以外(環境)に分別し、
    環境からの決定性のない影響関係が生じることを『撹乱』としてるようです。

    つまり、環境からシステムはある意味閉じた領域にある、ということだと思います。

    車工場の場合、車の構成要素は外部からそのまんま取り入れられてますよね。
    自己産出はされてませんよね。
    工場は環境から閉じられてはいない。

    オートポイエーシスの場合、環境からの影響を受けてそれが引き金となってたとしても、構成要素は自己産出、システムとしては環境から閉じられた域を生成してる、ということかと今の所考えています。

    それから、まだ、追加概念がありまして、、、
    システム(作動や機能としての)として閉じられた域、を、システムの自己、とし、
    それとは別に、構成素が作るシステムの構造(目に見える形)も、もう1つのシステムの自己として、オートポイエーシスには二重の自己があるとされてる研究者もいるようです。

    ※※※※※※※※

    というような、
    オートポイエーシス論から考えてみると(オートポイエーシスもSumioBabaさまの記述も誤解してたらすみません)、

    心Mも脳Bも、自己というシステム、の、自己産出による構成要素、ということになるのかな??
    と思いました。


    または、脳Bを環境と考えれば、
    心Mを生じさせてるシステムと互いに決定性のない影響を与えあっている、つまり、ある言い方で言えば、脳Bに撹乱されて心Mが閉域システム内で生じた、と言えるのかな??
    と思いました。

    勘違いしてたらすみませんm(_ _)m

    (オートポイエーシス論自体もまだまだ定義付けがしっかりなされていない概念のようですね。)』
引用返信/返信 削除キー/
■2054 / inTopicNo.10)  Re[34]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 21:54:47)
    システムを内側から見るんだね、多分 ?
引用返信/返信 削除キー/
■2053 / inTopicNo.11)  Re[33]: 苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 21:53:02)
    カント哲学 / オートポイエーシス

    物自体 / 認識システムに属さない環境

    主観的な感覚 / 環境の影響をきっかけとする自律的表象

    認識可能な現象の総体 / 認識システムが産出する認識表象の総体
引用返信/返信 削除キー/
■2052 / inTopicNo.12)  苦戦・カントとオートポイエーシス
□投稿者/ pipit -(2019/11/06(Wed) 19:46:29)
引用返信/返信 削除キー/

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