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■43560 / inTopicNo.1)  純粋理性批判図式論
  
□投稿者/ pipit -(2025/06/17(Tue) 01:07:14)
    2025/06/18(Wed) 17:36:01 編集(投稿者)
    2025/06/17(Tue) 07:46:14 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは(^o^)
    No41848の続きの箇所です。一文がすごく長いし、日訳するのも難しかったです。日訳を間違えてたらすみません。
    ドイツ語原文とJ.M.D.Meiklejohnさんの英訳を画像ファイルとして投稿します。

    ---------------------
    (J.M.D.Meiklejohnさん英訳のpipit日訳)B185

    悟性による純粋概念の図式は、私たちの悟性が対象に適用できるようになるため、したがって意味を持つための、真の、そして唯一の条件である。

    結局のところカテゴリーは経験的使用にしか適さない。
    というのも、カテゴリーは現象を綜合の普遍的ルールに従わせるために役にたつに過ぎないからである。

    現象を綜合の普遍的ルールに従わせる・・・
    それは、(一つの根源的な統覚においての全意識の必然的統合を理由とする)アプリオリな必然的統一という手段でなされ、それにより、現象は一つの経験の中で完全に連関を持つことができるようになる。


    ----------------------------

    (pipit感想)
    図式が感性の範囲と悟性概念を媒介することによって純粋悟性概念は初めて内容のある意味を持てる、と。
    それで、感性の範囲を悟性に繋げる所作は、感性により生じる多様な意識を、一つのシステムとしての自我意識に属させる過程として見ることも出来る。

    感じるもの(感性)を考え(私は考えるという自我意識に属させ)、純粋悟性概念で中身を整理し(カテゴライズ・分別)、それにより、現象は総合し統一され客体認識に至る。

    カント的にはそんな感じなのかな?と今のところ思いました。

    ----------------------------

    今回で101投稿になったので、pipitの『純粋理性批判を読んでみる』トピは休止になります。
    積読本などをある程度読めたらまた再開のお願いをさせていただきたいと思っています。
    どうぞよろしくお願いします。
    m(_ _)m感謝です!

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B185t.jpg
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引用返信/返信 削除キー/
■43416 / inTopicNo.2)  Re[38]: 超越論的分析論XI−5
□投稿者/ pipit -(2025/06/01(Sun) 18:17:40)
    2025/06/01(Sun) 18:24:43 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんは!

    No43407

    > 久しぶりの、久しぶりの、、カント沼です(´;ω;`)ウッ…感涙
    >
    > 感無量(´-`).。oO<

    読書おつかれさまですo(^▽^)o

    > ◇ もし個々の表象のそれぞれが他の表象と全く無縁で、いわば孤立しており、他の表象から分離しているとすれば、比較され連結された諸表象の全体に他ならない認識といったような或るものは決して生じないに違いない。<

    個々の表象、と、諸表象の全体、の区別をカントはつけているのですね。

    > ◇ それ故、感官〔Sinne〕は自らの直観において多様性〔Mannigfaltigkeit〕を含んでいるので、私が感官に通観作用〔Synopsis〕を付与するならば、<

    個々の表象の多様において、
    通観作用を付与するなら、、、
    大まかな概観?

    >この通観作用にはいつでも綜合〔Synthesis〕が対応し、受容性〔Rezeptivit&#228;t〕≠ヘ自発性〔Spontaneitaet〕≠ニ結合してのみ認識を可能にすることができる。<

    個々の表象は受容性により現れ、通観作用は自発性である綜合により行われる、、、かな?

    > ◇この自発性は、必然的に全ての認識において現われる三重の綜合の根拠である。<

    綜合の発生源は自発性だということかな?

    >即ち、〔それら三重の綜合とは、〕直観における心の変様としての諸表象の把捉〔Apprehension〕=A構想における諸表象の再生産〔Reproduktion〕=Aおよび概念における諸表象の再認〔Rekognition〕≠ナある。<

    構想力では再生産かぁ...

    > ◇これら〔の三者〕は三つの主観的な認識の源泉*1へと導いていくものであり、これら三つの主観的認識源泉が、悟性をすら可能にし、またの悟性を通じて、全ての経験を悟性の経験的産物〔empirisches Produkt〕として可能にするのである。
    > *1 中山によれば、この「三つの主観的認識の源泉」とは、直観、想像力、概念<

    初版では、
    『把捉〔Apprehension〕∞再生産〔Reproduktion〕∞再認〔Rekognition〕=xの三つの綜合は、それぞれ『三つの主観的な認識の源泉*1へと導いていく』。と述べられる。

    主観的認識の源泉を中山先生は[直観、想像力、概念](D05)と註釈されていますが、カントの原文では、「感官、構想力、統覚」と述べてる可能性もあるかと思いました。

    宇都宮芳明先生監修の以文社『純粋理性批判 上』p161、162の田村一郎先生の註釈を引用します。
    『以下の三つのパラグラフの代りに、第一版では次の文章が入っている。
    「しかしすべての経験の可能性の条件を含み、それ自身は心のどんな他の能力からも導き出すことのできない三つの根源的な源泉(魂の持つ性能あるいは能力)がある。感官と構想力と統覚がそれである。(略)』
    引用終わり。

    統覚の作用で概念が作られるとしたら、中山先生の註釈のように【[直観、想像力、概念]という源泉】と解釈するのも、【「感官と構想力と統覚」という源泉】も同じような意味になるかもしれませんね。
    (^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■43407 / inTopicNo.3)  超越論的分析論XI−5
□投稿者/ うましか -(2025/05/31(Sat) 11:17:38)
    2025/05/31(Sat) 11:18:26 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    久しぶりの、久しぶりの、、カント沼です(´;ω;`)ウッ…感涙

    感無量(´-`).。oO

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。
    だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。
    しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。

    ―― No.413150 の続き ---

    ◇ もし個々の表象のそれぞれが他の表象と全く無縁で、いわば孤立しており、他の表象から分離しているとすれば、比較され連結された諸表象の全体に他ならない認識といったような或るものは決して生じないに違いない。

    ◇ それ故、感官〔Sinne〕は自らの直観において多様性〔Mannigfaltigkeit〕を含んでいるので、私が感官に通観作用〔Synopsis〕を付与するならば、この通観作用にはいつでも綜合〔Synthesis〕が対応し、受容性〔Rezeptivit&#228;t〕≠ヘ自発性〔Spontaneitaet〕≠ニ結合してのみ認識を可能にすることができる。

    ◇この自発性は、必然的に全ての認識において現われる三重の綜合の根拠である。即ち、〔それら三重の綜合とは、〕直観における心の変様としての諸表象の把捉〔Apprehension〕=A構想における諸表象の再生産〔Reproduktion〕=Aおよび概念における諸表象の再認〔Rekognition〕≠ナある。

    ◇これら〔の三者〕は三つの主観的な認識の源泉*1へと導いていくものであり、これら三つの主観的認識源泉が、悟性をすら可能にし、またの悟性を通じて、全ての経験を悟性の経験的産物〔empirisches Produkt〕として可能にするのである。
    *1 中山によれば、この「三つの主観的認識の源泉」とは、直観、想像力、概念

    † 原佑訳上巻、p.254〜p.255参照。 原典はMeiner,p.207〜p.208
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.185〜p.186、石川文康 訳 上巻, p158
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−4 No.41315、XI−5 No.43407
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315,43407

引用返信/返信 削除キー/
■43243 / inTopicNo.4)  knowingitselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2025/05/18(Sun) 17:03:03)
    knowingitselfさん、こんにちは(⌒∇⌒)!

    No43239
    > 客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかはないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。
    >
    > 永井均「私・今・そして神 開闢の哲学」p 141より引用<


    私は、客観の可能性を考えさせてくれたカントに個人的に感謝しています。

    同時に『文字』が存在しなかったら、また違った世界だっただろうな、と感じています。

    もちろん『言葉』もですね(o^―^o)


    > 貴重な枠を一つ使ってすみません。<


    書き込みいただき、すごー−−−くうれしいです♪


    > 本日からでも、わたしのところに、カント関連の投稿をしていただいてもかまいません。
    >
    > 前置きや挨拶は不要です。書き込みたいときにどうぞ。<


    やさしいお気持ちを本当にうれしく感じます。ありがとうございます。


    > レスはできないかもしれませんが、カント哲学には関心があり、読むだけで学びはあると思うので。<

    いえぇ、knowingitselfさんの博識には完璧に及びませんです!

    一旦休憩して、積読になっている本などがある程度読めたら、また再開のお願いに参ろうと思っています。
    どうぞこれからも引き続きよろしくお願いいたします!

引用返信/返信 削除キー/
■43239 / inTopicNo.5)  カント哲学の驚天動地の洞察の深さ
□投稿者/ knowingitself -(2025/05/18(Sun) 15:44:39)
    客観的時制構造と客観的人称構造を構成することによって、今と私をその内部に含んだ(客観的に位置づけた)客観的世界を成立させることができること、人々が「あたりまえ」のように感じているこの事実は、真に驚くべき事件なのである。いいかえれば、カント哲学の洞察の深さはほとんど驚天動地というほかはないのである。もう一つおまけに四字熟語を使うなら、文字どおり空前絶後。

    永井均「私・今・そして神 開闢の哲学」p 141より引用

    pipitさん こんにちは

    貴重な枠を一つ使ってすみません。

    本日からでも、わたしのところに、カント関連の投稿をしていただいてもかまいません。

    前置きや挨拶は不要です。書き込みたいときにどうぞ。

    レスはできないかもしれませんが、カント哲学には関心があり、読むだけで学びはあると思うので。


引用返信/返信 削除キー/
■43169 / inTopicNo.6)  Re[34]: pipiさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/05/14(Wed) 18:23:33)
    No43150、pipiさま、ありがとございま〜す。

    御子柴さんのところ読んでるところで〜す。

    わたし「富士山」の例じゃなくて、2才児kちゃんの「これ、リンゴ」で考えながらね。
引用返信/返信 削除キー/
■43155 / inTopicNo.7)  つくってみた
□投稿者/ pipit -(2025/05/14(Wed) 10:25:22)
    2025/05/14(Wed) 10:31:05 編集(投稿者)

    イラストやさんの画像を使わせていただいています。
     
    今、秋元康隆先生の新刊を読んでいますが、普遍という言葉についておもしろく感じた箇所があるので引用します。

    『その悩み、カントだったら、こう言うね。』秋元康隆先生著、晶文社、p162より抜粋引用。
    『この「普遍的」という用語ですが、日常生活の上では確かに、「いつでも」「どこでも」という意味で使用されることがあります。しかしそれは、本来の意味から派生したものなのです。これは辞書的な意味としては、「ある範囲におけるすべてのものにあてはまるさま」なのです。ここには「いつでも」「どこでも」という意味は含まれていません。それどころか、「ある範囲において」という但し書きを付して、決して「いつでも」「どこでも」ではないことをわざわざ断っているのです。この「すべてのものにあてはまる」ということは、道徳法則の文脈では、「すべての人にあてはまる」となるのです。』
    引用終了 ※辞書的意味は『広辞苑』(2005年)、「普遍的」の項参照だそうです。

    ふと、自他を考慮しない世界のモラルってあるとしたらどんな感じなのかなぁ?と思いました。

    さぁ、いろいろ用事だよ〜 (´;ω;`)ウッ…本読みたいっ
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引用返信/返信 削除キー/
■43150 / inTopicNo.8)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2025/05/14(Wed) 00:25:13)
    2025/05/14(Wed) 06:32:02 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは(⌒∇⌒)

    No43145
    > (1)
    > No10287
    >>この自発性が、一切の認識において必然的にあらわれる三様の総合の根拠である。<
    > >三様の総合<
    > 1.直観における把握(アプレヘンジオン)による総合について
    > 2.
    > 3.
    >
    > の、2と3はどんな総合?
    >
    > っていうことと、<

    2は、『構想における再生の総合』
    3は、『概念における再認の総合』だよ。

    御子柴先生解説本のp157の後半(カントの文章A97fの引用)〜 に、詳しく載っているようです。
    御子柴先生独自の例としてp158〜160に富士山を認識対象にする場合の、仕上がった認識にたどり着くまでの三種の総合の仕方を解説されています。

    ふと思った疑問などあれば気軽に聞いてください。調べてみます。

    > (2)
    > No42933
    > [Perception][Perzeption]
    > No41672の(本Ko)に、
    > [Wahrnehmung]
    > ってあって、両方とも日本語で「知覚」って訳されてると思うんだけど、
    > カントの場合、[Perception]と[Wahrnehmung]、使い分けてるの?
    > ここらへんどうなのかな〜、って。
    > 分かったらでいいんだけど教えてもらえるとありがたいで〜す。

    私の持ってるkindle本の純粋理性批判のドイツ語版で、[Perzeption]を検索すると2か所しか結果が出てこなかったんだよ。
    [Wahrnehmung]は198か所。数が全然違うよね。

    でもね、カント的統覚が『Apperzeption』で、 Ap+perzeptionと分解できるようで、御子柴先生解説本p171最終段落からp172冒頭段落に解説が載ってますのでよかったら目を通してみてね。
    (/・ω・)/
引用返信/返信 削除キー/
■43145 / inTopicNo.9)  pipiさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/05/13(Tue) 18:32:56)
    ご休憩中のところごめんね

    pipiさま、2点教えてもらいたいことがあるのですが、

    (1)
    No10287
    > この自発性が、一切の認識において必然的にあらわれる三様の総合の根拠である。<
    >三様の総合<
    1.直観における把握(アプレヘンジオン)による総合について
    2.
    3.

    の、2と3はどんな総合?

    っていうことと、

    (2)
    No42933
    [Perception][Perzeption]
    No41672の(本Ko)に、
    [Wahrnehmung]
    ってあって、両方とも日本語で「知覚」って訳されてると思うんだけど、
    カントの場合、[Perception]と[Wahrnehmung]、使い分けてるの?
    ここらへんどうなのかな〜、って。
    分かったらでいいんだけど教えてもらえるとありがたいで〜す。

    もし気が向いて暇なときでいいので。


引用返信/返信 削除キー/
■41848 / inTopicNo.10)  純粋理性批判図式論
□投稿者/ pipit -(2025/04/06(Sun) 23:22:12)
    2025/04/07(Mon) 06:47:44 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。
    ただいま純粋理性批判B185を読んでいます。

    Translator: J. M. D. Meiklejohnさんの英訳

    Hence it is apparent that the schematism of the understanding, by means of the transcendental synthesis of the imagination, amounts to nothing else than the unity of the manifold of intuition in the internal sense, and thus indirectly to the unity of apperception, as a function corresponding to the internal sense (a receptivity).

    (英訳のpipit日訳)
    このことから明らかになるのは、
    想像力の超越論的総合による悟性の図式は、
    内的感官における直観の多様の統一、そして間接的には内的感官(受容性)に対応する機能としての統覚の統一に他ならない。

    (pipit感想)
    このことから、というのは直前の文章で、
    『だから図式とは、時間が規則にしたがってアプリオリに規定されたものにほかならない。そしてこの時間規定は、カテゴリーの順序にしたがって、すべての可能な対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括にかかわるのである。』(中山元先生訳 『純粋理性批判3』光文社古典新訳文庫p44.45より引用)
    と述べてることから、っていうことですね。
    @内的感官の形式は時間である。
    (時間の中に内的感覚が生じる)
    A図式は時間規定である。(対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括)
    B内的感官における直観の多様の統一(部分を一つの対象物に統一する=対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括を規定する)
    C統覚の統一(全ての意識物に私の意識としての統一性を与える)

    Aであるので、@内的感覚をも規定することとなり、それはBであり、間接的にはCである。
    って感じかなぁと考えました。

引用返信/返信 削除キー/
■41332 / inTopicNo.11)  Re[11]: 超越論的分析論XI−4
□投稿者/ pipit -(2025/03/19(Wed) 08:53:40)
    うましかさん、おはようございます(^○^)

    No41315
    > リンツの90%カカオ食べてる感じ〜<

    私も90%超えくらいの明治チョコに挑戦したことありますが、さすがに、「....ここまでくると美味しく(感じ)ない...」と、それ以降買ってないなー

    > ◆ だから、いかにして純粋悟性概念は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。
    > 経験のこうした形式的で客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。<

    あ、ここあたり、悪魔ちゃんと会話していた範囲です。

    >もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的な経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(幽霊の概念)、<

    直観必須の条件が除去されてる、ってことかな

    >或いは、やがて純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念)。しかし、全てのア・プリオリな認識のための諸要素≠ヘ、また、恣意的で不合理な虚構の諸要素ですら、たしかに経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的な経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。<

    経験由来の諸要素ではなく、経験の条件を含む諸要素...

    > ―― No.40741 の続き ---
    >
    > ◇ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。<

    カテゴリーの形而上学的演繹で、このような純粋思考があるのは事実問題として提示済み、ということなのかな??

    > だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。<

    認識から思考を消してみる。
    対象の「規定」は消える。

    思考上の「ある」という規定も思考上の「対象」という規定も消える。

    思考上に「対象」はどのように現れるのか...についての考察がカテゴリーの演繹なのかな、違うかな...

    「赤い帽子の子、集まれー」って言って、集まった認識対象は、「赤い帽子の子」。
    この時、「赤い帽子」は認識対象の前からある概念で、概念の下に集められた対象なので、概念の具体的内容は、集まった赤い帽子の子になる、って構造かなぁ
    概念と具体内容は一致して、
    これは赤い帽子の子たちです。の「赤い帽子」という概念による対象規定は規定としての正当性を帯びる、ということかなぁ
    赤い帽子は経験由来の概念だから、もっと純粋なステージにおいて、、、
    対象一般の条件としての概念が、カテゴリーということで、、、

    > ◇ しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。<

    あ、感性のことを言ってるのかな?違うかな?
    ちょっと先の箇所を本を覗いてみよう...

    あ、そういえば初版でしたね!
    A97あたりですねo(^▽^)o

    なるほど、主観の三つの認識源泉へと...

    ....うましかさん、大沼浴ですね!

    温かいといいな♪

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■41315 / inTopicNo.12)  超越論的分析論XI−4
□投稿者/ うましか -(2025/03/18(Tue) 22:11:03)
    2025/03/18(Tue) 22:14:07 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりのカント沼(;´・ω・)

    リンツの90%カカオ食べてる感じ〜

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属することもなく、可能的な経験の諸要素から成り立っていないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。
    何故なら、その〔或る〕概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。
    可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。

    ◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念があるならば、それはなるほど何一つ経験的なものを含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。

    ◆ だから、いかにして純粋悟性概念は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。
    経験のこうした形式的で客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的な経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(幽霊の概念)、或いは、やがて純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念)。しかし、全てのア・プリオリな認識のための諸要素≠ヘ、また、恣意的で不合理な虚構の諸要素ですら、たしかに経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的な経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。
    というのも、さもなければ、それらの諸要素にとって何一つとして全く何も考えられないだろうだけでなく、それらの諸要素自身もまた与件を欠き、思考においてさえ決して成立し得ないであろうからである。

    ―― No.40741 の続き ---

    ◇ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。
    だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。

    ◇ しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。


    † 原佑訳上巻、p.253〜p.254参照。 原典はMeiner,p.207
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.184〜p.185、石川文康 訳 上巻, p158、有福孝岳 訳, p.177、P.Guyer&A.W.Wood 訳,p.227
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−4 No.41315
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315

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