| No42013のつづき
(資料0)からメルロのに関する記述のところの抜粋
(資料0-M)――――――――――――――――――――― (p204)メルロ=ポンティは次のように述べている。 〔…〕見えるものに固有のことは、厳密な意味で見えないものという裏地(doublure)を有していることであり、見えるものはそれを或る種の不在として現前させるのである。(OE,85)
(p204-205)知覚は、図と地あるいは現前と不在の関係を必然的に伴って成立しているのである。それゆえ、こうした知覚の一般的構造において、「見えないもの」は、現前の可能性の条件となるが、それ自体は「根源的に現前しえないもの」(VI,281)である。こうした事態を比喩を用いて説明するならば、或る事物の表面が知覚される際には、裏面は必然的に見えなくなっており、その限りにおいて、表面は表面として現れているということができる。このような意味において、メルロ=ポンティは、「見えるもの」は、「見えないもの」という「裏面(envers)」(VI,190n.,200,303)によって必然的に「裏打ち=二重化される(doblé)」(VI,199)関係にあると述べるのである(12)。
(p207)見えるものと見えないものを即自的内存在者の現前と不在の関係として理解してはならない。もし、見えるものを実定的な対象的実在として語るならば、両者が或る存在者において同時に認められることは矛盾している。というのも、その場合、或る存在者が「見え、かつ、見えない」ということになるからである。カントの言うように、そこでは別個に把握された二つの事態が対立しているのだから、この関係は「矛盾」であり、その帰結は「全くの無」である。また、「見えない」ということが「見える」と別個のものとして把握されるならば、その意味は「他のところ」にあるという意味での客観的不在の関係であることになる。というのも、通常あるはずの場所に、「机が見えない」と言う場合、その机は別の場所に移されてしまったか、廃棄されてしまったかである。前者の場合には机は別の場所にあり、後者の場合にも、たとえ廃棄されて解体されたとしても、対象的物質としてはどこかに存在する。これに対して、メルロ=ポンティが主張しているのは、第一節で述べたように、見えないものは見えるものの現出の条件として、必然的にそれに伴っているということである。
(p207)見えないものが実定的なものではなく、潜在的なものであるならば、相対立する見えるものと共立することが可能である。あるいはむしろ、カントにおいてそうであったように、実定的なものには必然的に潜在的なものが伴っているのだから、見えないものは見えるものをつねに裏打ちしていることになる。メルロ=ポンティが「カントの実在的対立」という概念によって語ろうとしているのは、現前がはらむこうした潜在性としての否定性の領域なのである。 ―――――――――――――――――――――
抜粋はここまでね。
次からはこれらからわたしの見えをお喋りしてく。
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