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■42078 / inTopicNo.1)  Re[100]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/13(Sun) 12:34:44)
    ん?

    No42074っていうことは〜

    No41823で見たような、
    『地の上の図ということは、まさに知覚的現象の定義にほかならない。』
    だから〜

    No42062の図は、〈知覚の世界〉を表してる、ってして見てもいいのかも。

    なんか新たな見方浮かんで来たかな?


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■42074 / inTopicNo.2)  Re[99]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/13(Sun) 11:32:23)
    No42062の図のように描いたのは、

    わたし、メルポンの〈点0の知覚は0点にある〉を「地の上の図」として見たんだと思う。
    〈0〉を「地」、〈点〉を「図」として。

    こういうふうに見ることがあたってるかどうはわかんないどね。

    逆に、図を言葉にして見ると、
    「0の点の知覚は0の点にある」っていうふうになるかな。

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■42062 / inTopicNo.3)  Re[98]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 19:33:06)
    ちょうはもうちょっと、

    No42058のようにカントの『負量の概念』をわたし見たんだけど、っていうのは、カントのとメルポンの〈点0の知覚は0点にある〉をどう結びつけたらいいの?のなかでね。

    まだ言葉で上手にお喋りできないでいるんだけど、〈こんな感じじゃないかしら?〉みたいなのが浮かんでる。
    超簡単に、そういうのをペイントして見たのがあるので添付しま〜す。

    No41830の図はメルポンの「地の上の図」をもとにして描いたんだけど、同じように〈点0の知覚は0点にある〉を描いて見たよ。

289×279

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■42061 / inTopicNo.4)  Re[97]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 19:07:37)
    No42060、あ、ごめん

    説明は(a)じゃなくて(b)の方のね。
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■42060 / inTopicNo.5)  Re[96]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 19:02:38)
    No42059の(a)の絵、ちょと説明するね。

    aちゃんは昼に外食してスパゲティ食べたのね。

    お気に入りの白いTシャツ(地)に、オレンジ色(図)のスパゲティの液が飛んでいたことに気づいたのね。

    ん?わざわざ説明しなくても、かな。
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■42059 / inTopicNo.6)  Re[95]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 18:42:01)
    No42058のつづき

    No42012の(資料0-M)のところに、
    〔知覚は、図と地あるいは現前と不在の関係を必然的に伴って成立しているのである。・・・・或る事物の表面が知覚される際には、裏面は必然的に見えなくなっており、〕
    ってあるんだけど、

    ちょっと描いた絵を添付するね。

    〔表面が知覚されてる際には裏面は見えてない〕を描いてみたのが(a)ね。

    〈点0の知覚は0点にある〉っていうのは(b)のような感じしてる。

    わたし問題としてるは〔見えなくなってる〕っていうところ。

653×272 => 600×249

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■42058 / inTopicNo.7)  Re[94]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 18:35:45)
    No42039、話がそれてきちゃってるみたいだから、今の話題に戻すね。

    まず、メルポンの〈点0の知覚は0点にある〉のもとになってるらしいカントの『負量の概念』について、

    No42013の(資料0)から見て見る。

    『負量』っていうのは、〔数学におけるマイナス〕のことで、これを哲学に導入する試み、っていうことでいいかな。

    (k1)〔+aと−aとは互いの負量である〕
    っていう見方はおもしろいと思う。
    そして、〔両者の総和は「ゼロ」である〕
    この例が(g)に書かれてある。でもちょっと思ったのね。
    +5と−7では、その総和は−2じゃない? 0にはならないと思うんだけど。
    ま、これは置いといて、

    (x)(+)を「正」――「肯定」(ある)
    (y)(−)を「負」――「否定」(ない)
    って見ていいかな?
    そして、
    (資料0)の(f)から、
    (x),(y)を「実在的対立」(或る事物の属性間の対立)ってして見て、〔これは表象可能であるという意味〕で「矛盾」とは異なる。
    そして、
    (x),(y)の〔正負の量が拮抗した状態〕、これをカントは〔無〕として見て、こういう無を「ゼロ(Zero=0)」。
    こんな感じ?

    でね、メルポンのと結びつけるために、わたしいろいろ考えて見たんだけど、

    (K0-A1) 0っていうのは、+と−を産み出すもの(場)

    ってして見たのね。
    だって、0が存在しなければ+も−も無いわけよね。
    こういうのから、
    +(正、肯定)と−(負、否定)は、対立するのかもしれないけど、0の内の属性間の対立と見たとき、この両者が同時に存在することは「矛盾」にはならない。

    (K0-A2)〈「ある」かつ「ない」〉が同時的に存在する場としての〈0〉が存在する。

    カントの『負量の概念』、わたしこういうふうにして見たのね。

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■42057 / inTopicNo.8)  Re[93]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/12(Sat) 18:32:20)
    ネットニュース?にあったんだけど

    「まじで昭和かよ」小学校の入学式で配られた用紙に絶句 ネットも共感「これいい加減やめて欲しい」

    っていうの。

    「まじで昭和かよ」「これいい加減やめて欲しい」って主張する?人。
    手書き、できないのかしら?
    可愛そうなのはそんな親に育てらる子。


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■42039 / inTopicNo.9)  Re[92]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/11(Fri) 19:10:01)
    No42037のつづき

    (M-V)の、
    『それ自体おのれが何であるかを語らざるをえなくなるような質問をしつらえたりすることである哲学』
    ここんところ、ハイデガーの
    No27145
    『現象学は、アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ、すなわち、おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせるということにほかならない。』
    に似てる。

    あとわたしのばあい、『対〈自〉』を〈客観〉、『即〈自〉』を〈主観〉ってして見てる。

    いまさらだけど、「現象学」って、「問いかけの哲学」だったのね。そして、対象の〈思考-概念〉っていうより〈意味〉としての対象を問うてる、みたいだったのかも。

    なんか長くなっちゃたけど、メルポンの現象学のわたしの、わたしに再認識できたかも。

    (M-P)の序文に、
    『現象学とは何か。‥‥世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。』
    ってある。わたしメルポンのに興味あるのはこいうところからね。

    現象学のやメルポンの読んで見ようっていう気にならない人には関係ない話しだから、そんなのおかまいなしに、ここわたし用に使わせてもらってるから、遠慮なく言いたい放題ね^^

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■42037 / inTopicNo.10)  Re[91]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/11(Fri) 18:56:36)
    No42034のつづき

    『われわれの考えうるものはすべて「物の意味」であり、そしてこの意味を私に開示する作用がまさに知覚と呼ばれるものであるから、私は知覚において〈物そのもの〉に到達しているわけである。』(M-p)
    っていうところ、
    ここらへんはメルポンのとカントのが違うところみたい。
    (F-D)の訳注にも、
    〔Transzendenz ireellen Beschlossenseins:直訳すると、「非実質的に含まれているという超越性」となる。『イデーンT』でも、「物が意識に対してもつ超越性とか「自体存在」とかいう言い方に騙されてはならない。物的なものの超越性の本当の概念は、知覚の本質内実から以外には汲まれることができない。・・・自体的に存在する対象とは、決して、意識にまったく関わらないようなものではない」(第47節)と述べられ、また、「物の超越性は、直観の進行における無際限性に表現されている」(第149節)のであって、知られざる「物自体」の超絶性なのではない。〕
    ってある。

    カントのを見て見ると、
    (K)――――――――――――――――――――
    (本Ko)から、
    〔どのような仕方でどのような手段を用いて認識が諸対象に関係するとしても、認識がそれを通じて諸対象が直接的に関係し、そしてあらゆる思考がそれを手段としようとするものは、直観である。しかし、直観は、私たちに対象が与えられるというこのことは、これまた、少なくとも私たち人間にとっては、対象がこころをなんらかの仕方で触発することによってのみ可能である。私たちが諸対象によって触発される仕方によって諸表象が与えられるのであり、ひとり感性だけが私たちに直観を提供するのである。〕(A19/B33)(p88-76)
    (資料E)から、
    〔カントは『純粋理性批判』・先験的感性論の冒頭で、「たとえどのような仕方で、またどのような手段によって、認識が対象と関係するにせよ、認識がそれによって対象と直接連関し、すべての思惟がそれを手段として目指すものは直観である。しかし、この直観は我々に対象に与えられる限りにおいて生じるに過ぎない。だが、このことはこれもまた{少なくともわれわれ人間には}対象が心をある仕方で触発することによってのみ可能である」(A19,B33)と語る。〕(p99)
    ――――――――――――――――――――――

    私たち人間の〈「対象」とその認識〉において、
    私に触発されてる私の外にある「物(対象)」は、私の意識の内で「それ」が認識される際、思考が手段としているのは〈感覚-現象-直観〉である。っていうことをカントは“認めてる”わけよね。

    私の外にある「物(対象)」(x)は、私の内で構成されたものとなってる〈物(対象)〉なわけだから、「(x)物(対象)それ自体」じゃない、としても、私たち人間は“そのようにして”「物(対象)」にかかわってるわけで、じゃそれはどのようにして?に対するメルポンの見方が(M-p)なんだとわたし思ってる。
    メルポンのは、神的なものにかかわる問いじゃなくて、〈私たち人間の〉にかかわる問い、って見れるかな。

    わたし〈感覚-現象-直観〉を〈感覚-知覚(作用・されたもの)〉ってして見てる。
    だから、(K)からは、〈思考は感覚-知覚を手段としている〉って見るわけなんだけど、私たち人間の認識において、思考に先立つものとして〈感覚-知覚〉は原初的なもの。それを探究しているのがメルポンのだとわたし思ってる。

    もうちょっとつづける。

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■42034 / inTopicNo.11)  Re[90]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/11(Fri) 18:43:14)
    メルポンの〈点0の知覚は0点にある〉についての資料からの抜粋は
    No42014までで、わたしの見えを書いてくつもりなんだけど、
    その前にね、

    No42012のところはわたし読み返しになるんだけど、いま思われたこと、忘れないうちに書いとく。

    (M-C)に
    『〈意味〉の把握』とか『〈意味〉の違い』ってあるけど、
    No41741の(F-D)の訳注に、
    〔フッサールは「意味を通じて対象に関わる」こととして志向性を確立していった。〕
    ってある。
    そして、
    『客観的世界と主観的見かけとの相異はもはや二種類の存在の相違ではなく、ふたつの〈意味〉の違い』
    これ、わたしこう見たのね。
    No39939で見たようなのを想いだして、
    ネットで「リンゴとは」で調べて見たら、ウィキペディアに、
    〔リンゴ(林檎、学名: Malus domestica)は、バラ科リンゴ属の落葉高木の一種、またはその果実のことである。植物学上の和名では、セイヨウリンゴともよばれる。〕
    ってあった。このようなのを〈客観的なリンゴの意味〉ってして見る。
    一方、〈kちゃんのリンゴの意味〉っていうのもあると思う。これを〈主観的〉ってして見るのね。
    この二つの意味は、「リンゴ」っていう『二種類の存在の相違ではなく二つの〈意味〉の違い』。
    こんなふうに見たよ。

    つづく

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■42014 / inTopicNo.12)  Re[89]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/10(Thu) 19:16:12)
    No42013のつづき

    (資料0)からメルロのに関する記述のところの抜粋

    (資料0-M)―――――――――――――――――――――
    (p204)メルロ=ポンティは次のように述べている。
    〔…〕見えるものに固有のことは、厳密な意味で見えないものという裏地(doublure)を有していることであり、見えるものはそれを或る種の不在として現前させるのである。(OE,85)

    (p204-205)知覚は、図と地あるいは現前と不在の関係を必然的に伴って成立しているのである。それゆえ、こうした知覚の一般的構造において、「見えないもの」は、現前の可能性の条件となるが、それ自体は「根源的に現前しえないもの」(VI,281)である。こうした事態を比喩を用いて説明するならば、或る事物の表面が知覚される際には、裏面は必然的に見えなくなっており、その限りにおいて、表面は表面として現れているということができる。このような意味において、メルロ=ポンティは、「見えるもの」は、「見えないもの」という「裏面(envers)」(VI,190n.,200,303)によって必然的に「裏打ち=二重化される(doblé)」(VI,199)関係にあると述べるのである(12)。

    (p207)見えるものと見えないものを即自的内存在者の現前と不在の関係として理解してはならない。もし、見えるものを実定的な対象的実在として語るならば、両者が或る存在者において同時に認められることは矛盾している。というのも、その場合、或る存在者が「見え、かつ、見えない」ということになるからである。カントの言うように、そこでは別個に把握された二つの事態が対立しているのだから、この関係は「矛盾」であり、その帰結は「全くの無」である。また、「見えない」ということが「見える」と別個のものとして把握されるならば、その意味は「他のところ」にあるという意味での客観的不在の関係であることになる。というのも、通常あるはずの場所に、「机が見えない」と言う場合、その机は別の場所に移されてしまったか、廃棄されてしまったかである。前者の場合には机は別の場所にあり、後者の場合にも、たとえ廃棄されて解体されたとしても、対象的物質としてはどこかに存在する。これに対して、メルロ=ポンティが主張しているのは、第一節で述べたように、見えないものは見えるものの現出の条件として、必然的にそれに伴っているということである。

    (p207)見えないものが実定的なものではなく、潜在的なものであるならば、相対立する見えるものと共立することが可能である。あるいはむしろ、カントにおいてそうであったように、実定的なものには必然的に潜在的なものが伴っているのだから、見えないものは見えるものをつねに裏打ちしていることになる。メルロ=ポンティが「カントの実在的対立」という概念によって語ろうとしているのは、現前がはらむこうした潜在性としての否定性の領域なのである。
    ―――――――――――――――――――――

    抜粋はここまでね。

    次からはこれらからわたしの見えをお喋りしてく。

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