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■41848 / inTopicNo.1)  純粋理性批判図式論
  
□投稿者/ pipit -(2025/04/06(Sun) 23:22:12)
    2025/04/07(Mon) 06:47:44 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。
    ただいま純粋理性批判B185を読んでいます。

    Translator: J. M. D. Meiklejohnさんの英訳

    Hence it is apparent that the schematism of the understanding, by means of the transcendental synthesis of the imagination, amounts to nothing else than the unity of the manifold of intuition in the internal sense, and thus indirectly to the unity of apperception, as a function corresponding to the internal sense (a receptivity).

    (英訳のpipit日訳)
    このことから明らかになるのは、
    想像力の超越論的総合による悟性の図式は、
    内的感官における直観の多様の統一、そして間接的には内的感官(受容性)に対応する機能としての統覚の統一に他ならない。

    (pipit感想)
    このことから、というのは直前の文章で、
    『だから図式とは、時間が規則にしたがってアプリオリに規定されたものにほかならない。そしてこの時間規定は、カテゴリーの順序にしたがって、すべての可能な対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括にかかわるのである。』(中山元先生訳 『純粋理性批判3』光文社古典新訳文庫p44.45より引用)
    と述べてることから、っていうことですね。
    @内的感官の形式は時間である。
    (時間の中に内的感覚が生じる)
    A図式は時間規定である。(対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括)
    B内的感官における直観の多様の統一(部分を一つの対象物に統一する=対象についての時間系列、時間内容、時間秩序、時間統括を規定する)
    C統覚の統一(全ての意識物に私の意識としての統一性を与える)

    Aであるので、@内的感覚をも規定することとなり、それはBであり、間接的にはCである。
    って感じかなぁと考えました。

引用返信/返信 削除キー/
■41332 / inTopicNo.2)  Re[11]: 超越論的分析論XI−4
□投稿者/ pipit -(2025/03/19(Wed) 08:53:40)
    うましかさん、おはようございます(^○^)

    No41315
    > リンツの90%カカオ食べてる感じ〜<

    私も90%超えくらいの明治チョコに挑戦したことありますが、さすがに、「....ここまでくると美味しく(感じ)ない...」と、それ以降買ってないなー

    > ◆ だから、いかにして純粋悟性概念は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。
    > 経験のこうした形式的で客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。<

    あ、ここあたり、悪魔ちゃんと会話していた範囲です。

    >もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的な経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(幽霊の概念)、<

    直観必須の条件が除去されてる、ってことかな

    >或いは、やがて純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念)。しかし、全てのア・プリオリな認識のための諸要素≠ヘ、また、恣意的で不合理な虚構の諸要素ですら、たしかに経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的な経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。<

    経験由来の諸要素ではなく、経験の条件を含む諸要素...

    > ―― No.40741 の続き ---
    >
    > ◇ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。<

    カテゴリーの形而上学的演繹で、このような純粋思考があるのは事実問題として提示済み、ということなのかな??

    > だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。<

    認識から思考を消してみる。
    対象の「規定」は消える。

    思考上の「ある」という規定も思考上の「対象」という規定も消える。

    思考上に「対象」はどのように現れるのか...についての考察がカテゴリーの演繹なのかな、違うかな...

    「赤い帽子の子、集まれー」って言って、集まった認識対象は、「赤い帽子の子」。
    この時、「赤い帽子」は認識対象の前からある概念で、概念の下に集められた対象なので、概念の具体的内容は、集まった赤い帽子の子になる、って構造かなぁ
    概念と具体内容は一致して、
    これは赤い帽子の子たちです。の「赤い帽子」という概念による対象規定は規定としての正当性を帯びる、ということかなぁ
    赤い帽子は経験由来の概念だから、もっと純粋なステージにおいて、、、
    対象一般の条件としての概念が、カテゴリーということで、、、

    > ◇ しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。<

    あ、感性のことを言ってるのかな?違うかな?
    ちょっと先の箇所を本を覗いてみよう...

    あ、そういえば初版でしたね!
    A97あたりですねo(^▽^)o

    なるほど、主観の三つの認識源泉へと...

    ....うましかさん、大沼浴ですね!

    温かいといいな♪

引用返信/返信 削除キー/
■41315 / inTopicNo.3)  超越論的分析論XI−4
□投稿者/ うましか -(2025/03/18(Tue) 22:11:03)
    2025/03/18(Tue) 22:14:07 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    久しぶりのカント沼(;´・ω・)

    リンツの90%カカオ食べてる感じ〜

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について
    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
    第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕

    第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】

    ◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属することもなく、可能的な経験の諸要素から成り立っていないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。
    何故なら、その〔或る〕概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。
    可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。

    ◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念があるならば、それはなるほど何一つ経験的なものを含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。

    ◆ だから、いかにして純粋悟性概念は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。
    経験のこうした形式的で客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的な経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(幽霊の概念)、或いは、やがて純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念)。しかし、全てのア・プリオリな認識のための諸要素≠ヘ、また、恣意的で不合理な虚構の諸要素ですら、たしかに経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的な経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。
    というのも、さもなければ、それらの諸要素にとって何一つとして全く何も考えられないだろうだけでなく、それらの諸要素自身もまた与件を欠き、思考においてさえ決して成立し得ないであろうからである。

    ―― No.40741 の続き ---

    ◇ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。
    だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。

    ◇ しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。


    † 原佑訳上巻、p.253〜p.254参照。 原典はMeiner,p.207
    † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.184〜p.185、石川文康 訳 上巻, p158、有福孝岳 訳, p.177、P.Guyer&A.W.Wood 訳,p.227
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    XI−4 No.41315
    XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741
    ]−7 No.40294、]−8 No.40300
    ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240
    ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943
    \−13 No.38896
    \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689
    \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,
    No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,
    No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
    第二節 No.40347,40360,40741,41315

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■41132 / inTopicNo.4)  日記ばかりだ...
□投稿者/ pipit -(2025/03/09(Sun) 15:53:58)
    チャットGPTって使ったことないんだけど、最近よくその話題を聞く。
    アテンション機構とか、埋め込み空間とか?
    そういう話を聞いて思ったんだけど、

    チャットGPTって、ある言葉の次にくる言葉を予測して、そのことの繰り返しで文章を作っていて、
    A +いろんな関係性 ならば B という動き方のプログラムだと思ったけどちがうかな?
    AやBの内容はトライアンドエラーを繰り返しながら刻々と変化させるのかなって。

    もし、AやBが他の全ての概念との関係性で変化していくものだとすると、
    AならばBの内容は、経験で決定していくのだろう。
    『桜 は 綺麗だ。』
    『桜 は 儚い。』

    経験とは、入力次第ということ。

    AIに学習させるものを 根拠をもたない概念を大量に恣意的に入力していくと、どうなるのだろう?
    それ(空虚)が人間世界の在り方かもしれないし、AIの作り手もフィルターなどの対策はもちろん十二分に構築してるだろうけど、
    個人的には、人間の感性的直観とリンクできる概念の大切さが、人間がAIを使う上では、要注意になってくるのかもなと思いました。

    ちなみに
    A+いろんな関係性 ならば B の「ならば」の部分は、事前にプログラミングされてるのではないかな?
    Aの座標とA以外の座標との 関係性をピコピコ計算して、Aの次にくる単語の座標を提出してるのかな?(ちがいます?)
引用返信/返信 削除キー/
■41120 / inTopicNo.5)  思い出す日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/07(Fri) 21:09:45)
    No41106に返信(pipitさんの記事)
    > 概念のない世界は 静かなのか 静かでもないのか
    >
    > ?
    >
    > まぁ、けっこう、しずかなんかな


    そういえば、高校の時の数学の先生は、ややこしい計算になると、

    「うーるさいなー」と黒板に式?を書いてました。

    おもしろい先生だったなー

引用返信/返信 削除キー/
■41106 / inTopicNo.6)  Re[27]: おやすみ日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/06(Thu) 00:48:24)
    概念のない世界は 静かなのか 静かでもないのか



    まぁ、けっこう、しずかなんかな

    佐々木閑(しずか)先生を思い出しました...
引用返信/返信 削除キー/
■41105 / inTopicNo.7)  おやすみ日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/06(Thu) 00:32:39)
    人手不足で担当以外の仕事もどんどん多くなって&なりそうで、
    昨日ウキーーーッo(`ω´ )oってなった。(上司さますんません...)

    No40980

    ペイントのレイヤー機能を思い出す。

    見ている経験的直観を背景として残して、ことばを書いたレイヤーを消していく想像をしてみる

    ぽん、ぽん、ぽん、

    少し落ち着く


    ・・・文字レイヤーを変えられるかなぁ??

    チャレンジだね!
引用返信/返信 削除キー/
■41093 / inTopicNo.8)  おはよう日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/04(Tue) 07:01:10)
    2025/03/05(Wed) 07:57:14 編集(投稿者)


    No41087
    > 肯定と否定という概念がないと、
    > 性質を判断できないんじゃないかな。
    >
    > 一画面の中に同時にある、赤色と青色の部分を分別するとき、赤色の部分は赤色の肯定と否定との境界線を、
    > 青色の部分は青色の肯定と否定との境界線を設けることで分別が可能になるんじゃないかなぁ

    おはようございます。
    私見書きます。
    超越論的論理学は、対象をアプリオリに認識する仕方 の論理なので、
    上記引用部分から経験的なものをマイナスすると、
    与えられた感性的直観 と 対象の質としての概念 を仲介するものは、
    図式機能としての超越論的時間規定で、時間内容についての規定を構想力が作成することで、カント的には概念は含まれていない感性的直観を、概念(質の肯定否定等)に包摂することで対象の各境界線をひくことが可能となり、「知る」の対象の生成が可能となるのかと今のところ考えました。※この考え方の場合は、概念主義になるのかな? もっと面白い多彩な解釈がたくさん出てると思います。

    pipitが誤解して、全然筋違いの引用かもしれませんが、関連してるとpipitは思っている御子柴先生の解説を引用します。↓

    『カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p259より引用
    『私たちは、このようなカントの主張を、『純粋理性批判』を貫く、「ア・プリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問いに対する回答として受け止めることができます。ア・プリオリな総合的判断は可能な経験の範囲内のみで可能であり、それを可能にする要素として、感性における純粋直観、悟性における純粋悟性概念、加えて、構想力が産出する純粋図式があり、この図式が現象と純粋悟性概念とを媒介することによってである、と。』
    引用終了

    いろいろ誤解してたらすみませんm(_ _)m


引用返信/返信 削除キー/
■41087 / inTopicNo.9)  妄想日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/02(Sun) 20:14:12)
    2025/03/02(Sun) 20:18:48 編集(投稿者)

    肯定と否定という概念がないと、
    性質を判断できないんじゃないかな。

    一画面の中に同時にある、赤色と青色の部分を分別するとき、赤色の部分は赤色の肯定と否定との境界線を、
    青色の部分は青色の肯定と否定との境界線を設けることで分別が可能になるんじゃないかなぁ

    AはBである。
    Aの性質の肯定と否定と、Bの性質の肯定と否定が一致するなら、AはBであると言えるんじゃないかな

    A
    肯定・・・・1.3.5
    否定・・・・2.4.6

    B
    肯定・・・・1.3.5
    否定・・・・2.4.6

    (1.2.3.4.5.6)の各項目の肯定否定の値で決まるお互いの位置付けが近ければAはBである、みたいの。

    あと、経験的直観はいつも空間の中に現れる。経験的直観が現れている時にいつも共に現れているこの空間が純粋直観なんじゃないかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■41078 / inTopicNo.10)  日記
□投稿者/ pipit -(2025/03/01(Sat) 17:28:14)
    石破さんの背景が....

    どうしても....

    ://youtu.be/YqpnS5hJEXI
引用返信/返信 削除キー/
■40980 / inTopicNo.11)  ペイントから考えた日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/16(Sun) 16:31:48)
    2025/02/16(Sun) 17:19:22 編集(投稿者)

    Windowsの『ペイント』というソフトでは、レイヤー機能(複数の透明シートを重ねて一枚の絵にするような機能)が使えます。
    No40897では、この機能をわたしは「時間」という形式に喩えてみました。
    ( No40897では、このレイヤー機能で【数える】行為について考察しました。 )


    ところで、このペイントのレイヤー機能、、、保存する時は1枚としてしか保存できないみたいです。(もしかしたらレイヤーも含めて保存する方法あるかもですが・・・)
    (今回の投稿に、保存するとフラット化して1枚になるけどいいか?と聞かれている場面を添付します。)
    でも、これも、時間の中における記憶の役割として考えたら、ある意味合理的なのではないかと思いました。

    No40897を保存すると、4まで数えた状態を1枚にして保存するということです。
    そのファイルを呼び出して、新しく(追加1)を数えると、5を数えるレイヤーは2枚で済むということです。

    1枚に多数の時間が閉じ込められてる。
    私が何かを見るとき、その何かの多数の記憶的情報を付与している。
    そのような構図を、ペイントのレイヤーが失われる姿、そして再び呼び出した時1枚の絵として開かれる姿を見て思い浮かべました。

    カントの超越論的時間規定においては、1枚へのフラット化は考えられていないとも思っていますけどね。

    ※ちなみに、レイヤーがそのままの状態で保存できる別ソフトもめちゃ沢山あると思います。

    「ペイント」で記憶について思い浮かんだ日記です〜

    こう考えると、目にするものに何と多くの記憶情報を付け足しているものか
    ((;^ω^)
1193×600 => 600×301

jikannkitei1-1.jpg
/100KB
引用返信/返信 削除キー/
■40954 / inTopicNo.12)  おはよう日記
□投稿者/ pipit -(2025/02/13(Thu) 06:46:49)
    No40943に返信(pipitさんの記事)

    朝、思いつきました。

    純粋理性批判のカントにおいては、
    『有る』と『無い』は知性による判断。
    感性能力に判断機能は無いので、感性的直観に与えられたものを知性の概念に包摂させる際には、想像力により感性的に与えられたものについての度(グラデーション?)を生成して包摂の判断しなくてはならない。

    このみかんの質・・・(硬さ)10、(甘さ)60、(黄色さ)85
    このつくえの質・・・(硬さ)85、(甘さ)2、(黄色さ)40

    などと分析できるのは、感性に与えられたものについての(0%から100%)を想像力で作成し、感性に与えられたものを知性の概念に分類させてるから。

    って感じにカントは考えてるのかな??というアイデアが浮かびました。
    すごく誤解してたらすみませんm(_ _)m


引用返信/返信 削除キー/

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