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■4103 / inTopicNo.1)  ショーペンハウアー
  
□投稿者/ pipit -(2020/07/16(Thu) 23:52:00)
    悪魔ちゃん、こんばんは
    ショーペンハウアーは、写真が印象的だよね
    悪魔ちゃんはショーペンハウアーの顔写真、見たことあるかな?


    > 〔ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。<

    なるほど。
    理性は反省能力か。
    実際にみたものを抽象化して操作する、かな。

    > 理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。<

    意味記憶って言葉なかったかなぁ
    エピソード記憶に対して。
    言葉の使い方違うかな。
    上記解説文では、直接的認識っていうんだね。


    > 一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。<

    直接認識、から、表象操作で時間というタイムテーブルをつくるかんじかな?

    >刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。<

    ちょっとわからないな。

    >ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。<

    報復でも矯正でもなく、
    あー、捕まりたくないから罪を犯さないってこと?
    時間というものを前提にして成り立つ
    予防効果?

    > そして、カントが主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。・・・〕<

    抽象認識で、人間は自らの行動を計算すると言ってるのかな。
    動機により、いろんな計算結果となる。
    理性は、心の道具だから、どうにでも使える、ということかな。
    包丁と一緒だね。



    >
    > ショーペンハウアーのは、こんな感じみたいです。わたし、彼の、はあんまり好きじゃないけど。
    >
    > なんかpipitさまが石川先生の抜粋引用したところと関係する気がしたので。<

    ありがとね。

    中ちゃん先生のは(中ちやん先生もそういえば、ショーペンハウアー風の写真多いかも。個人的感想。)、また明日以降に読ませてもらうね。

    おつかれさま!
    おやすみ〜 ☆彡


引用返信/返信 削除キー/
■4100 / inTopicNo.2)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/16(Thu) 23:29:54)
    こんばんは

    教えていただいて、ありがとうございます(^O^)
引用返信/返信 削除キー/
■4095 / inTopicNo.3)  Re[34]: 悪魔ちやんへ
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/16(Thu) 21:54:15)
    横レス失礼します(作法、覚えました!)

    Erscheinug →最後のgの前に"n"が抜けているのでは? "Erscheinung"

    悪魔ちゃん、初めまして。
     


引用返信/返信 削除キー/
■4094 / inTopicNo.4)  悪魔ちやんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/16(Thu) 21:41:25)
    今日も夜になったね
    一日おつかれさま♪

    No4085に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > カントってやっぱ、「理性」じゃない?<


    理性批判とはいうものの
    理性大好きな印象だよね


    > 現象学は、つねに最初からやり直すという態度、みただし、
    > いま「理性」についてまた調べて見ているとこ。
    > わたしは「理性」を、ひとまず、どう見て置こうか、っていう感じです。<


    うん。
    今日、現象学のことチラッと考えてたよ。
    カントは最初から、わかるもの、わからないものを分別して、
    そこからはじめてるかんじもする。
    でも、現象学は、あらわれたものを分別していくかんじ。
    最初から設定するより、フェア・公平なかんじがするな、って。

    それからね、私はすぐ、思考妄想に走るから、
    悪魔ちゃんの言ってること時々思い出して現実に帰ってみたよ。

    身体、にね。まあ、7秒くらいでまた妄想の世界だけどね。

    ちょっと今から用事するから、また後で二つの引用投稿とも読ませてもらうね
    いつもありがとう!



    > ネットで調べた中にこんなのがありました。書き写して見ます。
    >
    > 〔ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。
    > 理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。
    > 一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。
    > そして、カントが主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。・・・〕
    >
    > ショーペンハウアーのは、こんな感じみたいです。わたし、彼の、はあんまり好きじゃないけど。
    >
    > なんかpipitさまが石川先生の抜粋引用したところと関係する気がしたので。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■4090 / inTopicNo.5)  Re[33]: 中ちゃんのカントの現象と仮象
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/16(Thu) 20:13:04)
    pipitさまへ

    中島義道先生が「現象・仮象」という題で書いてあるものを書き写しておきます。

    〔現象と仮象という両概念は、哲学的にはカントの時代まで正確に区別されることはなかったが、それも当然である。なぜなら、ドイツ語における「現象」(Erscheinug)には「真」という意味が含まれておらず、また「仮象」(Schein)も「仮」という意味を特に担っていないからである。“Erscheinug”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。ドイツ語では成績表も紙幣も身分証も“Schein”と呼ぶ。これらは「誤った現れ」ではなく、むしろ何ものかの「真の現れ」なのだ。こうした文脈において、カントと彼の同時代人ランベルトとを比べると、両概念がまったく異なった方向に彫琢(宝石などを加工研磨すること、詩や文章を推敲し立派なものにすること、美しく磨き上げる)されてゆくのを看取(見てそれを知ること、観取)できて興味深い。その後ヘーゲルやフッサールの現象学における現象概念も、また両解釈の間を揺れ動いていると言えよう。

    仮象の両義性
    ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Ph&#228;nomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。
    カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。
    こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。現象と仮象との区別は、とりわけ『自然科学の形而上学的原理』の第4章「現象学の形而上学的原理」において鮮明である。カントは互に等速度直線運動する二つに物体A,Bについては、ガリレイの相対性原理をそのまま認めて、どちらかが真のつまり実在的な運動であるわけではないと言う。両者ともに、可能的運動として等価なのである。しかし、円運動のように実在的な力が実在的な力が加わるような等速度運動においては、力が実在的であるがゆえに、そこには真の実在的運動が成立している。その場合、円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。同様にして、互いに等速度直線運動する二つの物体A,Bの上にある自分自身の運動も相手の運動も現象である。

    現象の両義性
    だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻おみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。それらは「誤り」であるわけではなく、ただ主観的妥当性をもつにすぎないだけである。こうした現象はランベルトの「中間物」として仮象に近づいており、また偽と判断されたわけではなく真偽以前の「現れ」である。これら主観的妥当性を持つにすぎないものをいかに捉えるかが、カントの現象理解の鍵とも言える。カントは『プロレゴメナ』で主観的妥当性のみを持つ知覚判断と客観的妥当性を持つ経験判断の区別を推し進め、主観的妥当性の領野を確保しようとしたが、それはうまく超越論的観念論の体系の中におさまることはなかった。カントは『純粋理性批判』第2版に至って外的経験と並ぶ「内的経験」という概念を彫琢したが、これも経験であるかぎりすでに客観的妥当性を持つ。つまり、私に具体的に現れている現象をそのまま記述するとき、その現象記述はいかなる位置を占めるか、それがカントでは難問として残されているのである。

    現象と表象
    また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。

    カント以降
    ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」を含み、科学的認識をことごとく取り入れた正しい現れ(=現象)と誤った現れ(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別をほぼ侵襲している。だが、フッサールによる「現象学」は、現象とう地平を獲得する方法論を洗練させながら。「Schein=現れ」すなわち「中間物」であるというランベルトの視点から取り戻している。カントにおいて現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。それは、われわれにみずからをその通りに告知する作用である。現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題なのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断してこうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。これは、仮象の言語と物理学の言語との関係を求めるというランベルトの構想に沿っている。すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学としての形而上学を目指すのに対して、フッサールはむしろ物理学などの事実学を徹底的に排して、「現れ」に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。〕

    わたしが中島さんので得られた情報は、以上です。

    参考になれば、って。

引用返信/返信 削除キー/
■4085 / inTopicNo.6)  Re[32]: 理性
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/16(Thu) 19:04:11)
    pipitさま
    カントってやっぱ、「理性」じゃない?

    現象学は、つねに最初からやり直すという態度、みただし、
    いま「理性」についてまた調べて見ているとこ。
    わたしは「理性」を、ひとまず、どう見て置こうか、っていう感じです。

    ネットで調べた中にこんなのがありました。書き写して見ます。

    〔ショーペンハウアーによると、理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。簡単に言えば、文章を読み書きするような活動において、全ての人間の頭のなかでこの作業が行われている。しかし抽象的思考は、結局は知覚に表れる直接的認識をいわば水源として汲んできたものであるから、常にそれと対応するのでなければ、机上の空論であり無意味である。ゆえに理性は単に反省(reflection)の能力であって、彼によると哲学教授達が言うように、それ自体で超越的存在(神)を予感できるような偉大な能力ではない。
    理性、つまり抽象的認識を持たず、直接的認識(悟性・understanding)のみを持つ人間以外の動物は、現在目の前に現れている客観に対応して行動をするに限定されている。ツバメの営巣やクモの巣を作る行動は、一見抽象的認識に基いて行動しているかのように見えるが、本能によって発生したものである。この点は、我々人間が子作りをする相手を選ぶ際に、抽象的説明とは関わりの無い本能によって、健康で優良な子孫を残せるように、いわば無意識的に大部分動かされているのと同じである。
    一方で人間が理性的活動、つまり計画的活動を行うことが出来るのは、現在にとらわれず、未来や過去といった抽象化された表象(現在以外は知覚に直接現れず、過去や未来は抽象的認識に属しているにすぎない)を考慮に入れることができるからである。刑法など法による罰則が効果を持ちえるのも、人間が現在の情動と抽象的動機(法による罰則)を比較衡量した結果、行為の選択が可能だからである。ゆえに、刑罰はこの効果を期待して作られたものであって、断じて報復の感情を満たすことや、罪人を道徳的に矯正すること(これは不可能である)を目的としたものではない。
    そして、カントが主張するような道徳法則を指定する実践理性については全く否定している。経験的に見ても人間がそのような高尚な能力をもっていないのは明らかであるし、一見「道徳性」のように見える行動も、大抵は他者から報復を受けることへの恐怖や、刑罰による恐れなど、いわば渋々自らの欲求を抑えているにすぎないのが実際であるから。このような未来への憂慮といった抽象的認識も理性によるもので、そうであれば理性は直接的に本来の道徳性に寄与するものではない。むしろ理性(つまり抽象的認識)の使い方如何によっては、例えば大量虐殺など、計画的活動による極めて大きな悪を実行することが可能であり、歴史においてしばしばこの例が実証されている。・・・〕

    ショーペンハウアーのは、こんな感じみたいです。わたし、彼の、はあんまり好きじゃないけど。

    なんかpipitさまが石川先生の抜粋引用したところと関係する気がしたので。

引用返信/返信 削除キー/
■4067 / inTopicNo.7)  日記
□投稿者/ pipit -(2020/07/15(Wed) 23:10:50)
    私の本尊は哲学だからね、と、ixtlanさんは言った。
引用返信/返信 削除キー/
■4027 / inTopicNo.8)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/15(Wed) 11:46:45)
    おくったがわさん、こんにちは!
    返信してみますね。
    いろいろ勘違いしてたらすみませんm(_ _)m


    >アプリオリな綜合判断があるためには、対象より先に直観がなければならない。<

    はい。


    >対象を受け止めて直観→表彰化するだけなら、すべての認識や判断はアポステリオリになるから。<

    そうですね。
    形而上学は論理的に考えても、不可能になりますもんね。


    >仮に、もの自体が直観の対象なら、直観はもの自体のありようを受け止め表象するものとなり、対象より先にあることができない。<

    そうですよね。

    >・(もの自体に触発されて)心の中に実現する「現象」が対象である。<

    はい。

    >・その現象より先に直観があるー純粋直観(時間・空間の形式)  現象を成立させる形式が純粋直観で、それは現象より先にある。<

    はい。

    >・現象より先にある純粋直観によって、総合的判断が可能になる。 <

    はい。


    >(カントの文章分かりにくいと言いながら、自分で書いてみるとやっぱり分かりにくく書いてしまう。整理になってない)<

    いえいえ、いつも論理的に考え、私にすごく大切なヒントをくださるおくったがわさん。
    今回もきちんと整理された論理思考を届けてくださり、ありがとうございます。

    それで、カントの場合は、
    時間空間の純粋直観は、形而上学にとってのアプリオリな総合判断のためには、絶対的に必要な要素ではあるけど、準備段階みたいな面もある感じに、今の時点での私は捉えています。
    純粋直観に純粋悟性概念を適用させる段階でも、アプリオリな総合判断は生まれる、とカントはしてるのかなと今の時点では捉えています。

    数学のアプリオリな総合判断の根拠は、純粋直観だけでいいように思うのですけど、
    それに加えて、純粋自然科学の場でのアプリオリな総合判断や、
    形而上学のアプリオリな総合判断を可能にする人間の能力は、純粋直観と純粋悟性概念、そしてこれらを統一さしめる純粋統覚にある、みたいな感じかなー、と、思ってるけど、全然違ったらすみませんm(_ _)m


    御子柴善之先生の『カント哲学の核心』めちゃめちゃいいですよね!
    私も御子柴先生の記述は個人的にすごく信頼しています。

    『純粋数学は純粋直観によって可能になる』というのは、p93.94に、

    『ア・プリオリな総合判断はいかにして可能かーその答え』というのは、p155.156にありました。

    >> だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?<<

    >まだそこまで育ってないと。後、この場合のアプリオリは総合判断を修飾していて、能力を修飾しているのではないので、万が一後天的学習なり訓練で可能になる場合でもアプリオリな綜合判断といえるのでは。<

    あ、確かにアプリオリは能力の修飾として使われる語ではないですね。
    論理思考、おもしろいですね。
    論の道筋は『共有・視』できるのがいいところですよね(o^^o)

    いつも大切な視点をありがとうございます!



    No3937に返信(おくったがわさんの記事)
    > ■No3900に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは
    >
    > >>カントの言う「アプリオリな綜合判断」って、ニーチェの言うように、
    > >>人間の「一つの能力」にすぎない。<
    >>
    >>一応カントの言い分だと、
    >>人間の持つ能力によって、アプリオリな綜合判断が可能だ、って言ってるんだと思ってるよ。
    >>だから、人間の能力にすぎない、というのは、カントもそう言うと思ってるよ。
    >
    > 以下のように整理したのですが、合ってると思いますか?
    >
    > アプリオリな綜合判断があるためには、対象より先に直観がなければならない。対象を受け止めて直観→表彰化するだけなら、すべての認識や判断はアポステリオリになるから。
    > 仮に、もの自体が直観の対象なら、直観はもの自体のありようを受け止め表象するものとなり、対象より先にあることができない。
    > ・(もの自体に触発されて)心の中に実現する「現象」が対象である。
    > ・その現象より先に直観があるー純粋直観(時間・空間の形式)  現象を成立させる形式が純粋直観で、それは現象より先にある。
    > ・現象より先にある純粋直観によって、総合的判断が可能になる。 
    >
    > (カントの文章分かりにくいと言いながら、自分で書いてみるとやっぱり分かりにくく書いてしまう。整理になってない)
    >
    >>だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?
    >
    > まだそこまで育ってないと。後、この場合のアプリオリは総合判断を修飾していて、能力を修飾しているのではないので、万が一後天的学習なり訓練で可能になる場合でもアプリオリな綜合判断といえるのでは。
引用返信/返信 削除キー/
■4019 / inTopicNo.9)  感想
□投稿者/ pipit -(2020/07/14(Tue) 23:53:21)
    神という概念から、道徳法則を導出してはならない、と、
    少なくとも『純粋理性批判』の中では書いているんだね。

    カントの神についての記述はめちゃややこしく感じるなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■4018 / inTopicNo.10)  最高善についてのカントの記述5
□投稿者/ pipit -(2020/07/14(Tue) 23:46:51)
    続き
    『実践的な理性には、わたしたちを指導する権利があるのであり、
    わたしたちは神が命じたから、道徳的に行動する義務があると考えるべきではない。
    わたしたちは、道徳的に行為すべきことを、みずから〈内的な〉義務として考えるからこそ、こうした法則が神の命令とみなされるようになったのである。

    わたしたちが自由について考察する際には、理性の原理にしたがって、目的に適った統一という観点から考察するのであり、[神の命令のもとではなく、この自由のもとで]理性がさまざまな行動そのものの本性に基づいて、道徳的な法則をわたしたちに教えてくれるのである。
    そしてわたしたちはこの道徳的な法則を聖なるものとみなすことによって、
    神の意志に適っていると信じるのであり、
    わたしたちがみずから、そして他者とともに世界の善を促進することによって、
    神の意志に奉仕していると考えるのである。

    だから道徳神学は、この世でのわたしたちの使命を実現するという目的だけで、
    〈内在的に〉使用することができるのである。
    そのことでわたしたちはすべての目的の体系のうちで、目的にふさわしい存在となるのであり、善き生活をすごすうちに、道徳的な法則を定める理性の示す導きの糸にしたがうのである。

    だからこうした導きの糸を、狂信的に、あるいは冒涜的に[理性から切り離して]放棄して、これを[神という]最高の存在者の理念に直接に結びつけたりしてはならない。
    これは[道徳神学の]〈超越的な〉使用であって、たんなる思索の超越的な使用と同じように、理性の最終的な目的を転倒させ、挫折させることになるのである。』
    『純粋理性批判7』p200.201

    引用終わります!

引用返信/返信 削除キー/
■4017 / inTopicNo.11)   最高善についてのカントの記述4
□投稿者/ pipit -(2020/07/14(Tue) 23:28:56)
    カント先生、文章長いねん。
    続き引用します。

    『そしてこうしたものの存在によって、わたしたちは道徳的な法則に効力を与えようとしたのである。
    だからわたしたちは道徳的な法則を、
    このような世界支配者のたんなる意志によって生まれた偶然的なものとみなしてはならない。
    とりわけわたしたちがこの道徳的な法則に適うものとして世界支配者の意志なるものを考案したのであり、これ以外にはわたしたちはこの意志について、
    いかなる概念ももちあわせていないのである。』続く
引用返信/返信 削除キー/
■4016 / inTopicNo.12)  最高善についてのカントの記述3
□投稿者/ pipit -(2020/07/14(Tue) 23:23:26)
    やっぱりカントの記述ややこしい。
    先に引用した後も、しばらく、神様の記述続くから、
    カントは素朴に神様を信仰してたのかなーと思い始めてたんだけど、
    しばらくすると、次に引用する箇所が出てきました。
    カント自身の頭の中でややこしい手順を踏んでいたのか、それとも、自らの思想をオブラートにくるんで、当時の宗教的雰囲気と軋轢を起こさないようにしたのか。。。
    まあ、ややこしく考えたのかなー、と、今の所思うけど。。。
    神という概念から道徳法則を導き出してはならない、や、神が命じたから道徳的に行動する義務があると考えるべきではない、などが述べられている箇所を引用します。

    『しかし実践理性がこのように頂点に到達したからといって、
    すなわち最高善でもある唯一の根源的な存在者という概念を獲得したからといって、
    実践理性はそれが適用されるためのすべての経験的な条件を超越して、
    新奇な対象を直接に認識できるかのように思いあがって、
    この[根源的な存在者という]概念から出発して、
    道徳的な法則そのものを[超越的な]この概念から導きだしてはならない。

    というのは、この道徳的な法則こそが、そしてこの法則のもつ内的で実践的な必然性こそが、
    わたしたちに自立した原因の存在を想定させ、
    賢明な世界支配者の存在を想定させたのだからである。』

    疲れた。。。とりあえず投稿します。

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