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■39001 / inTopicNo.1)  Re[94]: つれづれなるままに 15
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/06(Sun) 11:22:16)
    No39000、表現することによって、メルポンのわたしの精神的景観がはっきり見えてきた感じ。

    メルポンの訳本を読んでるなかに「主知主義」っていう用語が出て来るのね。
    わたし「デカルトの」や「カントの」のような立場をとってることのように思えたんだけど、
    あらためてネットで調べて見たら、

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9

    っていうのがあった。

    〔主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)または知性主義とは、人間の精神(魂)を「理知(知力・理由)」、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」に三分割する見方の中で、理知の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。〕
    みたい。
    ここでは、〔人間の精神(魂)〕を三分割して、「理知(知力・理由)」、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」、っていう見方のうちで、ってなってるみたい。

    わたしのばあい、

    「意識」の分節の仕方として〈感覚-知覚-記憶-想像-思考〉ってして見てる。
    「理知(知力・理由)」を〈思考〉に当てて見て、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」っていうのを〈自〉に当てて見てる。
    わたしがなに言ってるのか分かんないかもだけど、いちおう書いとく。

    〈思考〉あるいは〈コギト〉っていうのを〈理解・推論・判断〉ってして、あと〈思考〉のなかに「科学」っていうのも入れて、
    これを人間の「知性」「知能」ってして見て、
    〈感覚-知覚〉よりも〈思考〉を重視する立場を〈主知主義〉って呼ぼうかな(A)、って思ったのね。

    世界を知る、その仕方として、〈主知主義〉だけで捉えようとするんじゃなくて、〈身体-感覚-知覚〉によって、っていう仕方もあるんじゃない?っていうのがメルポンのを読んでてわたしに思われてること。

    あ、わたしが言おうとしたのは、(A)にして、「主知主義」っていう用語を使うことにしようかな、っていうこと。


引用返信/返信 削除キー/
■39000 / inTopicNo.2)  Re[93]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/06(Sun) 10:05:51)
    もう一度、
    No38925
    (a)古典的な設定の
    ――感覚。ある質(赤い、冷たい、など)の所有、熟視、認識への引き継ぎ。――(x)

    を見て見たよ。

    No38932で、(x)をわたし

    ・@〈感覚-知覚〉は、ある質(赤い、冷たい、など)を所有し、それは〈思考〉への引き継ぎ。

    ってして見たんだけど、
    っていうのは、
    『熟視』を〈科学〉、『認識』を〈コギト〉ってして見て、
    「認識」=〈正しく理解し、判断すること〉ってして見たり、「認識」=〈理解・推論・判断〉、ってして見て、
    簡単に、〈科学・コギト〉=〈思考〉ってして見たことからね。

    No38994
    からは、
    認識=〈思考(理解)・推論・判断・感性〉――(b)
    (精選版 日本国語大辞典の、「認識」A ( [英語] cognition の訳語 ) 心理学で、知覚・記憶・想像・構想・判断・推理を含んだ広義の知的作用。)
    っていうことらしいから、こういうんから見ると、

    (y)感覚。ある質(赤い、冷たい、など)の所有し、それは熟視、〈思考(理解)・推論・判断・感性〉への引き継ぎ。

    ってなるんだと思う。

    でもこういうふうに見るの、なんかへん。
    〈感性〉っていうの、わたしのばあい、〈感覚-知覚〉のこと、ってしてるから、
    ――→感覚。ある質(赤い、冷たい、など)を所有し、それは・・・・・〈感覚-知覚〉への引き継ぎ。
    ってなっちゃうから。

    (x)はメルポンが言ってること。
    (b)のように「認識」に「感性〈感覚-知覚〉」を含める見方で見ると、メルポンの言ってることが分かんなくなっちゃう。

    わたしメルポンのを採り入れようとしてるから、
    メロポンのばあい、「認識」って言ったら、〈思考(理解)・推論・判断〉のこと、ってして見て、〈感性(感覚-知覚)〉を「認識」には含めない見方で見ていこうと思ってる。
    〈思考(理解)・推論・判断〉と〈感性(感覚-知覚)〉は区別して見るんだけど、〈感性(感覚-知覚)〉を〈思考(理解)・推論・判断〉に属するものってして見たり、〈感性(感覚-知覚)〉を下級、〈思考(理解)・推論・判断〉を上級などとしたりして見ないっていうことになるかな。
    だから、やっぱ、メルポンのを見るときには、
    No38930のようにして見ることにしとくことにしたよ。

    だから、たとえば、メルポンが「…それは判断ではない」って言ってる場合、「…それは思考によるものではない」って読みかえて見るのね。

    あ、これ、あくまでも、メルポン派のわたしの、だからね。

引用返信/返信 削除キー/
■38994 / inTopicNo.3)  Re[92]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/05(Sat) 19:20:55)
    No38984のつづきね

    No38984
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E6%80%A7
    を読んで、ね、

    〔悟性(ごせい)とは、英語のUnderstanding、ドイツ語のVerstandに対する西周による訳語である。〕

    (a)〔一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性である。〕
    (b)〔一般的には「思考の能力」などの意味で用いられる。〕
         ↓
    (ab-1)「悟性」=対象を「理解」する能力=思考能力
    (ab-2)「理性」=理解をもとに「推論」を行う

    まずこうして見て、

    @「悟性」を〈思考能力(理解力)〉、
    A「理性」を〈推論〉、
    ってして見てくことにするよ。

    (c)〔イマヌエル・カントの悟性論は『純粋理性批判』で展開される。悟性は感性と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力である。〕
        ↓
    (c-1) 〈思考能力(理解力)〉は、「感性」と共同して「認識」を行う人間の「認識能力」のひとつである。
    →(c-1-1)「認識能力」のひとつに〈思考能力(理解力)〉がある。
    →(c-1-2)とすると、「認識能力」には他にもある、っていうことかな?
    (c-2) 〈思考能力(理解力)〉は、「概念把握能力」である。

    (d)〔詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性や判断力とともに上級認識能力のひとつであるとされる。〕
        ↓
    (d-1) 〈思考能力(理解力)〉は、〈推論〉や「判断力」とともに上級「認識能力」のひとつ。
    →(d-1-1)これから、「認識能力」には、〈思考能力(理解力)〉と〈推論〉と〈判断力〉などがある、ってして見て、
    →(d-1-2)「認識能力」=〈思考能力(理解力)・推論・判断力〉、ってして見るよ。
    (d-2)「感性」は、下級「認識能力」。

    (e)〔一方、カテゴリーは悟性の対象となるもののみに当てはまる。すなわち感性的認識の対象とならず、単に思惟のみが可能な理性概念には当てはまらない。〕
    →(e-1)カテゴリーは、〈思考能力(理解力)〉の対象となるもののみに当てはまる。
    →(e-2)カテゴリーは、感性的「認識」の対象とならない。
    →(e-3)カテゴリーは、単に思惟のみが可能な〈推論〉概念には当てはまらない。

    (e)についてはよく分かんないけど、

    わたしがここで見ようとしてるのは、「認識」ね。
    でね、
    (c-1-1)「認識能力」の“ひとつに”〈思考能力(理解力)〉がある。
    (c-1-2)とすると、「認識能力」には他にもある、っていうことかな?

    そして、
    (d-1-2)のように、「認識能力」=〈思考能力(理解力)・推論・判断力〉ってしてなって、
    そして、
    (e-2)に、「感性的認識」ってあって、
    (c-1) 〈思考能力(理解力)〉は、「感性」と共同して「認識」を行う。

    こういうふうにして見ると、
    ここでいう「認識能力」とは、B〈思考能力(理解)・推論・判断力・感性〉のこと、ってうことになるのかも。
    これ、「悟性」や「理性」を@、Aとして、カントのを見た場合になるんだけど、カントの本当のところはわたし分かんないよ。

    No38930の精選版 日本国語大辞典の「認識」
    〔A ( [英語] cognition の訳語 ) 心理学で、知覚・記憶・想像・構想・判断・推理を含んだ広義の知的作用。〕
    と似たようなことになるのかな?
    ここに、〔知的作用〕ってあるよね。
    〔追補・中山元訳『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)中山元訳による同書においては「悟性」という訳語は一部を除いて使用されておらず、「知性」という語が使用されている。〕
    ってあった。
    もし、Bを「知性」とか「知能」って呼ぶとするなら、〈感性〉もこのなかに入ることになるわけよね。

    ドイツ語でVerstand?→英語でunderstanding?→日本語で「理解」?
    ドイツ語でErkennung?→英語でcognition?→日本語で「認識」?
    な〜んか難いよね〜。でも「語」が違うよね、っていうことは、その意味するものが異なる、っていうことは言えるかも。

    あと、
    「カテゴリー」と(c-2)のところ、わたし気になるところなんだけど、話が広がっちゃうからやめとくね。

    ところで、「理解」ってどういうことなのかしら?

    きょうはこんなこと日本語で考えてたよ。

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■38984 / inTopicNo.4)  Re[91]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/04(Fri) 19:24:20)
    でね、

    わたし、「認識」をものごとを〈正しく理解し判断する〉(a)ってして見たんだけど、これ、確認するのに手間取ってる。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E6%80%A7

    って言うの見てて、

    こう言うのから、(a)がみちびきだされるかしら?って。

引用返信/返信 削除キー/
■38983 / inTopicNo.5)  Re[90]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/04(Fri) 19:03:45)
    あれ?
    ダメみたい。
    まいいかな。
引用返信/返信 削除キー/
■38982 / inTopicNo.6)  Re[89]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/04(Fri) 19:01:59)
    No38981
    あれ?添付してなかった?
    もう一回トライ

引用返信/返信 削除キー/
■38981 / inTopicNo.7)  Re[88]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/10/04(Fri) 18:55:58)
    わたしメルポンのとはけっこう長く付き合ってる。
    ここでちょっと、メルポンのとわたしの、わたしのうちにあるのを整理して見た。

    メルロの言う『世界における(への)存在』être au monde(アキュートアクセントは省略)、
    No33030
    『私を世界における(への)存在として露呈する』
    から、
    わたしのばあい
    〈世界における(への)存在としての私(人)〉
    ってして見てる。
    この〈世界〉っていうのは〈生活世界〉のことね。

    こういうのがメルポンのからわたしの始まりにあるんだと思う。

    ハイデガーの「世界内存在」が短くていいかもだけど、ほら、わたしのばあいメルポン派だし。

    今回考えて見てるのを加えて図式にして見てるのあるから、添付するよ。
    (etre au mondeのわたしの図式、これまで何回も書き直しされてるのね、だからこれからも変化することあるかもだけど)

    とりあえず。

引用返信/返信 削除キー/
■38965 / inTopicNo.8)  Re[87]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/29(Sun) 18:33:26)
    No38964のように見たとき、

    No38959の大人が作った「こども基本法」っていうの、
    〈子どもの生(なま)の経験〉からして見たら、
    〈それは大人の返答〉
    みたいな?

引用返信/返信 削除キー/
■38964 / inTopicNo.9)  Re[86]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/29(Sun) 18:12:53)
    No38957、なんか超簡単に見れたかも?

    メルポンは、
    自称知性的大人によくある〈思考によって考えられたもの〉、じゃなくて、〈子どもの生(なま)の経験〉を描き出そうとしているんじゃないかしら、って。

    〔第一章〕子どもにおける知覚の研究
    のなかからもう少し書き写して見るね。
    *****
    (p18)子どもの返答を詳しく検証してみましょう。
    「何を使って考えてるの?」という問いに、子どもは「声を使ってだよ」と返答します。
    *****
    ってあって、これピアジェの書いた書物からのだとわたし思うんだけど、わたし知らないからなんとも言えない。

    で、つづけてメルポンの言うには、
    *****
    だからといって、子どもは思考を「物質化」していることが示されるわけではありません。子どもはたんに声を言葉の伝達手段だと見なしているだけです。しかも子どもは、声を、さらには言語活動一般を、独自の効力をもった実在だと見なしています。
    *****
    って言ってて、
    そして、
    *****
    子どもには、大人の意味での心的なものの概念がないと同時に、物質的なものの概念もありません。子どもにとっては、「口」や「声」は物理的現象ではまったくないのです。子どもが「身体〔物体、物質〕」ということで理解しているのは、物理的身体ではなく、「現象的」身体です。つまり、彼が経験している内的身体であり、外部世界との接触を可能にしてくれる方法のシステムです。同じように、声とは、口調の現象です。子どもは、思考の潜在的な対象や自分の内的経験を参照にしているのです。問題は「物質主義的な概念」ではまったくないのです。
    *****
    って、メルポンは見たるみたいなのね。

引用返信/返信 削除キー/
■38959 / inTopicNo.10)  Re[85]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/28(Sat) 19:09:30)
引用返信/返信 削除キー/
■38957 / inTopicNo.11)  Re[84]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/28(Sat) 18:02:04)
    【メルポン講義本】、
    No38938、「発達の概念」の次のメルポンの講義は、
    第一部〔子どもの意識の構造(その自然との関係に関する研究)〕
    ・〔第一章〕子どもにおける知覚の研究
    で、
    前に書いた
    No38675
    No38673の(p17)のところ
    No38829
    になるのね。
    本に書かれてる順番とは違っちゃたけどね。

    No38675
    *************
    (p16)この研究でわれわれが取りあげるのは、主として子どもの生きられた経験であり、子どもがこの経験を解釈する際に使う知識ではありません。われわれは子どもの直接的な経験、まだ言語活動と思考によって体系化されていない経験に問いかけることになるでしょう。
    *************
    ちょっとわたしに見えてきたのを書いて見ると、
    メルポンが“見えるようにしようとしてる”のは、
    No38829で見たように、
    乳幼の頃に遡って、“そのうちで”見ようとしている。
    「言葉のざわめきの下」すなわち生後0〜2歳ぐらいのときの子どもとして見て、
    No38827で見たように、
    この頃の子どもは、世界とのかかわりは、意識において、〈感覚−知覚〉が主で、〈思考(知能)〉はまだ十分に発達してない、ってして見て、
    そういうなかで、
    『子どもがこの経験を解釈する際に使う知識』ではなく、『まだ言語活動と思考によって体系化されていない経験』を、『子どもの生きられた経験』、『子どもの直接的な経験』に問いかけてる。
    『大人の返事』(←わたし最近これ気に入っちゃってる)じゃなくてね。

引用返信/返信 削除キー/
■38938 / inTopicNo.12)  Re[83]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/09/23(Mon) 14:10:23)
    No38937までで、
    No38925のところについてのわたしに思われたのはだいたい書けてかな。

    「発達の概念」(p5〜)のところでは、
    T系統発達
    U個体発生的な発達
    についていろいろ書かれてて、
    No38925は、Uのなかから抜粋したものなんだけど、このなかからもう一箇所抜粋して見る。

    ***********
    p14(a)客観的方法――あらゆる運動が特定の知覚様式を含んでいるということを認めるとすれば、その場合、子どもが周囲についてもつ知覚を、子どもの行動のなかに解読できることになります。したがって、子どもの行動のなかに、その世界表象を読み取ることは正当なのです。〔それは〕第一に正しい手法です。なぜならまず、われわれは別様にはできないからです。さらに、この手法は動物心理学でも正しいと見なされているからです。・・・・・・

    p15(b)主観的方法――ギョームは、1931年の『心理学雑誌』の論文で、自己観察(内観)と外的観察に本質的な違いがあること示しました。われわれは、自分自身を観察するときでさえ、行動テストに頼ります。印象はあてにならず、むしろ結論は自分自身の行動データにしたがって引き出されます。〔主観的方法と客観的方法の〕二者択一に取り憑かれたままでいることは無益であり、あらゆる方法は本質的にすべて同じです。というのも、行動の構造を再発見しようと努力しているからです。しかも、子どもの行動は、物理―化学的な刺激の影響だけでなく、環境との交感(コミュニオン)のおかげで発達していきます。
    ***************

    ネットで「交感」を調べたら、
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    【交感】
    精選版 日本国語大辞典
    @ 互いに感じ合うこと。
    (イ) 人と人とが感じ合うこと。気持が通じ合うこと。
    (ロ) 物事が互いに反応し合うこと。
    A 交尾すること。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。

    これは簡単に、

    「客観的方法」にしても「主観的方法」にしても、両方とも〈行動から〉で、「行動の構造を再発見しようと努力している」。
    「子どもの行動は、物理―化学的な刺激の影響だけでなく、環境との交感のおかげで発達していきます。」
    そして「身体―行動」は、〈感覚-知覚〉と密接な関係をもち、こういうなかで子どもの意識も発達していく。

    でいいかな。

    「発達の概念」については、「子どもの心理-社会学」の〔第一章〕(p95〜)にもう一度登場してくるのね。
    これについてはまたいつか見てくことにするよ。

引用返信/返信 削除キー/

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