| こんにちは、田秋さん。レスありがとうございます。
■No38297に返信(田秋さんの記事)
> 無我という概念が仏教において重要なものであることは理解しています。若い頃〜50年くらい前〜は様々な宗教や哲学を理解しようとして色々本を読んでいました。 > 歳を取るにつれ、「人間死んだらおしまい」と思うようになり、不変というものにそれ程価値を見出さなくなりました。
なるほど。私は死後のことは(おしまいであろうと、何らかのはじまりであろうと)死ぬ時の楽しみと考えています。
> 自分ということについては次のように思っています。 > テレビにしてもその構造をそんなに知らなくてもそれをテレビだと認め番組を観ますし、インターネット技術を詳しく知らなくてもそれを利用しています。テレビもインターネットも一時の現象なのかもしれませんが、実生活ではそれを利用しています。 > 自分の体の構造は理科の時間に習う程度の知識しかありませんし、自分を自分だと思う意識の構造もほとんど知りませんが、テレビやインターネットの認識方法と同じように、今この文章を書いている何かを自分だと思っています。
了解です。私にとっては私の探究はライフホビーです。おそらく死ぬまで結論には至らないと思っています。
> 不変に対して以前ほど価値を見出さなくなったと書きましたが、本質の必須条件に「不変のもの」があるとすると、そういう本質にも懐疑的になって来ますし、「一時の現象」もそう価値のないものでも無くなってきます。 > 決して無我を認めないとか言っているのではなく、 > 「ビール飲んで(自分が)美味しいと感じたら(それが本質ではなくても)それでええやんか」 > みたいな気持ちです。
はい。それもよく分かっているつもりですし、異論があるわけではありません。^^
> 「田秋さんの似非哲学(宗教)」はどこまで本気でどこから無責任なのかは自分でもよくわかりませんが、今後もレスに関しては真摯に対応したいと思います。 > ありがとうございました。
こちらこそ、日常的な感覚(自然的態度)をもとにした投稿にマジレスしてしまう無粋を寛容いただき、真摯な返信をありがとうございました。
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