| こんにちは、レスありがとうございます。 まずはじめに私のスタンスを明確にするため6月23日に前日放送「NHK100分de名著『カント 純粋理性批判」第4回』」を視聴した感想を「仏教、ニーチェ、脳科学他 2」トピに「カントとニーチェ」というタイトルで投稿したものを転記しておきます。
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ニーチェがカントに共感を抱いたのは僧侶階級からトップダウンで与えられるキリスト教道徳に異を唱えたところにある。
もっとも違うところはカントが生理的欲求や欲望を因果律として分析し、この因果律から脱却すること、つまり制御することが動物とは違った理性を有する人間ならではの自由であると捉えたのに対し、ニーチェは身体性を「大いなる理性」呼び、ツァラトゥストラでは「きみが『精神』と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)」、「創造する肉体が、みずからのために、自分の意志の一つの手として、精神を創造した。(ツァラトゥストラ)」と説く。
欲望や欲求を理性によって制御することは人間の特権であるが、度が過ぎれば本来ダイナミックでディオニュソス的でもある生を委縮させてしまう。生を原罪によって罪深いものとしたユダヤ・キリスト・イスラム教的ドグマと代わり映えがしなくなる。また動物といえども滅多には共食いをしないし、群れの掟(ボス)には従う、子育てをする等々、利己的な欲求や欲望のままということでもない。
一方、身体性からくる痛みや恐怖などの感覚や情動は生死(自己保存本能)に直結しており、自律神経系は無意識的ながら制御と活性を微調整しホメオスタシスを維持している。「身体が正直」という事例があるように身体的な反応によって意識では気付かないストレスの蓄積や危険信号を察知することも多々ある。
ニーチェからすればカントはキリスト教道徳に否と言いつつ、キリスト教道徳や仏教と同じように身体性からくる欲求や欲望を(煩悩として)否定し、禁欲主義を是とするような生を道徳的な生き方と推奨するところに違和感を抱いている。
つまりカントの善悪とキリスト教的善悪は結果的に一致しており、理性の原因を現象界に対する叡智界というイデア界的(神的)なものとして捉えるに至ってキリスト教道徳に舞い戻っていると分析する。
これに対してニーチェはキリスト教的な善悪二元論を解体し、奴隷道徳と君主道徳として、善悪とは異なる神なき時代の新たな倫理観を提起した。
「キリスト教のやり方においてにせよ、カント(結局のところ陰険なキリスト者─)のやり方においてにせよ、世界を「真の」世界と「仮象の」世界とに分けることは、デカダンスの一暗示にすぎない、─下降する生の一症候にすぎない…(ニーチェ著『偶像の黄昏 ソクラテスの問題6』より)」
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PS.今、時間がないので3369への返信は後程、または後日になります。
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