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No30238 の記事


■30238 / )  Re[37]: :「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/15(Sat) 18:56:13)
    No30201の私絵について、少しづつお喋りしてくことにする。

    <私を「世界における(への)存在」(etre au monde)として露呈する>(etreの最初のeの上の^は省略します)
    っていうのは、

    (a)【モーリス・メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』1945中島盛夫訳発行所法政大学出版局2009】のなかにあった、
    ***********
    『…コギトは私を状況にあるものとして、あばき出さなくてはならない。そうしてこういう条件においてのみ、フッサールのいうように、超越論的主観性は相互主観性たることが可能なのである。省察する自我としては、なるほど私は私から世界と物とを区別することができる。たしかに私は物のあり方で実存しているのではないからだ。私は、諸物のうちの一つの物として、物理−化学的諸過程の集まりとして、理解された私の身体を、私から隔てることさえ、あえてなすべきである。しかし、こうして見出された思惟(cogitatio)も、客観的な時間と空間のうちにあるものではないにせよ、現象学的世界のなかに占むべき場所をもたないわけではない。因果の関係によって結びつけられた物もしくは諸過程の集まりとして私が私自身から区別した世界を、私のいっさいの思惟の恒常的な地平として、また私がそれに対してたえず自分を状況づける(se situer)の一つの次元として、私は「私のうちに」再び発見するのである。真のコギトは、主体の実存を、実存することについて主体がもつ思惟によって定義したり、世界の確実性を世界に関する思想の確実性に転化したり、結局、世界そのものを世界という意義によって置き換えたりたしはしない。真のコギトは、かえって私の思惟そのものを、破棄されえない一つの事実と認め、私を「世界における(への)存在」(etre au monde)として露呈することによって、あらゆる種類の観念論を廃するのである。…』(p11−12)
    ***********
    っていうところにあったのから拝借〜。

    ここんとこあらためて読みなおしてみてるなかで、気づいたんだけど、
    ここでは『cogitatio』っていうの、『思惟』って訳されているけど、もういちど「コギトcogito」について見て見ることにした。(現象学は「いつも最初からやり直す」とか「永遠の初心者」っていう姿勢だし)

    (b)【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注のなかに、
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    〔cogitatio:デカルトの有名なテーゼ「我思う、ゆえに我あり(Cogito,ergo sum)」で使われている「コギト(cogito)」という語は、原形が「コギターレ(cogitare)」となる動詞の、一般人称単数「エゴ(ego)」を主語とする人称変化形であるのに対し、「コギタチオ(cogitatio)」というのは、同じ動詞「コギターレ」から派生した、動詞の名詞化である。〕(p283)

    〔「ノエマ」という語は、ギリシア語の「ノエイン」という動詞の過去分詞形で、同じ動詞の名詞化である「ノエシス」と対概念をなす。「ノエイン」は、ラテン語の「コギト(原形はコギターレ)」に対応する語で、「コギト」と同様に「思う、思惟する」と訳すことができる。それゆえ、「ノエシス」を「思うこと、思惟すること」とし、「ノエマ」を「思われたこと、思惟されたこと」とすることもできる。フッサールは、後述される現象学的還元において捉えられようになる志向的な体験を、自然主義的な歪曲を排除して、与えられるままに捉えたものを、「ノエシス」と「ノエマ」という相関的な述語で呼んでいる。ここでは、「事実として与えられている諸学」が持っている「理念」を与えられるがままに捉えたのが「ノエマ的な現象」と呼ばれている。〕(p286)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    っていうのがあって、

    (c)【「現象学事典」弘文堂2014】の「志向性」(p.177)のところに、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    フッサールによれば「志向性という言葉は、意識とは何かについての意識であり、コギトとしてそれ自身のうちにコギタートゥム〔=意識内容としての志向的対象〕を保持しているという、意識のこの一般的な根本特性を意味して」おり、そして「この志向性という名称には、ヒュレーの諸問題までも含む、現象学のあらゆる問題が組み込まれている」のである。事実、彼の現象学的考察はcogito-cogitatumの、すなわちノエシスーノエマの相関関係を分析して記述する作業を通して、〈対象を志向し認識する意識主観の諸機能は何か〉という問いと、〈志向される対象は意識主観に対して、どのような仕方で存在者として与えられうるか〉という問いをめぐって、順次展開され深められるのである。つまりこの志向性の問題はフッサールを必然的に、認識論と存在論と自我論を連結統合する広範の研究領野へ導き、さらに時間論の考察も促す根本動因であるから、彼の著書、講義録のどれもが実にさまざまな観点から志向性の構造と諸機能を詳細に論述している。
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    っていうのもあった。

    ちょっとわたしの頭の中で整理して見ると〜、

    [cogito],[cogitatio],[cogitatum]があるのね。
    この関係はどうなってるのかな?って。

    [cogito]を「意識」ってしてする? いや、やっぱ、[ego cogito]的に「私は思う」にしとく。

    [cogito(私は思う)]のうちに、[cogitatio(思う)]とそれによって[cogitatum(思われたもの)]が区別される、みたいなんにしとく。
    超簡単に図にしてみたのを添付します。

    つづく。

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