■19864 / ) |
Re[20]: 感想失礼します。
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□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 20:48:07)
| 2021/12/11(Sat) 21:01:04 編集(投稿者)
■No19863に返信(pipitさんの記事) > みなさまこんばんは! > No19835 > >これ、ロムしている皆さんの意見もぜひ聞きたいので、どなたかレスいただけないでしょうか?< > 詳しいことは全然わかりませんが、国語的に読めば、 > >T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。< > 『哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』 ↓ > (一部分を省略) ↓ > 『哲学的な「私」とは、(略)、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』 > と省略できる気が私はするので、普通の国語的な解釈からすれば > 【哲学的な「私」・ならば→形而上学的な主体・ならば→世界の限界】 > と読めるのではないかと思いました。 > でも、よくわかりませんけど、 > 形而上学的といっても、結局実在と一緒になる、って雰囲気なのかな?って思いました(ただの感想ですみません) > 形式が「私」としたら、「私」は語れないけど、結局全部「私」みたいな??? > いいかげんな感想をすみませんm(_ _)m > いろいろな方がご意見くださるといいですね! > みなさまおつかれさまでーす(^ ^)
pipitさん、レスありがとうございます。 pipitさんのレスのお陰で和訳の違いに気付きました。
ザビビのふくろうさんが引用した。。。
【5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。】はどの書籍の和訳なんだろう?
大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」では。。。。 【5.641 従って、哲学で非心理学的に自我を論じうることの意義が、現実に存在するのである。「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。 哲学的な自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的な主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。】とある。
上記は哲学的自我は形而上学的主体と述べているのでその通りで同意します。
大修館書店では「私」ではなく「自我」と訳してる。 原語ではどうなってるのかな。。。「私」と「自我」を異なる表記にしていれば「私」と訳すべきではないし、「私」と同じ語なら「自我」と訳すべきではない。 パニチェは「私」「哲学的自我」「形而上学的主体」と別の表記にしているのは、文脈において意味が異なるからだと考えている。
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