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■30404 / inTopicNo.73)  世界信念
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/22(Sat) 21:07:35)
    まだ「意識」のつづきね。

    No30341の(d)にあった「世界信念」について、私絵と絡めて、

    【西研】現象学入門 第二回 超越論的現象学とは - YouTube

    のを見て、わたしなりに簡単にまとめたのは、

    /////////////////////
    超越論的現象学について、

    (1)意識体験の中でものがある。
    (2)意識の外側に出ることは不可能である。
    (3)意識から独立したもの(客観的世界、無意識、神など)がある、ということは、じつは意識のなかで信じれれている、とみなす。このとき、意識の「外側」にはもはや存在しない。

    (4)対比的に、
    (4-1)一般的・心理学的現象学的還元は、
    意識体験の領野のみを注視して、そこから読みとれることだけを語ろうとする姿勢。
    そのさい「意識体験の外側に客観的世界があること」は素直に信じられている。しかしそのままでは、
    (a)認識問題(主客一致の難問、普遍主義と相愛主義の対立と交替)を解決できない。
    (b)「自然と社会は意識を包括するのだから、自然科学・社会科学のほうが、現象学より優越する」とみなされる可能性を残す。
    これに対し、
    (4-2)超越論的還元(=超越論的現象学)は、
    意識体験の「外側」を認めない。すべては意識のなかで〜として確信されているとみなす。
    →自然科学も意識のなかで考えられているもの、とみる。
    →科学も信頼性もあるけど、意識のなかに現れ、意識のなかで確かだと信頼している、ことになる。
    この信頼性を解明するためにも、意識体験そのものを、そこに戻って、考える。

    (5)超越論的現象学は「超越論的問題」を解明する。
    意識から超越して(意識から独立して)、存在すると信じられてるものごとも、実は意識のなかで信じられている。
    ではそれがどうやって成り立つのか、を解明するのが超越論的問題。
    (5-1)超越論的問題
    意識を超越して(意識から独立して)存在すると信じられている物事(超越物Transzendental)は、意識のかなでいかに成り立つのか。

    (6)「世界信念」の成立ち
    「世界信念」=世界が私の意識から独立していて存在しているという信念
    では,
    →この信念がどのようにして成り立つのか?
    →正しい認識、客観的認識はあると思うけど、それはどうして成立するのか?
    を考える。
    a)自他の体験の調和(まとまり)が世界信念をつくる。
    b)他者の言葉やふるまいから、私が知覚するこの物体を他者もまた知覚していると、信じられる。
    c)自他との共有現実がある。
    d)体験によって、私の意識の外に世界が、現実が存在する、という確信が生まれる。
    ////////////////////////

    違うのかも、だけど、よ。

    (1)、(2)はカントのコペルニクス的転回から来てるんだとわたし見てる。こういうのについてはまた後で見て見ることにして、

    「世界信念」について、西研さんのフッサールのは、(6)のようなものだとして。

    こういうのを絵にして見たのを添付します。

    Iちゃんは地の上の図(カエル)の存在に気づき、「カエルが存在している」と言葉で表現する。Lちゃんもその存在(カエル)に気づき「ほんとだ」と同意する。そしてわたしも「そこにカエルは存在するよね〜」って思う。こうゆう自他との体験によって、私の意識の外に世界が、現実が存在する、という確信が生まれる、みたいなのを描いて見ました。

    ここんところは、〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象物をつくりあげている〉に絡まってくるから、後でもう少し見ていく。

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■30415 / inTopicNo.74)  Re「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/23(Sun) 10:52:49)
    つれづれなるままに、
    〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象をつくりあげている〉、っていうのは、

    (g)【「カント」小牧治著清水書院1967】のなかに、
    「コペルニクス的転回」と題してあって、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    自然科学的な真理(あるいは「認識」)は、いかにして可能であろうか。いいかえれば、自然科学上の先天的総合判断は、いかにして可能であろうか。くりかえすまでもないが、ここで問われているのは、自然科学上の(あるいは数学上の)何かある特定の真理(真理の内容)が問われているのではない。そういう真理がどうして構成されるかという、真理を形成ないし方法が問題なのである。・・・・・・・
    いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    から拝借しました。

    他の資料を、

    (h)【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】から、
    反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ](p11)とあって、
    **********
    われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。

    [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。
    **********

    (i)コトバンクから、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    素朴実在論naive realism
    外界の物質的対象は、われわれが知覚するとおりに、そしてまた、われわれが知覚するということとは独立に存在する、とする考え方。われわれの日常的・常識的な世界の見方にほぼ一致するといえよう。意識・精神を基底に据える近代以降の認識論において厳しい批判を受けたが、G・E・ムーアなど20世紀イギリスの日常言語学派の哲学者たちによる常識的信念の基本的な重要性の指摘は、素朴実在論を安易に批判することに対する一種の反省となっている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    〈私の外に、私から独立して対象物があるのではなく、私がそういう対象をつくりあげている〉、
    だからといって、「対象物は存在しない」とはならないのね。だって、私がつくりあげている〈対象〉は「対象物」の、だから。〈対象〉は「対象物」が前提となってる、っていうこと。(g)で問題としてるのは、「対象物」とその〈対象〉(私の意識の中で構成されているもの)とが必ずしも一致しているとは限らない、っていうことなんじゃないかしら?でもそれでいいんじゃない?って、わたし思う。

    No30238の(c)にあるような、フッサールの問い。
    (a)対象を志向し認識する意識主観の諸機能は何か
    (b)志向される対象は意識主観に対して、どのような仕方で存在者として与えられうるか
    こういう方向に問いを展開していく方が、わたしには関心がある。

    わたしの勝手なのを振り返って、
    1)わたし、「対象」っていうのを知覚的意識(感性の世界)のうちに位置づけちゃってるから、〈私の外に、私から独立してあるもの〉というのを、これと区別するために「対象物」ってして区別して見たんだけど。そして、〈「対象物」はすべて私の意識(主観)のうちで構成されている〉、っていう見方をするとき、私の意識の外にあるものとしての対象物は、〈私の意識から超越して、独立して在るもの〉っていう見方をすると、「超越論的」っていうことになるのかも?
    2)〈感性の世界〉を〈思-考〉が志向している(感性の世界が思-考の対象となっている)って見て、〈思-考〉にとって〈感性の世界〉を超越的って見ると、〈思-考〉にとって〈感性の世界〉は超越論的現象ってなるかも?

    私の意識(主観)は、感性ちゃん、思考くん、記憶さん、感情さんたちが織りなすオートマティックな営み――流れ去る多様の統一、みたいなの。

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■30420 / inTopicNo.75)    間奏
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/23(Sun) 17:27:48)
    No30415の私絵は、添付したようにも描けるよ。

    どちらが〈主〉でどちらが〈客〉なのか分かんなくなる。

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■30451 / inTopicNo.76)  Re[51]:「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/24(Mon) 19:36:11)
    ちょっと思いついたんで、簡単に。

    No30415
    (h)【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】の、反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ](p11)の
    「知覚的信念とその曖昧さ」を絵にして見たよ。

    わたしに見えているのはリンゴのこちら面だけ。
    だから、「リンゴそれ自体」を見ている(知覚されてる)わけではないのね。

    これがリアルな知覚なんだと思う。


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■30453 / inTopicNo.77)  Re[52]: :「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/24(Mon) 20:39:50)
    No30451
    ちょと言い方、違ったかも?って。

    「リアルな知覚」じゃなくて、
    「知覚のリアル」かな?

    いずれにしても、なんかそんな感じの。
引用返信/返信 削除キー/
■30454 / inTopicNo.78)  NO TITLE
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/24(Mon) 21:00:22)
    「人間いつか死ぬのよね」

    死後の世界を信じてる信者は、
    この意味を知らない。

    今日はちょっと酔ってる。
引用返信/返信 削除キー/
■30501 / inTopicNo.79)  Re[54]: 「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/04/29(Sat) 17:00:45)
    「他我問題」っていうのあるみたいで、コトバンクに、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。赤を見たときの私の行動的反応と友人のそれとがほぼ同じならば友人は私とほぼ同じ感覚をもったと類推できる,というのである。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    一部抜き出しました。

    でね、サリーとアン課題――「心の理論」っていうのを想い出した。
    【『はじめて出会う心理学』長谷川寿一・東條正樹・大島尚・丹野義彦[著]発行所有斐閣2000】
    のなかで、
    〔・・・・他者の心の状態(信念・欲求)を推測し、他者の行動の予測したり解釈したりする能力は「心の理論」とよばれるものです。理論というとどこかおおげさな響きがありますが、直接、目には見えない心の状態を推測し、それに基づいて他者の行動を予測したり説明するのですから、他者の心についてのセオリーということなのです。・・・・〕(p60)
    ってある。
    たしかに「理論」っていうと、、、、、
    で、「実用日本語表現辞典」に、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    *セオリー(theory)とは、物事の因果関係や法則性を体系的かつ合理的に説明するための知識・思考・見解、という意味で用いられる言葉。日本語では「理論」「学説」または「〜論」、文脈によっては「持論」や「定石」の意味で用いられることも多い。
    *英語の theory(セオリー)は、基本的には、仮説や推論によって論理的に導き出された一般的原理を指す語である。セオリーは普遍的な真理を意味するわけではない。相反するセオリーが同時的に併存する場合も少なくない。
    *日本語における「セオリー」は、経験的に有効・妥当・最善・無難であると見込まれる(蓋然性が高い)方法や手順、といった意味で用いられることが多い。たとえば「面接試験におけるセオリー通りの受け答え」といえば「当たり障りのない模範的な返し方」を意味する。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。日と英では「セオリー」の意味が微妙にちがうのかな?

    「心の理論」っていうの、もうすでにみなさま知ってると思うけど、わたしの復習のために。
    今日は、
    心の理論 / サリーとアン課題 / 他者理解 (theprompt.jp)
    に、絵があるので、それをまねしてわたしが描いたのを添付します。

    このなかに書いてあるのを一部書いて見ます。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    @サリーとアンがお部屋にいます。
    Aサリーは大好きなボールをカゴの中に入れました。
    Bサリーはお部屋から出て行きました。
    Cアンはカゴの中のボールを箱の中に移しました。
    Dサリーが戻ってきました。
    という物語を子どもに聞かせます。

    ここで子どもに質問を出します。

    質問1: ボールはどこにありますか? (カゴの中ですか、箱の中ですか?)
    質問2: ボールで遊びたいサリーは、どこを探しますか? (カゴの中ですか、箱の中ですか?)

    質問1の答えは、「箱の中」ですね。これは、子どもが物語を正しく理解したかを確認するための質問です。本当の質問は2番なんです。質問2の答えは、「カゴの中」ですね。

    子どもが、サリーの心の中を理解していると、「カゴの中」を探すと答えられます。この様に他者を理解する能力のことを「心の理論」と呼ばれるのです。

    普通の子どもの場合、3歳児はほとんどの子が間違えて、4歳ぐらいから正解が増えてくると言われています。「心の理論」は3歳ぐらいで芽生えると言われてきましたが、最近の研究では1歳半ぐらいから芽生えているのだそうです。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    直接、目で見ることができない他者の心の状態(信念・欲求)を推測し、他者の行動の予測したり解釈したりする能力は、一般的に、けっこう早くに持ってるみたい。こういうのって、アプリオリなのかも?

    もっとも大人になってもこの能力がプア〜な人もいるかも?だけど。あ、違うかも?大人になるにつれて、余計な理論が染みついちゃって原初で自然なこの能力がだんだん萎縮してしまってる、こっちの方かな?

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引用返信/返信 削除キー/
■30506 / inTopicNo.80)  Re[55]: 「意識」
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/04/30(Sun) 07:53:18)
    NO30501

    有名なヒトとチンパンジーの違いの実験だね。



    A+B=2



    文字 記号 文字 記号 数字 の羅列
引用返信/返信 削除キー/
■30524 / inTopicNo.81)  Re[56]: 「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/01(Mon) 18:56:19)
    No30506、マジモンさん、

    >有名なヒトとチンパンジーの違いの実験だね。<
    なんか、よくわかんない。

    >A+B=2

    > ↓

    >文字 記号 文字 記号 数字 の羅列

    よくわかんないけど、

    No30341の(e)、
    『…‥フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、(p3)…‥事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。(p5)…・』
    のつづきに、
    『認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。』
    ってあったのを想い出してるよ。

    ところでね、マジモンさんのなかに「ダンゴムシ」っていうのがいるみたいだけど、わたしその虫、たぶんわたし見たことあるけど、よく知らなかったからウィキで調べて見たら、
    ・・・・・・・・・・・・
    ダンゴムシ(団子虫、英: wood louse, pl. wood lice)とは、ワラジムシ目(等脚目)の動物のうち、陸生で刺激を受けると体を丸める(団子のような体勢になる)習性を持つものを指す。一般に「ダンゴムシ」と呼ばれるものはオカダンゴムシである[1]。
    広範囲の土壌に生息して分解者の役割を担い、土壌形成上、一定の役割を果たしているものと考えられており、食性と生態から自然界の分解者という要素が強い。
    ・・・・・・・・・・・
    ってあった。
    〔自然界の分解者〕っていう意味でいい?

引用返信/返信 削除キー/
■30525 / inTopicNo.82)  Re[57]: 「意識」
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/05/01(Mon) 22:25:56)
    No30524に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > No30506、マジモンさん、
    >
    > >有名なヒトとチンパンジーの違いの実験だね。<
    > なんか、よくわかんない。
    >
    > >A+B=2
    >
    > > ↓
    >
    > >文字 記号 文字 記号 数字 の羅列
    >
    > よくわかんないけど、
    >
    > No30341の(e)、
    > 『…‥フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、(p3)…‥事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。(p5)…・』
    > のつづきに、
    > 『認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。』
    > ってあったのを想い出してるよ。
    >
    > ところでね、マジモンさんのなかに「ダンゴムシ」っていうのがいるみたいだけど、わたしその虫、たぶんわたし見たことあるけど、よく知らなかったからウィキで調べて見たら、
    > ・・・・・・・・・・・・
    > ダンゴムシ(団子虫、英: wood louse, pl. wood lice)とは、ワラジムシ目(等脚目)の動物のうち、陸生で刺激を受けると体を丸める(団子のような体勢になる)習性を持つものを指す。一般に「ダンゴムシ」と呼ばれるものはオカダンゴムシである[1]。
    > 広範囲の土壌に生息して分解者の役割を担い、土壌形成上、一定の役割を果たしているものと考えられており、食性と生態から自然界の分解者という要素が強い。
    > ・・・・・・・・・・・
    > ってあった。
    > 〔自然界の分解者〕っていう意味でいい?


    ダンゴムシはあだ名だわな

引用返信/返信 削除キー/
■30536 / inTopicNo.83)  Re[58]: 「意識」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/02(Tue) 20:54:39)
    いまは「意識」についてなんだけど、こういうことをしてるなかで、ふと思ったんだけど、
    私を世界-内-存在として見て、そのうちで世界と私との関係性を見ようとしてるのかもしれない、って。
    ん〜ん、世界の一区画での、っていう世界もアリね。

    でももうちょっと、「意識」について、現象学の本の中に書かれたあるところを抜き出して見る。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】を〔MC上・下〕、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】を〔MP〕、
    ってする。

    わたしのばあい、ing(している)の意識を、っていうことになったんだけど、
    〔MC下〕に、
    『〈生きられる〉意識』(p84)っていう言い方がされてる。
    わたしが読んでる現象学の本のなかには、「生きられる」とか「生きられた」とか「生(なま)の」って表現されてるところがある。こういう意識――ノエシス――する(こと)を描きだそうとしてるが現象学なんじゃないか、って。

    (j)『意識とはこの瞬間、環境と行為との弁証法以外の何ものでもないのである、』(MP-p73)
    ――「弁証法」っていうのをネットで調べたら、「問答」とか「対話」ってあった。

    (k)『初発段階の意識を分析の対象とするやいなや、それには〈ア・プリオリな形式〉と〈経験的内容〉という周知の区別(90)が適用できないということにわれわれは気づくのである。異論の余地のないかぎりのところで考えるならば、ア・プリオリなものとは、一部ずつ理解することができず、最初から分解不能なひとつの本質として考えられなければならないものということであり、反対にア・ポステリオリなものとは、思考の全面でひとつひとつの外的諸部分の寄せ集めから構成されうるものを指すということになる。カント主義の特質は、ア・プリオリな構造をそなえたものとしては、ふたつのタイプの経験、つまり外的対象の世界の経験と内官の状態の経験のふたつだけしか認めないということ、そして経験のそれ以上の特殊規定、たとえば〈言語〉の意識とか〈他人〉についての意識とかは、ア・ポステリオリな経験の多様性に帰しているということである。』(MC下p77)
    原注(90)『カントにおいては、質料と形式との区別は明らかに、あたかも二力の複合からひとつの合力が得られるといったふうに認識を生みだすところの、ふたつの力ないしふたつの実在的要素の区別ではない。にもかかわらず、意識が自己自身を反省して全体的意識になれば、関係判断と、判断の対象となる経験の諸項との区別や、また空間と空間を充たす諸性質との区別が露呈されてくる、というのもやはり正しい。このような理念的(イデアール)的分析が批判哲学を構成しているのである。』(下p180)
    ――カントのはよくわかんないから横に置いとくとして、『初発段階の意識』っていうの、わたしのばあい、〈乳幼のころの意識〉って見て、この頃の意識って「ア・プリオリの」ってわたし見てる。メルポンは『言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるだろう。』〔MPp305〕って言ってるし。そして、この頃の意識は、『一部ずつ理解することができず、最初から分解不能なひとつの本質として考えられなければならないもの』ってメルポンは見てるんかな?。この「本質」の意味もめんどくさい語だけどね。

    (l)『意識とはむしろ、ときには意識自身に明晰な、またときには認識されるのではなくかえって生きられるだけのものであるような〈意味的志向の束〉なのである。そのように考えてこそ、行為の観念を拡大しながら、行為と意識とを結びつけることが可能となろう。』(MC下p81)
    ――ここにも『認識されるのではなく』っていう意識がある、っていうことで、やっぱ意識と認識は区別されてるみたい。あと『生きられる』っていうのもある。

    (m)『意識とは根源的には、「・・・・・・と我思惟す」ではなくして「我‥‥‥し能う」(122)である』(MPp235)
    原注(122)この用語はフッサールの未刊の文献のなかによく出てくる。
    ――「能う」をネットで調べたら、「あたう」っていうんだって、わたし読めなかった。で、意味は、
    1 可能の意を表す。なしうる。できる。
    2 理にかなう。納得がいく。
    3 適する。相当する。
    ってあった。

    No30415の(i)で、「素朴実在論」っていうの調べたけど、ちょっと似てる感じのがあったので、
    (o)〔MC下〕(p101-102)に「素朴的意識とその経験的実在論」と題してあって、
    『今日まで一般に素朴的意識は実在論的だと言われてきたが、それは言い過ぎというものである。かりにそうだとしても、この問題について少なくとも、常識の見解、つまり知覚したことを常識的な言葉で述べるその報告(1)と知覚的経験そのものの区別――話された知覚と生きられている知覚との区別−―ぐらいはしておくべきであろう。かりにわれわれが話すことも反省することもなく、ただ対象のなかでいきるときにわれわれにあらわれるがままの諸対象に立ち返って、そのあり方を忠実に記述しようと努めるならば、それらはなんら実在論的比喩などを呼び起こしはしない。もし直接的意識の告げるところにしたがうなら、私がその上で書いている机、また私がいまいる部屋、そして私の感覚野の向こう端でぐるっと私をとりまいて閉じあわされているその壁、さらに庭、路地、街、最後の私の空間的地平の全体——こういったものは、私がそれらにもっている知覚の〈原因〉として――つまり私のなかのそれら諸対象の印を刻みつけたり、あるいは一種の他動詞的作用によって対象そのものの像を生みだす〈原因〉として――私にあらわれるのではない。むしろ私の知覚は、対象をその在る場所に開示し、それまで潜伏していた対象の〈現前〉をあらわにする光の束のごときものであるように思われる。』
    原注(1)(下p182)直接の知覚と、言葉による報告との区別は、たとえ言語意識というものが一次的なものであり(全章参照)、知覚に比べてさえそうだとしても、やはりただしい。
    ――ここにある『話された知覚と生きられている知覚との区別』っていうので思ったんだけど、
    No30397で見たような、「対象としての自然」と「出来事としての自然」との区別、を想い出す。
    この「対象としての○○」と「出来事としての○○」という区別は○○のなかにいろんなのが入れられる気がする。
    ここでは○○に「知覚」を入れて、結びつけちゃうと、
    a.話された知覚―対象としての知覚(知覚を対象にして)−ノエマ—されたもの
    b.生きられた知覚−出来事としての知覚−ノエシスーする(こと)
    そして、わたしのなかでは、
    No30397の、
    『『無数の真なる判断の対象としての世界』についての〈知性的意識〉』がaと、『〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識』―『世界のこれこれの一区画やそれに隣接する地平についての〈私の知覚〉』がbと、結びついてて、
    No30404で、
    わたしが描いたようなものと結びつけられてる。
    わたしの〈ing(している)の意識〉はbの方になるかな。aをひとまずエポケーして。

    「意識」について、おもに現象学のから見てきたのはこんなところにしとく。

    ところで、「客観的認識」とか「客観的世界」とかいうのどういうのかしら?ってふと思ってる。

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■30571 / inTopicNo.84)  Re[59]: 原初的意識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/05/06(Sat) 19:53:38)
    〈原初的意識〉、「認識」じゃないよ。

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】のなかに、

    『すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。』(p200)

    っていうのある。わたしもそう思ってる。

    「ハサミ」を「民主主義」とか「資本主義」とか「福祉国家」とか「社会主義」とか「共産主義」とか「ケインズ主義」とか…・、どこの誰かが言い出した思考されたもの(ノエマ)。

    大人になった?知識人?も、同じなじことしてる場合もあるんじゃないかしら?












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