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超越論的論理学 序論V−2
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□投稿者/ うましか -(2023/01/14(Sat) 20:13:36)
| 2023/01/14(Sat) 20:14:30 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学
序論 超越論的論理学の構想 V 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて〔Von der Einteilung der allgemeinen Logik in Analytik und Dialektik〕
◆ 古くて有名な問いがある。その問いで人は論理学者たちを窮地に追い込めると思ったのである。その問いは、彼ら〔論理学者たち〕が、惨めな循環論証を犯す現場を押えられざるを得ないようにさせようとしたか、或いは、己の無知を、従って、己の全技術の空しさを告白せずにはいられないようにさせようとしたかいずれかであるが、それは 「真理とは何であるのか?=vという問いに他ならない。この場合には、真理の名称説明、つまり、「真理とは認識とその対象の合致のことである」という名称説明が与えられており、前提とされている。しかし、人が知ろうと欲するのは、いかなるものがあらゆる認識の真理の普遍的で確実な標識であるのか、ということなのである。
--- No.28726 からの続き ---
◆ 合理的に問うとはどのようなことであるかを承知しているのは、既に、怜悧さ乃至は明敏さを大いに証拠立てることであり、また証拠立てるのに必要なことである。なぜなら、問い自体が不合理であって、無用な答えを求めるなら、そうした問いは、この問いを投げかける人の恥辱は別としても、時としてその上、この問いを軽率に聞いた人を不合理な答えをするように誤らせて、笑うべき光景を呈するという害を及ぼすものであるが、その光景とは、昔話にもあるように、一人が〔メスではなく〕オス山羊の乳をしぼり、もう一人が篩でそれを受けているといったようなものなのである。
※ 適切な問いとは問う人の怜悧さ、明敏さを証拠立てる。逆にくだらない問いを発し無用な答えを求める者に対し軽率にも答えようとしてしまう者の問答の光景は、昔の笑い話にあるように、オスヤギの乳をしぼろうとする者に対し、フルイでそれを受けようとしてやる者のようである(´-ω-`)カント先輩コワいっすね〜
† 原佑訳上巻、p.198〜p.199参照。 † その他に、中山元訳2、p.30、石川文康訳上巻、p.115〜p.116を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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V−1 No.28726、V−2 No.28740 U−4 No.28561、U−5 No.28709 U−1 No.28334、U−2 No.28383、U−3 No.28436 T−7 No.28210 T−4 No.28011、T−5 No.28045、T−6 No.28161 T−1 No.27245、T−2 No.27255、T−3 No.27310
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序論 T No.27245,27255,27310,28011,28045,28161,28210,28334 U No.28334,28383,28436,28561,28709 V No.28726,28740
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