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Re Z 第一部 序説 4 “大いなる軽蔑”
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□投稿者/ みのり -(2021/07/03(Sat) 09:15:21)
| ■No14642に返信(パニチェさんの記事) > 2021/07/02(Fri) 21:01:31 編集(投稿者) > > こんばんは、みのりさん。 > 私も一緒に楽しくツァラトゥストラを読み直しています。
パニチェさん、おはようございます。 私がもし一人で読み進めたとしたら、解らないところはうやむやなまま進むしかなかったと思います。 教えていただけてとてもありがたいです。
> ■No14625に返信(みのりさんの記事) >>※ 6の「大いなる軽蔑者たち」というのの意味が解りません。 >>注釈にも出ていないので、これについてパニチェさん、教えていただけると嬉しいです。
まず、該当の文章を引用してみます。 ・・・・・ 6 わたしは愛する、大いなる軽蔑者たちを。なぜなら、彼らは大いなる尊敬者であり、別の岸に向かう憧憬の矢であるから。 ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p27より引用
> ここは私の下手な説明よりも『ニーチェ事典』を引用しておきますね。 > > 「『ツァラトゥストラ』序説には、ツァラトゥストラが民衆にむかって「超人を教えよう」と呼びかける場面が出てくる。これに続く箇所で、ニーチェは「生命の軽蔑者」「最低の軽蔑すべき者」そして「大いなる軽蔑者」という表現をそこに配している。三者の布置関係は、神の死・おしまいの人間・超人という三者の関係を反映したもので、「大いなる軽蔑」は人間の意義を悟り、超人に身を捧げる時に訪れる。超人を語る者にとっては、もはや神の名のもとに「地上を超えた希望」を説くことはできない。かような希望を抱くのは、霊魂による肉体の軽蔑を最高の思想と説く「生命の軽蔑者」である。神の死とともにこのような「死にぞこない」の去る時がきた。超人は大地を超えたものであるどころか「大地の意義」そのものであり、「大海」である。人間が大地にこの身を捧げ、大海に没するとき「大いなる軽蔑」の時が訪れる。「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。(『ニーチェ事典 大いなる軽蔑』よりの引用)」
引用ありがとうございます。 とてもわかりやすかったです。
・・・・・ 「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。 ・・・・・ 自分に対して「大いなる軽蔑」をなす者こそ、「大いなる尊敬者」である。
やはり、訳文を読むだけでは理解するのが難しいですね。
> ニーチェ事典でひとつのニーチェ用語として取り上げられている重要なタームに疑問を抱いたみのりさんの着眼点は素晴らしいと思います。
ありがとうございます。 「生命を軽蔑」とかであればすぐにわかるのですが、「大いなる軽蔑」ってなんじゃ?と単純に疑問だったのです。
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