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■15298 / inTopicNo.49)  福音
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/30(Fri) 20:41:28)
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■15306 / inTopicNo.50)  みのりさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 07:12:48)
    みのりさん レスありがとうございます

    >>予め神に決められた人がイエス様を信じることが出来るのだと思っています。
    >>そうでない人は、そういう信仰心も起きないのだと思います。

    信仰心が起きないように「神が予め決めた人」は一人もいない。これがカトリックの立場です。二重予定説を取らないプロテスタントでも同じでしょう。

    > >なので、「イエスを救い主(神)として信じる人は誰であっても救われる」のだと思います。

    「信じる」の内容によります。偶像崇拝的に方向違いでイエスを信じたつもりでも、イエスから拒否される可能性は残ります。

    逆に、イエスについて無知・誤解があって否定しても、イエスに迫るような隣人愛の人が救いから外れることには、ならないと思います。

    > knowing itselfさん、すみません。
    > 愛満開さんは上記のようにおっしゃられるのですが、これについてどう思われますか?
    >
    > 予め神に決められた人がイエスを信じることができる、というのを私は聞いたことがないし、そのようなことをknowing itselfさんが書かれているのも見たことがないように思います。

    書いたことはないですね。信じることができるのは「すべての人間」です。
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■15310 / inTopicNo.51)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/07/31(Sat) 08:09:25)
    No15306に返信(knowing itselfさんの記事)

    knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    > >>予め神に決められた人がイエス様を信じることが出来るのだと思っています。
    > >>そうでない人は、そういう信仰心も起きないのだと思います。(愛満開さんの御投稿)
    >
    > 信仰心が起きないように「神が予め決めた人」は一人もいない。これがカトリックの立場です。二重予定説を取らないプロテスタントでも同じでしょう。

    やはりそうですよね。

    >>>なので、「イエスを救い主(神)として信じる人は誰であっても救われる」のだと思います。(愛満開さん)
    >
    > 「信じる」の内容によります。偶像崇拝的に方向違いでイエスを信じたつもりでも、イエスから拒否される可能性は残ります。

    はい。

    > 逆に、イエスについて無知・誤解があって否定しても、イエスに迫るような隣人愛の人が救いから外れることには、ならないと思います。

    そうなんですね。

    >>knowing itselfさん、すみません。
    >>愛満開さんは上記のようにおっしゃられるのですが、これについてどう思われますか?
    >>
    >>予め神に決められた人がイエスを信じることができる、というのを私は聞いたことがないし、そのようなことをknowing itselfさんが書かれているのも見たことがないように思います。
    >
    > 書いたことはないですね。信じることができるのは「すべての人間」です。

    わかりました。 どうもありがとうございます。
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■15332 / inTopicNo.52)  Re[12]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 09:20:21)
    knowing itselfさん、おはようございます。

    恐らくknowing itselfさんは、神の愛という御性質から述べられたものだと思いますし、既に救われた方として今後もいろいろ教えて戴ければと思います。

    多くの人たちは、予定説に対して強い反感を持っています。
    しかしながら、予定説は聖書的な教理です。
    鍵となるのは、予定と言うのは聖書的には神の恩寵を表しているという意味なのではないかと思います。

    「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。
    (ローマ書8章29−30節)

    これは、どういうことなのでしょうか。

    エペソ1章5節と11節では、神はみむねとみこころのままに、私たちをイエスキリストによって、ご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました。

    この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」と宣言しています。

    予定というのは、神が、あることの起こる前からそうなるように決められると言うことです。神は何をその起こる前から決めておられたのでしょう。

    ローマ書8章29−30節によると、ある人たちが御子に似たものとなるように、彼らを召し、義とし、栄光を与えるように前もって決めておられたということです。要するに、ある人たちが救われるように と前もって決めておられたということなのです。

    予定説の分かりやすい説明がありましたので上げておきます。

    https://www.youtube.com/watch?v=bAnHJ0YFs50

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■15333 / inTopicNo.53)  小室直樹とキリスト教は無関係
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 11:39:25)
    アメリカの元カルバン派の人のコメントに、カルバン派に二十年いたが、二重予定説の説教を聞いたことはほとんどなかったというのがあった。二重予定説「だから」カルバン派を選んだという人はほとんどいないと思う。二重予定説というのは、そんなにテーマにすべきものではないのは当然。

    二重予定説からキリスト教に入るというのは、転倒していると思います。マックスウェーバーや小室直樹を崇拝しても一歩も進まない。
引用返信/返信 削除キー/
■15334 / inTopicNo.54)  自由意思
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 12:48:38)
    アウグスティヌスは時間は神が創造したという。逆にいうと、時間とともにある宇宙とは別に、超時間、非時間として存在するのが神。これはキリスト教の神がどういうものであるかの、基本に近いかなと。

    神は被造物と時間そのものを創造した、超時間的存在なので、宇宙のリニアーな時間の直線に対して等距離。すべてが一望・一瞬のもとに見えているという喩えも成り立ちうる。

    一方、人間は自由意思によって宇宙の現象に介入しながら行動していく。決して神の操り人間となって、予め作成されたプログラムに従って機械のように作動するのではない。これは、現代の地球における文明の複雑さをみれば納得できるかな。

    predestination と自由意思の完全なる両立とはそういうことだと思う。誰が神を受け入れ、誰が神を拒否するか、すべて完璧に被造物創造以前からの予めの計画どおり、プログラムどおり、よって自由意思などないという説は、採用できない。
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■15337 / inTopicNo.55)  行為否定のキリスト教はない
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 13:21:09)
    プロテスタントは善行を否定して他力信心でおしまいというのは、正しくないですよ。

    何にもしないで聖書という書物だけを信じ込んだ人の方が選ばれる、聖書を信じたもの勝ちなんて、誰も言っていないでしょう。

    むしろ、変わらなきゃしょうがないというのがプロテスタントです。何にもせずに寝転がっていたのから、変わって動き出した。変わらせてくれたのが神だ、動いている主体は神だという言説で自身の信仰を正当化していますが、変わって動いていなければ始まらないとしているんです。この意味で、逆説的には、内面信仰限定は否定されています。
引用返信/返信 削除キー/
■15338 / inTopicNo.56)  Re[14]: 行為否定のキリスト教はない
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 13:42:07)
    knowing itselfさんこんにちは。
    詳しい解説ありがとうございます。

    やっぱりイエス様を信じて救われている方の書き込みが違いますね。さすがです。

    > プロテスタントは善行を否定して他力信心でおしまいというのは、正しくないですよ。

    なるほど、実は、自分でも、これでいいのかなとは思っていました。
    この点を、とくに心に戒めて頑張って生きていきたいと思います。

    > 何にもしないで聖書という書物だけを信じ込んだ人の方が選ばれる、聖書を信じたもの勝ちなんて、誰も言っていないでしょう。

    ジャン・カルヴァンのような職業召命観で世俗的職業は神の栄光を実現するために人間が奉仕する場であるとして、より積極的に意義づけたと言うのも、それはそうかもしれないけど、隣人愛から言って救済とは違うような気がして疑問に思っています。

    > むしろ、変わらなきゃしょうがないというのがプロテスタントです。何にもせずに寝転がっていたのから、変わって動き出した。変わらせてくれたのが神だ、動いている主体は神だという言説で自身の信仰を正当化していますが、変わって動いていなければ始まらないとしているんです。この意味で、逆説的には、内面信仰限定は否定されています。

    なるほど、激しく同意です。
    他力信心に胡坐をかくのではなく、日々自分を戒める生活をしていかねば
    喝を入れられた思いがしました。

    やはり、自分は、まだまだダメだなあと反省しました。
    大変ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■15343 / inTopicNo.57)  Re[13]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/31(Sat) 16:42:15)
    愛満開さん レスありがとうございます

    > 鍵となるのは、予定と言うのは聖書的には神の恩寵を表しているという意味なので
    > 「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。
    > (ローマ書8章29−30節)
    >
    > これは、どういうことなのでしょうか。

    ここはもしかしたら、カトリックとプロテスタントで分かれるところかもしれないです。
    原語としては、子なる神のかたちになるように、コンフォームされるやうに、トランスフォームされるように予定されていたという意味ですから、凄いことを言っているわけです。キリストと同じイメージ・形に変えられて、そのようになるように予定されていた。以前として憐れな罪人のまま、神に赦されるだけとは明らかに違うと。

    憐れな罪人そのまま赦されるだけというより、キリストと同じレベルに最終的にはトランスフォームされていくとも解釈できるのです。カトリックの聖体の秘蹟は、おそらく、ここも踏まえていると思います。

    ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。

    恩寵と自由意志の両立です。
     


引用返信/返信 削除キー/
■15346 / inTopicNo.58)  Re[14]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 18:20:54)
    knowing itselfさんまたまた専門的なレスありがとうございます

    >>鍵となるのは、予定と言うのは聖書的には神の恩寵を表しているという意味なので
    >>「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。
    >>(ローマ書8章29−30節)
    >>
    >>これは、どういうことなのでしょうか。

    > ここはもしかしたら、カトリックとプロテスタントで分かれるところかもしれないです。
    > 原語としては、子なる神のかたちになるように、コンフォームされるやうに、トランスフォームされるように予定されていたという意味ですから、凄いことを言っているわけです。キリストと同じイメージ・形に変えられて、そのようになるように予定されていた。以前として憐れな罪人のまま、神に赦されるだけとは明らかに違うと。

    ここは、以前、解説戴いた聖体拝領によりイエス様を戴くことと何かリンクをしているのでしょうか。
    本当に聖書というのは、譬えや暗示が多くいったい何を書いているのか直ぐには
    分かりかねる記述が多いですね。
    聖書の御言葉や記述は、神を信じて聖霊様の力で読解すべく暗示され編み込まれているのかなと思うほど難しいです。

    > 憐れな罪人そのまま赦されるだけというより、キリストと同じレベルに最終的にはトランスフォームされていくとも解釈できるのです。カトリックの聖体の秘蹟は、おそらく、ここも踏まえていると思います。

    聖体拝領も、やはり、そうなのですね。

    > ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。
    >
    > 恩寵と自由意志の両立です。

    いや、まさに、そうあってほしいと思います。
    被造物の人間としては、絶対的権力者の神がお決めになられたのなら、本当にどうにもならない、何か無力感しか感じ得ない、仏教でいう四苦八苦のような気がして、諦めなければならないなあと思っていました。

    一人でも多くの人々が神を信じて救済されることを切に望みます。

    確かに、この辺が、愛の神なのに解せない点かなと。

引用返信/返信 削除キー/
■15348 / inTopicNo.59)  Re[15]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/31(Sat) 18:46:45)
    >ただ、そこまで凄い意味を読み込みながら、少数の選ばれたものに限定されることはありません。意志するのであれば、誰にでも門戸は開かれている。

    >恩寵と自由意志の両立です。

    自由意志は人間の堕落の結果失われたとするアウグスティヌスの主張に対し、正教は同意しないそうです。

    アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと「予定」であるとのことです。

    アウグスティヌスによれば、人間の自由意志はいわば悪の分銅によって傾けられた天秤のようなもので、悪へと向かう深刻な偏りが存するということで、予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じていたようです。

    つまり、人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵み恩寵が必要不可欠なのだということでした。

    これに対して、東方正教会は、「共働(きょうどう)」と言って救いを、神の恩寵と、人の自由意志の共働であると捉えるとのことです。

    正教会は、罪深い堕落した状態にあってもなお、人には自由な選択の能力があると信じ、救いを、神の恩寵と人の自由意志の共働であると捉えるのだと。(Wikiより)

    堕落の結果、「正しい自由意志まで失われている」とするのアウグスティヌスの説を正教会は採らないそうです。

    そうすると、カトリックより東方正教会の方が、正しいと言う事なのでしょうか。
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■15349 / inTopicNo.60)  Re[15]: キリストさん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 18:47:42)
    ノーセルフさんはキリストさんについてよく知ってるようだから、ちょっと聞くね。

    キリストさんはマリアっていう女性から生まれたみたいだけど、
    キリストさんはそのお母さんのおっぱいを吸って大きくなったの?
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