| こんにちは、アートポットさん
最初にお断りしておきますが、アートポットさんが既にご存じのようなことも書いていくと思いますが、話の進行上のことなので、ご理解ください。
今日のお題は《朝三暮四》です。この成語、出典が2か所あります。一つは荘子内篇の『斉物論篇 第二』、もう一つは列子『黄帝 第二』です。 荘子、列子、いずれが先の時代の人間か?の議論はいずれするにして、ほぼ同様の話がどちらにも出ています。 荘子の内篇は荘子自身の著作だろうというのが通説です。列子の方は列子架空説(後代の偽作)や後代の補作(荘子のように)がありますが、全編列子の著作と言う説は無いようです。ですから列子の《朝三暮四》が列子の手に依るものか否かは、ボクにはわかりません(専門家の最先端の研究では違う予想があるかもしれません)。
荘子も列子も朝三暮四に当たる話は全く同じです。ただ、そこから導かれる結論は異なっています。荘子は、全体としては同じなのに、怒ったり喜んだりするのは愚かなことだと言っています(正確には、名実ともに変わらないのに喜怒を感じるのはあさはかな是非の心に従うからだ)。 一方列子の結論は 「聖人が知恵で愚か者を言いくるめるのは、猿回しが猿どもをくるめこむようなものだ」 となります。そして 「内容はちっとも変わらないのに相手を喜ばせたり怒らせたりしている」と続きます。 (小林勝人訳注『列子』を参照して記述)
荘子が状況に重きを置いているのに対し、列子は猿回しの言い様に重きを置いている感じです。
重要な事かどうかはわかりませんが、列子が《聖人》に対してどのような感情を持っていたか、興味が湧きます。
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