(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No9925 の記事


■9925 / )  仏教
□投稿者/ 時 -(2020/12/11(Fri) 11:37:51)
    七科三十七道品(八支聖道、四正断、四念処、五根、五力、七覚支、四神足)は、原始仏典内で説かれている修行法で、これらの一応の定義やその方法等が記載されています。

    しかし分かり難い印象があるのは、それが時には単独で、時には折り重なっての説明になっているからでしょうか。四聖諦の親フォルダに下部フォルダ・・と言った(時には)重なり合ったツリー構造です。おまけに順不同の説明でとにかく長いです。ですので、何度も何度も挑戦し、何度も何度も間違ってそのたびごとに再度やり直すという事の繰り返しでした。

    例えば、教えを一言で表すのであれば四聖諦ですが、この中の八支聖道の最初に正見が来ていますが、この正見は、四聖諦に関する智より生じる見解や認識方法の事だと解釈しています。一言では、(四聖諦を基本にした)正しい見方です。この正しい見方を原点として、正思惟→正語→正業→正命→正精進→正念→正定→正智→正解脱が生じる。との記載がありますが、これを知ろうと思えば、正見の原点である四聖諦全体を知る必要があるという、過去には、まるでクラインの壺の中に閉じ込められたような感覚を持ちました。

    人は無明ゆえに意識的に或いは無意識に心に苦を生み出すような行いをします。との仏典記載より、無明→(無明ゆえの)行と言う流れが出来上がります。人が無明だから苦しみを生み出す行いとなるのであれば、無明を滅尽できれば無明ゆえの行(身口意)ではなくなると言う事です。そしてこの無明は、四聖諦を知らない事。と言う定義の記載があります。つまりは、最終的に四聖諦を知ることが出きれば無明は滅尽できると言う事で、その前には正見を得ることができると言う事になります。正見を知る→正思惟→正語→正業→と言う流れですが、まずは学習して知る→学習をもとにして体験で知る。→四聖諦全体を知る。と言う事だろうと想像します。これは文字の意味を理解して知ることと、その意味を通して全体を知ること(体験)は別ものだろうと言う事です。

    そしてその四聖諦を知るためには、必然的にまずは多くの仏典の解読が必要になるでしょう。

    善法を基本軸にして今までの生活上の物事の対応や思考を正していきつつ、波羅提木叉や感官の防護で自身の心を守りながら学んでいきます。私の場合の教本は、単純に原始仏典のみですが、言葉の定義、教えの順番、学ぶ姿勢、こうすればこうなるという道筋等、全体的に道理の通った教え(教本)だと感じました。

    今も昔も感性の鋭く豊かな方はおられるようですが、原始仏典から浮かび上がる仏陀の像もその中のお一人だと感じます。

    機根の差こそあれど、仏教は心の平安を獲得し維持継続するために必要な人が学ぶものの一つだと思います。以上です。
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -