□投稿者/ 時 -(2020/12/07(Mon) 21:34:12)
| pipitさんへ
こんばんは。ご返信をありがとうございました。
> この箇所のフレーズ、印象深くて、心に残っています。 > 手持ちの片山先生訳では、『ここかしこで歓喜する渇愛』というフレーズで訳されていて、 臨場感あふれるというか(^^;)
そうですね。渇愛と執着は、同時発生、同時消滅です。
> 何かの見解に触れた時、その見解の内容ではなく、自分の内に起こる受を見るといい、 > と教えていただいたこと(曲解してたらすみません)は、 > 私にとってとても貴重なアドバイスとなっています。
そこがお分かりになるのであれば、それが四念処の中の「受念処」の行になりますね。そしてこれは、見解だけではなくて、ことあるごとに心に沸き起こる受の確認をします。例えば、きれいなサンセットを旅行先で見たとき、道端に捨てあるゴミを見たとき、朝もやの中でジョギングをしているとき等々です。
楽受の時には貪欲が、苦受の時には瞋恚が、不苦不楽の時にはそこには無明と言う煩悩が出番を待っていると言う事ですね。
四念処は「身念処・受念処・心念処・法念処」です。その中の
・身念処(入出息・行住坐臥・正知・不浄観・四大要素・九段階の死体の推移 身を観続けて住す) ・受念処(三受=楽・苦・不苦不楽 三受を観続けて住す)→(正定への移行) ・心念処(四無量心 慈(怒)・悲(害心)・喜(不平不満)・捨(貪) 心をそのまま観続けて住す) ・法念処(五蓋・五取蘊・六処内外処・七覚支・四聖諦を確認 法を見続けて住す)です。
一言で表現するのであれば、心をそのまま見つめる行になるでしょうか。勿論、ここで行われる瞑想は観瞑想で、有尋有伺定や無尋有伺定ですね。
> 実践が難しいのですが、やっぱり、生きてるうちに少しでも実践しなくちゃ、 > すごーーーーくもったいないですよね! > あかんたれですが、できることをすこしずつでも、ひろげていきたいと思いました。
はい。人間界以外も含めた世界観で、その梵行住の非時と言う事で、適さない時代と言うものが(長34)では説かれています。現代もその非時に入ると思いますが、とにかくやれるだけはやっておきましょうね♪頑張ってくださいね(^^)
では、今回はこの辺で。
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