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Re[61]: たーぼーさんへ
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□投稿者/ minori -(2020/10/24(Sat) 23:36:25)
| ■No8289に返信(たーぼーさんの記事)
こんばんは。レスありがとうございます。
>>たーぼーさん、今、他のトピでお忙しそうですが・・・ >>質問があるのでよかったらお答えいただけるとと思います。 >> >>頭の中を流れていく自分の考えていること、それを「思考」と呼びますけど、 >>その思考というのは、たーぼーさんにとって自分自身そのものですか? >>それとも、そうではなく、自分自身そのものではないですか?
> 勿論、自分自身です。
そうなんですね。 私は、思考については自身とは思いません。
> 禅宗だと、とにかく思考を落とすということに重点を置きますね。
この場合の思考というのは、余計なこと考えなくてもいいようなことについてですね。
> それもよく分かるんですが、以前も書いたように思考と心が分離してると思うのは錯覚なわけです。 > ですから思考も私はそんな毛嫌いする必要もないと思ってます。 > だって日常生活を送るうえで思考しなきゃ生きていけないですから。 > ただ考えるということは凄く大事で色々考えているうちに雑念が消えてくるんですよ。
好きなこと、興味のあることを考えて集中している時には、それ以外の雑念は湧いてこないということをおっしゃっているのですね。 それについては私もそうだなぁ、と思います。
> 私の場合だと今はもう何かをやっている時は雑念はほとんど湧きません。 > おそらく考え尽くした感があります。 > でもたまに雑念が湧くと、どうしてその念が湧いたのか追跡します。 > そうすると突き詰めて考えると、ああこの記憶が元になってるんだなとか分かります。 > そこでどうしてその記憶を大事に持っているのかとか、また追及していくんです(笑) > そんなことをやってると、念が出なくなってきて楽になりました。 > 私流のやり方で一般的かどうか分かりませんが。
そうなんですね。 いろいろと工夫されてられたんですね。
>>私は、思考については自身とは思いません。
これについてなのですが。私は、頭の中を流れていく思考を自分自身とは思っていなくて、思考が流れていく空間のほうを本質としての自分と思っています。 思考が流れて行って消えた後も、そこにある空間です。
思考・思い、そういうものには私は随分と悩まされてきました、そして上に書いたことが定着するまではたいへんでしたが、今は、思考・思いによって煩わされるということがまずなくなりました。 それは、思考が自身ではない、というのが・実際に完全に定着したからだと思っています。
思考は自分自身ではない、そこにアイデンティティを置かなくなってから、思考以外のもの、社会的属性や人格にもアイデンティティを置かなくなってきました。 知識という部分にもそうですね。 私はそんなに頭も良くないですし知識も多くないですが、そうしたことについてもそれはそれ、と自然に思うようになりましたよ。 分からないところは分からないと明確にする、そうしたことが自然になりました。 というのも、そうしたことにアイデンティティを置いていないからだと思います。 私にとっては、思考が流れていく空間、静謐な意識が「わたし」です。
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