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No7820 の記事


■7820 / )  Re[19]: カントのコペルニクス的転回
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/15(Thu) 18:37:39)
    pipitさま、なんかあなた
    >わたしは中学くらいのときから、わたし、ほんとはいま、脳みそだけやったらどうしよう、って、時々だけど考えてた。<
    って考えてたことじたい、わたしから見たら変わってる。こういうの嫌いじゃなないから、わたしの書いちゃうと、脳みそは身体なの。
    ところでpipitさまは身体を物質って見てます?

    今日はもうちょっと書いちゃうね。

    ■7807、pipitさま、ありがと。

    ■7788でわたしが思っていたのは、

    対象=object=客観。「象」「観」ともに私のうちにあるもの(現れているもの)ってしちゃてる、っていうこと。

    だったのかも。おかげで簡潔に言表できたかな?

    そこでね、私の外にあるものを「それ」って表し、「それ」が私の内に現れているもの(対象)を“それ”って表して区別して見ますね。たとえば「箸」と”箸“ね。わたしのいう〈箸そのもの〉っていうのが「箸」のことね。

    「それ」と“それ”が一致(イコールないし近似)すること、のように見るんじゃなくて、
    わたしは私のうちで「それ」を“それ”として構成している、って見てるっていうこと。
    これ、カントのからよ。

    わたしが読んだ『カント』(小牧治著)のなかに「コペルニクス的転回」という題で、

    〔‥‥いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。
    「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。
    みずからの能力による自発的な構成であるかぎり、その構成は、主観的であるといえよう。しかし、経験や対象が存在するかぎり、いつでもその形式的な総合が作用していなくてはならないとするならば、それは同時に客観的である。こういう、われわれの自発性によって、自然の対象や経験が可能になり、そこでのいろいろの法則が把握され、先天的総合判断が成されうるのである。
    いま、眼前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられる数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり現象である。したがって、それは、机そのものの姿ではない。われわれに与えられる素材がどこからくるのか、その素材がくる源泉はどういうものなのか、いわば机そのものはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわらない。それは、われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。われわれの知的能力のおよび得る範囲は、さきの、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない。かつての形而上学は、こういう独断をおかしていたのではないだろうか、とカントは批判した。〕(a)

    って、あった。
    おそらくpipitさまはこのへんを知っているから、
    >悪魔ちゃんの内側に出来てる箸の象と、悪魔ちゃんの外にある箸そのものが、イコール?近似?であるとする悪魔ちゃんの根拠はなに?なの。<
    ってなったのかな? ちがったらごめんね。

    わたし、カントのこのような見方もしようとしているよ。
    この文の中に〔対象は向こう側、表象はこちら側、〕ってある。一般に「対象」っていうのは〈私の外にあるもの〉っていう感じなんだろうけど、〔「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」〕ってあるように、カントは「対象」っていうのを私のうちに入れちゃったんじゃないかって、わたしには思われたのね。

    こんな感じ。だから、わたしのは、
    >箸のイメージが出たこと=箸そのものがあること、ここから出発するということ?<
    っていうんじゃないと思ってる。

    (a)のところについてはほかにもいろいろ考えてみたことあるけど、やめとく。
    なんか長くなっちゃ、ごめんね。



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