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■7638 / inTopicNo.13)  Re[6]: 時さんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/11(Sun) 06:01:05)
    No7616に返信(時さんの記事)

    時さん、レスありがとうございます。

    > 例えばですが、大きく輪廻のお話ではなくて、現行の不善の諸法の生起についての記載があります。
    >
    > 渇愛を根本として、求が、求により利が、利により用が、用により欲貪が、欲貪により著が、著により嫉が、嫉により守が、守により護が生じます。そしてその護の結果として、鞭や剣を取ること、不和、異執、口論、論争、両舌、妄語という多くの悪しき不善の諸法が起こります。

    > このような記載があった場合ですが・・・大きく括ると「渇愛」があるから最終的に「不善法」が生起するとなりますが、その途中は、詳細な意味の違いを分類理解できないですので、大まかに「自身に利となり、自身に都合の良いことだけを守っていくと・・」やがては、現行の論争や喧嘩、悪口等の不善なことが生起するのですよ。と言った道理という意味での事だと取っています。

    渇愛が不善の諸法の根本だということですね。
    さらにさらにと求める渇愛が苦しみの原因である、ということでもあるのでしょうね。
    (合ってますか?)

    > 求(自分のものにしようとする事)利(役に立つ事)用(役立たせる為に使う事)・・・なんて記憶してもあまり意味がないようにも思えますので。

    細かく見ていきたい方には必要なのかもしれないですが、一般人がそこまでは必要ないかもしれないですね。

    >>十二縁起を瞑想する、四念処観をする、というのはその名称とごく簡単な内容だけは存じていました。
    >>今、教えていただいたものは、分類としては、十二縁起、四念処とはまったく別な
    >>系統と言ったらいいのか・・になるのですか?

    > 仏典には多くの教えが記載されていますね。その中の一つが、十二支縁起であり四念処です。

    はい。

    > 瞑想の分類は、大きく「観瞑想」と「止瞑想」の2つに分類されます。いわゆる「観と止」です。

    > 観瞑想とは、有尋有伺定と無尋有伺定の2つです。
    > 止瞑想とは、無尋無伺定のみです。

    はい。
    > ですから、仏典内で「観と止を多修しなさいよ」といった記載があれば、観瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)と止瞑想(無尋無伺定)を多く修習なさいよ。という意味ですね。

    なるほど。

    > ですので、十二縁起、四念処とはまったく別な系統というよりも、瞑想の対象の違いが十二支縁起や四念処で、メインとなる瞑想方法の違いが、観瞑想(有尋有伺定と無尋有伺定)か止瞑想(無尋無伺定)かと言う事だと思います。

    ああそういうことなんですね。 

    > 十二支縁起は、苦の生起と滅尽の設計図のようにとらえていますので、そのメインが観瞑想か止瞑想かと言った分類は意識したことはないですが、あえて分類するのであれば、そのメインは、観瞑想だと思います。


    苦の生起と滅尽の設計図・・なるほどですね。 

    > 四念処のメインは、観瞑想ですね。

    はい。

    >>今、教えていただいた瞑想法が書かれている仏典の名前も、よかったら教えていただけますでしょうか。
    >
    > 中部経典19経「二種考経」あたりでしょうか。ただ、勿論ご存じかとは思いますが、これは仏典の日本語訳ですので、現代の瞑想の書籍のような感じで、それぞれがきれいに分類されてわかりやすくは記載されていないようですよ。(^^)

    中部経典19経「二種考経」のあたりということですね。
    原本を日本語訳された方というのがいらっしゃるわけで、そうした方々は、根気のいる作業を熱意をもってされたのだろうなと想像します。
引用返信/返信 削除キー/
■7657 / inTopicNo.14)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/11(Sun) 12:00:48)
    minoriさんへ。返信をありがとうございます。

    > 渇愛が不善の諸法の根本だということですね。
    > さらにさらにと求める渇愛が苦しみの原因である、ということでもあるのでしょうね。
    > (合ってますか?)

    はい。その通りですね。合っています。渇愛が苦の原因だと説かれています。

    > 苦の生起と滅尽の設計図・・なるほどですね。 

    1つの心の状態を12に分けたものを設計図と表現してみました。それは12に分割されてそれぞれの説明がされてはいるのですが、結局は1つの心の中の状態を表していますので、それぞれが切り離せない相互依存関係にあるのだろうと思います。

    1つならば心で、展開すると12に分割された図面。心の中で沸き起こっては消滅していくその苦の生起と滅尽の道理・・それが十二支縁起と現在では呼称されているものだろうと思います。

    無明だから老死があるのです。でもよいのですが、二支縁起・・これでは分かり難いですよね。

    ご返信をありがとうございました。(^^)
引用返信/返信 削除キー/
■7699 / inTopicNo.15)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/12(Mon) 01:07:24)
    No7638 minoriさんへ。

    > 中部経典19経「二種考経」のあたりということですね。

    前回、「中部経典19経「二種考経」のあたり」と書きましたが、「あたり」というのが曲者ですので、もう一度ご説明を試みたいと思います。

    「尋」は対象を粗く考えることで、「伺」は対象を微細に考察することである。(尋伺 - WikiDharma)

    三つの禅定があります。尋あり伺ある禅定、尋なく伺のみある禅定、尋なく伺なき禅定。 (長部33経「結集経」)

    一晩それについて随尋、随伺したならば、それ故に私は恐れを見ないようになるだろう。(中部19経「二種考経」)

    比丘達よ、いかなるものが、証知して修習されるべき諸法なのでしょうか。止と観です。これらが、証知して修習されるべき諸法です。(中部149経「大六処経」)

    あまりに長く随尋、随伺したならば、私の身は疲労してしまうだろう。身が疲労したならば、心が乱れてしまうだろう。心が乱れたならば、心は三昧より遠ざかってしまう。比丘たちよ、そこで私は、まったく内なるものだけに心を住立させ、静めて専一をなし統一しました。(中部19経「二種考経」)

    彼は、実に欲から遠離し不善の諸法から遠離して、尋をともない伺をともない、遠離より生じた喜と楽ある初禅に達して住します。(長部2経「沙門果経」四禅定の初禅の説明)

    さらにまた大王よ、比丘は、尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住します。(長部2経「沙門果経」四禅定の二禅の説明)

    以上、ここまでが仏典内の記載です。以下は、これらからの考察です。

    「尋」は対象を粗く考えることで、「伺」は対象を微細に考察することです。

    禅定の種類は、有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定の3種類があり、有尋有伺定か無尋有伺定を一晩行えば恐れを見なくなるだろうと記載がありますが、しかし有尋有伺定か無尋有伺定を長く続けると疲労し心が乱れるので、心の内なるだけに心を向けて心を静めて休ませる、というのが止瞑想(無尋無伺定)の事ですね。

    そして、止と観の2つが修習されるべきだと記載がありますので、止瞑想(無尋無伺定)と観瞑想(有尋有伺定、無尋有伺定)を修習されるべきだと言う事になります。

    具体的には、例えばの四禅定の初禅の説明の「尋をともない伺をともない」が「有尋有伺定(観瞑想)」の事で、四禅定の二禅の説明の「尋と伺の寂止」のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なくという事で「無尋無伺定(止瞑想)」の事になります。その中間の定が、無尋有伺定と言う事になりますが、これは有伺と言う事で「伺」だけがありますので、観瞑想になりますね。

    本当にややこしい説明しかできなくて申し訳ありませんが、多くの仏典の複合的な解釈でその意味合いを理解しなければいけないようなイメージを持っています。ですので、禅定の方法は3種類、有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定で、瞑想の種類としては2種類で、止瞑想と観瞑想になります。

    方法としては、有尋有伺は、大まかな考察と細かな考察で、無尋有伺は、細かな考察のみです。無尋無伺は、尋と伺は行わずに小休止のイメージで、心の内側に焦点を合わせて心を休ませるというイメージですね。これらを駆使して、瞑想の対象に焦点を当てていくのが仏典内で説かれている瞑想の方法だというイメージです。

    > 原本を日本語訳された方というのがいらっしゃるわけで、そうした方々は、根気のいる作業を熱意をもってされたのだろうなと想像します。

    はい。その通りだろうと思います。まずはその昔、仏陀が法を説きましたが、それを弟子達が記憶し、やがて仏典という形で纏め上げられつつ、それを受け継いできて、それをまた日本語に訳されるという気の遠くなるような出来事ですね。仰るように、熱意と根気のたまものだと思います。特殊なことを書いていると思いますので、ご返信は不要です。(^^)
引用返信/返信 削除キー/
■7705 / inTopicNo.16)  Re[9]: 時さんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/12(Mon) 07:51:39)
    No7699に返信(時さんの記事)

    時さん、詳しく教えて頂いてありがとうございます。

    > 前回、「中部経典19経「二種考経」のあたり」と書きましたが、「あたり」というのが曲者ですので、もう一度ご説明を試みたいと思います。
    >
    > 「尋」は対象を粗く考えることで、「伺」は対象を微細に考察することである。(尋伺 - WikiDharma)
    >
    > 三つの禅定があります。尋あり伺ある禅定、尋なく伺のみある禅定、尋なく伺なき禅定。 (長部33経「結集経」)

    この部分の内容としては、前回までに教えていただいたものと重なりますね。
    二種考経というの以外にもまたがっている、というのが分かってきました。
    その二種というのは中部経典という例えるなら大きな辞典の中にある小辞典みたいに考えればいいのかな、と思ってます。
    長部というのも出てきています。

    > 一晩それについて随尋、随伺したならば、それ故に私は恐れを見ないようになるだろう。(中部19経「二種考経」)

    効果があるのだ、というのを言っているところですね。

    > 比丘達よ、いかなるものが、証知して修習されるべき諸法なのでしょうか。止と観です。これらが、証知して修習されるべき諸法です。(中部149経「大六処経」)
    >
    > あまりに長く随尋、随伺したならば、私の身は疲労してしまうだろう。身が疲労したならば、心が乱れてしまうだろう。心が乱れたならば、心は三昧より遠ざかってしまう。比丘たちよ、そこで私は、まったく内なるものだけに心を住立させ、静めて専一をなし統一しました。(中部19経「二種考経」)
    >
    > 彼は、実に欲から遠離し不善の諸法から遠離して、尋をともない伺をともない、遠離より生じた喜と楽ある初禅に達して住します。(長部2経「沙門果経」四禅定の初禅の説明)
    >
    > さらにまた大王よ、比丘は、尋と伺の寂止のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なく、三昧より生じた喜と楽ある二禅に達して住します。(長部2経「沙門果経」四禅定の二禅の説明)
    >
    > 以上、ここまでが仏典内の記載です。以下は、これらからの考察です。

    上記は難しく分からないですが、以下で考察されるのですね。

    > 「尋」は対象を粗く考えることで、「伺」は対象を微細に考察することです。

    はい。

    > 禅定の種類は、有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定の3種類があり、有尋有伺定か無尋有伺定を一晩行えば恐れを見なくなるだろうと記載がありますが、しかし有尋有伺定か無尋有伺定を長く続けると疲労し心が乱れるので、心の内なるだけに心を向けて心を静めて休ませる、というのが止瞑想(無尋無伺定)の事ですね。

    はい。

    > そして、止と観の2つが修習されるべきだと記載がありますので、止瞑想(無尋無伺定)と観瞑想(有尋有伺定、無尋有伺定)を修習されるべきだと言う事になります。

    はい。

    > 具体的には、例えばの四禅定の初禅の説明の「尋をともない伺をともない」が「有尋有伺定(観瞑想)」の事で、四禅定の二禅の説明の「尋と伺の寂止」のゆえに、内なる浄あり、心の一境性あり、尋なく伺なくという事で「無尋無伺定(止瞑想)」の事になります。その中間の定が、無尋有伺定と言う事になりますが、これは有伺と言う事で「伺」だけがありますので、観瞑想になりますね。
    >
    > 本当にややこしい説明しかできなくて申し訳ありませんが、多くの仏典の複合的な解釈でその意味合いを理解しなければいけないようなイメージを持っています。ですので、禅定の方法は3種類、有尋有伺定、無尋有伺定、無尋無伺定で、瞑想の種類としては2種類で、止瞑想と観瞑想になります。
    >
    > 方法としては、有尋有伺は、大まかな考察と細かな考察で、無尋有伺は、細かな考察のみです。無尋無伺は、尋と伺は行わずに小休止のイメージで、心の内側に焦点を合わせて心を休ませるというイメージですね。これらを駆使して、瞑想の対象に焦点を当てていくのが仏典内で説かれている瞑想の方法だというイメージです。

    途中の部分はやはり難しくて「?」のところもありますが、> 方法としては、有尋有伺は、・・・
    以降の部分については、理解できました。
    四禅定の初禅のどうのこうの・・・というのがなんだか分からないんですが、そのあたりについては、またいつか教えていただけると嬉しいです。
    なんだか今は頭がパニックになりそうで・・・(^▽^;)

    それで。誠に勝手で申し訳ないのですが、別の質問があります。
    仏陀にお粥を布施するお話で、田んぼにお粥を捨てなけばならなくなるとかどうのこうの、というお話ってどういう内容ですか?
    チッタチッタという音の記載が、田んぼに捨てなければならないという音を示しているのだろうか、と考えたのですが・・・
    スジャータの話とはまた別なのではないかな、というのは考えています。
    これ、あるサイトでやりとりされてて関心をもったのですが、そこの方たちに質問するのも気が引けて・・・(それについて話し合ってるのに、まったく知らなくて質問するのは気が引けて)、それで自分でネットで調べたりもしたのですが、行き当たらないのです。
    もし、このお話に心当たりがあれば教えていただけますでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■7713 / inTopicNo.17)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/12(Mon) 13:51:59)
    minoriさんへ。返信をありがとうございます。

    > この部分の内容としては、前回までに教えていただいたものと重なりますね。
    > 二種考経というの以外にもまたがっている、というのが分かってきました。

    それは、良かったです。

    > その二種というのは中部経典という例えるなら大きな辞典の中にある小辞典みたいに考えればいいのかな、と思ってます。
    > 長部というのも出てきています。

    パーリ仏典という古い仏典群(律蔵・経蔵・論蔵)があるようです。その中の経蔵が 経典群と言われているのでしょうか。それは、長部経典34経・中部経典153経・相応部経典2872経・増支部経典2198経・小部経典15経と言った構成のようで、合計すると5000経典あまりになると思います。大まかには、内容がとても長い経典が長部経典、短いものが小部経典、その中間の長さのものが中部経典、増支部経典は、その分類が数字によってされているような印象を受けますが、個人的には、その分類方法等については全く興味がなく、そこは曖昧のままで現在に至ります。

    中部19経「二種考経」というのは、中部経典153経の中の19番目の経典を示しており、その内容が分かりやすいような感じでその経典名が表示されているものだと思います。

    > 途中の部分はやはり難しくて「?」のところもありますが、> 方法としては、有尋有伺は、・・・
    > 以降の部分については、理解できました。

    良かったです。

    > 四禅定の初禅のどうのこうの・・・というのがなんだか分からないんですが、そのあたりについては、またいつか教えていただけると嬉しいです。
    > なんだか今は頭がパニックになりそうで・・・(^▽^;)

    はい。文字に起こすとややこしい内容だと思います(笑)

    > それで。誠に勝手で申し訳ないのですが、別の質問があります。
    > 仏陀にお粥を布施するお話で、田んぼにお粥を捨てなけばならなくなるとかどうのこうの、というお話ってどういう内容ですか?
    > チッタチッタという音の記載が、田んぼに捨てなければならないという音を示しているのだろうか、と考えたのですが・・・
    > スジャータの話とはまた別なのではないかな、というのは考えています。
    > これ、あるサイトでやりとりされてて関心をもったのですが、そこの方たちに質問するのも気が引けて・・・(それについて話し合ってるのに、まったく知らなくて質問するのは気が引けて)、それで自分でネットで調べたりもしたのですが、行き当たらないのです。
    > もし、このお話に心当たりがあれば教えていただけますでしょうか。

    多分ですが、チッタというのは人の名前ではないかなーと思います。チッタ居士、象使いの子チッタなんて言う記載はあるようですし、チッタという音が表現されていたという記憶はありませんので。田んぼにお粥を捨てるという描写も記憶にはありません。余った食事を仏陀が草のないところか水の中に捨てようと思うが、その時、空腹の比丘の一人はそれを食べずに我慢して修業に励み、もう一人の比丘はそれを食べるといった内容のものはあるようですが。

    お話を総合すると、申し訳ありませんが、そのサイトでのそれが何の事をお話されていたのかは分かりません。
引用返信/返信 削除キー/
■7715 / inTopicNo.18)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/12(Mon) 16:07:19)
    minoriさんへ。 何度もすみません。

    > 仏陀にお粥を布施するお話で、田んぼにお粥を捨てなけばならなくなるとかどうのこうの、というお話ってどういう内容ですか?

    もう一度確認してみました。スッタニパータと言う経典に記載がある<4、「田を耕すバーラドブァージャ」>の事だと思われます。

    ある時農作業をしている婆羅門(バーラドヴァーシャ)が食べ物を配給しているところへ仏陀が並んで立ちました。

    それを見た婆羅門は、「私は畑を耕して種をまく。そのあとで飯を食う。あなたも耕してから食え」と仏陀に言います。

    それを聞いた仏陀は「私も耕して種をまきます。そしての後に食べます。」と言いました。

    婆羅門は「軛も鋤も鋤先も突棒も牛もいないではないか?しかしあなたは種をまくといい、その後に食べると言う・・・?」そこで仏陀に聞いてみました。

    76「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」

    77(師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。

    78身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。

    79努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

    80この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

    そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから。」

    81詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。

    82全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。

    ★「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」

    「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」

    ★そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。

    さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、★チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。

    その後その婆羅門は弟子となりました。といったお話のようです。
引用返信/返信 削除キー/
■7717 / inTopicNo.19)  Re[12]: 時さんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/12(Mon) 16:30:08)
    時さん、ありがとうございます。 それです〜。^^
    お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。
    今からいろいろ用事なので、また明日にじっくりと読ませていただきます。

    今さっき、レスさせていただいたのですが、時さんから改めての返信をいただいたのを見て削除いたしました。
    行き違いがありましたら、すみません。
引用返信/返信 削除キー/
■7763 / inTopicNo.20)  Re[11]: 時さんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/13(Tue) 07:34:39)
    時さん、昨日はお手数をおかけしました。
    まずはこちらから返信させていただきます。

    >> その二種というのは中部経典という例えるなら大きな辞典の中にある小辞典みたいに考えればいいのかな、と思ってます。
    >> 長部というのも出てきています。

    >パーリ仏典という古い仏典群(律蔵・経蔵・論蔵)があるようです。

    >その中の経蔵が 経典群と言われているのでしょうか。

    >それは、長部経典34経・中部経典153経・相応部経典2872経・増支部経典2198経・小部経典15経と言った構成のようで、合計すると5000経典あまりになると思います。

    >大まかには、内容がとても長い経典が長部経典、短いものが小部経典、その中間の長さのものが中部経典、増支部経典は、その分類が数字によってされているような印象を受けますが、個人的には、その分類方法等については全く興味がなく、そこは曖昧のままで現在に至ります。

    仏典と呼ばれるものには、律蔵・経蔵・論蔵の三種があり。
    経蔵が経典群となるのですね。
    つまり。経典というのは仏典の一種類ということですね。
     
    このあたり、ロムの方の参考になればいいなとも思い、時さんの文章の間隔を開けさせていただいてコピーいたしました。

    >中部19経「二種考経」というのは、中部経典153経の中の19番目の経典を示しており、その内容が分かりやすいような感じでその経典名が表示されているものだと思います。

    説明いただいてありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■7764 / inTopicNo.21)  Re[12]: 時さんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/13(Tue) 08:18:31)
    時さん、お手数をおかけしてすみませんでした。
    とあるサイトで話題に出ていたお話、というのは、載せて頂いたもので間違いないと思います。
    バーラドヴァーシャという言葉(人名)が出ていたのを思い出しましたし。

    難しいです。。。 何が言いたい文章なのか、私には明確なものとして伝わってきませんが、私なりに解釈もしてみますね。
    同じような理由で、とあるサイトでも解釈をめぐるやりとりがなされていたのかもしれません。

    バラモン・バーラドヴァーシャという人が托鉢に並んでいた仏陀に対して最初は、「あなたはちゃんと働いているのか?」と訝しがりますね。
    それに対して仏陀が、
    「78身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。」
    というような言葉(詩)を返すので、バーラドヴァーシャは仏陀をすごいと思い、乳粥を差し出します。
    しかし、仏陀は、「詩を読んでの報酬としての粥はいただけない。」として、さらに、「煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。」とも言います。
    言葉だけでいいことを言うのではなく、煩悩などを消滅させた人に、今、私に差し出したのではない別の粥をあげるべきで、私へのそれは捨ててください、と、仏陀は言ったのだと思います。

    なんかこのあたり、ややこしいことを仏陀もされてる感じはしますね。
    お粥を捨てるってもったいないんじゃないの? と、思ってもしまうのですが、それだとこのお話が成立しなくなります。

    しかし、欲のない仏陀の姿に感銘を受けたバーラドヴァーシャは、出家することになった、というお話なのだろうな、と、拝読してこのように私は解釈させていただきました。

引用返信/返信 削除キー/
■7765 / inTopicNo.22)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/13(Tue) 10:28:58)
    minoriさんへ。返信をありがとうございます。

    > 時さん、お手数をおかけしてすみませんでした。

    いえいえ。問題ありませんよ。こちらこそ再確認になり良かったです。(^^)

    > とあるサイトで話題に出ていたお話、というのは、載せて頂いたもので間違いないと思います。
    > バーラドヴァーシャという言葉(人名)が出ていたのを思い出しましたし。

    それは、良かったです。

    人は考える葦である(パスカル)と言う有名な言葉がありますね。考えることとは、思考の流れそのものであり、それは同時に論理と言う事だろうと思います。そしてそこにある種の思い込みと言う共通性を持たせているものが現在の哲学と言う学問の分野での基本となっているように感じます。ですので、それでは読み解けないような世界もあるのだろうなぁとも思っています。

    勿論、仏陀には仏陀の論理があり、龍樹には龍樹の論理があるのでしょう。同時にそれらを解釈する我々凡夫、個人個人の中にもその論理(思考の流れ)がありますね。

    今回、minoriさんがそのように解釈されたのであれば、それはそれで良いと思います。

    ただ、仏典内において仏陀が何を言っていたのかを理解しようと思った場合には、自身の思考の流れを可能な限り排除(思い込みを排除)して読まれた方が理解しやすいのかもしれませんね。例えば、非二元の世界での会話をし始めた途端に、それはスピだ!と言った思い込みの事ですが。ない方がいいでしょ?(笑)ない方がお相手の論理という思考の流れそのものがよく分かり、同時に伝わりやすいとも感じたりしています。

    例えばですが、詳細には書けませんが、仏典内には「真っ直ぐな人は私の下に来なさい。法を説きましょう」と言うものがあり、又「私には教えてくれないではないか!」とくってかかる比丘の話もあったりします。この一文だけを見ると、矛盾が生じていますね。仏陀はどのように回答したかといいますと「あなたに〜について回答しましょうといいましたか?」答えは「いいえ」・・・最終的に、涅槃や解脱に役に立たないことは回答されないと覚えておきなさいよ。と言った内容です。

    仏陀の説く内容は「苦と苦の滅尽」だけですので、それ以外については、ほぼ回答しないのですね。

    もう一度載せてみます。
    「真っ直ぐな人は私の下に来なさい。法を説きましょう」に対して「私には教えてくれないではないか!」と言うのは適切な表現だったでしょうか?

    仏陀が伝えたい内容と、弟子が知りたい内容のギャップがあることにお気づきかと思います。(この弟子は、何を目的にして仏陀のもとに来たのでしょうか?と言う事です。)

    田は、田畑の事か?何を植えているのだろうか?お米か?麦か?おかゆには何が入っていたのだろうか?捨てるなんて・・・このようなことを思考してしまうと、時間(寿命)切れになりますね。ですから答えないのですね。有名?な「毒矢の譬え」(中部63経「小マールキャ経」)です。

    先程も書きましたが、今回、minoriさんがそのように解釈されたのであれば、それはそれで良いと思います。

    通常は、自身の思考の流れを自身では消滅させる事はできませんので、あーかな?こーかな?と思考しつつ、そこに描かれている人物像を浮き上がらせます。これがもしもうまくいけば、そのほとんどの内容は、その仮想の浮かび上がらせた人物(仏陀)の思考と言う論理世界に符合しそうですね。勿論、論証などは不可能ですが(笑)

    このような感じで読み進めていたりします。ダブルのトピずれ、失礼しました。
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■7782 / inTopicNo.23)  Re[13]: 時さんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/13(Tue) 21:37:33)
    時さん、こんばんは。
    いろいろと教えていただいて、ありがとうございました。
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■7783 / inTopicNo.24)  minoriさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/10/13(Tue) 21:57:58)
    minoriさんへ。こんばんは。

    仏教のお話は言葉に起こすとどうもややこしすぎますね。また機会がありましたら、非二元のお話を楽しみにしています。

    こちらこそ、ありがとうございました。
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