(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■5095 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。10
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/08/10(Mon) 19:01:01)
    トピ主:pipitさん

    ニークラNo.1人気トピ

    引き続きよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■5096 / inTopicNo.2)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/10(Mon) 19:14:04)
    いえ、私自身は迷走ばかりで不甲斐ないです(^_^;)

    いつも本当にありがとうございます。
    更新トピの設置など、気長に待ちますので、
    くれぐれも無理なさらないでくださいませ。

    感謝していますm(_ _)m

    よろしくお願いします(^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■5107 / inTopicNo.3)  アビダンマッタサンガハ
□投稿者/ pipit -(2020/08/11(Tue) 22:24:48)
    なんと!!
    そんなことがあるのか

    触、について、みてみよう、と、
    『『アビダンマッタサンガハ』を読む』藤本晃先生著、サンガ、を
    パッと開いたら、

    十二因縁ではないけど、
    『食』についての説明で、触食、についてのページでした。(p379)

    引用します。

    『§21 食 4
    (略)
    段食と、第二に触食、第三に意志食、第四に識食という4つが食です。』
    以上が、アビダンマッタサンガハの文章です。

    ここから、藤本晃先生の解説になります。
    『心身に与える栄養です。
    第一の段食だけが物質でできている、身体のための栄養です。
    (略)
    第二から第四の3つは、心に与える栄養です。

    触食は、触れること。
    対象が心に触れて、はじめて認識が生まれるのです。
    触れることが心・認識の栄養なのです。
    これはまだ物質的対象も含みますが、食べるというよりは、心に物質的刺激を与えるのです。

    意志食は、「触れたい。認識したい。行動したい」という気持ち、衝動です。(略)

    そして識食。認識した心が死ぬことが、次の心が生まれる因です。
    心そのものが、次の心が生まれるための栄養なのです。

    (略)

    仏教のなぞなぞ「一って何?」の答え、「生命なら誰でも、たった一つ、食によって生きている」というのはこのことです。
    無限に栄養を欲しがる衝動が消えると、輪廻も消えるのです。』
    p379.380より引用



引用返信/返信 削除キー/
■5108 / inTopicNo.4)  触発
□投稿者/ pipit -(2020/08/11(Tue) 22:41:36)
    カントの文章を引用します。

    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p69、70より引用

    『認識が対象とどのような方法で、あるいはどのような手段で関係するかを問わず、
    認識が対象と直接に関係するための方法は直観であり、
    思考するためには、その手段として直観を必要とする。

    しかし直観しうるためには、対象がまずわたしたちに与えられねばならない。

    少なくとも人間においては、対象が与えられるためには、
    対象が必ず何らかの方法で人間の心(ゲミュート)を触発しなければならない。

    わたしたちは対象から触発されるという方法で、対象の像[=表象]をうけとるのであるが、この像をうけとる能力(受容性)は、感性と呼ばれる。
    (略)』
    引用終了

    カント先生も、わたしたち、って使っちゃってるね。

    今日はもう寝ようかな、
    おやすみなさい (^_^)
引用返信/返信 削除キー/
■5111 / inTopicNo.5)  Re[4]: 触発
□投稿者/ おくったがわ -(2020/08/12(Wed) 00:42:40)
    こんばんは。黒崎さんの純粋理性批判入門は前に図書館で借りて、引っかかってる部分がありながら返却してそのままだったので、この機会にまた借りて来ました。せっかくなのでもう一度最初から読みました。
    前のときはpipitさんのトピを知るより前、カント初体験で、読んでもたぶんよく分かってなかった(というか論理学関係で気になった一部分を除いてほとんど憶えてなかった(x_x;)
    ところがなんと\(・_・、)今回は分かる(つもり)。pipitさんの投稿に触発されて考えたり調べたりしてきたおかげです。純粋統覚、カテゴリー表、アプリオリな綜合判断etc. このトピで触れて考えていたおかげ。本で読んだだけではすぐ忘れるし。
    カントが社交的だったとか、他の哲学者の思想を理解できなくて友人に代わりに読んで説明してもらっていたとか。面白い逸話も憶えてなかった。
    黒崎さんの純粋理性批判入門はたぶんエフニさんやツバメさんが好きな本です。

    knowing itselfさんおすすめの「これが現象学だ」も借りてきた。
引用返信/返信 削除キー/
■5134 / inTopicNo.6)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/12(Wed) 09:01:39)


    おくったがわさん、こんにちは!

    > こんばんは。黒崎さんの純粋理性批判入門は前に図書館で借りて、引っかかってる部分がありながら返却してそのままだったので、この機会にまた借りて来ました。せっかくなのでもう一度最初から読みました。
    > 前のときはpipitさんのトピを知るより前、カント初体験で、読んでもたぶんよく分かってなかった(というか論理学関係で気になった一部分を除いてほとんど憶えてなかった(x_x;)
    > ところがなんと\(・_・、)今回は分かる(つもり)。pipitさんの投稿に触発されて考えたり調べたりしてきたおかげです。純粋統覚、カテゴリー表、アプリオリな綜合判断etc. このトピで触れて考えていたおかげ。本で読んだだけではすぐ忘れるし。
    > カントが社交的だったとか、他の哲学者の思想を理解できなくて友人に代わりに読んで説明してもらっていたとか。面白い逸話も憶えてなかった。
    > 黒崎さんの純粋理性批判入門はたぶんエフニさんやツバメさんが好きな本です。<

    無縁さんが紹介してくださって購入しました。(いろんな本を無縁さんの記事から知り購入しました。触発なり〜。大感謝!)

    私の内側のことを言えば、私がカント解説本に関して、作っちゃってる印象としては、

    御子柴先生の本は、私見を排してカント本人の意を汲もうと努力されてる、安心、信頼、めっちゃ優しそう、で、大好きだ〜

    黒崎先生の本は、極端に言えば自分の興味から記述されている、でもカント哲学をきちんと理解されていそう、おもしろい、で、大好きだ〜
    です。

    この本は入門者向けということで、思い切ってわかりやすく書かれてるような気もしますね。
    現象、を、中心に立てて、記述されてる印象を私は受けています。

    エフニさんもツバメさんも、現象学的なことに興味あるのかな?
    勝手に掲示板の記事などを読ませていただいてただけなのですが、ツバメさんは、感性もすごく豊かそうで、きれいな世界を見てるのかなー、との印象を持っています。

    ツバメさんとカシさんの会話なども、おもしろそうですよね。
    エフニさん、カシさん、はもちろん、いろんな方との対話がまた読めると嬉しいですね。

    おくったがわさん、ありがとうです〜(^O^)/

引用返信/返信 削除キー/
■5144 / inTopicNo.7)  Re[6]: 純粋理性批判
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/12(Wed) 19:44:03)
    pipitさま

    >『認識が対象とどのような方法で、あるいはどのような手段で関係するかを問わず、認識が対象と直接に関係するための方法は直観であり、思考するためには、その手段として直観を必要とする。しかし直観しうるためには、対象がまずわたしたちに与えられねばならない。少なくとも人間においては、対象が与えられるためには、対象が必ず何らかの方法で人間の心(ゲミュート)を触発しなければならない。わたしたちは対象から触発されるという方法で、対象の像[=表象]をうけとるのであるが、この像をうけとる能力(受容性)は、感性と呼ばれる。(略)』<

    ありがと。なんかわかりやすい。
    ところで、これって、第一版の?

    認識において、「思考」の前提に「感性」がある、っていうことよね?
引用返信/返信 削除キー/
■5148 / inTopicNo.8)  Re[7]: 純粋理性批判
□投稿者/ pipit -(2020/08/12(Wed) 21:16:48)
    悪魔ちゃん、こんばんは!

    ↓は、第二版のだよ。

    > >『認識が対象とどのような方法で、あるいはどのような手段で関係するかを問わず、認識が対象と直接に関係するための方法は直観であり、思考するためには、その手段として直観を必要とする。しかし直観しうるためには、対象がまずわたしたちに与えられねばならない。少なくとも人間においては、対象が与えられるためには、対象が必ず何らかの方法で人間の心(ゲミュート)を触発しなければならない。わたしたちは対象から触発されるという方法で、対象の像[=表象]をうけとるのであるが、この像をうけとる能力(受容性)は、感性と呼ばれる。(略)』<
    >
    > ありがと。なんかわかりやすい。
    > ところで、これって、第一版の?
    >
    > 認識において、「思考」の前提に「感性」がある、っていうことよね?

    客観に妥当する認識には、思考と感性の協働が必要(必ず感性が必要)ということだと、私は思ってるんだけど、
    この、前提、というのが、ものすごく微妙に揺れている感じに予感してるよ。
    今、読んでいる黒崎先生の本は、多分そこらへんのことも出てくると思ってる。
    理解する努力をしてみるね。


    ところで、悪魔ちゃんに聞いてみたかったんだけど、
    身体が「私」と思ってる?

    その場合、もし事故などで、片足を切断しなくてはならなくなったら、
    切断した後の、「私」と「身体」の関係を、どう考えてるのか教えてくれる?

    身体が私、と思ってるとしたら、どう考えるのかな、と、興味が出て。

    それとも、身体が私、とは、悪魔ちゃんは思ってないかな?



引用返信/返信 削除キー/
■5158 / inTopicNo.9)  Re[6]: おくったがわさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/08/13(Thu) 09:02:17)
    No5134に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます!

    > 無縁さんが紹介してくださって購入しました。(いろんな本を無縁さんの記事から知り購入しました。触発なり〜。大感謝!)

    そうなんですね。自分も無縁さんや他の投稿者の人が紹介している本を何冊か読んできましたが、はずれが無く面白かった!

    > 御子柴先生の本は、私見を排してカント本人の意を汲もうと努力されてる、安心、信頼、めっちゃ優しそう、で、大好きだ〜
    >
    > 黒崎先生の本は、極端に言えば自分の興味から記述されている、でもカント哲学をきちんと理解されていそう、おもしろい、で、大好きだ〜
    > です。

    大好きなんですね^^
    自分も『プロレゴーメナ』から読み解くは良い本だなぁと思ってましたが、黒崎さんのは憶えてなかった。今回読んで、良い本だったんだと分かりました。前のときは読めてなかったんですね。
    pipitさんを知っていなかったら、たぶんそのままでした。今でも様々なジャンルで名前の出てくるカントなのに、触れずじまいだったでしょう。感謝感謝です。

    > この本は入門者向けということで、思い切ってわかりやすく書かれてるような気もしますね。

    でも後半、特にヘーゲルが出てくると自分には難しいです。前よりは分かる感じで読めたのが嬉しくて「今回は分かる」と書きましたが…。

     カント関係で考えることを、また投稿させてもらえるとありがたいです。


    .。o0
    カシさんという人にはかなり興味があります。こちらに来ると言われてましたが…
    テキストリームがなくなるとき、カシさんにレスしたいことがあって、月末まで大丈夫だろうと思っていたら、早めに閉じられ、そのまま。 o(;△;)o ぴえーん
引用返信/返信 削除キー/
■5198 / inTopicNo.10)   おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/13(Thu) 19:01:08)
    こんばんは(o^^o)

    >>この本は入門者向けということで、思い切ってわかりやすく書かれてるような気もしますね。
    >
    > でも後半、特にヘーゲルが出てくると自分には難しいです。前よりは分かる感じで読めたのが嬉しくて「今回は分かる」と書きましたが…。<

    私もわかりやすくと書いたけど、第3章から急に難しくなってる感じを受けています。
    しかも、書いてることがタイトというか、ページ制限なのか、
    疲れてきたのか(^_^;)、パッパッパと、要点が、少し別の要点に切り替わってたり、
    カント哲学での前提を知らないと、意味のつながりがとりにくいような気がしてます。


    >  カント関係で考えることを、また投稿させてもらえるとありがたいです。<

    めっっっちゃ大歓迎です〜
    よろしくお願いしますm(_ _)m


    > .。o0
    > カシさんという人にはかなり興味があります。こちらに来ると言われてましたが…
    > テキストリームがなくなるとき、カシさんにレスしたいことがあって、月末まで大丈夫だろうと思っていたら、早めに閉じられ、そのまま。 o(;△;)o ぴえーん<

    はい、わたしも、カシさんも気になります。
    とてもおもしろそうな方ですよね。
    カシさんはじめ、いろんな方が書き込んでくださると
    いいなぁと思っています。
    おくったがわさん、レスしたかったことがカシさん本人に伝えられるといいですね。

    ぴえん姿、かわゆすです

    ありがとうございます(^O^)/
引用返信/返信 削除キー/
■5199 / inTopicNo.11)  Re[7]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/13(Thu) 19:11:17)
    ■5148、pipitさま
    私と身体との関係についてだけど、

    メルロはこんな見方をしてる。
    【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。】
    【私は私の身体の前にいるのではない。私は身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】
    【身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、いきるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、らえずこれに自己を拘束するということである。】

    また、『デカルト的省察』の訳注には
    〔空間的場所としては私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的ここ」と呼んだ。〕

    ってある。
    わたし、そうだな〜、って思う。

    ひとまずわたし「私」を身体と精神に分節して見ているよ。

    カントの純粋理性批判は、認識論(認識についての研究・学問)で、しかも
    >客観に妥当する認識<
    についてのだとわたし見てるんだけど、どうかしら?

    ちょっと「私」で思い出しちゃたのを、
    フッサールは、
    〔せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎない、ということを否定することができない」(『省察』第4省察)と述べている。〕(『デカルト的省察』訳注より)
    そして、メルロは、
    【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。】(『知覚の現象学』より)
    って書いてあった。




引用返信/返信 削除キー/
■5217 / inTopicNo.12)  身体
□投稿者/ pipit -(2020/08/14(Fri) 07:25:31)
    悪魔ちゃん、おはよー

    > 私と身体との関係についてだけど、
    >
    > メルロはこんな見方をしてる。
    > 【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。】<

    媒介


    > 【私は私の身体の前にいるのではない。私は身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】<

    媒介という概念、が、消えて、同体、になってるの?

    > 【身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、いきるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、らえずこれに自己を拘束するということである。】<

    あ、そうじゃないんだね
    媒体、なんだね
    媒体としての身体は、環境に加わることでもある、、、

    媒体だけど、環境にもなるということかな



    > また、『デカルト的省察』の訳注には
    > 〔空間的場所としては私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的ここ」と呼んだ。〕
    >
    > ってある。
    > わたし、そうだな〜、って思う。<

    うん、そうだね
    少なくとも視覚的には
    いつも、今ここから、世界の位置関係が始められている映像となっている。


    > ひとまずわたし「私」を身体と精神に分節して見ているよ。<

    うん。
    それで、身体が媒体かぁ。
    精神にとっての、環境を知ることへの媒体となるのかな

    媒体であるかぎり、わたしと身体の関係は変わらない、というかんじかな?

    環境を知る媒体として機能してるなら、形が変わっても、それは、媒介機能を持つ身体。
    足がなくなっても、精神は環境を知ることがかなうからね
    ただ、知り方が変わったりするから、
    環境自体をそのままに知るということを仮に中心に考えた場合、身体は固定した媒介ではなく、つねに条件に左右され、その場その場で機能するものなんだろうね
    身体自身も変化して、それに伴い、媒介結果も変化するイメージを私は持ったよ。


    > カントの純粋理性批判は、認識論(認識についての研究・学問)で、しかも
    > >客観に妥当する認識<
    > についてのだとわたし見てるんだけど、どうかしら?<

    シンプルに言えば、『純粋理性批判』は、
    人間の「知る」についての機能調査だと私は思ってるよ。
    その過程で、カントの考える客観に妥当する認識も、カントなりに確定していくんじゃないかな。

    人間の『知る』についての、カントなりの信用調査みたいなもんだと私は今の段階では思ってるよ。


    > ちょっと「私」で思い出しちゃたのを、
    > フッサールは、
    > 〔せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎない、ということを否定することができない」(『省察』第4省察)と述べている。〕(『デカルト的省察』訳注より)<

    フッサールは、私が事物の総体(宇宙)の全体だ、と思ってるということ?


    > そして、メルロは、
    > 【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。】(『知覚の現象学』より)
    > って書いてあった。<

    フッサールは、自分自身について、繰り返し問い直し続けていた、ということ?

引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -